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異世界<短編もの>

【電子書籍化】婚約破棄されたので「王太子の婚約者」を妹にゆずったら、上司の王弟殿下が迫ってきました。

作者: 彩瀬あいり


「クラリス・エンハルマン、そなたとの婚約は破棄させていただく」


 明るい陽射しが降り注ぐ中、唐突に宣言されたクラリスは足を止めて、声の主を見た。

 相対するは、怒りの表情を見せている婚約者フォーアン・ノーテルマンス殿下。

 腕の中にある書類を落とさないよう抱え直していると、同行していた上司のローウェルが手を差し出した。


「室長?」

「荷物は代わりに持つよ。片手間にする話でもなさそうだ」

「申し訳ありません。室長はどうぞ先に行って用事を済ませてください」

「断る。君ひとりで対応できるとは思えない。王家にかかわることだし、王宮関係者である僕も居たほうが絶対にいい」

「……お手数をおかけいたします」


 成人しているとはいえ、二十歳の貴族令嬢がひとりで背負うには『王太子との婚約問題』は重すぎる案件。仕事を始めたときからずっとお世話になっている直属の上司の申し出は、正直なところありがたかった。




 公爵令嬢でありながら、クラリスは王宮で仕官していた。従事しているのは、立ち上がってまだ数年の小規模部署で、業務内容は国内外の要人貴人の精査。

 これまで神殿がおこなっていた貴族階級の出生にまつわる手続きや爵位との紐づけ。他国に倣い、これらを取り扱う部署を王宮内に立ち上げることとなり、学院卒業後のクラリスは十八歳で創設メンバーに抜擢された。


 公爵家の名前と王太子の婚約者という肩書があるからこその、忖度による地位だと悪しざまに噂する声は多かったが、そんなクラリスを守ってくれたのがローウェル室長だ。「年齢を理由に相応しくないというのであれば、僕こそがそうでしょう。二十三歳の若造が新規部署の室長ですよ?」と笑顔で返し、非難の的をずらしてくれた。

 なにくれと気遣い、働きやすい環境を整えてくれる。

 そんな上司に報いる自分でありたいと思うクラリスは息を整え、二歳年下の婚約者に向かった。




「どうなさったのですか殿下、いきなり」

「それだ」

「なんでしょう」

「その落ち着き具合、焦りもしない態度が可愛げがない」

「そう言われましても……」


 王太子である彼の妃として、常に動じず落ち着いた淑女であれと教育されているため、いきなり感情的になれと言われても困る。そういったことはご自身の周囲にいるお歴々に言っていただきたい。


「夫となる俺を立てず、いつも上からものを言う態度も気に喰わぬ」

「仕方がありませんわぁ殿下。お姉さまは子どものころから、ああいう性格なのですものぉ」


 フォーアンの隣から顔を出したのは、クラリスの妹アイラだった。なんだか嫌な予感がして眉をひそめるクラリスに対し、小さく悲鳴をあげた妹はフォーアンの腕にすがりついた。


「妹にまでそのような高圧的な態度を」

「お姉さまは年上だからといって、いつもそうなのですわぁ。殿下のことも、弟のような存在だと思っていらっしゃるのです」

「俺がそんなに頼りないというのか」

「殿下は頼りがいのある男性です。あたしにとっては」

「アイラ」

「フォーアンさまぁ」


 妹を抱きしめる殿下と、そんな殿下の腕の中からこちらを見て、こっそりと得意げな表情を浮かべている妹。

 その仕草は見慣れたもので、もはや『いまさら』といってもいい。


(遅かれ早かれ、こういう事態になっていたのかもしれないわね……)


 クラリスはそっと溜息を吐く。

 妹のアイラはいつだって姉への敵愾心に満ちていて、とにかくクラリスより上に立とうとするのだ。

 姉妹とはいえ母は違う。それぞれの母によって教育方針がやや異なるのは仕方のないことだろう。




 この国では、上位貴族は複数の妻を持つことが黙認されている。

 それは数十年前に国内に病が蔓延した折、出生率を上げ、家を存続させることを目的にしたもの。爵位を持つ者がお金を使い、経済を回すためでもあった。

 情勢が安定したあともその慣習は変わらずにあり、クラリスの父親エンハルマン公爵もふたりの女性と子を成し、一男二女を儲けた。


 長男にして弟のアントンは、アイラの母が産んだ男児。公爵家を継ぐのはアントンで、クラリスは王太子の婚約者。アイラとしては、自分ひとりが割を食っていると感じているのだろう。

 同じ公爵家の令嬢であれば、王太子の婚約者は姉ではなく自分でもいいのではないかと考えているのは知っていた。それとなく、遠回しに言われたこともある。

 だからといって、こんな人目のあるところでやらかすとは思っていなかったが、それは殿下にも言えること。


 ここは貴族学院の回廊だ。校舎と校舎を繋ぐ廊下で、多くの生徒が通る場所なのだ。

 現に今も、いきなり始まった修羅場に戸惑い、遠巻きにこちらを見ている。生徒だけではなく教師の姿も見えるため、もはや冗談では済まされない。

 これだけの目撃者がいれば噂は広まるし、クラリス・エンハルマン公爵令嬢とフォーアン・ノーテルマンス第一王子の婚約関係が解消され、同時に新たな相手として前婚約者の妹が立つであろうことは、もう覆せない。


 今日、学院に用事があって来校することは事前に伝えてあるので、生徒代表のフォーアンの耳には入っていただろう。

 そして彼がアイラに「そなたの姉が来るようだ」と話題にしても、まあおかしくはない。


 立ち回りがうまく、自分をよりよく見せることに長けているアイラだ。クラリスをいかに落として自分のほうを上に見せられるのか、策略を巡らせる可能性はおおいにあった。

 妹のこういった社交の上手さはクラリスにはないもので、評価に値すると思っている。その対象が自分であることは厄介なのだけれど。




「お姉さま、ごめんなさい。お仕事でお忙しいお姉さまの代わりに、学内にいるあいだは、エンハルマン公爵家の娘として殿下のお世話をさせていただいておりましたのよ」


 だってお姉さまは卒業されているしぃ、王宮で女だてらに男性に混じって文官のお仕事をされているしぃ、婚約者を蔑ろにして他の殿方とばかりお話をされて、殿下がお気の毒でぇ。


 妹が泣いている。ヒソヒソと囁く周囲の声は肯定否定が半々だ。

 クラリスが女性文官として王宮で仕事に就いているのはたしかである。女性の地位向上を謳い、まずは王宮からそれを示していこうという方針があり、王太子の婚約者クラリスが旗頭として立たされたのが経緯。


 そのことに否やはない。諸外国では女性の就労割合が高く、我が国は遅れていると感じていた。


 他国に留学経験のある母親から「機会があれば挑戦しなさい」と言い含められていたし、王太子の婚約者として国外の賓客と交流する機会も多く、たくさんの刺激を受けたクラリスとしては願ってもないことだったのだ。

 父親世代はまだ女性が金銭のために働くことに難色を示し、ひとによっては面と向かって嫌味もぶつけてくる。

 メイド以外ではじめて女性の王宮就労者となったクラリスを受け入れ、親身になってくれるローウェル室長のためにも頑張ろうと仕事に励んできたが、フォーアン殿下はそれが気に喰わなかったということか。


(国王陛下にも複数の妻がいらして、前時代的な考えがおありになるし、殿下の女性観をいきなり変えるのは難しいのでしょうね)


 妻とは、隣に並び立つのではなく、あくまで陰に控える。

 裏でどれだけ女性同士の陰湿な争いが繰り広げられていたとしても、取り合いになるぐらいの存在であることが貴族男子にとっての勲章だというのだから、もはや呆れたものである。



「お姉さまは自立した女性を目指すのでしょう? それはフォーアンさまの望む姿ではありませんわぁ」

「そうかもしれないわね。だけどねアイラ――」

「フォーアンさまの意に沿わないことをなさるお姉さまは、婚約者に相応しくないわ。夫の望みを叶えることこそ、良き妻のあるべき姿ではありませんか!」


 見物人から感嘆の声が漏れた。

 それはおそらく男子生徒。若い世代であっても、未だ「女性は陰たれ」を信仰する者は多いので、そういう輩なのだろう。

 アイラの声を称賛する声や、それに付随して他の女生徒を非難する声。そしてそれらを受けて憤慨する令嬢たちの声があがり、事態は別の様相を見せはじめた。

 ずっと黙って動向を見守っていたローウェルの重い溜息がクラリスの耳に届く。


「申し訳ありません」

「君が謝罪するのはおかしいよ。どう考えても、キッカケはあのふたりだ」

「ですが妹ですし」

「それを言えば、僕のほうが責任は重かろう。フォーアンは甥なのだから」


 ローウェル・テル・ハール。

 彼が国王陛下の弟であることはあまり知られていない。

 前国王が年を経てから成した子どもで、王位の継承にかかわらないことを対外的に示すため、長く王宮の外で育てられた。フォーアンが王太子として立ったことで、ようやく王宮内で認知されるようになったらしい。


 公爵令嬢であるクラリスも、王弟の噂は知っていても名前も顔も知らなかった。仕事に就いたあと、本人からそれを告げられたときは息が止まるかと思うほど驚いたものだ。

 血縁とはいえ、ローウェルとフォーアンはじつはあまり似ていない。だからまったく気づかなかった。凛々しい面立ちの為政者めいたフォーアンに対し、ローウェルは気さくで柔和な印象。育った環境は顔に現れるということだろう。



 本日学院に赴いた理由は、フォーアンを含めた卒業生の進路調査。

 王宮に出仕する者、領地へ戻る者。女性であれば卒業と同時に結婚して籍を移動することもあり、ある程度のことを把握しておくため、学院長の了解をもとに事前準備をするはずだった。だが。


(荒れる、わよね。王太子ほどの地位にある方が、今ある婚約を取りやめにすると宣言なさった。追従する者だってきっと出てくるわ)


 貴族の結婚は家の事情で決まるもの。こころを通わせることができればいいけれど、ひとの感情はそう簡単なものではない。

 誰しもが多少なりとも不本意な思いを抱え隠し結婚するものだが、次代の王が、己の感情のままに婚姻相手を挿げ替えると言ったのだから、「ならば自分だってそうしたい」と言い出す者がいてもおかしくないし、その発言を咎めるのは難しくなってしまう。


 クラリスとて、フォーアンに対して親愛の情はあれど、物語に出てくるような胸を焦がす愛情ではないと思う。

 婚約者になったのはフォーアンが八歳、クラリスが十歳のときだ。

 あれから十年。クラリスは『王太子の婚約者』を演じてきた。

 そうであれと強いられ、逸脱することを許される立場になかった。望んでそうなったわけではないのだ。

 婚約者選定の時期がもうすこし遅れていたら、四歳年下の妹アイラがその位置にあったかもしれない。ただ、それだけのこと。



「ままならないものですわね。皆がそれぞれ自分が望むよう生きられたらよいのでしょうが。私たち女性は、それが許されない」

「クラリス嬢、君の望みは?」

「わかりません。考えたことがありませんでしたわ。私はただ、王太子の婚約者という人間で、そうではない未来は存在しなかったのですから」

「だが今は違うさ」

「え?」


 ローウェルはクラリスの目前を指差した。

 そこに佇むのは一組の男女。アイラの肩を抱いて引き寄せるフォーアンと、その彼に寄りそう妹。


 ふと、急に。

 まるで彼らが他人のように思えて目を見張る。


 こうして離れて見つめることでわかった。

 自分はもう、外側の人間になっていたのだ。ずっと渦中にいると思っていたけれど、こころはとっくに離れていたらしい。



「君はね、クラリス・エンハルマンというひとりの人間なんだよ。王家に近いところにいると気づきにくいけれど、彼らのしがらみに囚われる必要はない。無論、それを選んでもいいのだけれど、無理はしてほしくないと僕は思うんだ」


 言われ、クラリスは考えた。

 そして妹に問う。


「ねえアイラ。あなたはフォーアン殿下の婚約者になりたいの? それがあなたの望みなの?」

「ごめんなさいお姉さま。あたしずっとフォーアンさまのことを想っていたの。だけどお姉さまの婚約者だから、我慢しなくっちゃってそう思って。だけど、殿下はそんなあたしを許して受け入れてくださったわ」

「クラリス。そなたと違ってアイラは常に俺に寄り添い、尽くしてくれた。妃とは本来こうあるべきだという姿を見せてくれたのは、そなたの妹のほうだった」


 エンハルマン公爵家と王家の約定は『娘と王子の結婚』であり、それを違えずに解決する最適解は、婚約者を姉から妹へ変えること。

 あくまで言い出したのはフォーアンだが、誘導したのはアイラであろうことは、クラリスには手に取るようにわかった。

 あの子は、そういう子なのだ。自分の手を汚さず、周囲を動かすことに長けている。


 フォーアンがアイラの手を取り、その甲にくちづける。

 頬を染め、フォーアンを見つめる娘の姿はひどく愛らしく、庇護欲を誘い、どよめきと感嘆の息が場を満たした。



「……まったく見事なものだな、君の妹は。あそこまで衆人を操れるのは才能かもしれない」

「ええ。ああいったことが得意なのですわ、あの子。私はどうも苦手で、きっとそういうところが可愛らしくないのでしょうね」


 しっかり者の姉と、天真爛漫な妹。それが公爵家の姉妹の評価であった。

 媚びて強請って、愛らしく笑ってすべてを手に入れてきた妹を羨ましいと思う気持ちがないといえば嘘になるけれど、「あなたは殿下の婚約者なのだから」と言われてしまえば、思うままに振る舞うことは許されない。

 王国令嬢の模範となるよう己を律し、欲を殺して生きてきた。十歳のころから、ずっと。

 いまさらそれ以外の仮面なんてかぶれない。その(すべ)をクラリスは知らないから。




「可愛いの定義はひとによるだろう。少なくとも僕は、君のことをとても可愛らしく魅力的なレディだと、ずっと前から思っているよ」

「……え?」

「大人たちの思惑に沿って仕官し、反発の声にも負けずに真面目に働く姿は、いつしか頭の固い上層部すら軟化させた。輿入れまでの腰掛けにするには惜しい、王太子妃になっても継続して仕事をしていただくための方策はないものかと、僕に相談に来るひとは多いんだ」

「まさか、そんな……」

「君のたゆまぬ努力を見ているひとはいる。そこに性差は存在しないし、女性だからできることもあるのだと君が示したことで、後進への道が生まれた。王宮の文官試験を受けたいという令嬢がいることを知っているかい? 君の功績だよ、クラリス嬢」


 クラリスがローウェルを見上げると、目を細めて微笑む顔と出合った。

 花が咲いたよう、という形容を年上の殿方に使用するのはおかしいのかもしれないが、今の彼はそれほどに華やかで(あで)やかで、クラリスの顔を熱くするにはじゅうぶんな魅力を放っていた。


 しかしそう感じたのはクラリスだけではなかったようで、観衆の女性たちがどよめいたし、アイラが目を見張ったのもわかった。

 周囲の視線を引きつけたことを自覚しているであろうローウェルが、大きく一歩前へ出る。フォーアンらの視線からクラリスを庇うような位置に立つと、甥に向かってくちを開いた。


「フォーアン。エンハルマン公爵令嬢との婚約は、陛下をはじめとした国の中枢が決めたこと。おまえの一存で決められることではないと承知しているのか?」

「叔父上には関係のないことでしょう」

「おおいにあるね。こちらのクラリス嬢は僕の部下。仕事で来校している以上、部下を守るのは上司として当然のことだよ」


 それだけではないけれど。

 独白のように呟く声に気づく者はいない。

 小さく笑う叔父に、フォーアンは反論した。


「ですが、これは俺たちの私的な事情も絡み――」

「ならばなおのこと、(おおやけ)の場で話すことではない。これではまるで見せしめだ。いち令嬢を貶める行為だよ。品がない」


 堂々とした口調は王太子殿下と遜色のない風格を感じさせ、誰もくちを挟めない。

 あれが、噂だけが先行している王弟殿下なのかと圧倒されて、皆が静まった。



「さて、本来であればこういった騒ぎを治めるのは王太子の役割だろうが、なにしろ事の張本人。ならば僕が代行しよう。学院長、かまわないだろうか」


 人垣の中から老齢の男性が現れる。クラリスも在学中にお世話になった貴族学院の長は、ローウェルに対して腰を折った。


「承認いたします」

「では、フォーアン。おまえの望みはクラリス嬢との関係を解消すること。相違ないか?」

「ええ」

「クラリス嬢は、それを受け入れる意思はあるか」


 君はどうしたい?

 周囲には聞こえない声量で、ローウェルが囁いた。


 王室という舞台に立ち、王太子妃――ひいては国王妃となり、多くの民の前でその役割を演じ続けること。

 逸脱せず、周囲に求められる姿でありつづける。

 職業婦人としての生活を知ってしまうと、それはなんと狭く堅苦しい世界なのだろうと思わずにいられない。父親を含め、殿方が女性を外へ出したがらないのは、現状の暮らしが抑圧の中にあると無意識下で理解しているからではないだろうかと邪推してしまう。


 こんな考え方もまた公爵令嬢に似つかわしくない気がするが、クラリスはそんな己を恥じる気持ちがないことに気づいて、胸が熱くなった。



「私、気づいたのですが」

「ああ」

「お茶会で同年齢の令嬢たちとお話をするよりも、お城で働いているメイドたちと食堂でお菓子を食べながらおしゃべりをするほうが、何倍も楽しいようなのです。はしたないと眉をひそめられそうですが」

「そんなことはないさ。君のこころは君のもの。なにを感じ、なにを思うかは自分で決めていいんだよ」

「はい。ですから私、思いきって決めたいと思いました。今の仕事がとても楽しいので」


 ローウェルの琥珀色の瞳が悪戯めいて輝く。

 五つ年上の上司は、時折ひどく子どもっぽいところがあり、クラリスを戸惑わせる。公爵令嬢として暮らしていたら、きっと出会うことがなかった(たぐい)の人物。



「さあクラリス嬢、返答を」

「はい。私は、王太子殿下からの申し出を受け入れます」


 大きな声で宣言すると、どよめきの声があがった。

 クラリスは緊張と興奮とがないまぜになったような心地だったが、ちっとも嫌な気持ちではない。

 己で未来を選択する。

 たったそれだけのことがこんなにも清々しいのだと、はじめて知った。


「それではフォーアン。おまえはクラリス嬢との婚約を解消したのち、どうする」

「俺は公爵家との約定を違えるつもりはない。このアイラを新たな婚約者とし、妃に迎えるつもりだ」

「エンハルマン公爵令嬢アイラよ、貴女もフォーアンに同意していると見なしてよいのか」

「は、はいっ。お姉さまに代わり、あたしが彼の婚約者になります」


 ふたりは手を取り合って、場に訴えかけるように宣誓する。

 ローウェルは頷いた。


「承知した。フォーアン・ノーテルマンスとアイラ・エンハルマンの婚約締結を、宮廷貴族管理室の長ローウェル・テル・ハールが承った。大きな契約の見直しには一定数の承認を必要とするが、今この場には多くの見届け人がいる。紳士淑女の皆様方、承認をいただけるだろうか」


 朗々と語るさまは、まるで舞台役者のよう。

 王宮の外で育ったローウェルは、王族らしからぬ言動が垣間見えるが、それでいてどこか泰然としており、ひとの上に立つ風格があるのだ。

 いつのまにか引き込まれ、人垣から徐々に手が挙がり始める。


 ローウェルが学院長に目をやった。

 老紳士は頷き、クラリスたちがいる円の中心へ歩を進める。生徒たちを見渡したのち、すっと片手を天へ伸ばした。


「学院長の名において、本案件は可決したことを宣言いたします」


 まばらに起きた拍手は、やがて重なり大きな音となる。

 普段見ることのない事象。

 大人の世界を間近に体験した興奮が、生徒たちを包んでいた。ここにいる多くは卒業を控えた者であり、デビューを控えた令嬢たち。


 よい社会勉強となりましょう。

 学院長は苦笑いとともに、そんなことをクラリスに囁く。

 その言葉を受けたから、というわけでもないのだろうが、ローウェルは続けて発言した。


「正式な通達は追ってあろうが、よい機会だ。我が国の法改正について知らせておこうか。婚姻に関することだ。卒業を間近にしたご令嬢方は特に気になる話題ではないかと思う。ご存じのとおり、我が国の高位貴族男性は複数の女性と関係性を有するが、法律上の妻の定義は曖昧であった」


 はっと息を呑んだのは令嬢たちだろうか。普段、表立って踏み込むことのない話題に、誰もが顔を見合わせる。

 エンハルマン公爵家もそうだが、複数の妻といえど、正妻や側室、妾といった名は存在しない。彼らは等しく『妻』と称されており、子どもは母親の籍に繋がっている。

 ノーテルマンス王国における戸籍は、子を産む女性を主として作成されているのだ。そうすることで、『重婚』ではないように見せかけている。


 これらは過去の、出生率上昇を目的とした暫定的な処置であったはずだが、正されないまま今に至っている。病が根絶し、安定した治世の中では、特に必要のないものだろう。

 『家』を体系的に管理するにあたっては、当主を中心にした戸籍を作成したほうが管理がしやすい。

 クラリスが従事する部署は、それを目的に立ち上がったものである。数年をかけてようやく議会の承認を得て、いよいよ正式に決まったところだ。


「夫と妻は一対となる。現状、複数の妻がいる家においては、便宜上ではあるが片方を正妻として定義していただくことになっている。しかし、これから新しく結婚をする場合は、はじめから妻は一人と定め、二人目以降は原則認められない」


 とはいえ、子は授かりもの。身体的な問題によって後継ぎとなる子をなせないことも出てくるだろう。

 そういった場合は、話し合い、合意のもとであれば、次の妻を迎えることは可能となる。


 互いに唯一を相手とする恋愛劇は、物語や歌劇でも人気の題材。

 貴族階級の令嬢にとっては現実的ではない、夢物語でしかなかった一途な恋愛を我が物にできると知った女性たちが熱を帯びたように囁き始める。


 クラリスは複雑な心境だった。

 自分たちの世代は、理想と現実の狭間を生きている。家庭の中に母の違う兄弟姉妹がいることが当たり前で、当の母親たちは、それらを当たり前のこととして受け取っているのだ。


 クラリスの母は、女性の地位が低いことに対して懐疑的な一派だが、アイラの母親は深くこだわらない性格だ。愛する方の妻となり子どもがいる現状に、なんの疑問も持っていない、根っからのノーテルマンス女性である。正妻側室といった区分けに対しても、どちらであろうと気にしないであろうことは想像がついた。



「えっとつまり、あたしたち女性は、これからは嫁ぎ先でただひとり、唯一の妻として愛されることを国が正式に決めたってことなのね!」


 アイラが簡潔にまとめ、令嬢たちもまた歓喜の声をあげた。

 もどかしい気持ちを抱えていた女性にとって、これは改革。携わったクラリスも嬉しい。


「そうだね。ただし王族だけは原則から外れる。例外というか特例だろう。こと王太子の場合、世継ぎの問題に加えて政治的な事情も鑑みられるから」


 ローウェルがアイラへ向かって、鷹揚に頷いて答えた。


「フォーアンは当初からの予定どおり、卒業後まもなく隣国の王女を正妃として迎えるよ。婚約者の公爵令嬢は法改正に伴い、婚姻後は『妾』となる。二妻の制度が消えるなか、そなたは国で唯一の存在となるだろう。おめでとう。公式に正式に、国によって認められた陰の妻として、フォーアンのこころを慰めるがよかろうよ」

「――え、は?? 隣国の王女と結婚ってなに、それ。あたしが王太子の婚約者で、彼の妻でしょ?」

「王女との婚姻は、俺が生まれた段階で定められた国家間の約定だ。しかしそれでは国内からの信が得られぬ可能性があったため、エンハルマン公爵家の令嬢も召し抱える取り決めとなっていた」


 フォーアンが生真面目な顔で言うと、アイラは焦ったようすでクラリスに言い募った。


「お、お姉さま!? そんなこと言っていなかったじゃないの!」

「どうしたのアイラ。あなただって知っているでしょう。本来、重婚は公式に認められるものではありません。従って、妻を複数持つことは敢えてくちに出したりはしないものよ」

「そ、れは、そう、だけどお」


 高位貴族の令嬢は、己が嫁ぐ相手には他の女性が存在するであろうことを呑み込んで、相手に()すのだ。

 アイラとてそれは承知していたはずなのに、どうしたのだろうとクラリスは首を傾げる。


「フォーアン殿下は王太子です。国王陛下に三人の妻がいらっしゃるなか、次代の王となるフォーアン殿下の相手が一妻であろうはずがありません。あなたは、あなたのお母さまのように、愛される妻に憧れていらしたでしょう? 私の母は少々規格外でしたからね」


 クラリスの母は、夫の後ろに控える陰である良妻とは程遠い性格だ。

 父はそんな母を許していたし、アイラの母もまた、性格の違う友人のように捉え、ふたりの妻は不仲ではなかった。


 しかしアイラは、愛を乞おうとしないクラリスの母のことを、『夫から愛されない惨めな妻』と蔑んでいた。

 さすがに面と向かっては言わなかったけれど、クラリスに対しては事あるごとに「あたしはたとえ夫となる方に何人の妻がいようとも、あたしのお母さまのように愛される女になるわ」と豪語していたものだ。

 そんな妹ならば、『王太子の妻』という役割を受け入れられるだろうとクラリスは安堵する。



「おっしゃるように、私はフォーアン殿下が望んでいらっしゃるような、表立って公務をおこなう王女殿下を立て、それ以外のことで殿下を癒しお慰めする役割には向いていないようだとわかりました」

「クラリス。ひとには向き不向きというものがあろう。そなたは俺の妻にはふさわしくないが、人間性までは否定せぬ」

「勿体ないお言葉です、殿下」

「クラリス嬢は、フォーアンのような年下ではなく、自分より年齢が上の男のほうが釣り合いが取れるんじゃないかと僕は思うんだけどね」


 そこでローウェルがくちを挟んできて、クラリスは笑う。


「ありがとうございます室長。しかし、長きに渡って王太子殿下の婚約者だった微妙な立ち位置の女をわざわざ選ぶ殿方など、いらっしゃいませんわ」

「僕は気にしないんだけど」

「それは室長がフォーアン殿下の叔父君で、事情をご存じだからですわよ」

「うん、そうだね。ところで僕は君より五歳ほど年が上で、前国王が隠居後にやらかしたせいでずっと裏でこっそり生きてきた、とても扱いづらい立ち位置にいる未婚の男性なんだ」

「まあ、似た者同士ということですのね。失礼ながら、これまで以上に親近感が湧きましたわ」

「えーと、うん。まあ、いきなりはあれだから、ゆっくりといこう」

「はい?」


 疑問符を浮かべるクラリスに、ローウェルは苦笑いを浮かべる。


「叔父上、手助けは必要でしょうか」

「いらないよ。甥っ子の手は借りない」

「クラリスの処遇については、陛下には話しておきます。妹であるアイラを求めたのは俺の我儘ですから、クラリスの嫁ぎ先については本人の希望をもとに配慮をと。ご健闘をお祈りいたします」

「うるさいな。まあ、手放してくれたことには感謝してやるよ」


 叔父と甥が、なにか分かり合ったような顔で頷いているなか、呆然としていたアイラが我に返ったように叫んだ。


「待ってよ。みんなは旦那さまにとってたったひとりの花嫁になれるのに、あたしは王女殿下のうしろで陰になれっていうの!?」

「隣に並び立つなんて女性らしくない。夫の背後で控えて支えるのが良き妻。アイラお姉さまはよく、クラリスお姉さまに言っていたよね。そのとおりになったのに、なにを怒っているの?」

「まあ、アントン。あなたどうしてここへ?」


 衆人を割って現れたのは、初等科に通っているアントン・エンハルマン。公爵家の後継ぎである。


「クラリスお姉さま、ごきげんよう。今日もお綺麗ですね」

「もう。いつもながらアントンはおくちが上手ねえ」

「子ども扱いはやめてください。ぼくはもう十歳なのです。もうすぐ中等科へ進む年齢なのですよ」

「そうね。立派な紳士だわ」

「はい!」


 姉に頭を撫でられて嬉しそうに笑う少年。アイラはそんな弟を苦々しそうに見つめ、唇を噛んでいる。

 ざわつく声は、闖入者と、そんな子どもにやりこめられたらしいアイラに対するものだけでなく、弟に微笑みを見せるクラリスに対する驚きが大きい。

 慎ましく、感情をおさえがちなクラリスが見せる笑みは、これまでの彼女の印象を一変させるものであり、どこからか「可愛い……」と呟く男の声が聞こえた。


「クラリスお姉さまは、婚約がなくなってもだいじょうぶですよ。ぼくがずっとお守りいたします」

「あら、とっても嬉しいわ。でもね、いつかくるあなたのお嫁さんの小姑にはなりたくないのよ」

「では、ぼくがきちんと新しいお相手をみきわめてさしあげますね。なにしろぼくは公爵家の後継ぎですから、お父さまにも任されているのです」


 小さな胸を張るアントンに、クラリスの隣に立つローウェルはおどけたように肩をすくめた。


「あいかわらず頼もしい騎士(ナイト)だ」

「ローウェル殿下におかれましては、ご機嫌うるわしゅうございます」

「久しいなアントン、壮健でなにより」

「はい。ぼくは約束は守る主義なのです」

「約束? アントン、あなた室長となにかお約束をなさったの? というか、そもそも親交があったの?」


 年齢もまったく異なる弟と上司が、なんだか妙に気安く言葉を交わすことが不思議で質問するクラリスに、アントンは笑顔を返す。


「園遊会で何度かお会いしております。恥ずかしくもぼくが庭で迷ったとき、お助けくださったのが出会いです。おぼえてませんかクラリスお姉さま」

「そういえば、アントンを連れてきてくださった殿方がいらしたわね。まさか、あのときの?」

「君はフォーアンの婚約者ということで、あいつ以外との男とは距離を取っていただろう?」

「ええ、はい。おっしゃるとおりです」


 あれはたしか五年ほど前のことだったか。

 クラリスは十五歳となり、社交界デビューをしようかというころだった。フォーアンの婚約者として、他の男性とわずかにでも妙な噂が立たないように、徹底的に仮面をかぶり、近寄り難い空気を出すよう心掛けていた、はず。


「僕もね、ようやく王族の一員として表に出るようになったころだった。そんななか、ものすごく頑張って虚勢を張っていそうな令嬢がいて、他人事とは思えず目で追ってしまった。そんな子が、小さな男の子にだけは笑顔で接しているのを見てしまったんだよね」



 あれは誰だろう。

 ローウェルの護衛として傍についていた近衛騎士に訊ねると、名と立場を教えられた。

 年齢よりも大人びた印象の公爵令嬢。王太子の婚約者としての顔ではなく、幼い弟を見守る姉としての顔が印象的で、ローウェルはクラリスの名を胸に刻んだ。


 以来、なんとなく動向を気にしてしまい、ついには彼女の就職先として、自分の下へ来るように手をまわしてしまった。


 共に働き、日々の姿を見るうちに、クラリスの印象は変化していく。

 だが、変わっていくのは彼女ではなく、自分のこころなのだと気づいたときにはもう手遅れだった。

 甥の婚約者に懸想するだなんて、いろいろと終わっているだろう。


 自省するなか、ローウェルの心情を、おそらく本人よりも先に見抜いていたのが、小さな騎士ことアントン少年であった。

 迷子を保護して以降、妙に懐かれてしまったアントンとは、主に男性を主とした集まりにおいて、顔を合わすようになった。エンハルマン公爵が自身の後継として早くから顔を売りたがっていたのか、初等科に入学したばかりの子どもなのに、大人の集まりに連れられてきていたのだ。


 集まりのなかでは若い部類に属していたローウェルは、自然にアントンと距離を縮めていき、なんだか知らぬあいだにクラリスへ募らせた想いを見抜かれ、そして少年は言ったのだ。



 ぼくがクラリスおねえさまをおまもりします。ほかのやつにはとられないようにしますから、ローウェルでんかはもっとがんばってくださいね。

 そのかわり、ハリエットさまをしょーかいしてください!



 ハリエットとは、王家の傍系にある侯爵令嬢。王宮におけるローウェルの後見人である男の孫娘。アントンとは同じ年齢で、どこぞのお茶会で出会って一目惚れをしたらしい。

 侯爵家としても、エンハルマン公爵と縁づくことは悪くないだろうし、仲を取り持つのはやぶさかではない。存外に(したた)からしい次期公爵、こういう子どもは嫌いではなかった。



 本当の事情は隠して、ただ園遊会を通じて会話をするようになったのだということを告げる。

 あどけない弟の皮をかぶったアントンは「大人ばかりの会合はつまらないので、ローウェル殿下のおかげで楽しく過ごすことができました」と快活に笑う。こんな兄上がいたら楽しいですねと言うのも忘れない。アントン少年の華麗なアシストに、ローウェルは笑った。


「クラリス嬢。アントンに紹介したいレディがいてね。僕の後見人の孫娘だ。カフェで話題の菓子を食べることにしているんだが、彼の保護者としてついてきてくれないかい?」

「あら、私がですか?」

「親が出張るにはまだ時期尚早だ。まずは顔合わせからということで、うちのハリエット姫にとっても、女性がいたほうが安心できるだろう」

「クラリスお姉さま、こういうのを『ダブルデート』というのだそうですよ」

「もう、おませさんねアントンったら」


 誘い出すことに成功したローウェルがほくそ笑むなか、女の声が響いた。



「ちょっと待ちなさいよ、あたしのことはどうなってるのよ、問題はちっとも解決していないじゃないの!!」

「アイラ。問題は解決している。君は俺の妻として認められた」


 隣に立つフォーアンが、アイラに対して真面目な顔で告げてくる。一切の迷いもなく、それが喜ばしいことであると疑っていない表情。


「いえ、あの……。で、でも、王女殿下と」

「問題ない。俺が自国の令嬢と婚約関係を構築していることは彼女も承知している。正妃としての立場をきちんと国内で明確にしてくれるのであれば、愛妾を持つことは許すと言ってくれている。安心して俺の妻になれ」


 言葉だけを聞けば、真摯でまっすぐな求婚だった。

 王太子の熱と圧を受け、未だこの騒動を見守っていた生徒たちから、思わずといったふうに拍手があがった。

 ひとたび音が鳴れば追従する者は多く、いつしか盛大なものになっていく。


「ありがとう。皆の祝福を嬉しく思う」


 フォーアン殿下が礼を執った。

 王太子が自分たちに感謝の言葉をくれたという事実に、さらなる熱が広がり、収まるようすもない。


「あーあ、どうするのかなあ、アイラお姉さま」


 姉の心情を理解しているであろう弟アントンは呆れたように呟く。どう考えても姉が悪い。自身の行動による(むく)いを受けただけだ。

 母違いの姉クラリスに勝手にライバル心を抱き、ただ『王太子の婚約者』という貴族令嬢においてトップといえる立場を手に入れることに執着した。

 アントンは、自分の姉が世の令嬢と同じように、互いを唯一とする恋物語に憧れていると知っている。そういった内容の本をたくさん収集していることを見ているのだ。


 じつは可愛い恋に憧れている令嬢が、変わりゆく世の中で唯一にして最後になっていくであろう『夫に別の女性がいる添え物の妻』となり、それを大勢の子女子息の前で宣言され、さらに貴族爵位を管理する機関の長によって承認された。


 これは法に(のっと)ったうえで認可されたと見なされるので、不服があったとて覆すのは容易ではなかろう。

 覆すためにはたくさんの手続きのあと、議会にかけての審議となるはずだ。結果が出るまでに数年かかるし、審議したからといって白紙に戻るとはかぎらない。



「まあ、こういうのを、外国の言葉で『自業自得』っていうんだよね」

「わかっていて誘導したのは君じゃないのかい、アントン」

「ローウェル殿下だって止めなかったでしょう?」

「僕はクラリスが自由になることが望みだからね」

「ぼくだってそうですよ。クラリスお姉さまも、アイラお姉さまも、結果的にどちらもご自身の望みを叶えられたのですからよいのです」


 上司と弟がよくわからない会話を繰り広げているのを見ながら、クラリスは大きく息を吐いて、周囲を見る。

 元婚約者と妹。恋情のない自分ではなく、互いに思い合うふたりが結ばれたことが嬉しい。

 どうやら弟にも小さな想いを抱く相手がいるようだし、自分ひとりが置いてけぼりを喰らった気分だが、きっとそういったことは、これからなのだろう。


(私みたいな枯れた問題児でも、恋というものができるのかしらね?)


 考えていると、上司と目が合った。柔らかく微笑まれて、ドキリと胸が高鳴る。


(物語によれば、こういうのを『場に流される』というのではなかったかしら)


 ゆえに、勘違いしてはならないのだ。たしか。

 恋とは。

 愛とは。

 どんなものだろう。

 縁がなさすぎて見当がつかない。


 王太子の婚約者を妹にゆずり、ただの公爵令嬢に戻れたクラリスの未来は、これから始まるのだ。




「クラリス嬢、そろそろ戻ろうか」

「お仕事の最中でしたわね、そういえば」

「なんだかそれどころではなくなってしまったし、日を改めたほうがいいだろう」


 アイラは級友に囲まれ、祝福を受けているようだ。

 弱みを見せられない性格のアイラは、あれこれ不満らしきものを叫んでいたことなどおくびにも出さず、嬉しそうに笑ってみせている。


(邪魔をするのはよくないわね。元婚約者の私はいないほうがいいわ)


 クラリスは合点して、ローウェルに頷いた。


「承知しましたわ」

「つまり、ここからは業務外ということで。お手をどうぞレディ」

「はい?」

「君はもう、ただの公爵令嬢なのだから、僕が誘っても問題ないだろう?」

「なんのお誘いでしょうか」

「デートだよ」


 言ってローウェルはクラリスの手を取り、軽く握った。

 異性からエスコートを受けることはあっても、こんなふうに直接肌に触れ、まして握られることなんていままでなかった。せいぜい弟の手を握る程度のこと。


 男性の手の大きさ、厚さ、温かさ。

 すべてがはじめてで動揺が走る。

 これは上司としての振る舞いではないことは、色恋に縁のないクラリスにだってわかった。普段のローウェルは、きちんと適切な距離を保って接してくる紳士だからこそ、その差は歴然。


 真意はわからないけれど、触れた肌に嫌悪感はなく、ほんのすこしだけ『流されて』みてもいいのかもしれないと、クラリスはそんなことを思い、握り返すことで答えを返す。

 ローウェルの笑顔を眩しく感じながら、クラリス・エンハルマンは新しい自分を鼓舞し、生まれてはじめての『デート』を楽しむことにしたのであった。




 フォーアン殿下との婚約解消が円満なもので、クラリス自身に落ち度がないことは、王家の名のもとに公示された。

 にもかかわらず、クラリスへ婚約の申し入れがちっとも来ない要因が、ローウェル王弟殿下の根回しと牽制によるものだと彼女が知るのは、彼からの求婚を受け入れたあとのこと。


 狭量な男でさぞ呆れただろう。

 夫となった男が自虐とともに吐き出したが、数年をかけてゆっくりと愛を育むことを選んでくれた相手を、笑ったりなんてできるはずもない。


「いいえ、むしろ惚れ直しましたわ」


 笑顔で告げると、クラリスの最愛の夫は、恥ずかしそうに笑い、甘いくちづけをくれた。




「欲しがりの妹に陥れられるヒロイン」を書こうと思って、どうしてこうなったのかアレですが。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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年齢が分かりづらいところですが、

クラリス20歳、フォーアン18歳、アイラ16歳です。

ローウェルは25歳で、アントン10歳。


ちなみに、帰宅したアイラが母親に泣きついたところ、「あら、素敵。よかったわねえ、アイラちゃん。殿下なら何人の妻がいようと同じように愛してくださるわあ」でニコニコ喜んでくれて、話になりませんでした。


プライド高いので「あたしは望まれて嫁ぐのよ」ってことで、入城後に王女殿下とバトルするも、たぶん王女さまのほうが一枚も二枚も上手な気がしますね。一国の王女は強いでしょう。


アイラ母は、箱入り娘で育っているので、現状になんの疑問も抱かない、ぽわぽわ天然系女子。

反面教師で、アイラとアントンはしっかりしていて計算高い、あざとい子に育ったかんじです。


クラリス母は、「男だったらよかったのに」って言われる、リーダー気質のしっかり者なので、公爵の妻たちは、わりと正反対だから、お互いに争うことなく暮らしてこられたのかもしれませんね。


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【書籍情報】

この短編を第一章とし、ラストシーンに繋がるまでのあれこれを書き下ろしました

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マシュマロ
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