140_継暦136年_冬
ローグラムをすり潰したと同時に別の戦術を実行するダルハプス。
複製体を盾に牆にするようにして姿を隠させた別の複製体がハルレーへと襲いかかる。
それに気が付かないハルレーではなかったが、一手遅れて軽傷を受ける。
(毒ではない。問題もない。私は大丈夫。けれど)
状況は芳しくなかった。
ヴィルグラムの魔剣とハルレーの魔術、そしてイセリナのインクの補助。
それに対するは古樹の龍と化したダルハプス。どちらが先に息切れをする勝負になるかの状況。
恐らくは不利なのは生者である分、自分たちであろうと考える。
「先輩」
複製体を掻い潜りながら、ヴィルグラムの側に。
顎で方角を指す。
ローグラムが突入した扉だけではない。
地下を激震させた一撃でそこかしこの壁に穴が空いている。
「風が……」
イセリナの言葉。
それで理解できることは穴の一つから風が漏れ出ていること。
舞い上がった土埃がそれらを緩やかに、地下へと留めるように動きを作らせている。
空気の流れがそこにあった。外へと通じている可能性がある。
ここで決着を付けられないのは業腹ではあるが、完全な怪物と化したダルハプス相手ならば多くの組織が彼を倒すために動く方便は作りやすい。
ハルレー自身も戦略的撤退など逃走の方便であることは理解しているが、そう言いたくもなる状況である。
ヴィルグラムとイセリナにもそうした意思は伝わった。共に戦えば、言葉よりも雄弁に語るのは状況であるからだろう。
「多少の行き止まりなら先輩の魔剣で穴くらい開けられるでしょ?」
「ハルレーは一緒じゃない、って口ぶりに聞こえるけど」
「誰かが追跡を止めないと。ああ、死ぬ気はないよ。ただ、周りに被害が出るような戦い方をしたほうが今は楽なんだ。
だから──」
苦渋を大いに含んだ表情でヴィルグラムはハルレーを見やる。
「一度再会できたんだ。また再会できる。今度こそ、約束をしよう」
小さく頷き、視線を合わせる。
「ハルレー。ここは頼む。……また会おう」
「ああ。約束だ、先輩」
イセリナもまた「ハルレー様」とおずおずと声を掛ける。
「なんだい」
「……私とも約束を。必ず一緒に」
「ああ。旅をしよう。旅とは言わずどこかで皆と定住とかでもいいけどね。温泉だとか、景勝地だとかそういうところでさ」
釣りをしたり、ハイキングをしたり。友人と楽しむことは旅以外にも多く存在する。
ハルレーが今まで友人と呼べる人間はいなかった。だからこそ、友人というものに憧れ、そうした存在と何をするのかを調べたこともある。
そうしてわかったことは自分という怪物には友人という存在は遠すぎるものだということだった。
だが、得られないと思ったものがここに二つも存在する。
「はい、必ず」
イセリナもまた、頷いた。
造成種である彼女もまた、友人になりたいと強く思えた相手はハルレーが初めてであったからだ。
困難な戦闘という状況で、彼女を頼り、信じるに値する人物という考えが吊り橋効果で与えられた心の振る舞いであったとしても。
「なにを」「話して」「いるのかあァ!」
古樹の割れ目から幾つもの声が漏れる。
それに呼応するように複製体が動こうとしたとき、
『力を解放します。補助を受けているとはいえ、インクの瞬間的消費に目眩などにご注意を』
(やってくれ、アルタリウス)
『魔剣、照射』
刀身から放たれる光。直線的に放たれた強烈な、朝日にも似たそれが複製体を幾つも消し去った。
『切り抜けましょう』
(ダルハプスはいいの?)
『よくはありません。ですが──……』
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アルタリウスはものを考え、ものを想う魔剣である。
ただ、いずれの魔剣もがそのように意思を持つわけではない。
作り手の強い無念と、最期のひとときを過ごした相手が持つ憎念という物品に対して効力を及ぼす力を持ったことがアルタリウスという自我を魔剣の中で作り出す直因となった。
芽生えた自我の欲求と目的はたった一つ。
造物主であるロドリックの無念、その中核に存在する憎きダルハプスの滅殺。
ロドリックが作り出した最高傑作の魔剣として、持ち得る全機能の全てを使って打ち倒すことこそが存在する理由そのもの。
(ここで脱出の手伝いをすることは、自らの存在理由に反している)
憎しみの心がダルハプスを殺せと叫ぶ。ダルハプスが行った全ての悪事を応報させよと叫ぶ。
だが、同時に
(少年少女たちの約束は快いものだと、造物主たるロドリックは仰るでしょう)
理性とも言える感覚がアルタリウスには芽生えていた。
目覚めてから向こう、ヴィルグラムと共にあるだけでなく、彼との繋がりの強さから復讐装置として以外のものを知り始めていた。
そうして得た機能から、こうした状況になったなら造物主が何を望むかを予測することも可能となっている。
(どうあれ、ダルハプスは殺す。跡形もなく。ただ、それは今この場に拘る必要はありません)
光が逃走経路の邪魔になるものを消し去る。
主たるヴィルグラムと、その友たるイセリナが走る道を阻害するものはどこにもいない。
ヴィルグラムを通じて、風を感じる。
外気だ。
ただ、それは緩やかなもので、外までの距離は相応にあることを伝えていた。
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走り去らんとするヴィルグラムとイセリナを追いかけようとするのは複製体の一部。
古樹の龍ダルハプスは炉の力を理解しつつあるのか、複製体を作り出す速度を徐々に増していた。
複製体を生み出すのには集中力が必要なのか、その間は動きを見せることはなかったが、厄介なことには変わりない。
(彼がいないなら、私が怪物である振る舞いをしたって構わない)
ハルレーは喉に触れる。
特異な魔術はその詠唱を編む喉にある。
作るうえで人体だけではなく、楽器などを参考にしたそれは幾つかの機能を備えていた。
「██#6、██#3」
言語化を止めることで詠唱を簡略化、選択的に発動する魔術を行使することができるのもまた、全てではないにしても喉の機能から来るものである。
これは無詠唱ではないが、それに近い性質を持っている。
そして、もう一つは
「██#6、██#3」「──中天、陽の車輪」
複数の詠唱を同時にこなす、一人数役の魔術行使である。
ただの魔術士を並べているわけではない。
旧カルザハリ王国勢力圏広く見たとして彼女に匹敵する魔術士は片手で余ると言っても過言にはならない。
深い知識と膨大なインク、特別製の肉体を持つ魔術士が複数いれば、それは万軍に値する。
炉と一体になったダルハプスが人界の脅威になるならば、彼女もまた、十分にその位置に立っている。
「繁栄。巡る──」
詠唱が始まり、インクが練り上げられる。
ヴィルグラムたちを追いかけようとした複製体が一斉に彼女を向いた。
この魔術士が唱えている詠唱は
「巡る、終端」
彼女の周囲を焦がしながら、魔術の完成へと近付いていた。
(これを撃てば後がない)
(あれを撃たれれば後がない)
ハルレーとダルハプスは同時にそれを予感する。
複製体を生むのを止め、残っている全てをハルレーへと突き進ませる。
その一方でダルハプスは巨躯を蠢かせ、動き始める。
天下無双の猛者であれば詠唱と正面から張り合ったかもしれない。
完全絶後の術者であれば詠唱を打ち消す魔術を試したかもしれない。
だが、ダルハプスはそうではない。
暗躍こそがダルハプスであり、闇に潜み操ることを本分としたものにそうしたやり口など持つわけもない。
出力だけであれば、或いは魔術との威力比べが可能なだけの力はあったとしても。
「██#2、██#6」
省略された魔術が最低限の迎撃を行う。
その一方で、
「中天。陽の車輪。照らせ、終端」
詠唱が完了する。
赤と白の光が地下にある何もかもを包み、形あるもの全てを焼き焦がしていく。
いや、焦がすなどという甘いものではない。
派手な爆音も、強烈な爆風もない。しかし、その一撃によって肉あるものは溶けて蒸発していく。
「ごあああああ」「や、灼ける」「消えて、しまう。消えるものか、消えてなるものか」
ダルハプスが蠢き、四肢を赤と白に焼き溶かされながらも必死に逃げていく。
「待てッ……! ああ、……せ、先輩……」
ダルハプスの背に杖を向けながらも、膝を付く。
全てのインクを使い果たした彼女にできることはもはや何も無い。
意識が遠のいていくのを感じる。
「約束を、……必ず、果たすから」
ハルレーは呟き、ヴィルグラムたちが走り去り、ダルハプスが逃走経路に選んだその道に視線を送りながら意識を手放した。
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アルタリウスが風を感知したとき、別種のものも感じ取った。
それは来た道から押し出されるようにする風。
『敵確認』
(追いかけてきたか)
『それとはまた、別の形かもしれませんが』
(別の?)
やがて見えてきたのは古樹の龍。
否。
それは蛇のような、蠕虫めいたものにも見える。
それほど大きくはない道を押し広げるように、そこかしこを体と共に削りながら突き進む。
ダルハプスは健在であった。
「灼ける。灼けた」「喪失、何もかもを喪失したのか」「いいや、まだだ」
炉の裂け目が軋むようにして笑みを作る。
眼孔のような部分がヴィルグラムとイセリナを睥睨した。
「『戻せ』ば、まだ立ち直ることができる」「よこせ」「その娘をよこせ」
四肢であった部分から染み出るのはダルハプスそのもの。沼の底にある汚泥のような液体。
もはや複製体を作り出すほどの体力もないのか、液体を触腕のようにして扱う。
「吾は逃げたのではない」「あの魔術士を恐れて逃げたのではない」「戦略がわからぬか」
それは弁明だった。ヴィルグラムが責めてもいないことを叫ぶのは、思考の制御すらおぼつかなくなっていることを示していた。
しかし、ヴィルグラムにとってその弁明は実にありがたいものだった。
少なくともあの怪物はハルレーを打倒してここに来たわけではないことがわかったからだ。
『彼女が追い詰めたようですね』
(ダルハプスが相打ち上等でハルレーに何かをしていないならそれが一番だよ)
文字通りの虫の息となっているダルハプス。
それを睨みながら次の手を考えるヴィルグラムとアルタリウス。
(こっちもそのまま逃げる……って選択は難しいか。速度はオレ様たちより少しばかり上回ってるか)
『仮にこの道から逃げ切って外に出たとして、追いつかれるのは間違いありません。
あのような肉体になっても依然、広い空間は相手に有利でしょう』
(やるしかないか。
ハルレーがあそこまで追い詰めてくれたなら、勝機は十二分にある)
『そうしたくはなかったのですが』
(復讐の機会なのに?)
『……君たちに約束を果たさせたあとでもいい。そう思える程度には私も人の心を学べたのかも知れません』
蠕虫めいた怪物が進んでくる。
ヴィルグラムはアルタリウスの進歩を喜びたくあったが、その時間は許されそうになかった。
(ありがとう、アルタリウス。
でも、ここで決着を付けよう)
『君の心の求めるままに』
インクがヴィルグラムからアルタリウスへと通じ、巡っていく。
『対象、ダルハプス。残数1。──戦闘開始』
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「イセリナ。オレ様の後ろにいてね」
「はい。インクの補助をさせていただきます」
守られるばかりが辛いことをヴィルグラムは理解していた。
思い出すことのできない、復活以前の記憶が疼くようにして。
だからこそ、守られる以外の手段を自ら取らんとするイセリナを頼もしく感じていた。
息を吸い、止めて、吐く。整え、戦いを前にした心のゆらぎを消し去ると、ヴィルグラムは叫ぶ。
「ダルハプスッッ!」
魔剣を振るい、光条を撃ち出す。
一方のダルハプスもまた、土をかき分けて進むミミズめいた動きで前進し、割れた炉の裂け目から触腕を生成すると槍や鞭のようにして応戦する。
鋭い触腕の先端がイセリナに向かうのを身を挺して逸らすヴィルグラム。
「ヴィー様!」
「オレ様は大丈夫だ、インクをもっと注げるか?」
「はいっ!」
このまま戦ってもジリ貧であることがわかった。
手足を無くしたダルハプスであっても、炉を抱えた怪物の再生速度は明らかにダメージを上回っており、じりじりと距離をも詰めてきていた。
(アルタリウス、そっちの状況はどう?)
『出力増加。あの巨体を押し返す程度の力は』
(それじゃあ足りない。このままじゃあ)
倒しきれないなら、炉によってその肉体が再生されていく。
炉によって得られる力が永遠無限であるかは不明としても、一方でこちらのインクに関しては明確に有限なのだ。
ヴィルグラムの持ち得るインクと、イセリナから与えられたインク。その二つだけではダルハプスを消し飛ばすことはできない。
『押し返す程度の力』という言葉にはその意味が含まれていることをヴィルグラムも理解している。
(まだだ、まだ持っていけるものがあるだろ。アルタリウス)
かつて自身に死をもたらしたやり方。
それはつまり──
『それをしてしまえば、君が持ちません。私が消えるのは構いません。ですが、もう──』
命を消費する一撃。まさしく魔剣と呼ぶにふさわしい業。
それによって壊れるヴィルグラムの命。互いの意思が一つになり強力な一撃を放てばアルタリウスも砕けるだろう。
だが、アルタリウスは壊れることを恐れてはいない。しかし、ヴィルグラムの死を恐れてはいた。
主であり、相棒であり、戦友である少年を自らの機能で殺すことを忌避し、その選択肢をこの戦いで排除したく考えていた。
(オレ様と一緒に消し飛ぶのは不満か)
だが、それも独りよがりの考えであったとアルタリウスは思いなおす。
それでも伝えるべきは伝えたいと思うのもまたアルタリウスが人間に近い自我を持った証左と言えた。
『……いいえ。ただ、申し訳なく思うのです。
君を、君の友と離れ離れにさせることを』
(その友のためにも、だよ。
アイツを放っておけばいつまでもオレ様の大切な友達を付け狙うだろうから、ここで決着させたいんだ。
そのためにもアルタリウスの力が……その命が必要なんだ)
アルタリウスにもその覚悟は伝わった。
使えば永遠の別れとなるとしても。
『──出力、限界を突破させます』
倒すべき相手は眼前に。
守るべき相手は後背に。
(行こう、アルタリウス。その無念も、憎悪も、オレ様の危惧と想いと一緒に)
『はい。参りましょう、我が相棒。──魔剣、解放』
迫るダルハプス、魔剣を構える。
その刀身からは眩いばかりの光が溢れている。
「ここから、この世から消えろッ! ダルハプスッ!」
剣が振るわれると、強烈な光が洪水の如くにしてダルハプスへと襲いかかる。
「なッ、なんだ……光が!」
魔剣の一撃がダルハプスの肉体を切り裂き、削り、割り、怪物の中核を成す炉が砕けていく。
「吾は、吾は……ダルハプス。この乱世を終わらせる偉大な覇王となるはずのダルハプ──」
光の奔流に耐えかねて古樹の肉体が砕け、次々と拡がる裂け目のそこかしこから
「──ぎ、ぎやあああああああッッ!!」
ダルハプスの断末魔が響き渡った。
肉体の一欠片、炉の一破片、汚泥の一粒すら残さずに魔剣アルタリウスは怨敵を破壊し尽くした。
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魔剣の力の全てを、アルタリウスの全てを使い果たす。
ヴィルグラムの手にあったそれがゆっくりと消えていった。
砂が風にさらわれるように。
『私ばかりが君を独占するのは不公平というものでしょうね。
けれど、長い時間は用意できませんでした。……ごめんなさい』
ヴィルグラムは消えていない。
だが、それも時間の問題だと魔剣は云う。
『復讐を果たし、道具としての本懐をも遂げることができた。
ありがとう。君こそが、私の相棒でした』
(こっちこそ、ありがとう。アルタリウス。
オレ様の孤独を忘れさせてくれた、紛れもない相棒だよ)
惜しむような一拍の呼吸の後。
『さようなら』
端的で、しかしアルタリウスが獲得できた多くの感情を併せ持った別れの言葉。それきり、アルタリウスの声も気配も、消えてなくなる。
生物に照らし合わせれば、それは死であった。
だが、アルタリウスにとってそれは無念も後悔もない、晴れ晴れとした終わりであった。
ヴィルグラムも別れを惜しむようにして、先程まで剣を握っていた感触のあった掌を見やり、握り、開く。
そうしてから、切り替えるように言葉を紡ぐ。
「イセリナ。外に向かおう」
「外へ……そこから先は?」
「安全な場所があるはずなんだ。きっと、イセリナを包んでくれる場所が」
今更疑うことなどなにもない。
イセリナはヴィルグラムに従った。
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ほうほうの体でではなく、いつか共に旅をしていたときと変わらない、健全な足取りのヴィルグラムと共に進むイセリナ。
だが、彼女に向ける笑顔や、戦いの後すぐにどこかへと向かい歩くことに対して気をかけるような言葉を向けてくれたりするヴィルグラムに対して、どこかへ消えてしまいそうな透明感をイセリナは感じていた。
「やあ、ヴィルグラム」
暫く進んだ頃、不意に声が掛かる。
なにもない山道で響いたその声の主にヴィルグラムは覚えがあった。
「ルル。動けないんじゃなかったの?」
ルルシエット伯爵。当人の望みにある通り、ヴィルグラムは驚くこともなく愛称を使って挨拶代わりに質問をする。
「離れたところで見ているつもりだったんだけどね。トライカで強い光を見てさ、いても立ってもいられなくて。
ここにいるのはただの風来坊のルル。伯爵家とは何も関係のないってことでよろしく。
っと、そんなことを言っている場合でもない、かな」
インクを見る力の有無関係なしに、ヴィルグラムの状態が芳しくないことは理解できる。
「ここに来たのは魔眼のお導き?」
「来たほうがいい未来に繋がりそうだったんだけど──」
傍らに立つ少女を見やる。
どのように未来が変わるかまではわからないが、その影響の根源であるのは彼女であることは理解できた。
魔眼が見せるのは確率の高低、幾つかの展開の予想でしかない。
その中で彼女がいることで開かれるその『未来の予想図』は少なくない。
「この娘はイセリナ。
オレ様の大切な友達で……行き先がない可哀想な子だ。いや、オレが元気なら行く宛もあるんだけどさ」
その言葉に表情を暗くするのはイセリナだけではない。
トライカのことを頼んだ手前、年若い少年に重荷を背負わせ、ここを結末とさせてしまったという自認をするルルシエットも同様であった。
「そんな顔をしてくれるなら、頼みやすいよ。
ルル。
イセリナを頼めるよね。トライカは何とかなった。その報酬に、さ」
「ああ。承るよ。
彼女が──イセリナが良ければ、だけれどね」
二人の視線がイセリナへと向かう。
「イセリナ、あの人のところに行くんだ」
「でも、ヴィー様……」
彼女は理解していた。
インクが見えるからこそ、その命はとうに尽きていて、抜け殻同然になった彼が気力だけでなんとか彼女を連れ歩いていたことを。
それを口にしなかったのも、慮ることを言わなかったのも、ヴィルグラムが自らを無事であると見せようとしている態度に報いるためだった。
道中でインクをそっと注ぎ入れても、まるで割れた器に水を注ぐのと同じように留まることなく消えてしまう。全力をかければ少しは残るのかもしれないが、そうなればイセリナが倒れることになるだろう。
それもやはり、ヴィルグラムが望む行いではない。
彼女がルルシエット伯爵へと向かって一歩、また一歩と進む。
後ろ髪を引かれるように、後ろを一度だけ振り向いて確認すると既にそこに彼の姿はない。
彼をこの場で最後に確認したのはルルシエットだった。倒れそうになりながらも、そっと森の中へと消えていったのを視界に収めていた。
「ヴィー……様……」
イセリナは振り返り、ヴィルグラムが立っていたところを見つめていた。
そこにはもう、誰もいない。
ルルシエットが肩に触れて、移動を促すまで暫くの間、見つめていた。
一度離れ離れになり、再会できた。
いつかまた、会えることを祈る。それだけが今の彼女にできることだった。
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森の奥。
背を木に預けたヴィルグラムは木々や下生えを揺らす足音に視線を向けた。
彼の前に現れたのは一人のエルフだった。スーツを纏った姿は流麗ではあるが、闇の中で感じる気配のように原初的な恐怖を感じさせる。今までエルフが行ってきた暗躍の数々が、そうした気配を纏わせていた。
だが、ヴィルグラムはそうした気配を感じたとしても不審のような感情を向けなかった。
「……ずっと見守っていたのはお前なんだろ」
「お気付きになられていましたか」
「明確に意識したのはアルタリウスと一緒になってからだけどね。
敵意もないし、どうにもその気配から懐かしさも感じる。
きっとオレ様のために色々と頑張ってたんだろ。ありがとう」
「……過ぎたるお言葉です」
こうして多くの旅をし続けてこれたのも、きっと彼女がいたからだろうと考えた。
万感の想いと繰り返しの死と生が籠もった労いと感謝の籠もった言葉であった。
「聞きたいことがあるんだ。気休めで構わないから、答えてほしい」
「何なりと」
自分が歩いてきた道に視線を向ける。
「ルルに任せておけば、イセリナは大丈夫だよね」
「……暫くの間は、と限定するのであれば頷けます」
「それ以上はわからない?」
「戦乱が深まればあらゆる予測は困難になります」
気休めを含まない冷静な言葉だった。
「それを聞けたらなんだか安心した。……そろそろ眠るよ」
その言葉を最期に、ヴィルグラムの呼吸や徐々に浅くなり、やがてそれも消える。
体力だけではない。インクも、命をもアルタリウスと共に燃焼させたのだ。
アルタリウスが何とか用意したロスタイムは使い切った。今度こそ死の眠りがヴィルグラムを包んだ。
フォグは亡骸を背嚢に収め、背負う前にその顔を見つめる。
その顔は満足感で充たされた表情のままだった。
「ご苦労さまでした、我らが主。
ゆっくりとお休みください、偉大なるカルザハリの少年王よ」




