153_継暦141年_夏
「……ヤルバ?」
「ルカルシ……久しいな」
「ひどい顔をしてるぞ、君。ああ、お茶ね。ありがとう。……ほら、これを飲みなよ、温かいよ」
注文したお茶を右から左にといった感じでヤルバへと渡す。
「感謝する……」
その声に覇気というものは一切なかった。
「至当騎士団の総長ともなれば今のご時世的に大忙しじゃないのか。こんなとこで何をしてるんだよ」
「何を、しているのだろうな」
ルカルシはその投げやりな返答に溜息を漏らしてから。
「聞いてあげるよ、一から十まで。まず昨日は何をしてたんだ」
こういう相手にはなれている。
特に冒険者になってからは人の話を聞くことこそが仕事達成の鍵になると体感したからこそ、彼女は他人から言葉を引き出す技術を成熟させた。いつまでも内向的で研究にのみ目を向ける自分ではいられなかったのだ。
あるいは、そうした外向的な側面は自らと契約したボーデュランの影響かもしれない。
(ウィミニアと違ってボクの裡にはボーデュランはもういないけどね……。いたなら相談役にでもなってくれたんだろうか)
などと思わなくもない。
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ルカルシが声をかける少し前。
職を、というべきか、何もかもをというべきか。ともかくヤルバッツィを構成する多くが突如として失われた。失意の中で目に入った宿に入った。ここを選んだのは偶然でしかなかった。
思い出すのはトライカに辿り着けなかった自分の無力さと、それ以上に自身の妻でもあるメリアティのことだった。
彼がビウモードの高嶺の花、メリアティに懸想したのは本当に一目惚れでしかなかった。
村から出てきたばかりの朴訥な男に伯爵令嬢の美しさは鮮烈であり、
そんな人物が親しげに扱ってくれることはその心に大きな影響を与えるに十分な破壊力があった。
彼女のためにと働き続け、そうして先代ビウモード伯爵に目をかけられる。
期待されるだけでなく、働きに報いたとして立場と宝を与えられた。
その頃にはメリアティへの恋心だけではなく、取り立ててくれた伯爵への恩義と、ビウモード領に対しての帰属意識も強くなっていた。
そうした複数の要因から確かな忠信を持つことになったヤルバッツィを伯爵家も大いに報いた。
報恩を働きで返していき、遂には一目惚れの相手であるメリアティとの婚約まで認められた。
(自分の気持はメリアティ様にお伝えし続けた。
だが、メリアティ様のお心を考えたことなどあったのだろうか)
勿論、あった。何度も何度も思い、しかしそれを問うことそのものがメリアティへの無礼であろうと考えていたからこそ言葉による確認はしなかった。
つまりは、自分のような朴訥でつまらない男を夫に迎えてよかったのか、ということだった。
こうしたネガティブな考えそのものが行うべきことではないとは思っていた。
だが、寄る辺を失ってしまったからこそ、そうした考えは止めることができなかった。
「……ヤルバ?」
そのような思考がぐるぐると回って彼を締め付けていたところに、懐かしい声が聞こえたのだった。
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「トライカへの道中ですごい強い野伏せりに遭遇。敗北。それで撤退。
で、その退路の最中でクビになった……?」
端的に言えばそういうことだ。
聞けば彼が持っていた宝弓カルパノスカまで没収されたのだという。
(伯爵はそんな狭量なお人だろうか……)
ルカルシとて、現在のビウモード伯を知らないわけではない。いっときは彼に雇われていたのだ。自他に厳しい人なのは間違いない。
(負けることを見越していたでもない限りそんなところでその騎士たちが待っている時点で仕組まれていたんだろうけど。
野伏せりの話からすると協力してたってよりは、どうせ勝てないと踏んでいたってことかな)
とはいえ、今のヤルバの実力はビウモードでも屈指。そんな実力者を使い捨てるような真似を何故するのかというのも疑問だ。
「本物だった……んだよね?」
聞くべきは御璽による捺印は本物だったのかということだ。
「ああ。何度も見たものだ。疑いようもない。御璽を使うにしても伯爵閣下の意思が必要になる。偽装はできまいし」
ヤルバを陥れるために御璽を偽装するとは思えない。それについては彼も同様だ。そんなことをすれば自分もドワイトも物理的に首が飛ぶことになる。
ベサニールが極めて愚かな人間であれば別だが、それほどの愚か者がドワイトの息子だというなら、彼女の耳にも入ってきているだろう。
しかし、彼が愚かであるかという風聞は聞いたことはなかった。
(となると、何かしらの陰謀がヤルバに襲いかかったと考えるのがベターだよなあ……)
「……思えば、自分との関係にメリアティ様の意思はあったのだろうか」
ヤルバッツィの言葉に片目を少し細めるルカルシ。
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ルカルシは色恋を知らない。とはいっても、人の心がまるでわからないわけではない。
こういう凹んでいる人間が言うこともすぐに直観することはできる。
「それ以上つまんないこと言うもんじゃないぞ、ヤルバ。
それは君にとっても、メリアティ様にとってもいいことじゃない」
続けてしまいそうになった弱音を読まれたことに、そして最もやるべきではないことと考えていたことを無意識的にしそうになっていたことに驚いた表情と、苦痛にも似た表情のカクテルになったものを浮かべるヤルバ。
ルカルシはその表情を見ながら、
「ボクは色恋のことなんてわかんない。
けどさ、君が必死になって彼女のためにやっていたことはわかる。
今の君が追い立てられてしまった状況で心の調子を崩すのも、わかるよ」
だったら、とルカルシは続ける。
「少なくとも自分の気持ちは嘘じゃないってことだけは証明するのはどう?
何かが手に入るわけじゃなくても、自分が自分を裏切っていないって思えれたなら少しは気も晴れるんじゃないか?」
真っ直ぐな言葉にヤルバは毒気を抜かれたような心地になるも、次には騎士として過ごした日々で培われた現実主義的な側面が湧き上がる。
「それは、だが、どうやって?
何をすれば『そう』なれるんだ」
「やり直せばいい」
「やり直す?」
「そう。その想いを持ったときからやり直してみるんだ」
「それは……夢のある話だが、どうやって」
「忘れたのかい」
胸を張るようにしてルカルシは云う。
「こう見えても私は果ての空、不言の二つ名を与えられた魔術士なのだよ。実際偉大」
彼女を知る巷では、こうも呼ばれる。
『忌学のルカルシ』
あるいは、
『魔女』、と。
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この辺りであればひと気のない場所などいくらでもある。
街道沿いとはいえ、どの都市や街からも距離があるからだ。
ひらけた場所にヤルバッツィを誘うルカルシ。
「やり直す、とは言ったが……何をするつもりだ?」
「魔術。いや、儀式……いや、ううん。分類は難しいけど、まあ、それよりも」
真っ直ぐに視線を向けるルカルシ。射抜くような鋭いものだった。
「想いってのを再確認するのもタダってわけにはいかない。覚悟はある?」
「ああ。あるとも」
「何をしてでも? ……ああ、勿論汚いことはさせたりはしないけど」
「それは……」
ヤルバッツィは名誉を得た。
ビウモードでの立場を得た。
信頼を得て、部下を得て、やるべきことを得た。
最初はそうではなかった。メリアティの生来の呪いを解くことこそが彼にとっての根源的な行動原理であった。
自分の知らない間に呪いはどうやら解かれたという。
今までのことを思えば自分の努力は全て無駄だったのかと、そう思ったことが欠片もないとは言えない。
実際、先代ビウモード伯爵の命懸けの努力もヤルバッツィが集めた知識によって実行可能かどうかの下地を得ているところもある。
それは同時に彼の努力が主を死に追いやったとも考えられた。
苦悩がやがて彼の心を曇らせ、確かであったはずのメリアティへの愛を、自ら疑うほどになっていた。
だからこそ、彼女がそれを探せるものだというのならば、それに託す気にもなった。
「愚かな私は自らの力で、自らを見つめなおすことができない。
であるから、ルカルシ。君の力をどうか貸してほしい」
彼女はそれに頷く。
「《我は契約を肯んずるものなり、契約の対価は求めに結実するなり、契約は正しきものにて、その正しさによって他を歪めるをも肯んずる》」
長大な詠唱。
ヤルバッツィは違和感を覚えていた。
不言の二つ名を持つルカルシが詠唱を使うことに。
それはつまり、詠唱を必要ない彼女であってすら詠唱を必要とするほどのものであること。
大気が震える。
「《我が言葉に彼のもの、同意せり》」
周囲の木々が急速に枯れていく。インクを持つのは人間だけではないとヤルバッツィは聞いたことがあった。
木々にもインクは宿るのだと、そう教えてくれたのは木こりとして一流だった父親だった。
だからこそ、木こりは木を切るたびにインクを得る。森の声を聞こえるようになるのも彼らのインクを頂戴したからなのだと。
そうした声がいつまでも聞こえなかったからこそ、彼は冒険者になった。
いや、逃げたのだ。その声を一生を木こりに捧げても得られないのではないかと恐怖した。
自分より後に生まれた弟妹たちはすぐにその声を聞き分けたからこそ、インクを得て、操る才能が欠如しているのではないか。そうであることを知ることを恐れ、斧一つで身を立てようとしたのだ。
深緑を枯らしたのはルカルシである。
随分と遅れて──あるいはこの儀式に影響されたのか──木々の声が聞こえる。
それらは望んでルカルシに命たるインクを捧げたことを伝えていた。
「《ゆえに、我は唱える──》」
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果ての空。
魔術士たちの学舎。
多くの場合は立身出世を夢見て学び、俗世の魔術士と比べて多少の知識を得れば卒業していくのが大半である。魔術や儀式といったことを魂を削って研学するものは実際にはそう多くはない。
だが、まるっきりゼロというわけでもない。
彼女、ルカルシは後者であった。
彼女はそうした探究に行き詰まりを感じていた。
魔術を修めたがそれに限らず、儀式や付与術なども探究した。扱えるようになるかは別としても、それらに流れる理には触れた。
知識は深めることができたものの、行き詰まり解消されることはなかった。
スランプの迷路を彷徨った果てに、触れることが許されていないものを掴む。
それが彼女を魔女と呼ぶに相応しい結果をもたらすことになった。
掴んだものの名は『忌道』。
彼女はその技術群に手を出した。
ヤルバッツィに施したものも儀式などではない。
それは紛れもなく忌道であった。
遥か過去の時代。
神が去り、龍が支配した時代に彼らが扱った《歪曲》と呼ばれる力。それを隷属の忌道を流用し、再現した。
(龍は己の求めるままに多くのことを歪曲していたけど、ボクには……おそらく人間ではそれほど器用に扱えない。
できるとするなら、一時的に対象を歪めることだけ。
ボクが歪めたのは──)
インクが鈍い光を発し、やがてそれらが収まる。
そこに行動騎士であったヤルバッツィの姿はない。
「……自分は、ええと……?」
あったのは、少年だった。
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「大丈夫かな?」
白々しい言葉だとルカルシは自分自身で思いつつも言葉を続ける。
「こんな森の中でぼうっとしているのは危ないよ」
「自分は、ええと……そうだ。冒険者になるために里を出て来て」
「森で森林浴を、と?」
曖昧に笑うヤルバッツィ。
「あなたはいったい」
「旅の魔女さ」
「魔女さん、ありがとうございました。このままぼうっと寝ていたら野犬に噛まれていたかも」
いいさ。けれど次もこうはいかないかも、とルカルシが言葉を続けていると、
「馬車を出すぞーッ」
威勢のいい声が響いた。
「ビウモード領内とその周辺の都市を巡る予定だ!
腕に自信があるなら護衛として雇うぞー! 誰かいないかー!」
公的なものではない。モグリの馬車だろう。特に怪しいものというわけではない。こうした場所で人を運ぶことを生業にしているものは少なくない。
「都市を巡る……。そうだ、村もだけど、都市に……あの都市にいかないと……」
無意識的とも取れる呟きは、失意とメリアティへの想いを強く持っていた先程までのヤルバの魂が云わせた言葉だということを理解できるのはルカルシだけである。
「ごめんなさい、魔女さん。自分は、あの馬車に乗せてもらわないといけない気がするんです!」
「ああ。いい旅路になることを期待しているよ」
こくりと頷いて、すぐに走り出したヤルバッツィを見送るルカルシは、小さく微笑む。
「どんな道であれ、望んだ場所に通じていることを祈るよ、我が友ヤルバッツィ」
ルカルシはボーデュランを継承してから、友情による人とのつながりというものを意図的に絶っていた。
ボーデュランの経験や知識を得た彼女は、魔術士としての階梯を強引に引き上げることに成功し、研究の中でだけ存在していた多くの忌道を実現できるようになった。
理論の上でしか存在しなかったものを扱えるようになったことはたまらなく楽しい。
忌み嫌われた力を現実化するたびに、得も知れぬ喜びを得る。
そのときに笑みを浮かべている自分を知っている。そして、それがどれほど浅薄なものかを。
誰にもそれを見られたくはないからこそ、人との繋がりを絶っていた。
(浅はかなボクの力が、君のためになることを祈っているのは嘘ではないから)
心の痛痒と、研究の成果が地を走る喜び。
魔女の心にはその二つが同居していた。




