100_継暦135年
継暦135年、夏。
その儀式に参加するものは限られていた。
いや、そもそもとしてこの儀式──封印の儀式を知るものは領内でも極めて限られている。
研究を進めるものたちですら、その実態を知るものは多くはなかった。
ビウモード城には地下へ地下へと向かう隠された道がある。
進む先には幾つもの不可視の結界と、付与術によって強化された扉が存在する。
厳重という言葉ですら甘く感じるほどの強固な道は、ビウモード伯爵領の悪夢そのものが封印されているから。
ダルハプスを封印したものは、執念というよりは狂気と呼ぶべき念の入れようだったが、
その狂気こそが長年ダルハプスという一個の怪物を封じ続けることができていたのだろう。
儀式を行うのは封印の前にまで行く必要はない。
その途中に配置されている祭場で実行する。
封印したものはメンテナンスのことを考えている辺り、ダルハプスを封じたのが場当たり的に行ったわけではなく明確な意志を以て行われたことが伺い知れた。
参列するのは筆頭研究員パンセタ、
伯爵の忠実なる家臣にして最大の友とも言える行動騎士ドワイト、
伯爵令嬢を預ける約束をした騎士ヤルバッツィ、
封印の実行者となる儀式術士ズェルキン、
実子である太子ビュー、
そして儀式の中核のビウモード伯爵である。
「儀式の準備をいたします」
パンセタは他の人間と比べて地味な仕事を続けていたため、書き割りの如き存在感であったが、
ここに呼ばれるだけあって各人からの信頼は十分に得ている。
彼女は以前より祭場の再稼働に力を注いでいた。
ズェルキンもそれらを見聞はしているものの、
儀式を実行するズェルキンと、儀式の実行を行う場所を整えるパンセタではそれぞれの分野が違う。
祭場の再稼働について、ズェルキンは手を出さないことにしていた。
「ズェルキン殿、そろそろ」
ヤルバッツィが背負っていた籠をおろしながら、彼を呼んだ。
「ああ、そうですねえ」
二人が取り出したのは人数分のグラス。
そしていつか伯爵と飲んだ火酒であった。
「火酒に関しちゃ探し方もわからなかったんで、ドワイト殿に骨を折っていただきましてね。
運ぶのはヤルバ青年の体力を頼りました」
儀式の実行までそれほど猶予があるわけでもない。
それぞれに一口分ずつを注ぐ。
「伯爵閣下の慈悲に」
ヤルバッツィがグラスを掲げる。
そしてそれを倣うようにして他の者たちも言う。
作業をしているパンセタも例外ではない。
封印とは関係なくとも、領民や関係者にとって重要な儀式であった。
「ご当主の決断に」
「閣下の旅立ちに」
それは、別れの儀式だ。
「父上の……」
死出の旅路に就こうとしている父親を思い、ビューは溢れ出そうになる感情を抑えながら、
「父上の家族愛に」
そう言ってグラスを掲げる。
伯爵はそれらを聞いて柔らかく笑みを作った。
「諸君の、これより先の未来に」
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「準備、完了いたしました」
ズェルキンにグラスを向けられ、一口で飲み干すパンセタ。
「始めましょう、皆様」
学者肌で冷静なパンセタではあるが、無茶な飲み方をする。
これは今だけではない。酒をそのように飲むようになったのはこの計画が持ち上がってからだった。
彼女は彼女で自分たちの主である伯爵の命を消費し、
封印を実行するその罪の大きさに耐えるための必要な行為であった。
厳しい姿の当代伯爵ではあるが、その優しさと領地に捧げる愛は臣民に広く理解されている証左だ。
「ここから先はこのズェルキンの仕事ですな」
部屋の広さは相当のものだ。
数十人が儀式に携わってもそれぞれの左右に余裕があるほど。
中央には数段高くなった場所が石材で作られており、
パンセタによって祭場の力が活性化させられているため、部屋のそこかしこと、その石材の隙間から淡い光が漏れていた。
「伯爵閣下、こちらへ」
中央へと進むビウモード。
彼が祭場を歩くと、水面に波紋が広がるように、淡い光が地に走る。
パンセタは祭場が自らの主であると伯爵を認めているのを理解し、自身の作業の成功に胸をなでおろしていた。
幾つかの詠唱を行うことで儀式は完了する。
長い言葉ではない。
命を断つことを前にして、伯爵の心はおそれを抱いていなかった。
中央に立ち、伯爵は詠唱を唱えようとする。
そのときだった。
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がん、がんがんとそこかしこの壁が叩かれるような音が響く。
祭場は更に奥に配置されている『封印の間』と、外へと続く通路の真ん中に位置している。
音が鳴っているのは封印の間からであった。
「……封印の間から、這い出てきた……?
いや、そんな馬鹿な。封印の効力はまだ数年は維持される計算なのに……」
「計算をしなおしている場合ではないかもしれぬぞ、パンセタ」
ドワイトは剣を抜く。
ヤルバッツィもまた弓を握る力を強くした。
「こっちは儀式に取り掛かりっきりなんで、そっちはそっちでお任せしますよぉ!
……閣下は安心して儀式に望んでくださいよ、二人が抜けても壁が一つここにありますからね」
ズェルキンは笑う。
引きつった笑顔だった。
「ああ、信頼している。
詠唱を始める。いいな、ズェルキン」
「始めましょう、伯爵閣下」
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ダルハプスは冷静を取り繕う必要がなかった。
何せ孤独だ。
今までなんとか練り上げた八つの分霊、
血族の縁によって誕生時点から根城としていたメリアティ、そして接続によって得た新たな隠れ家であるヤルバッツィ。
駒は幾つもあれど、本体は常にこの封印の間の中にある。
伯爵が命を投げ出して封印を強固にしたとき、今まで本体は出れずとも、動くことができていた分霊たちを操れるのか。
メリアティとヤルバッツィに仕掛けたものは遠隔で操れるのか。
保証はどこにもなかった。
だからこそ、冷静さを取り繕わずに暴れる。品も必要ない。ただ、力ありき。解決策はそれのみだと言わんばかりに。
「吾をより深く封印しようと云うのかッ!
させぬ!
愚か者ども。ビウモード伯爵の血は吾が用意してやったに過ぎぬ!
傀儡どもがふざけたことをッ!」
アンデッドとして蘇ったダルハプスは継暦元年のどさくさで、ビウモード家を乗っ取った。
正確には伯爵家の人間が全員逃げてしまったため、空っぽのままなんとなしの運営が続けられていた。
なんとなしで保てていたのは、それだけ優れていた官僚が揃っていた証拠である。
ダルハプスは逃げた伯爵を殺し、家紋を奪い、傍流の一つとして伯爵の椅子を奪った。
彼にとって爵位を奪うことはこれが初めてではなかったし、アンデッドの力を扱えばより容易に行えた。
だが、今は違う。
ダルハプスがアンデッドとして君臨し続ければいずれは魔王のような扱いを受けて討伐されると考え、自らはこの世を去ったと扱わせて血を分けたものを伯爵とした。
現在のビウモード伯爵の系譜はそこから始まっている。
選んだものは優秀な人間だった。
盲点があったとしたなら、優秀であり、そしてダルハプスという巨悪に対して強い反骨心を抱く一族であったことだった。
「ここを開けよッ!
吾こそが伯爵、ビウモード伯爵ダルハプスであるぞッ!!」
扉が叩かれ、やがてみしりみしりと付与術によって強化された扉が崩されつつあった。
「付与術の扉が完全に破壊されれば、後々の封印に問題が出てしまいます!
開けるべきです!」
パンセタが叫ぶ。
「自分が開けます!」
ヤルバッツィが叫ぶ。
「だが、そうなれば祭場にダルハプスが流れ込んでくることに──」
「ドワイト。問題はない。
……何があろうと、私が守る。
父上も、儀式も、ここにいる全員も、だ」
ゆっくりと剣を抜くビュー。
よほど特別な力があるのか、ビューの覚悟が冷気となったかのように周囲の温度を一段階下げたようであった。
その言葉にドワイトとヤルバッツィの二人は頷く。
頷かせるだけの威容がそこにあった。
「開きます!」
ヤルバッツィの言葉と共に、扉は開かれた。
それと同時に流れ込んできたのは半ば白骨化しているダルハプスの肉体と、
追従するように動く腐敗した体液だった。
「かァッ!」
剣にインクを籠め、無形剣を放つ。
何も無いはずの地面からインクによって形作られた刀身が現れた不快に蠢く死体の体に叩きつけられる。
常であれば肉体を両断するほどの威力があるはずのそれは、まるで鉄の塊にあたったかのように衝突音だけを残し、痛痒のかけらすら与えていないようでもあった。
「下等が、その程度の技がこのダルハプスに通用するわけもあるまい!」
「ならばこれはどうだ、怪物めッ」
飛び込んできたダルハプス、扉を開けていたヤルバッツィ。
位置関係的に背後を取った形となる。
ただの武器でアンデッドを倒せないならば、聖別されたものであればどうか。
各地を巡る中で手に入れた、銀製の矢をつがえ、放つ。
強力な一矢は確かにどんと死体に突き立つも、しかしやはり通用しているかと言われれば、そういう様子には見えなかった。
たったの一矢で満足かとあざ笑うダルハプス。
「退場せよ、ダルハプス。
ここは貴様がいるべき場所ではないッ!」
勢いをつけて駆け、剣を横薙ぎに振るうのはビュー。
その手に握られているのは、かつてビウモードに仕えていた勇将ロザリーの佩刀、
魔匠ロドリックが戦場に向かう妹のために作った珠玉の魔剣。
ロザリーは謀殺に等しいやり方で殺され、その娘もまたダルハプスによって殺された。
しかし、その剣はダルハプスの手に落ちるではなく当時の彼女の部下によって守られた。
ダルハプスを封印するとなったときにその部下によって持ち込まれ、戦いに役立てられた過去がある。
現在では宝剣という扱いながらも、倉庫の奥底で厳重に保管されていたのをビューが探し出し、この戦いに持ち込んだ。
振るわれた剣がかつての主の無念をぶつけるように、自発的に大量のインクをビューから吸い上げて光の奔流を生み出す。
「わ、吾を!吾を殺すには足らぬ!力が足らぬわッ!」
「愚か者め、誰が貴様を斃すといった!
私が言ったことを思い出せ!」
「何を──」
ビューが剣を押し込むように、振り払うようにして、巨躯をきしませる。
光がそれを後押しするように激しくうねる。
やがてひとつ、またひとつと後ろへと追いやられるダルハプス。
そこでようやく気がついたのだ。
ビューが先ほど言った言葉の意味を。
あれはただの怒号ではなかった。
目的を明確に伝えていたのだ。
「退場せよ」
それこそがビューの目的であった。
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激しい戦いが眼前で起こりながらも、伯爵は冷静であった。
「蠢く闇よ」
詠唱を始める。
一切の淀みも、
「留まる夜よ」
一切の恐れも、
「黎明の到来を知れ」
一切の迷いもなく。
「させぬ、させるわけにはいかぬッ」
その行いを引き裂こうと、押し込まれつつあるダルハプスは腐液を操り、鞭とも剣ともつかぬ触腕を作り出すと、矢の如き勢いでそれを放つ。
「ッ!」
それに対応したのはズェルキンであった。
ただ、高位の魔術士でもなんでもない彼が取れるやり方など限られている。
彼はその身を盾にするように伯爵の前に立ち、触腕を防ぐ。
体が貫かれながらも、身を捩り、伯爵への侵攻を阻止する。
「押し込めなされやあッ!」
ズェルキンが叫ぶ。
ビューが押し込もうとする。何とか耐えるダルハプス。
横合いから手を出そうとするドワイトは別に現れた触腕によって叩き飛ばされる。
だが、飛ばされながらも無形剣によって踏ん張りを利かせている片足を切り落としていた。
ヤルバッツィは叫び、走る。
ドワイトを飛ばした触腕が次はヤルバッツィを叩き伏せるために襲いかかるも、それをあっさりと見切った。
過酷で冷酷な仕事を続けていた彼には一種の、生存を求めるための眼力を身に着けていた。
生に向かう力を使い、今はそれによって死地へと向かう。
拮抗していた状態が崩れつつあるビューとダルハプスにヤルバッツィが加わり、均衡は崩れ去り、扉の外へとダルハプスが跳ね飛ばされる。
ダルハプスの阻害がなくなったことを確認したパンセタが部屋に用意された機能を使い、壊れつつある扉を自動的に閉じようとする。
「蠢く夜よ、留まる闇よ、汝のあるべき場所へと戻れ」
怒涛の状況を切り裂くように封印のための詠唱が、
「『封印』よ、夜と闇を戒めよッ!」
ここに完了した。
伯爵が立つ場所から強い光が地を走り、やがて壁や天井へと至り、ダルハプスが押し込まれた扉を光が修復するように覆う。
やがて光がその奥、封印された場所にも到達したのか、扉の向こう側からダルハプスの絶叫が聞こえ、それが遠ざかっていく。
その叫び声が聞こえなくなる頃には部屋に走っていた光が緩やかに落ち着き、伯爵はその命を使い果たし、燐光に包まれながら膝を突いた。
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「父上!」「閣下!」
ビューとヤルバッツィは伯爵へと駆け寄る。
浅い呼吸をするビウモード伯爵は二人を見る。
「後は、任せたぞ。
我らではダルハプスは滅ぼせぬ。
必ず、奴を滅ぼすものを見つけるのだ。それは我ら伯爵家だけではなく、庇護するべき領民の安全にも関わること。
伯爵家の太子として、いや、伯爵として……果たすのだ」
「必ず、そういたします」
「ヤルバッツィよ、わしの願いを叶えてくれるならば……、
これより先は、ならば我が子、ビューを支えてやってくれ。
メリアにはお前と、兄であるビューが必要なのだ」
「誓います、閣下」
視線の端には盾となって死んだズェルキンの姿がある。
「最後の最後まで、誰かを、犠牲にし続けなければ、ならぬ……とはな……。
すまぬ。我が、友よ……」
生きている内に感謝を伝えきれただろうか。
生きている内に友であると思う心は伝わっただろうか。
ビウモード伯爵は無念を感じる。
だが、心配そうにしながらも自分を見送ろうとする若い二人を見て、無念ばかりではないことを確信した。
この二人であれば、どうあれ伯爵領は守られるはずだ。
彼らであれば、解決策を得るに至るだろう。
「さらばだ、我が家族よ」
こうして、ビウモード伯爵は再封印に命を使い果たした。




