89・逃亡の果て
「お前達の考えなんてお見通しなんだよ。どうせ近くに隠れて、助けを待つつもりだろ?そうはいかない…せっかくの人質を、この帝国から脱出するのに使わなくては!」
バーモント子爵は、そう言って可笑しそうに笑う。何がそんなに可笑しいというの?怯えた私達を見て、何がそんなに楽しいのだろう…正真正銘のサイコパスだ!
私達はその恐怖から逃れようと、お互いの手をぎゅっと握って子爵を見つめる。
「あ、あなたの好きになんてさせないから!」
ルーシーはそう力強く叫ぶが、繋ぐ手からは震えが伝わってくる。怖いのね?怖いけど、私の為に頑張っているんだわ。それなら私も…
「何故私を…どうして私が攫われたのです?一体どういうつもりで」
そんな私やルーシーの言葉など、特に気に留める必要もないのだと思っているのか、答えるのも面倒くさそうに口元を歪ませる子爵。そして…
「そんなの分かりきっているだろう?お前は皇帝陛下からの覚えもめでたく、この帝国の有力貴族達からも可愛がられている。おまけに言う事を聞かないルーシーをも従わせることが出来るじゃないか。人質としてはうってつけだろうが!」
し、従わせるですって?それが娘に対して言う言葉なの…どこまでも嫌な人だわ!
だけど言われてみればそうだ…皇帝陛下からは可愛がられている自覚がある。おまけにルーベルト侯爵家とは血縁があるし、友人達はこの帝国の名だたる名家出身で…目を付けられても不思議ではないのかも。
「おまけにエルバリンのルシード殿下とも仲が良いだろう?攫ってくれと言っているのと同じじゃないか。さあ、これからエルバリンに向けて出発するぞ!今日中には帝国を出ないと…」
そう言われてハッと辺りを見渡すと、何台もの荷馬車や幌馬車が並んでいる。まだ辺りは薄暗く、おまけに霧が立ち込めている時間帯だというのに続々と荷物が運び込まれていて…。もうすっかり計画に向けて動き出していたんだわ!だけど…
「国境はどうするつもり?もう既に連絡があって警備隊が大勢詰め掛けているわ。それなのにエルバリンにですって?通れる訳ないじゃないの!」
きっと国境で止められる筈…警備隊もそこまで馬鹿じゃないわ!疑いのある人を、国外に出すなんてある訳ない。どう考えてもそれまでに捕まるでしょうと、挑むような目で睨み付けた。
「そんなの分かっているに決まっているだろう?俺達は、取引きで帝国に来ていたエルバリンの貴族として出国するんだ。国境の直ぐ向こう側にエルバリンの兵がいるのに、疑いだけで我らを止めることは出来ない!それもエルバリンの公爵家だぞ?一介の騎士に、そんな勇気などないわ!」
そう言って子爵は、ある一画を見つめる。そこには前に見掛けた、あの恰幅の良い男がいて…やっぱりあの人はモルド公爵!その為に来ていたの?
そしてそのモルド公爵は、荷物を積み終えたのか塀の中の倉庫の一つに火を放っている。えっ…何故?
「全て燃やしてしまえ!証拠になるようなものは燃やして処分するんだ。建物全部を順番に火を付けろ」
──な、何ですって?証拠が無くなってしまう!どうしたら…
「お前達はあっちの幌馬車に乗り込め!国境を出るまで身を潜めているんだぞ。何か怪しい動きをしたら、お前の母親を殺すぞ?それから次は人質のお前だ。それを忘れるな!」
ルーシーの母親を殺す?あなたの妻じゃないの!なのに…
おまけに私は、帝国を脱出した暁には殺すつもりでしょう?モルド公爵を目撃した私を生かしておくとは思えない…それまでに逃げれるといいんだけど。
そして松明を持つ者達が、建物に火をつけようと散らばって行っている。どうしよう?証拠が…
そこにどこからか、シュン!という音が響く。何だろう?それほど大きな音ではないけど、特徴的な音…。それに何だ?と子爵をはじめとするその仲間達は騒然として…
「こっちに…早く!」
そんな中、声が聞こえてきて振り向くと、バーモント夫人が建物の陰から手招きしている。その傍らにはルーシーの弟だろうか?小さな男の子もいて…
子爵達がその音に気を取られている間にサッと夫人の所に近付いて、そして身を潜める。
「何の音かしら…」
隣にいるルーシーがそう呟いて、私達は成り行きを見ていた。何だろう…仲間割れ?それとも…
「危ないからここにいなさい。ルーシー、弟を…アノックを頼むわ!」
夫人はルーシーの手に弟アノックの手を握らせると、状況を見に行くつもりなのかキョロキョロと辺りを見ながらこの陰から出て行く。
「夫人、危ないです。ここにいた方が…」
思わずそう言って止めたが、夫人はちょっと笑顔を見せながら頷いて…
「アリシア様、二人を頼みます。それからルーシー…ゴメンね」
いつの間にか夫人は、ベリーの母親に戻っているように見えた。子供の頃に見た時のような子煩悩な母親に…
それから夫人は辺りを警戒しながら、バタバタと走り回っている者達の方へと近付いて行って…
「あっ…アイツらは何処へ行った!逃げやがったな?」
薄暗い中、そんな子爵の苛ついた声が響く。そして「キャッ!」という夫人の声が聞こえて…
「お前、知っているだろう?どこへやったんだ!」
そんな緊迫した状況の中、夫人は私達が隠れている所とは反対の方を指差して…
「あっちに逃げて行きました!それを知らせようと来たのです」
隠れている私達を何とか誤魔化そうと、そう嘘をつく夫人。それを訝しげな表情で夫人の腕を握り逃げられないようにして指差す方へと引き摺って行く。だ、大丈夫かしら?そう心配になり隣のルーシーをチラッと見る。するとルーシーは泣きそうな顔をしていて…
「あの人も母親だったのね…忘れてたわ。もっと早く勇気を出してくれてたら良かったのに…」
目に涙をいっぱい溜めて、そう呟くルーシー。その涙には、色んな感情が込められているように感じる。悔しさ、戸惑い、そして愛情…
──ヒュン、ヒュン!
またさっきの音が響いて警戒すると、何度か続けて同じ音が聞こえる。すると…少し先にいた屈強そうな男がバタリと倒れて動かなくなる。そしてその背中を見ると…矢?今のは、矢が飛んで来た音なの?
「助けよ…助けが来たんだわ!」
そう確信して、霧の向こうに目を凝らす。すると…その薄暗い中から大勢の者達が現れて…
気に入っていただけたらブックマーク、下の評価をよろしくお願いします!




