135_継暦136年_冬
イセリナにのみ聞こえていた詠唱。
その終わりだけはケルダットとディバーダンも理解していた。
「空気が変わったか?」
「結界がどうにかなったのかもしれませんなあ。
さて、では脱出……とは行かぬところでしょうかねえ」
「目指すはメリアティお嬢様のところ、だな」
こくりと頷くのはイセリナ。
巻き込んでいる責任を感じるが、申し訳なく思えば彼らの覚悟に失礼となるのを理解していた。
「となれば、彼女の部屋にもう一度行くしかありませんか」
「無事に会えりゃあいいんだが──」
刹那。
立ち位置が変わる。いや、変わったのは立ち位置ではない。立ち止まり相談していた場所の構造が変わった。
イセリナと二人を分断するように現れた壁。
それは見たところ邸の壁と代わりはしないのだが、ケルダットが攻撃し、傷を与えてもたちどころに直ってしまう。或いは、先程の構造変化のように見えないほどの速度で壁が入れ替わっているのかもしれないが。
「無事かあ、嬢!」
「こちらは問題ありません! お願いです、メリアティを!」
「嬢はどうすんだ!」
「私は……もう一つの接続されていた場所へと向かいます」
「一人でか? そんな無茶を」
「殺すつもりなら今の部屋の動きで私程度なら殺せているはずです。
捕らえるつもりなら四角く囲むなりして出さないようにするでしょう」
「ダルハプス側からしても予想外の動きだった、と?」
楽観主義が過ぎるのではないかとディバーダンは思う。
だが、イセリナのもとには壁が邪魔をしている。
どうあれ彼女を助けるのに時間を使えばメリアティはどうなるかもわからない。
しかし、一人で危険があるかもしれない場所に向かうことに同意することもしがたいものがあった。
「大丈夫です。本当に駄目そうになっても……彼が駆けつけてくれるはずですから」
ヴィルグラム。あの少年の到来を信じている。
それを二人が否定することはできない。
道は定まった。
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ヴィルグラムの眼前には目標としていた邸。
彼は立ち止まっていた。
『お仲間を見送ったのは間違いだったのではないですか?』
(ここまで集まってくるのは想定外だよ……。ううん、格好悪いけどシェルンに合流するべきかな……)
そこには大量のアンデッドが立っていた。骨格標本じみた存在は邸の護りに付いているように見えるのは明らか。
護衛の数は一つ二つではない。軍隊と言っても差し支えないほどの数であった。
装備もこの街の警備か店から奪ったかしたものでがっちりと固めている。
自らの分霊の如きものを生み出していたダルハプスが操っているとするなら、相当に厄介な状況であった。
今のダルハプスは命を惜しまず命令に背かぬ軍を率いているに等しい。
(ここで使いたくはないけれど)
『消耗に関しては多少は含めています、立ち止まっているわけにも──』
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邸の裏口では全力疾走で駆けたローグラムが到着していた。
ただ、状況は正門、つまりはヴィルグラムの側と同様であった。
アンデッドたちがぎっちりと守っている。
(生身ならまだしも痛覚のないアンデッドが鎧を着てるとか、石ころじゃあ分が悪いなんてもんじゃねえぞ。
さーて、どう切り抜けるか)
『同士討ちをさせるか?』
(それも択っちゃ択ですがね、数が数なんで時間が掛かるでしょうよ)
『ふむ……確かにな。ではどうする?』
(走って切り抜ける、とか?)
『……命知らずとしか言いようがないぞ、あの数相手では』
戦いにおいてはローグラムより、彼に取り憑いているバスカルの方が長じている。
彼女が命知らずというのであればそうなのであろう。
尤も、そうした事情抜きにしても命知らずではあるが。
(出し抜く方法を考えてみましょう。ぐるりと回って邸に入り込めそうな場所は──)
『あればいいのだがな』
(切れ目はあるかもしれねえよ、ほら)
指し示した先はアンデッドは少なくも見えた。
『行ってみる価値はある、か?
どちらにせよここでグダついているよりは有意義と言えるか』
(行動あるのみ、だな!)
ローグラムは活路を見出すために走り出す。
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歩き回る人骨たちの数は少なくなってくる。
正確には倒されたと思われる人骨の破片が散らばるようになっていた。
『我ら以外に戦っているものがいるのか、それとも少年たちが戦っているのだろうかね』
(いや、違うんじゃねえかな。落とされてんのは首を狙ってるって感じだ。背丈から考えてもタッパのある大人の仕事じゃねえかな)
『ふむ。となれば──』
(他の皆さんってのが本命。確率的には大きかないが、新たな味方が得られるなら、それもアリ。
敵だったら……どうしたものかな)
『口説き落とす努力はするべきだろう。そちらのほうが向きではないか?』
(ま、言葉を投げるか石を投げるかくらいが能ですからねえ、オレは)
『なんだ、拗ねているのか?』
(羨んでるんですよ、旦那も姉御も強いからなあ。オレみたいな木端は羨むのが精一杯。目指すのは流石に目標としちゃ遠すぎる)
『お前もいずれは──』
会話はすれど、警戒は解かない。
そうして走っていると気配を一つ感じた。
人間の、生者の気配だった。
「誰かいるのか!?」
壮年の男の声だ。
恐怖心を含んではいるものの、戦意が萎えているという要素もない。
服装は戦闘に向いたものではない、日常着である。ただ手には日常用とは思えない大振りな短剣が握られていた。使い慣れたものであるのは構えからも見て取れた。
(背丈から考えても)
『アンデッドを倒したのは彼か。中々の腕前のようだ』
(普段着ってことは解決するために動いている冒険者、ってわけじゃあないのかね)
『何事も挨拶からだな。あの様子だと下手な声の掛け方をすれば斬られかねん』
ローグラムは一つ息を吸ってから、
「トライカを何とかしにきた冒険者だ! アンタが悪党側じゃあないなら焦って攻撃とかはしないでくれよ!」
「冒険者……?」
「オレはまあ、その一党に雇われたチンピラだけどよ」
「……だったら、こっちと同じようなもんか?」
物陰から現れたのは声の通りの壮年の男。
服装は市民と変わりない。
目を引くものが一つあった。それは服の端に縫われたアップリケだった。
記憶が正しければペンゴラで約束したあの女将のエプロンと同じ柄。
偶然であればそれはそれで笑い話にもなるか。会話を切り出すには十分な理由ともなる。
「そのアップリケ」
「オレには似合わない柄だよな。実はこれは」
「あー、嫁さんに縫ってもらった、か?」
「おお。そうだ。いいだろ、俺には出来すぎた嫁でさ」
「酒場を切り盛りする名女将、か?」
驚いた表情を浮かべる壮年。
「『泥中に奇石あり』だな。こんなときにこそ偶然を喜びたいね」
「兄さん、あんたは……」
「アンタのできた嫁に頼まれて探しに来たんだ。助けてくれってな」
「そう、か……だが」
「すぐには頷けないだけの理由があるか?」
「メリアティ様に伝えねえとならないことがあるんだ。この変事で窮地にあるってならなんとかしたい。それをやらないと恩義に報いれないんだ」
「恩義?」
周りを見渡し、警戒はする。そのうえで会話を続ける二人。
ペンゴラはかつて賊の出現に頭を悩ませていた。しかし、現在ではある程度の駆逐とそこから得られる安定があった。
駆逐といっても正確に言えば、ペンゴラ側に雇われた賊上がりも少なからずいた。
そうした施策を提案したのはまだ若い、幼いといってもいい年齢のメリアティだった。
彼はそうした施策に救われた一人だった。
強い恩義を感じるのは彼はそうした施策を実行する中で彼女直々に登用された経験があるからだった。
見るべきところのある人間で、悪党でもないのだと云われた。
確かに人を殺したことはなかったし、盗みも人材商だの風聞の悪い連中からしかしなかった。そのせいで食い詰めていたのだが。
ともかく、彼はそうして更生し、やがて美しく気立てのいい嫁と出会うこともできた。
「随分昔になくなったっつうダルハプス湖沼に何かしらの工事をやろうとしている連中がいるって情報を得て、報告しに来たんだ。
だが、来てみりゃあこんなことに巻き込まれて……。湖沼はアンデッドが現れるおっかねえ場所だって賊の先輩も云っていた。もしかしたら」
「その工事ってのが影響しているのかってことかい」
「だとしたなら報告が遅すぎたが」
彼が懐から出したのは紙束。
恐らくはその件についてのレポートだろうことは察しが付く。
「これを届けるまでは」
「戻りなよ、あんな美人にいつまでも悲しい顔させてるわけにゃいかねえだろ」
その紙束をひったくるローグラム。
「オレが届ける。女将と約束したんだ、アンタを無事に帰らせるって。
付いていきたいところだが、こうなっちゃ付いていくわけにもいかない。
なんとか一人で、無事に帰ってくれよ」
「……」
天秤は激しく揺れているのだろう。表情からそれがわかった。
だが、最終的に傾いたのは
「確かに、愛する人をいつまでも待たせるわけにはいかないか。
ここまで来たあんたを信じるよ。
……メリアティ様を頼む」
「任せとけ」
男の約束は交わされた。
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シメオンに投げ飛ばされ、半獣の包囲を脱したブレンゼンは走っていた。
アンデッドがそこかしこで闊歩を始める。
無防備なものもいれば、どこからか装備を調達したアンデッドの姿もあった。
「冒険者ギルド、冒険者ギルド……あそこかッ」
そうして歩哨の如くに練り歩くアンデッドたち。だが、その程度の敵がブレンゼンの相手になるわけもない。
巨大な鉈の如き武器を一振りする度に数体のアンデッドが散らばる。
復活を阻止する方法は簡単だ。頭蓋を砕く。これだけだ。
よほど高度に作られたアンデッドでもない限りこれで再起動はできなくなる。
ダンジョンや深い森などで活動する冒険者たちにとっての常識ではあるものの、都市やその近郊でのみ働くものにはない知識である。
建設途中の冒険者ギルドは完成も間近といってもいい程度には作られていた。
あくまで外観だけは、だが。
入口の扉や窓などはまだ組み込まれていない。
それらがあればブレンゼンは躊躇なく踏み入っただろう。
扉だのの一種の目隠しがない状況であればこそ、外から見えてしまうものがある。
獣であった。
室内飼いの愛玩動物の類ではない。人為的に手が加えられたそれはツギハギ痕を隠すこともない。四足獣であった。元がどのような毛駄物であったか判別がつかない。
それは大きければ強い。太ければ強いという思想のもとに付け外しが何度も行われたことだけは伝わってくる。
それは歪な肉塊だった。
「シメオンの言う通りの、儀式の中核か。
いっそ護衛なんぞ置かなければわからなかったかもしれないものを」
質量の違いはそれだけで単純な、原始的恐怖を引き起こす。
ぼやくことでブレンゼンはそうした感情を排除する。気を紛らわす、とも言う。
歩く。進む。踏み込む。
退路はない。後退の意思もない。
「Guuuahh……」
緩慢な動きが生物というよりも、操られているアンデッドのようにも感じられる。
動きの質的には先ほど遭遇した半獣にも似ている。こちらは完全な獣ではあるが。
武器を何度か振るう。室内の広さも十分。走り回り、転げようと狭いとは思わない程度には大きい施設だった。
儀式の中核が何かまでは知らされていないものの、破壊すべきものは一目瞭然だった。
肉塊獣の額に石が嵌め込まれている。ただの飾りものなどではないと確信できるのは石が怪しく光る度に建物の外で起き上がるアンデッドの姿を見たからだ
先ほどブレンゼンが破壊したものではない。
「わかりやすくて結構なこった」
剣を一振りし、構えを取る。
戦意に当てられたように肉塊獣も巨躯をブレンゼンへと向けた。
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「まずは、ご挨拶だッ」
先に仕掛けるのはブレンゼン。
今までの戦歴から獣、特に特異な力や体格を持つ鬼獣との対決は少なくはない。
かつて、性格と人品と倫理が完全に終わっている貴族に騙され、グラディエーターまがいのことをさせられたときは目の間にいる肉塊獣のような怪物相手に大立ち回りさせられたこともある。
それらの経験からあのような相手に守勢後手に回れば体格差や体力の差で押し込まれることがほぼほぼ確実になることだった。
であれば攻め。
攻めあるのみ。
鬼獣の中には痛みに鈍いものもいる。そもそも刃を立てにくい毛質であったり石のように硬い筋肉を持っているものもいる。そうしたものを叩き切ろうとして阻まれたとしても損はない。阻まれたとしても情報を得られる。
阻まれなかったならば、ブレンゼンの一撃はこうした獣であっても手足の一本を切り落とすだけの威力はある。
金属がぶつかりあったような音が響き、しかしそのまま巨木が軋むような音を奏でながらブレンゼンの大剣が半獣の前足を半ばから斬り落とした。
額の石が鈍く光ると傷口から糸のような触手が伸び、不格好な形で脚の形を取ると半獣が口の端を歪めて笑う。
「獣畜生が笑うか」
「Guurr、……獣畜生は貴様のことであろう。吾に手向かう愚か者よ」
喉を唸らせるようにしながら人語を発する。
「またか。つくづく獣を動かすのが好きだな」
「貴様にはわかるまい。この肉体の優れたる力を」
「わかりたくも──ねえなッ」
言葉の終わり際に再び斬撃を放つ。次は前足と首を狙ったもの。
首はすんでのところで引いて避けたものの、前足が再び、それも二つともに断ち割られる。
「側に誰もいねえんだろう、ダルハプスさんよ。
俺はもうそうはなりたかねえよ」
「弱き心よな」
再び不気味な再生を行う。
だが、今度はそれにとどまらなかった。
前足の形を取ろうとする最中に急激に触手が伸びると痛烈な刺突をブレンゼンに叩きつける。
みしりと鍛え上げた肉体に鈍い音を響かせる。
人間の肉は脆い。強い一撃さえ入れば身動きは鈍くなる。ここからは調理も同然だと笑いかけた肉塊獣だが、
「ッ!?」
笑みが引っ込んだ。
その触手が戻ろうとするのを掴むと引き寄せ、乱暴に大剣を振り下ろされたからだ。
顔面を粉砕しようとするそれを必死に首を振って避ける。
戦いの中で情報を得る。
戦歴を多く持つからこそ情報の価値を知るブレンゼンは、額の石こそがダルハプスを名乗る獣の弱点でもあり、そして自分とシメオンが破壊を求めた儀式の中核であると認識する。
確信が確定に変わったのだ。
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確実に痛打を与えた。
人間が痛みに弱いことを理解している。だが、あの男は笑った。
ダルハプスは怪訝な表情を見せる。なぜ笑ったのか。
わかるわけもない。
ブレンゼンが笑ったのは無意識だった。
流れる血が笑わせたのだ。彼の血統は小鬼混じりの混種。本来弱小と言って差し支えない種族でありながら、あれらが人々の恐怖の対象足り得ているのはひとえに同じ人型でありながらも理解不能な精神をしているからであった。
劣勢になれば逃げ出す程度の知能はありながらも、そうではなければ命を惜しむことなく攻撃を仕掛けてくる。
熱に浮かされれば戦いに、劣勢という冷水でもかけられない限りは高揚のままに戦うことができる。
混種たるブレンゼンは、その性質を受け継いでいる。混種とは種族ごとに持つ特徴のいいとこどりをする存在であるとされており、であるならばその熱に浮かされれば恐怖を感じないそれもまた有利な点であるということであろう。
ただ、ブレンゼンはこの熱に浮かされる性質を好まなかった。常に冷静であろうとするのも、この性質に抗うところから来ている。
だが、今は自らの矜持に拘っている場合ではない。
脳内物質が働きかけ、恐怖をはねのけ、痛みを打ち消し、今までにないほどの膂力を発揮させるために忌むべき小鬼の血を十全に巡らせていた。
その笑みに、ダルハプスはかすかな焦りを覚える。
もしもこの個体が破壊されれば厄介なことになる。
壊されてしまえばトライカを支配し、自我なき配下を御するための多くの手段が機能不全を起こしかねないからだった。
(機運の巡りの悪いことだ。冒険者ギルドが完成しておれば苦労もなかったというのに)
或いは、ルルシエット伯爵から貸与された炉が置かれている彼女の別荘が冒険者ギルドの近くにでもあれば問題はなかったはずである。
炉の支配さえ完璧にできれば遠隔からも炉の力を受け、或いは制御することもできた。
トライカの発展により都市は拡がり、より効率的に炉の力を強めるための施策として冒険者ギルドと炉の移設が提案されていた。
旧施設から動かすにあたって、炉はその大きさと繊細さから段階的な移動を行うことになった。
市長邸の地下に置かれたのもその『段階的な移動』のためであり、同時に邸の地下に炉を置いて稼働が可能かの実験も兼ねていた。
いずれ炉を使ってメリアティの呪いをどうにかするのであれば炉の近くに彼女を住まわせるか、今いる場所の近くに置くかが必要になる。
そうした事情から、ダルハプスからすれば半端な場所とも言える場所に炉が置かれることになっていた。
炉の力を使って都市に存在する半獣やアンデッドたち、或いは結界の発生などを操作する必要があったダルハプスからすれば、
都市中心に炉が存在しないのは痛恨の事情であり、しかし都市を隔離し、支配せねばならない以上は計画そのものを見直すことができなかった。
逆に言えば、炉の力を効率的に使えることができるならば問題は解決する。
とはいっても炉と同様のものが簡単に手に入るわけではない。
であれば、都市に広がっている炉の力を一度ここに経由させる形になればいいと考えた。
ダルハプスは自らの身を割いて、炉の伝播装置と護衛を兼任する形で冒険者ギルドの建設予定地に座することにした。
多くの敗北によって自らを割くのはこの個体が最後だ。これ以上自らを割けば他のアンデッド同様に自分を認識できなくなる。
(『新生』さえしてしまえば、減った吾を戻し、増やすことも不可能ではない。
この個体を失うのが問題ではない。炉から受ける力を失って『新生』を行う最中の吾を守るものがいなくなるのが問題)
自らを割き、特別性の半獣──肉塊の獣に植え付ける。
獣には炉が都市に送り出す力を経由させるための機能を持たせる。
石は機能を集約させたダルハプスの魂の形そのものであった。むき出しにはしたくなかったが、肉の中に埋めてしまうと制御の正確性を失ってしまう問題出てしまう。
ただ、ダルハプスは肉塊の獣の膂力脚力に対応し、額の石を狙えるような猛者がいるなど考えもしなかった。慢心である。
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「避けたな、ダルハプス」
「攻撃がくれば避けるのは道理であろう」
「痛覚も何もないなら前足のように受けたってよかったろう。あえて受けての反撃をする手だってあったんじゃないのか。
だがしなかった。
その石が儀式にとって重要だってことがバレちまうぜ、そんなにビビリ散らかした動きをしたらよ」
「……それがわかって、どうするというのだッ!」
俊敏な動きで肉塊獣は飛び回り、ブレンゼンの死角を探るようにしながら回復した前足を叩きつけようとする。
生物の限界を超えた動きと速度。いや、この半獣は既に生物というカテゴリからは外れた存在なのだろう。
一方で肉や骨を痛めたブレンゼンは攻撃を防ぐが、先程のように即反撃に転じるようなことはできない。
(やっぱ守勢に回るのは得策じゃねえな……。どこかで状況をひっくり返さんと手が尽きかねん)
「吾が望みは支配。貴様を無惨に殺し、それを得る一歩とする。
一方で貴様はどうなのだ。偉大なる支配者たる吾の道を邪魔し、そうして何を望む」
「大層な望みはねえよ。仕事上がりのエールとツマミ。まあ、ハムの類がありゃ嬉しいね」
「そのような日々の楽しみを言っているのではない」
(王様気取りがこんなところにいるわけもない。先ほども同じく声を届けているような連中がシメオンにぞろぞろと集まっていた。コレを殺したところで直接的な解決にゃならんか)
「はいはい。わかってらあ」
望みなど決まっている。
「俺の望みは一つさ」
「女か、金か、それとも命の延命などか」
「まるっきり逆だよ」
「逆?」
「命を捨てる、ってことだッ!!」
言葉と同時に刃が振られる。
距離、速度共に狙いすました一撃だったが、想定よりも更に早かったのは肉塊獣。
それでもブレンゼンの振るった剣、その切っ先は石を微かに捉え、ひびを走らせる。
「貴様、貴様ァ!!
命を捨てる? 結構! ここでその生命をかき消してやろう、この吾がなァッ!」
石から光が漏れ出る。
踏み込み、前足を振り下ろす。
絶好の姿勢だとブレンゼンもまたカウンターを取ろうと動く。
その瞬間、ぞぶりと何かに貫かれる感触があった。
「おっと。すまぬ。言葉を間違えてしまったようだな。
……かき消すのは」
「吾ら」
「であったな」
いつ入ってきたのか。
或いは最初からそこにいたのか。
石の力によって作り出されたのか。
聞いたところで答えは返っては来ないだろうか。或いは居丈高に、自慢げにやり方を話すのがダルハプスという男かもしれない。
どうあれ起こってしまったことは覆らない。
アンデッドが槍を手に、ブレンゼンの脇腹を貫いていた。
前足だけでも防ぐべきだとして回避を取ろうとするも、それもできないことに気が付く。
次々とアンデッドは現れ、槍を向けていた。回避すれば槍に貫かれ、そうでなければ肉塊獣の一撃を浴びることになる。
ブレンゼンは回避を行い、槍が致命傷にならぬように受けながら返す刃でアンデッドを散らばせるのが限界だった。
「望みを叶えてやろうぞ、下郎!」
「ああ。確かにこりゃあ。そうだな。望みが叶いそうだ」
大剣を捨てる。
この深手で満足に武器は振るえないことをブレンゼンは理解していた。
「大人しく死ぬというのならば、その躯は有用に使ってやろうぞ」
「ハッ。ごめんだね」
「ならば、我が腹に収まるがいいッ」
踏み込み同じように前足を振り下ろす。
「ぬゥおおォォッ!」
ブレンゼンは気合とともにその一撃を受け止める。
それだけではない。そのまま腕を掴み、顔面もろともに抱きかかえる。
「な、なにを」
片足を抑えられてしまえば四足獣同然のダルハプスは身動きが取れない。
その上、頭まで極められてしまっているとなれば、その牙も。
巨躯を無傷で締め上げることはできない。ブレンゼンは牙や爪を利用した。自らの肉体にあえて食い込ませることで対獣用の絞め技を完成させていた。
ブレンゼンは片手を獣の額に収まる石に手を伸ばし、握り込む。
「Guuurr」
唸りを上げる。石が鈍く光る。
周囲にあるアンデッドが槍をブレンゼンへと向け刺し穿つ。
だが、それでも握力が弱まることはない。むしろ、ブレンゼンの命の器が壊れれば壊れるほどに、握られた石には圧が掛かり、ひびは拡がり、破片が次々に地に落ちては消えていった。
「やめろ、離せ! この石がどれほど価値があるかわからぬ下郎め!」
「わからんね。それほど大切なら隠しておくべきだった……ま、それができないシロモノだったんだろうけどな」
肉塊獣の絶叫が響く。
それが止むと半獣は塵と消え、アンデッドたちは元から居なかったかのように消えていた。
たたらを踏みながらブレンゼンは外へと向かう。
アンデッドはもがくようにして姿勢を崩し、物言わぬ躯へと戻っていく。
それだけではない。肉塊獣の増援のためにかここまで走ってきていた半獣たちもまた、もがき苦しみ、倒れては動かなくなっていった。
「坊。……俺は役に立てたかい」
もっと上手く立ち回れば死ぬことはなかったかもしれない。だが、このまま生きていたとして自分の人生に戦い以外を見いだせるとも思えなかった。
ヴィルグラムを手に掛けたときの後悔は今まで行った殺しの仕事で受ける精神的苦痛とは別種のものだった。説明はできない。ただ、強い後悔が残った。
しかし、同時に浮かび上がるものもあった。
それは混種のブレンゼンが引く血の一つ。小鬼の持っていた獣性の目覚めだった。弱く美しいものを殺す喜び。歪んだ欲求。それが思考を支配しそうになる。
後味の悪さが呼び込んだ抗わねばならない欲求。
いずれこのまま生きていれば、その欲求を追い求める畜生未満へと堕ちる予感を受ける。
戦いを続ければ、同じような機会が巡ってくるかもしれない。抗えなかったことを考えると自らの人間性を獣性に負けるその日を、ただ恐れる。
いつからか彼の望みは混種としての呪いじみた運命から逃げることとなっていった。
命を捨てることで逃げることが完遂できるなら、せめて有意義に使い捨てたい。
それが一端の冒険者として生きた彼のせめてもの望みなのか。不純な獣性へのせめてもの抵抗だったのか。
(坊にもう一度謝りたかったな……。
いや、謝るなんてのは自己満足か。或いは、俺が選んだこの死すらも)
滅びゆくアンデッドや半獣たちを眺めながら、重くなってきたまぶたを閉じる。
(勝手に付いてきた挙げ句に、途中抜けか。
まったく、半端な仕事だな。ブレンゼン……)
無慈悲の二つ名を持つ血錆の冒険者の物語はここで終わる。




