212_継暦141年_冬
王国暦472年
「ああ……。陛下♡ 陛下陛下♡♡ 陛下陛下陛下♡♡♡」
うっとりとした声で主君を呼ぶ女がいた。
金髪白肌。
長い耳。喪服のようなドレス。
その全てを否定するような禍々しい赤い瞳。
蕩けるような声。
人間の全てを堕落させかねない。そんな声音だった。
国教たる『数多の遺児のための教会』の聖堂に艶のある声が響こうと咎めるものはいない。
彼女こそが『教会』における最大の発言力を持つ人物であるからだった。
妖物ライネンタート。
侯爵位を持ち、宮廷の調略についての半数近くを知り、支配する女だった。
王国で彼女を脅かせるものは片手で数えられるほどしかいない。
噂ではなく真実のようにして語られていた。
そんな彼女の──
「ここでそんな声出すな」
男が無造作に頬をつねりあげた。
「ひはたたたたた!」
抗議と痛みの声を上げるライネンタート。
それに満足したように男は指を離した。
「何をするのです、腹黒宰相!」
「誰が腹黒だ、誰が」
彼女を脅かす片手で数える中の一人だった。
「苦情が来てんだよ。変な声を出す偉い人をどうにかしてください、同僚なんだからなんとかできるでしょうって」
「誰がそんなことを」
「情報提供者の保護と安全は最優先事項」
「むう」
ライネンタートはエルフである。
教会は言ってしまえばそれまで迫害まではいかずともあまりよい立場に置かれてはおらず、それを今の立場まで引き上げたのは誰でもないこの王国の主、少年王と呼ばれたものだった。
エルフの特徴的な長耳が宰相の言葉に抗議するようにぴこぴこと動く。
ただ、言葉での抗議はない。彼が正しいからだった。
「で、どうなんだ。計画は」
「進んでいるに決まっているでしょう。それとも私がここでうっとりしていて仕事をしていないとでも」
「まあ、思ってはいる。多少は」
「……」
「冗談だよ。ただ変な声を出しすぎると変なファンも増えるぞ」
「私の心は陛下以外には向きませんから、無意味な懸想になってかわいそう」
「性格悪」
「この性格でも好きだと陛下は仰ってくださいます♡」
「あ、そう……」
少年王とて情愛や快楽のために美女であるライネンタートを侍らせているわけではない。王国において有能さで見て上から数えた方が早いからだ。
甘い言葉を囁いているのではなく、それほどまでに有能でありながらも今のような媚態じみたことを上げる余裕がある彼女の才覚と器の広さを良しとして言っているに過ぎない。
が、そんな理由など彼女にはどうでもいい。
好きだと言われればそれだけで。
神ですら見捨てた自分たちエルフを救ってくれた、まことの主人。ヒト種にあって偉大なる存在。
それが彼女にとっての尊崇の一端になっている。
「時間はないぞ。守り切れるかどうかも」
「性格が悪い。腹黒宰相はどうせ守りきれないと思っていて私に仕事をさせているのでしょう」
「ふん。腹黒なんでね。善性だとか希望だとかそういうものは信じられないのさ」
「そこだけは気が合います」
「そりゃあどうも。……ダメだったとき、どうにかできるのはお前だけだぞ、わかってるよな。ラニィ」
ラニィ。
ライネンタートの愛称であり、そう呼ぶことを許しているのはたった二人だった。
一人は当然、愛すべき主君。少年王ヴィルグラム。
もう一人は──。
「私が貴方の期待に背いたことが一度でもあった?
あるなら言ってごらんなさい、グラム」
その微笑みは、媚態のような声よりもよほど人を狂わせるようなもの。
淡く、優しく、母性を含み、しかしどこか初心さを備えていた。
妖物と呼ばれるに相応しい微笑み。
直撃を受けてなお、心をさして揺らしたりしないからこそ、彼にだけこの微笑みを向ける。
ラニィという愛称を呼ぶことを許しているもう一人。
唯一背を任せるに値する人物。
グラム。
少年王と共に誅された、悪徳の宰相と呼ばれた男にだけ、そう呼ぶことを許していた。
───────────────────────
継暦となって百年以上。
多くの文化的遺産が失われるには十分な時間だった。
とくにそれが乱世ともなれば加速度的に破壊と破滅が波濤の如くに押し寄せていた。
王国首都。
カルザハリと呼ばれた偉大な文明を残すものはそこには何もなかった。
廃墟だけが並んでいた。
エルフの感覚で言ったとしても少し前とはいかない程度の時間。
かつては立ち入ることもできないほどに汚染された遺構となっていた。
ようやく、その毒気は抜けて、立ち入ることはできる程度にはなった。
もっとも、立ち入るためには複雑な道を辿る必要があり、入ったところですでにこの都市に財貨になりうるものの一つも残されてはいないと考えられている。
だが、人によって価値は異なる。
かつては王国の多くを見渡せていた丘。
カルザハリ廃滅を引き起こした事件でひどく地盤沈下し、地下へと沈んでいった王国首都に巻き込まれる形で半ばまで落下した丘だった場所はそれでもかろうじて過日の姿を保っていた。
金色の髪が地下の湿気た空気と共に流れる風に踊らされていた。
それは女だった。
厚手の布で作られた喪服で体を隠すような。
黒いヴェールが貞淑さを保つために下ろされていた。
妖物ライネンタート。
王国の怪物と呼ばれた女だった。
姿は変わっていた。
かつてエルフだったはずの彼女はヒト種の体となっていた。いや、変わったのはそれだけではない。見た目も他人であった。
それでも彼女はライネンタートであった。
彼女にとっての命日。それは可能な限りこの地に足を向けさせた。
勿論、毎年のことではない。
この肉体になってからであるから、何十年という歳月をここに費やしてはいない。
祈りを済ませた彼女。
今のライネンタートはウィミニアと名乗っていた。
正しく言えば器の名前であり、魂の名前でもある。
生まれつきなのか、ウィミニアには魂が欠けていた。
それをライネンタートが補完していた。
ようやくそれで一人の人間として彼女を機能させている。
ただ、他人の魂で自らを補完するようなやり方が正道なわけはなく、それは傍目から見れば十分に狂気を備えた一人の女にしか見えない。
ただ、他人の目などいつもどうでもよかった。
それに関しては欠けたるウィミニアにとっても、埋めたるライネンタートにとっても共通していた。
大切なのは自分と、自分に関わるものだけ。
一つになった彼女が、もう一人のものと対話できるのはそう多くない。
彼女の心が強く顕在化するこうした記念日であれば容易だが、記念日とは特別であるからこそそう呼ばれ、平時において可能なことではなかった。
「どうするの、次は」
ウィミニアが呟くように。
ゆらりと彼女の影が蠢くかのような、朧として立ち歪む煙のようなものがあがる。
彼女の呟きも、この影も内面における対話でしかない。
「貴方がどうしたいかにもなる」
「……わからないよ。ずっと考えていても、わからない。今も、彼が死んだ理由が理解できていないから」
「利他を理解するのは私にも難しい。貴方も私もそこは共通しているから」
「彼が命を使ってまで生き延びさせた私たちに意味があるかもしれない。だからこうして生きてきた。こうして動いてきた。けれど」
「まだわからない」
わからないからこそ、その行動の全て、権利の殆どを本来宿主である彼女は寄生とも言える状態のライネンタートに明け渡していた。
本来は一つに混じり合い、動くはずだった彼女が、結局浮上して動き始めたのはウィミニアには行動をする力と判断力はあっても、主体性がなかったからだ。
彼女が主体性を発揮するのは二つ。
一つは自分の命が脅かされるとき。
もう一つはグラムが助けた自分達について、その価値と理由を知ろうとするときだけ。
「また、彼が死んだ」
グラムの死を、どちらともなく理解し呟く。
ジグラムに植え付けたものが、彼女たちにグラムの生き死にを教えるようにさせていた。
どこでもいつでも、完全な形で彼の生き様と死に様を知るわけではないし、多くの臨床実験などできるわけがないものなので精度については知る由もないものだが。
それでも、今感じ取れた死は絶対のものだった。
彼の万感の思いのようなものが受け取れた。
「また、死んだんだ。誰かのために」
「羨ましい?」
「……少しだけ。あの日を繰り返せば、わかるかもしれないから。そういう知的好奇心からかもしれないし、単純に」
「嫉妬とか?」
「そうかもね」
その声はどちらが誰の主体かはわからない。
ただ、少なくとも、ウィミニアにとっての命の恩人は、ライネンタートにとっての背を預けるに相応しい男であることは彼女たちにとって明確なことであった。
王国が滅びるまでに、それを知るための契約と研究は行われきっていたからだ。
「再誕は」
「十分に進んでいる。そこは安心していい。君だってそれは理解できているはず」
「そうじゃなくて。進めていいの?」
「質問の意図がわからないよ、ウィミニア」
どちらの主体か、このときだけは誰にもわかるように答えられた。
「貴方の大切な人に、許可は取っていないんでしょう」
「陛下なら、絶対に許してくださるから」
「絶対に」
「そう。だって、陛下だから♡」
愛情。
ついぞ自分に向けられることのなかったもの。
親であれ、教えであれ、彼女に残したものといえば生き残ることが全てであるということだけ。
「……知りたい」
「そう。知りたいのね」
「計画はもう自動的に動く?」
「全てがというわけではないけど、しばらくは大丈夫」
「私が、動いてもいい?」
「ええ。動きなさい。ウィミニア。望み、その果てに求めるものが重なるならこうして分裂して思考するプロセスもなくなるのだから」
その言葉に少しだけ逡巡した。それはウィミニアだった。
「それは、少し寂しい。それくらいは私にもわかる」
お互いを補い合っているような形の魂。
であっても思考そのものを常に読むような無粋をライネンタートはしなかったし、ウィミニアも彼女に対してそうしなかった。
「ごめんね。けど、確かに……この居心地の良さを失うのは──」
「惜しんでくれるんだね」
それでも、生じたその主体性を無駄にすることをよしとしなかったのはライネンタートであった。
「悔いを残すのも貴方らしくもない。私らしくもない。だから、行きましょう」
グラムが再び現れる。
その地を目指すために丘から、滅んだ王国に背を向け歩き出す。
湿った風がヴェールを揺らしている。
それはルカルシの袖を揺らした風と同じものだったのだろうか。
少なくとも風は目的地を定めた女を次へと誘うように吹いていた。




