141_継暦136年_冬
お世話になっています。ゴジョです。
トライカで大きな揺れがあり、それが戦いの決着を知らせる鐘の代わりだったことを聞いたのは、文鳥迷路に帰ってからでした。
リンさんのお陰で卑職は無事に待ち合わせ場所まで辿り着くことができました。
彼女は「ここまでが仕事だからね」とだけ言うと風のように去ってしまいました。
お礼をしたかったのですが、引き止める暇もなく。スマートで格好いい方でした。
怪我を負ったからすぐに戻ってこれなかった人もいましたが、それでも戦友が戻ってきました。
けれど……。
「ブレンゼン、戻って来れなかったんだね……」
「伯爵閣下が自らここに来て報告したいと言っておりましたが、トライカのことが忙しく」
シェルンさんに話をしているのはビウモードのお貴族様でした。
我が家たる文鳥迷路は高貴な方にはとてもじゃないけど似つかわしくないのですが、彼は特に気にした様子もない、どころか私たちに大きな敬意を払ってくださいました。
(ローグラム氏に関してはそれらしい情報を得られませんでした。現場にいたであろう方から話を聞くことができれば報告できることもあったのですが)
ローグラムさんは行方不明、ブレンゼンさんは都市の中央にある建設途中の建物、その入口で眠るように息を引き取っていたそうです。
その顔は安らかだったと。
「ご遺体をこちらに運ぶべきではあるとなったものの」
「流石に道中も安全ではないし、肉体も永遠ではない……か」
返したのはシェルンさんのお兄様。……未だにこの方が近くにいるというのが信じられません。
後片付け、サーク。卑職がいたウログマだけではなく、多くの土地で知られた戦士。
先輩たちの残した資料や、ウログマの迷宮にあった酒保『子宝蜥蜴亭』の方々も恐怖と名誉をないまぜにして語っているのを知っています。
けれど、恐ろしさはあまり感じません。その声音は優しく、落ち着いた大人の男性のそれ。
返した言葉もビウモード側を困らせないような配慮を含めたものに感じます。
「はい、仰るとおりです。ブレンゼン殿はビウモード伯爵家が責任を持って弔いました。
氏が持っていた大剣はトライカでお預かりしております」
「一つお願いしてもいいかな……?」
シェルンさんとブレンゼンさんは共にヴィルグラムさんをお支えしていたのだろうことを、見ていて理解できました。
戦友の死に、悲しみの色が見て取れます。
「ブレンゼンが使っていた剣、お墓にしてもらえないかな。
……ヴィーがトライカに立ち寄ったときに気がつけるように……」
シェルンさんの辛さはブレンゼンさんの死だけではありません。
ヴィルグラムさんも……戻ってきませんでした。
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シェルンとサークの怪我が癒えきる頃になっても、ヴィルグラムとローグラムは戻ってこない。
二人がどうなったかを知るものはここにはいない。シェルンもゴジョもただ待つことしかできなかった。
「シェルン、少しいいか」
文鳥迷路に来てから、シェルンとサークは挨拶や日常会話は軽く交わせど、それ以上踏み込むことはなかった。
互いに何から話せばいいかを判断しあぐねていた。
「うん、いいよ」
茶が入ったポットが一つ。カップが二つ。それらはゴジョが渡したものだった。
そもそもサークにシェルンと会話するように進めたのもゴジョである。
ゴジョは一人の客を相手にするようにサークと何度か話をしている。
それはウログマの迷宮での話であったり、トライカであったことであったり、比較的話すネタには困らなかった。
サークが心にあった悩み──シェルンとの今後のこと、そして何よりこうなる以前のことについてをどうするかを打ち明けるとゴジョはあっさりと「普通に話せばいい。お茶を飲みながら、日常会話のように」と告げた。
サークは懐疑的だったが、シェルン側からしてみればサークが切り出してくれるのを待っている状態であるとゴジョは考えているようで、
あっさりと切り出したとしても彼女が不快であると表明することもないだろうと。
ゴジョは多くの兄、姉、弟、妹に囲まれていたが故に、家族の中で起こった問題に対しての対処には心得があるとも言えたが、それ以上にそうした読みに関しては彼女が経験した今までの人生経験及び紐づいた苦労から来る処世術である。
「私がウログマに至る前のことから話したい」
「うん、その後にわっちの旅のことも聞いてくれる?」
「ああ、是非聞きたい」
そうして兄妹は久方ぶりの会話をはじめた。挨拶だけでもない。取るに足らない日常会話だけでもない。
多くの感情と経験を分かち合うように。
ポットの中身が入れ替わり、再び空になった頃。
「私が両親を手に──」
改めて切り出した言葉を発する声は重く、苦しげであった。
シェルンはその空気を和らげるように、
「ねえ、お兄ちゃん。故郷を出てからの旅は辛いことばかりだった?」
「……いいや。ときに大変なこともあったが、多くの場合は有意義で、心踊る経験ばかりだったよ」
「わっちも、そうなんだ。
パパやママが死んでしまったのは悲しいことだけど、いつかは決別の日は来ていたんだと思う」
兄がやらずとも、いつか自分がやっていた。直接的にそう言わずとも心は伝わっていた。
殺されたことを恨むではなく、どうして殺したのかがシェルンにとって重要なことだった。
その理由が自分たちを殺し合わせ、何かの儀式の材料か、生贄にでもしようとしていることを聞いたことで彼女から兄への負の感情は晴れた。
そもそも疑問という感情を負のものと考えればという話で、それを負ではないとするなら兄に対して思うところはなかったと言えた。
「わっちが楽しいって思えたのは冒険者になってからの日々。
でももっと楽しかったのはヴィーと出会って、共に戦う日々だったんだ。
これからも続くと思っていたけれど……」
それは終わりを告げた。冒険者稼業というのは得てして急に終わりを迎えるやくざな商売である。
シェルンも理解しているつもりだったが、つもりはつもりでしかないとも自覚した。
だが、その上でヴィルグラムと過ごす日々を諦めきれていなかった。彼女にとって彼は初めてできた仲間だからだ。
「でも、わっちはまたヴィーと楽しい日々を過ごしたいんだ。
その中にお兄ちゃんもいてくれたら、とっても嬉しい」
それは、自分を置いて去っていった兄への容赦の言葉。
一方のサークは親を奪ったことを恨まれているであろうとも思っていた。
勿論、彼女を置いて逃げ出したこともある。
だが、その言葉で自分が容赦されたことを理解した。
「……ありがとう、シェルン」
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その様子を観察していた人間が一人。
文鳥迷路に溶け込んだ冒険者にしか見えず、シェルンはもとよりサークのような裏街道で生きていた人間ですら見ていることに気が付かれない。
殺意や害意があれば別であろうが、観察はすれど見てはいない。視界の一部分に入っている程度であれば気が付かれようもない。
それはエルフであったが、フードで顔を隠してしまえば細身の冒険者としてしか見えない。
(シェルン氏とブレンゼン氏があの御方と合流できた。
御方もまた目的を果たせたと判断しても問題はない。
……ここでグラム殿に報酬を渡せなかったのは残念だが、そのうち渡す機会もあるでしょう。
私も彼も今このときだけを生きているわけではありませんし、ね)
視線が捉えているのはシェルンの傍に置かれた鈍器。神樹の根とも呼ばれるもの。
(一応は全てのエルフにとっての重宝なのですが……若い子にはわかりませんか)
老害丸出しの発言であるが、そうなっても仕方ない使い方をされているからだ。
(我らエルフは神が造り給うた神樹にて取り上げられた。
彼女が武器として扱っているのは世界から去った神が、我らを揺らしてくれた揺り籠そのもの──)
少し考えるようにしてから、
(しかし、それが彼女の冒険の日々を支えたとなれば伝え聞く我らが神は、愛すべきエルフのためになったと喜ぶのでしょうか。
であれば、私の忌避感はむしろ好ましからざるもの、か……。
しかし、神樹の守り手が結果として神樹から再誕なされた御方を守るのは偶然と言うには)
そこに作為があるかを疑っているわけではない。
彼女は──フォグは長く生きているからこそ偶然や奇跡といったものの価値を高く見積もりすぎている。
それを自覚もしていた。
(グラム殿が戻ってこない以上、ここでの進展はないでしょう。
私も閣下のもとに戻るべきですね)
かつての同僚の子が健やかに育っているのをただ見守っただけ。
フォグの行いはとどのつまりはそこに集約する。公私混同を上手く仕事に乗せるのは、管理局に忠誠を誓い、長く働いてきたベテランであるからこそできる行いだった。
文鳥迷路から立ち去る彼女を見ていたものはいない。隠密に物事を運ぶプロとはつまりはそういうものであった。
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シェルンとサークの話し合いの翌日。
ゴジョは二人の関係がどこか軟化したのを見て、二人へと声を掛けた。
「お二人共、お話があるのですがお時間いただけるでしょうか?」
「うん。あ、昨日はお茶ありがとね」
許可を受けたゴジョは持っていた鞄を椅子の傍に置くとそっと座る。
音を立てたりしないのは過去の経験から下手に音を立てれば不興を買うような状況があったりしたからだ。
過酷な日々を思わせるような所作ではあるが、ゴジョのそれは実に慣れたもので、一種の流麗さ、高貴な礼儀作法にも思えるものとなっていた。
「お口に合ったでしょうか?」
「お陰でお兄ちゃんとじっくり話せたよ」
その会話にサークも小さく頷いてから、「ごちそうさま」と短いながらも感謝を述べる。
「ゴジョちゃんもお話しに来てくれたの?」
「雑談とは言えないことではあるのですが……その」
言葉を選ぶように、相手の受け取り方まで考えるように。
エルフである二人は人間より長命であるが故、その様子を優しく見守っている。時間に対する感覚を長く取って待つことなど彼らにとっては簡単なことだ。
この辺りはエルフやドワーフではない、いわゆるヒト種にはない感覚である。
「ヴィルグラムさんのことです。シェルンさんはこれから、あの方を探しに行くのですか?」
「んー……」
頷くと悲しまれるか、寂しがられるかと考え、少し表情を淀ませるシェルン。
しかし、結局のところお為ごかしで何を言おうと意味はないし、そもそも自分にはそうした能力がないことも理解していた。
であるからこそ、彼女は正直に告げることを選んだ。
「うん、探しに行こうと思ってる」
ゴジョは予想の上であったからか、こくりと頷く。
「そこでご相談なのですが」
「付いてくる、とか?」
「いいえ。流石に卑職ではシェルンさんとご一緒しても足手まといになるのが目に見えていますから」
ですから、私が提案できることは、と言って彼女は鞄からいくつかの書類を取り出した。
「卑職と……、文鳥迷路と契約しませんか」
「契約?」
「はい。ここは御存知の通り冒険者の方々も多く利用する施設です。
冒険者ギルドとも提携していて、依頼や情報も彼らから得られるものもあるのです」
サークはシェルンの方へと向く。
「無闇に旅を繰り返すよりも、ここと契約し、情報を集めるほうが効率的……というわけだな」
「それは……確かにそうでや」
「だが、契約と言ったが実際に何をすればいい? 我々にできることは戦うことが精々だが」
謙遜ではない。管理局の局員によるエリート教育を受けた兄妹は知識やそこによって発達した気付きの能力にも富む。
ただ、彼ら兄妹にとってそれは全て戦いに紐づけられてしまっているが故の発言であった。
「ここで冒険者をするとか」
「いいえ、お二人にはもっと違う契約を結びたいのです」
「違う契約って?」
「これです」
鞄からさらにがさごそと取り出したもの。
それは
「……服?」
「わー! かわいいでや!」
それは給仕が纏うようなドレスであった。
男性用のものはスーツにも似たデザインのもの。仕立てがよいのは触れればわかった。
「卑職と一緒に文鳥迷路で働きませんか?」
ゴジョは自らが苦手とする、人を真っ直ぐ見るという行いを覚悟の上で行う。
言葉にはしていないが、思いは伝わる。
ヴィルグラムを共に待つ仲間がほしい。トライカで共に戦ったシェルンとこれっきりになりたくない。
自分と違い、兄妹と再び一緒になれたのに運命が再び引き裂くのではないかと我がことのように恐れている。
シェルンはサークを見やる。
サークが断るのであれば、シェルンはサークと共にここを出る決意があった。
彼は苦手そうに小さな笑みを作ってから、
「戦い以外の仕事を……してみるのが夢だった」
サークがそうではない道を『夢』と言ったのはシェルンがゴジョと共にここで待つべき情報や人間を待つための方便というだけではない。
管理局であれ、後片付けとしてであれ、或いはあったかもしれないシェルンと冒険者になる道であれ、そのいずれもが戦いの渦中へと赴くものである。
彼は確かに、そうした平和な(冒険者が集う文鳥迷路が平和な場所かはさておいて)仕事というものに確かに憧れがあったのだ。
シェルンはそれを聞くと嬉しそうに微笑む。
「それじゃあここで働いて、ヴィーを待つよ。
これからよろしくね、ゴジョ社長!」
シェルンの弾むような声と、その笑顔にゴジョもまたぎこちない笑顔で返す。
本当に嬉しいときに微笑むことを彼女はまだ慣れていない。それでも、感情は確かに二人に伝わった。
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「いやはや、大事になりましたねえ」
市長邸はダルハプスとの戦いもあり、立ち入りが禁止されている。
ディバーダンとケルダットは建てられたばかりでまだ使われていなかった商業系のギルドにあてられる予定であった邸に詰めていた。
窓から見える光景は忙しく出入りしている刻印聖堂ゆかりのものや、インクやアンデッドによる影響を除染することを得意とした魔術士たちの姿。
「だが、ダルハプスは倒されたんだろう?」
「生存者が邸から逃げ、保護したルルシエット領からそうした報告が上がってきたそうですよ
噂では金髪が美しい少女だったとか」
「……イセリナの嬢ちゃん、かね」
「そうでしょうねえ。生き延びてくれたことを喜ぶべきでしょうな」
「ビウモードに居続けりゃ呪い云々で引き続き面倒事に絡まれ続けることになるだろうものな。
最善の結果だったかもしれんね」
「これからどうするよ」
「さて、どうしたものでしょうねえ。メリアティ様の護衛という仕事も振られはしましたが」
ディバーダンとケルダットは円熟にして強力な傭兵である。
仕事を選ぶことができるだけの経験があるからこそ、伯爵家の令嬢を守るという高給にして名誉ある仕事に対しても「受けたところでな」と言えてしまうほどだった。
「そうですねえ、間違いなく厄ネタの類なのは間違いないですから。
とはいえ、お互い前の雇い主のところに戻るというのも芸が無いのも事実」
「年齢も年齢だ。そろそろセカンドキャリアも考えないとだしな」
「傭兵のセカンドキャリアなんてたかが知れていると思いますがねえ。
何かお考えが?」
「これよ、これ」
ケルダットが懐から取り出したのは一部の、ベテラン向けに出されている募集記事だった。
「未来の冒険者や傭兵を育てませんか、あなたの経験が必ず役に立ちます。
詳しくは文鳥迷路または冒険者ギルドの連絡担当まで──」
文鳥迷路にはトライカを救った英雄とも言える冒険者が在籍しているらしいことを二人は知っていた。
それが何者かはわからないが、あの場所での戦いで遠からぬ場所で戦っていた人間であるなら、ことの顛末──イセリナがどのように逃げたか、ローグラムがどうなったかを知っているかもしれない。
なにより、
「文鳥迷路であればトライカにせよ、ビウモードやルルシエットにせよ、情報は得やすい場所かもしれませんねえ」
これ以後、この辺りがどうなるか、その顛末を知りたいと思うのは当事者意識とも言えた。
「一線からは退きつつも金には困らなさそうってのはセカンドキャリアとしちゃ悪くない、だろ?」
「意外ですねえ。ケルダットくんは生涯現役の傭兵でも目指しているのかと思っていましたが」
「あの戦いを経験すると自信も無くすさ」
「それについては、ええ、同意せざるを得ませんね。……そう考えれば、確かに悪くない選択肢な気がします。
我々が勝てなかったものが、或いはそれと同等のものが現れたときに我々が育てた人間が打ち勝てば」
「すっきりするだろうよ」
「ええ、すっきりしそうですねえ」
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都市ビウモード。
城郭の中心、城と表現できる堅牢な施設の中。
当代ビウモードと行動騎士ドワイトだけがそこにいた。
「よろしかったのですか」
「既に都市の差配をできるほどに回復した。それに傭兵ギルドからも信頼できるものを雇ったのだから身の安全もあるだろう。
呪いに関しては……経過観察が必要だろうが、どうあれこちらでやってやれることはもうあるまい」
ダルハプスは撃破された。いや、明確に『滅ぼされた』という報告を得ていた。
ルルシエットからその報告を持ってきたのは、行動騎士の一人であるオットー。
譜代の騎士であり、ビウモードも何度も顔を合わせたことがある人物である。
先祖にエルフの血が入っていると噂されることもある、年齢と外見がやや釣り合っていない姿をしている。
既に年齢は老齢に近づいているはずだが壮年だといって通じるほどであった。
彼は今回の一件でダルハプスが滅ぼされるのを目撃した人物を保護し、その人物の希望もあって市民権も与えたことを告げられている。
ビウモードはそれがイセリアル──イセリナであることを理解している。
ダルハプスが消えた以上はメリアティの呪いも解けたと考えてもよく、これ以上イセリナの存在について考える必要はないといえばないのだが。
(だが、それも確定した情報ではない。
本来であればイセリアルはこちらが抑えておきたいのだが……。
閣下も同様であろうが──)
ルルシエットにとってもメリアティは妹のように可愛がっている。
先代の頼みもあったとしても本来は貸与することなど考えられない炉を貸し出したことからも理解できる。
瓜二つの少女がメリアティのために犠牲になっていることまで彼女が知っているなら、
恐らくイセリナも助けようとし、その結果が市民権を与えたことに繋がっているのかと予想する。
(こちらからイセリアルを渡すように言うのは難しいだろう。
……今打てる手はない。
それに、当代様は悪辣な手を打てる方でもない)
手を汚すとしたなら、己しかいないだろうとドワイトは考える。
状況が最悪の方向、つまりはメリアティの呪いがそのままであったのならイセリナは確保しなければならない。
そのときに行動するのならば自分の仕事であろうと彼は考えていた。
「ドワイト、今は考えずともよい」
その考えの全てを読まれたような気がした。
「承知いたしました」
「今はトライカの復興を優先せよ」
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「陛下。お目覚めください」
誰かがオレ様を呼ぶ。
随分と久しい感覚だった。己が何者かはわからずとも、漠然とした記憶が自らを何者であるかを曖昧に伝えようとしているような。
目を開く。
そこは今までの復活とは違う。
茫洋とした空間だった。
なにもない、というわけではない。
床をイメージすればそれは広がる。壁を、天井を、椅子をイメージすればそうしたものが次々と生まれる。
ただ、曖昧なイメージで作られたそれらはどうにも現実味の薄いものだった。
椅子は不安定な2.5本足だし、壁紙はベーコン柄だ。
「誰だ」
「私のことはお忘れでございましょう」
思い出す、という機能というのは不思議なものだ。
忘れていたということすら忘却している状態でも外部的な刺激──例えば対象者の口ぶり──などから刺激を受けると浮上する記憶がある。
「どこかで、会ったな。
いや、近しい人間だった気がする。オレ様が何者かであった頃に」
「……」
声だけであるはずの対象が微笑んだような気がした。
姿は見えずとも、そこにいるのだろう。
「何かヒントとかないのか。オレ様は器用な自覚はあっても万能の自覚まではないんだ」
「小中大、いずれのものにいたしましょう」
選ばせてくれるのか。案外お茶目な人物なのか?
「そりゃあやっぱ小からで」
「乳母代わりをさせていただいておりました。そのせいで世話を焼くといつも子供扱いするなと怒っておられましたね」
「……ううむ」
記憶が刺激されたからか、緩やかに周囲の光景が変わっていく。美しい内装だ。意識していないのに変わったということは声の主の記憶があり、それは確かに刺激されている、ということなのだろう。
窓から見える風景は美しい。
整然と並ぶ城下町は心を落ち着かせた。
そこに住む人々のためであれば、オレ様はなんでもしてやりたくなった。
「……オレ様自身は覚えているみたいだけど、自覚的じゃないみたいだ。
『中』のヒントも欲しい」
「陛下がまだ幼い頃、私を娶ると云ってくださいました。
外見は血のせいもあって私も幼かったのですが、周囲は実年齢を知っていたのでまだ幼い貴方の不用意な発言を撤回するように求めておりました。
それに逆に反発して絶対にすると云ってくださったのは、恥ずかしく……ですが、年甲斐もなく嬉しくありました」
そんな軟派なことを……。
いや、親のように世話を焼いてくれた人間に強い愛着を、あるいは執着を持っていたってことか?
うっすらと記憶に形状が浮かぶ。
女性的なフォルムが眼前に現れるも、正確なものではない。ただ、随分と懐かしい感覚があった。
「大ヒントって答えみたいなものになる?」
頷いたように感じる。
なんとなく答えに直結するものをもらうのは悔しい、そう思っていると微笑まれたような気がする。
負けず嫌いである性質は彼女が知る自分も同様であったのだろう。
「じゃあ『中』のヒントもう一つ」
「陛下が最期に見た私の姿は喪服であったと思います」
ゆっくりと姿が鮮明になっていく。
最期のとき。
それもまた、記憶に浮上する。
処刑台。傍らにたつ処刑者。剣。振り下ろされる前に見下ろした風景には見知った顔が幾つもあった。
多くのものが処刑を止めようとし、暴力でそれを排除する。剣が振り下ろされる。
最期に見た光景の幾つかに、確かにいた。彼女が。表情を隠すためのヴェールが印象的だった。
「ライネンタート」
思い出した。
オレ様に従い、多くの罪を背負った女のことを。
「この姿で御前に現れるのは、懐かしいような、照れくさいような」
幼い姿。
混種のエルフである彼女は幼体で姿を固定されていた。この姿で、ということは彼女の現在の姿は異なるということだろうか。
繰り返しではない。定命のものたるオレ様は死んだ。処刑場での記憶がそれを告げている。
では、何故繰り返しの命を得た。いや、与えられたのか。
この空間で会話している相手こそがその運命を与えたと考えるべきだろう。
恨みも困惑もない。浮上してくる記憶の断片は完全ではないが、ライネンタートは無意味に他人を苦しめて喜ぶような人間ではないことをオレは知っている。
「繰り返しの生と死に意味があったのだろう、ライネンタート」
「約束を果たしていただくために──ああ。全てを語るには時間が足りないようです。
そろそろ次が参ります」
「次?」
「貴方も十分に存じ上げている人物。この計画の要とも言えるものであり、貴方と長く共に在った方ですよ」




