138_継暦136年_冬
ダルハプスは己の体についてを考えていた。
普段こそ馴染みのある肉体で動いているが、その本質は肉と骨と血ではない。
そうしたものは既に存在していない。あの日から。
王国終焉の動乱で追われ、命を落としかけた。
湖沼ダルハプスにて命を拾い直した彼は、その日から人の姿を保てなくなっていた。
それは固形ではなく、しかし液体のようで液体でもなかった。
自らの意思はその物質に溶け込み、手を伸ばそうとすれば液体が手のようにして動いた。
より明確なイメージをもとにして手を伸ばせば、それは人間の手の形となった。ただ、色合いは人の肌ではなく、汚泥のそれ。
眠りは必要なく、飢えのようなものだけがあった。何に対しての飢えなのかは判断はできなかった。
長い時間を肉体の制御のために使い、やがて人の形を取り、ビウモードを奪うに至る。
肉体は構築できたものの、それでもやはり、本質として肉体は持っていない。構成しているに過ぎない。
「自由だ、これが、これが自由の形か!」
『人の形をしていなければならない』
そうした思い込みが彼を人の形をした巨悪としていたものの、敗北を重ね、遂には人間の姿を保てなくなったダルハプス。
だが、それが常識の殻に閉じ込めていた自らを這い出させた。
自由であった。
攻撃の一つとしてのみ扱っていた闇の針や、そうした凶器たち。幾つかの魔術や忌道に関わるあれこれは放つものではなく、手足を動かし、指を操るのに等しいものとなった。
体は弱々しくなろうとも、むしろ技のキレは格段に上がっている。
そして、それはダルハプスだけではない。
『ご負担をかけますが』
(行けるところまで行こう)
『承知しました』
アルタリウスもまた、ヴィルグラムと深く繋がっており、彼の持つインクをはじめとした多くのものを消費することで本来の──つまりは魔剣として与えられた多くの機能を活性化させる。
『視界範囲を利用し、ダルハプスの攻撃を予測した幻影を配置します。
直撃の1.5秒前に見せますので』
(回避しろって?)
『不可能ですか?』
(一秒前でいい。そっちのほうが避けやすい)
『承知しました。予測開始。幻影投影』
ダルハプスが自由を得たように、アルタリウスもまた膨大とも言える力とその本質を発揮していた。
その本質とも言える予測能力などを下支えし、追従するヴィルグラムもまた一種の高みへと登っていた。
手足の如くとなった闇の武器が、不気味な液状となったダルハプスから放たれる。
しかし、そのいずれもがまるで、そのように出せと命じられていたかのようにしてヴィルグラムは避けきった。
アルタリウスとの関係がこなれたからこそできるようになった芸当……というわけではない。
「なぜ当たらぬ」「なにをした」「なにをしている」
一つの口からではなく、汚泥の塊から口が幾つも現れると口々に感情を発した。
「言っちゃなんだけどな、ダルハプス。
オレ様は言ってもそこまでお前を恨んでるわけじゃない。許せないとは思っているけどさ。
この世界にはオレ様の何倍も恨んでいる奴がいるんだ。
今日はそいつの復讐を届けに来たのさ。そいつがお前を裁いてくれる」
「そいつ?」「誰だというのだ」「不遜、不遜、不遜」「吾を裁くものなど」
「いるさ」
そう言いながら布に包まれたものの中身を晒す。
「魔剣が、裁きを下す」
「ロドリック、どこまでも吾の邪魔をし続けるか」「許せぬ」「死罪だ」
「先にロドリックに害したのはそっちでしょ」
『身勝手を指摘して頷くような可愛げはないでしょう』
(それじゃあやるべきをしよう)
『ええ』
アルタリウスが持つ無念は、もはやヴィルグラムにとっての無念でもある。
ロドリックに与えられた無念もまた、ヴィルグラムにとっての無念であった。
魔剣がヴィルグラムのインクを認識する。行うのは原始的なやり方だ。
インクを剣から射出する。
魔術であれば詠唱で実現するものを、魔剣が代替する。魔剣が一振りされるたびにダルハプスの触腕じみた泥が消し飛ばされていく。
「ぎっ、ぎぃい!」「痛い!」「おのれ!」
魔剣から光条を打ち出し、切り裂いていくヴィルグラムとアルタリウス。
ダルハプスは思考を再度纏める。
このままでは勝ち目がないと。
背後で守られているイセリナを狙い、捉えて脅しの材料にするか?
(足りぬ。手が足りぬ。警戒が徹底されている。
こうなれば、手を出せぬ。おのれ。おのれ。おのれ。
吾だけでは手が出ぬ)
いや、不可能だ。それを許すほど甘い相手ではないだろう。
悔しさを感じなつつ、幾つもある口の一つが笑みを浮かべる。
(そう、吾だけであればな)
それは勝利を確信するものの笑みだった。
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アンデッドたちの大部分は機能不全に陥ったものの、作り出した半獣たちの制御と個体数は十分と言えた。
最も優れた個体であれば街一つの壊滅すら狙えるほどと自認していたが、ブレンゼンの手によって破壊されている。
それなりの力を持ったものはシメオンとの戦いに投入し、やはり失っている。
残っているのは駄作とまではいかずとも一線級ではないものたち。
だが、それでも数はある。
屋敷の中に眠らせておいたそれらを起動させると、地下へと走らせていた。
(策と準備は二重、三重にしておくものよな)
ダルハプスの体から生じた幾つもの口の一つが笑みを作る。
半獣たちは音を立てることもなくイセリナの近くへと進んでいた。
注意を引くためにダルハプスは体を膨らませると、闇の針を大量に吐き出す。
ヴィルグラムはイセリナの前に立つとその幾つかを魔剣の光条で焼き潰し、落とせなかったものは剣を払って落とす。
落とされた針が溶け、ダルハプスの肉体同様の汚泥に戻った瞬間に、それらが足元から急速に伸びた。天に向いて伸びた針がヴィルグラムとイセリナの間にある距離を開かせた。
(勝機──)
半獣たちがイセリナへと躍りかかる。
「きゃっ」
邸もろとも炉で破壊しようとする少女であっても、直接的な戦闘能力を持っているわけでもない。
一方で半獣たちは一線級でなくとも牙や爪はそこらの刃物よりも鋭利。なにより人間の肉体を素としている以上、機能美において語る必要もない。
もとからそうであったのか、それともダルハプスの思考や命令だけでなく、感情までも取り込んでいるのか、口角を釣り上げているように見えた。
「これで詰みだ」「吾を軽んじたるものに罰を」「不敬なるものに死を」
ダルハプスの口々が一斉に声を漏らした。それは間違いなく彼なりの勝利宣言であった。
「イセリナッ!」
魔剣を構え、光条を放とうとするが半獣たちの行動を邪魔させまいと動くのはダルハプス。
まさしく、ダルハプスの云ったようにヴィルグラムは詰んでいる。
この対局は間違いなく、ヴィルグラムの敗北であった。
「██#9、██#2」
不可思議な声音が響く。
ヴィルグラムとの決闘であるなら、そうであろう。
だがいつぞやにディバーダンが煽ったときと同じである。一対一の勝負などとは誰も言ってはいない。
仮にそうだとしてもイセリナを捕縛するという外野を狙う手を使った時点で決闘ですらないのだが。
響いた声音と殆ど同時に光の矢が半獣たちを的確に貫く。
「先輩、困ってるみたいじゃないか。手伝いが必要そうだね」
破獄。
その二つ名を持つ魔術師はどんな手合であれ、人の倫理から外れている。
常識から外れるからこそ、人の常を破ったものとして与えられる称誉と畏怖を含めて与えられる二つ名である。
「ソクナ……!?」
『戦局は繋がりました。……どうしたのです。そんなに驚いて』
(あ、いや……。オレ様は彼女の前で死んでるんだ。なのに明らかに生きていることを驚いていない。いや、そもそもなんであの子がここに──)
『思考は後にしましょう。味方かどうかが重要です。どちらですか?』
(……味方さ。とんでもなく頼りになる、味方なのは間違いない)
「ああ。困ってる。
助けてくれるかな、ソクナ」
「喜んで、先輩」
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数を駆使するダルハプス。
質で対応するヴィルグラムとハルレー。
地下での戦いの軍配は後者に上がりつつあった。
「まだだ、まだ」「まだ」「まだだ」
口々に叫ぶ。
自らの敗北を否定するように。
(どうすればよい)(策を)(手段を)
ダルハプスは自らの肉体を変じさせた。
人の形を取らず、不定形のものに変化させたのはあくまで緊急的状況だったからに過ぎなかったが、やってみれば存外というべきか、もとからこうするべきだったと思うほどに便利なものだった。
『新生』するのもハナからこの方法を取るべきだったと考えるほどに。
だが、既に状況は過ぎている。
押され始めた。
用意した半獣もやがて尽きるだろう。
(力が足りぬ)(新生の途中で邪魔をされたせいで)(完全ならば遅れなど)
戦う力に注ぎすぎたせいか、不定形の肉体の、その総量すら減少し始めていた。
(このままでは)(摩耗して)(小さくなって消える)
炉に張り付いたカビのようなものになる前に、解決策を得なければならない。
戦って勝つにしても、逃げて次の勝ちを狙うにしてもだ。
だが、逃げる?
どこへ?
ダルハプスが逃げへと意識を転がしたとき、液状化した肉体から何かを察知する。
大樹の裂け目。大きなものではない。
人間が入れるようなものではない。だが、今のダルハプスであれば中へと入り込める。
入り込めば逃げ道はなくなるかもしれない。
普通の樹木であれば。
だが、そこにある大樹はただの植物ではない。その形を取っているだけの『炉』だ。
『人の身には過ぎたる力を備えている』
さりとて、『自らを復元するには至らない』のがこの炉の現状である。
(復元できずともよい)(過ぎたる力を余さず使えばよい)(形などどうでもよい)
「先輩、半獣はこっちで全て片付ける!
ダルハプスを殺すんだ! 炉に入りこまれるッ!」
気がつくのが遅れた。というよりも、半獣を巧みに操り、自分の動きを察知されないように、姿を見られないようにと動いていたダルハプスが一つ上を行った。
強者たるハルレーには無様と評することができるほどの逃げ方をするものへの理解が遅れ、アルタリウスはインクの種類を嗅ぎ分けるようにして相手を察知する感覚器が半獣の数によって撹乱され、ヴィルグラムはイセリナ、ハルレーを守りながらダルハプスの攻撃を凌ぐことに総力を使わされていた。
それ故に、ダルハプスは炉へと侵入することができた。逃げるように、そういって差し支えない形だった。もはやダルハプスにはなりふりかまっているような余裕も、思考もなかった。
炉は解明されていない。永くを生きるダルハプスにとっても未知の存在である。
それは承知していた。
であったとしても、ダルハプスは生存のみを優先した。今この瞬間に死ななければそれでいい。
ダルハプスの思考は、アンデッドの性質と『ダルハプス』という名を得たときから存在し続けることに最大の執着を見せ、他者を蹂躙し凌辱することだけを悦びとした。その悦びを得続けるためには滅ぼされるわけにはいかなかった。
(炉よ)(吾に)(力を)
大樹の中で触腕を伸ばす。
枯れ果てた大樹がみしりみしりと音を立てはじめる。
「炉が……起動している……」
炉の外で、イセリナが絶望にも近い声をあげた。
ここで作り出された故か、彼女は眼の前の炉で何が行われているかを理解してしまう。
彼女の母胎であったものが犯されている。
地に天井に伸びた枝が手足のように動き出す。
「吾を、甘く見るなよ。貴様たちは吾に支配されておればよいのだ。
不敬と不遜の罪、晴らしてくれようぞ」
大樹が太い枝を足のようにして、四つ足になる。
幹がまるで長い首を持つ爬虫類めいて蠢き、炉の入口のようにもなっていた割れ目が口のようにも見えた。
怪物は、自らの予期しない形で『新たな形』となった。




