094_継暦133年 - 134年
ビウモード伯爵。
141年時点での伯爵の父にあたる人物。
厳しい表情に、貴族としての振る舞いが冷酷な人間であることを演出する。
だが、演出は所詮、演出に過ぎない。
本当に冷酷で残酷なものになりようもない。
経歴133年、冬。
雪こそ降らないが、緑一つない寒々しい景色を眺める。
もう何年も見てきた季節の移り変わり、代わり映えのない風景。
わしは火酒に口をつけ、ちらりと同席者を見やってから言う。
「気楽にやれ」
「それじゃ、ありがたく」
「頂戴いたします」
同席するのはドワイト、そしてズェルキンの両名。
この二人に共通することがある。
それは徹底して口と義理が堅いことだ。
ドワイトは彼の髪が黒く、そのおもてに皺のない頃からの付き合い。
ズェルキンとは数年程度の付き合いではあるが、二人とも義理を欠かしたことはなく、
期待に背かれたこともない。
表向き、わしはあるべき為政者の姿を取るために失敗など何一つありはしないかのように動くが、
忠義であれ渡世の義理であれ、
信を向けてくれている彼らのせめてもの誇りになれるよう必死なだけだ。
領地運営にとって重大な決定をするとき、
他人の人生を歪めるような判断をするとき、
弱い心の持ち主であるところのわしは、いつも心が削られ、胃から臓腑がひっくり返って出てきそうになる心地だった。
それでも、大きな失敗もなく、彼らの尊敬にも背いていないことは綱渡りながらも、我褒めできる数少ないことだろう。
「くうーっ……!お高い火酒は香りが違いますなあ!」
「ドワーフとエルフが共同で作ったという代物でな、殆ど流通のないものだ」
「そりゃあ貴重なもんを私なんぞに」
「日々苦労を掛けている、その労いだと思え」
「ドワイト殿もおかわりいただきましょうや。
騎士様にそうしてもらえたら、私もおかわりしやすいもんでしてね」
ドワイトはいつもこういう場では遠慮する。
それを遠慮は不要だと場を回してくれるズェルキンはありがたい存在だった。
貴族や騎士にはいないタイプの男だ。
「一度おかわりを頂戴すると際限がなくなりそうでしてな」
酒量こそ普段は控えているらしいが、ドワイトの酒豪ぶりは若い頃から変わらない。
酒に関する知識の殆どはドワイトから仕入れたものといっても過言ではなかった。
「閣下、浮かない顔ですな。
やはりあの青年──ヤルバッツィ殿と云いましたか。
彼の隷属の件が悩みの原因ですかな」
ドワイトは自分のグラスに少し酒を注ぎ、瓶をズェルキンに渡しながら云う。
「お見通しか」
わしの言葉にドワイトとズェルキンは目を合わし、引き継ぐようにしてズェルキンが続けた。
「伯爵閣下が弟子を取った、なんて話は城外にも響いていますからねえ。
随分と気に入っておられるようで。
才能がありましたか、あの青年には」
「家が木こりの一族だそうでな、家業の才能はなかったからこそ冒険者を志したのだそうだが、
もしも生まれたのが狩人の家であれば今とは違う道を進んでいたであろうな。
或いは、もしかしたなら狩りの達人としてわしの耳に入っていたかもしれぬ」
弓の腕前には自信があった。
我が一族を祟る、ダルハプスを名乗る邪悪がなければ家を捨てて武芸者にでもなっていたかもしれない。
冒険者となっても鉄色くらいにはなれる、そんな道を夢想する程度には自信がある分野だ。
そのわしが、ヤルバを羨んだ。
彼の才能はわしをも超えるものだった。
素直な性格なのもあるだろう、弓以外にも貴族として必要な礼儀作法や学問を教えるとその飲み込みも早かった。
どこか一つでも彼の何かに……技術であれ、学習能力であれ、性格であれ、文句があれば何も後ろめたくなどならなかっただろう。
今更人間一人の人生を狂わせたところで、と自分勝手な納得をしていたはずだ。
だが、ヤルバッツィは生徒としても、部下としても完璧であった。
騎士としての立ち振舞、貴族相手への礼節は目下勉強中でもあるから、そのうちにどこに出しても恥ずかしくない騎士となるだろう。
「よくありませんなあ、閣下。
実によくありませんよ」
火酒を呷り、にたりと笑う。
俗人らしい笑みだが、人の神経を逆なでしたりするような下品さがない。
ズェルキンはなんとも不思議な男だ。
「何がよくないのかね」
「ドワイト殿も思っているでしょう。
閣下は青年の人生を狂わせたと、歪ませたと思い煩っておられる。
だが、閣下が隷属させ、その責任とでも言うように多くを学ばせたからこそ青年の才能が花開いただけだと」
「それは、わしの口からは言えまいよ」
それなりの冒険者にはなっていたかもしれないが、それなり止まりだろう。
学習機会のあるなしはそのまま成長結果に影響する。
自分で言うのもとは思うが、わしは教師役としてはそれなりのものができているはずだ。
「だからですよ、閣下。
青年に申し訳なく思う必要なんてありゃしないんです。
その才能を開かせてやったと、そう誇るべきじゃあありませんか」
「それができたらこういうひねた性格にはなっておらんよ、わしは」
本心ではあったし、これが貴族であれば顔を青くしてなんとか持ち上げようとするだろうが、
ズェルキンは、
「お貴族様の言葉じゃ、それを思慮深いと仰るんでしょう。
その思慮のお陰で火酒にありつけているんです、ありがたい限りでさあね。
閣下の性分に乾杯!」
などとおどけて見せた。
求めていた反応を返すズェルキンにわしもグラスを少し持ち上げて乾杯の意を示す。
飲みの夜は続く。
───────────────────────
「そろそろ本題に入りましょうか、閣下」
年に数度、心を落ち着かせるために催した小さな酒の席。
だが、今回は慰撫するためのものではないことをドワイトとズェルキンの二人は理解しているようだった。
口火を切ったのはやはりズェルキンであった。
「ダルハプス卿のことでしょう」
ドワイトは父祖ビウモード伯爵をダルハプス卿と呼ぶ。
この辺りでダルハプスの話を聞かないものはいない。
アンデッドたるアレよりも遥か昔に、湖沼には一匹の獣が住んでいた。
それは闇夜に溶け、人の心を食らう怪物だったという。
その怪物の名をこそ、ダルハプスと呼び、ダルハプス湖沼の名前もまたその怪物に由来したものだという。
未然王の父である兵革王の時代に発生した大殺戮の現場ともなった場所でもあったりと、
何かと因縁に事欠かない土地というわけだ。
幼い頃に悪さをしたり、眠らない子供に対して『ダルハプスが来るぞ』というのはその辺りから来ているのである。
あいにく、わしは幼少から親の期待に応えられなかったことはないので、一般的に使われているその言葉を耳にすることはなかったが。
しかし、我々が知るダルハプスはそうした怪物ではない。
持ち得ている力はたしかに怪物的ではあるが、あくまで強力な人間、いや、元人間のアンデッドである。
我々がダルハプスを、ダルハプスと呼ぶのはアレ自身がそう名乗ったからである。
「……いよいよ、メリアティの体調がよろしくない。
今年はまだしも、来年の冬を越えられるかは……わからぬ」
妻が死んだとき、わしは後悔した。
何かできるはずであった。
身分など全て捨てて子どもたちと遠い場所に逃げれば、もしかしたならダルハプスがかけた家族にも及ぶ呪いから逃げられたかもしれない。
しかし、わしはベストを尽くせなかった。
領主としての責務からそれはできなかった。
産後の肥立ちが悪く命を落とした、流行病で眠るように死んだ。
多くの人間はそうしたように妻のことを理解しているし、わしもそう説明している。
だが、実際には違う。
一族の運営に必要なだけの人間以外を、あのダルハプスは喰らっているのだ。
その生命を。その寿命を。
長男であり、太子でもあるビューは健やかに、賢く育った。
わしなど足元にも及ばぬ立派な伯爵になるだろう。
その理解はわしだけではなく、ダルハプスも知るところだったのだろう。
そうなれば、もうメリアティは要らないだろうと言いたいのだ。
ふざけるな。
我が妻の最後の祈りを、
愛する我が家族を、
何をしてでも、どのような悪事に手を染めてでも守ろうとしたものを、
奴は、ダルハプスは奪おうというのだ。
「三賢人の残した知識を集めるのが間に合うかはわからぬ。
……間に合わぬようであれば、」
「卿を……討とうというのですか」
「いや、それはできまい。
わしは弓には多少の心得はあっても、ダルハプスを討てるようなものではない」
「討てぬならば、どうするというのです」
ズェルキンが「どうするのか」というドワイトの言葉に横から応じる。
「ドワイト殿、ヤルバッツィ殿を思い出してくださいや。
伯爵閣下がお育てになられた弟子です。
お珍しいことと言われるような行いだったのでしょう」
「ああ、そうだ」
「それだけではなく、より深く愛を注ぎ、教え導いた太子様。
こちらもまた優れた才腕の持ち主だとお伺いしています」
何が言いたのかわからないといった風にドワイトが小さく首を傾げる。
「二人ともに、いつか閣下を超える器になると閣下自身がお考えなんでさあ。
つまり、つまりですよ。ああ、怒らないでいただけますね?」
「わかった、約束しよう」
「どんなやり方かまではわかりゃあしませんがね、文字通りの時間稼ぎをするんでしょう。
次の世代が、次の次の世代が解決策を持ち込んでくれることを祈ってね」
ああ。
よくわかっている男だ。
出会いが違えば、彼を家宰にでもすればまた違う道もあっただろうか。
「……ご当主。
まさか」
「精々わしができることなど、ズェルキンの言葉ではないが、時間稼ぎでしかないのだ。
だが、この時間稼ぎこそがわしが用意できる奴を滅ぼすための唯一にして最大の武器ともなる」
命を捨てて、今少しの時間を稼ぐためのやり方は既に探し終わっている。
本棚から一つの書物を取り出し、ズェルキンの前に置く。
「この儀式を、お前にしてもらいたい」
「読み込むのに暫く時間をいただいても?」
「二週間が限度だ、報酬は」
「お任せしますよ。前払い分は既にもらっておりやすんでね」
ズェルキンは火酒が注がれたグラスを小さく揺らした。
「ドワイト、お前はこれより以後はビューに付くのだ。
お前がわしにしてくれたことを、息子にもしてやってほしい」
「ご当主が引退したあとに、庭師を目指そうと思っていたのですがその夢は遠くなりそうですな」
ドワイトの不器用さはよく理解している。
当家の庭を任せたなら実に奇抜なものになるだろう。
それはそれで見てみたい気もするが、それは叶わないであろう。
ズェルキンに渡した書物にある儀式は、わしの命を引き換えとするもの。
老骨の命一つで時間を稼げるならば有効な取引と言えるだろう。
───────────────────────
継暦134年、春。
ドワイトはすっかり我が子、ビューの副官として力を発揮することに馴れ、
ズェルキンは研究者たちと儀式の準備を進めている。
ひと月後には、儀式の実行もできるようになるだろう。
引き継ぎのための資料作りと、遺すべき知識や積み残しについてなど、書いても書いても終わりが見えない。
終わらなければ儀式の延長もやむなしとなる。領地と領民の未来のことを考えれば、責務を捨てて死ぬことは伯爵として生きてきた自分が、その自分を許せないのだ。
騒々しくはないが、力強いノックが響く。
「ビューです。
お話したいことがあります、父上」
「入りなさい」
入室した我が子、ビューは背丈が高く、体つきもそこらの騎士よりも遥かにがっしりとしている。
見世物の筋肉ではない。
努力と実戦が作り上げた戦士の肉体だった。
我が息子ながら圧が凄い。
見た目だけならわしとて息子に負けず劣らずの威容を作ってはいるが、身にまとう気配のようなものばかりはどうにもならない。
その点において我が子、ビューは爵位持ちの貫禄がある。
「命をお捨てになるおつもりなのですね」
「どこからそれを」
「ドワイトの様子のおかしさ、出入りしているあの儀式使いが研究施設に出入りを繰り返していること、
その辺りから怪しんで、二人から聴取しました」
「強引な手は使っておるまいな」
「二人とも『口止めされていないということは、聴取したどちらかが話すことになるだろうし』と教えてださいました」
予想よりも早く露見したか。
いや、それでこそ後事を託せるというもの。
「質問の答えで言えば、そうだ、と言うべきだろう」
「ダルハプスですか」
何があっても良いようにと幼い頃からダルハプスの呪いについてをビューには教えていた。
母が遺した妹を大切にしてやってほしいという言葉を守るために、
ビューもわしと共に必死に呪いに対する解決策を探していた。
「そうだ。ダルハプスだ。
お前もわかっておろう」
「……いよいよ、我が妹を食い物にしようとしていることを、ですか」
「圧が強いぞ、ビューよ。
わし亡きあとに威容のみで土地を支配するつもりか」
「それは……。いえ、申し訳ございません。
感情を制御できていたつもりですが、漏れ出てしまってようです」
我が子との語らいというのは、普通の親子と比べて希薄だ。
むしろビューとわしは、呪いを解くため、ダルハプスを打倒するためという目的で一致している一党のような間柄に近い。
「いかに努力しようと、アレには勝てぬのでしょうか」
怒りと無念さを押し殺しながら、そう問うビュー。
わしも同じことを何度となく考えた。
ダルハプスはアンデッドである。
そも、アンデッドとは何か。
死を超克したものと見る向きも世にはあるらしいが、わしに言わせれば死から逃げ切った結果でしかない。
超克したのであれば、滅びるわけがない。
しかし、滅びる。アンデッドとは滅びるのである。
我々人間と同じように、というべきか、アンデッドにも幾つかの種が存在する。
骨格遺。
骨に遺思をこびりつかせたもの。
大抵の場合はこびりついている骨そのものを破壊することで動作を終わらせることができる。
高位のものとなれば砕かれても復活することもあるようだが。
腑肉遺。
肉や臓物に遺思をこびりつかせたもの
欲望に忠実で、大抵の場合は言葉は発せても会話にはならない。
スケルトン同様に破壊すればそのまま動かなくなり、肉が腐って溶ければ消える。
高位のスケルトンと違って砕かれて復活、溶けても復活などということはないとも聞く。
魄幽遺。
遺思のみがまろび出て、さまようようになったもの。
剣や矢が通る相手ではないが、術士が聖別した銀製の物品などであればあっさりと散らせることができ、高位でもなければそのまま消える。
こうした中で、ダルハプスはゴーストの、その上位種とも呼べるものである。
もはや個体という概念を超越し、自らの分霊を作り出して闊歩させることすらできるという。
よほど体力を消費するようで、分霊を扱っているのは一度だけしか見たことないが。
ただのゴーストであれば、銀製の武器で叩けばよい。
或いはインクを主体とした存在であるゴーストは魔術や請願もよく効果を発揮する。
だが、それらのいずれもが弱点であることを知っていながらダルハプスが今も我々に呪いを向け続けている理由は簡単だ。
ダルハプスはそうしたものを超越しているのだ。
銀の武器も、魔術による攻撃も、請願によるアンデッド退去の力も通用しなかった。
正確には、存在の格の違いがそのまま障壁となってダルハプスを守っている。
いかにわしやビューが鍛え上げようとも、存在の格を上げるような手段を持ち合わせてはいない。
だからこそ、ダルハプスの存在を今も許すしかなかった。
『いかに努力しようと、アレには勝てぬのでしょうか』
我が子の悲鳴のような言葉に、わしは顔を横に振る以外にはない。
理解はしているし、何度も倒せないかの相談はお互いに重ねたが答えは見つからなかった。
それを知っていながらも、やはりビューは悔しげな表情だけを浮かべた。
少しの間を置いてから、ビューが続ける。
「父上、蚊帳の外で待てというのは息子にする所業には酷というもの。
私も父上が実行しようとしている計画に含めてください」
「親殺しではないとはいえ、見殺しにせよというような場面に立ち会わせることになるのだぞ。
わしはそちらの方が酷いことだと思っていたのだがな」
「酷い行いなのは間違いありますまい。
ですが、父上。
せめて最後の時間くらいは父と子、或いは同じ目的に向かって共に進んだ戦友として、最期まで共にありたいのです」
わしはよい息子を得たと、改めて確認できた。
解決策を得られず、この命を時間稼ぎにしか使えない不肖でありながら、息子はこれほど立派に育ってくれた。
ダルハプスよ、見ておれ。
必ず貴様を滅ぼす道は我らが舗装してくれようぞ。
この命とビューが貴様を滅ぼせずとも、必ず我らが望む形に結果を導いてみせよう。




