1.屋上の怪 5
暗くなっていく屋上で、僕と彼女は二人並んで座っていた。
屋上に重苦しい空気はもうなかった。
いつの間にか水はすっかり乾いていて、散らばった小石も消えていて。預けた文庫本は――少し汚れたように見えたけど、まあ、許容範囲内だということにした。
あの石でできた首は跡形もなく消えていた。
代わりなのか、屋上の片隅に、生徒手帳くらいの木札と一揃えの靴があった。
しばらく二人、無言で座っていた。
「聞いてもいいかい?」
ぽつりと口を開いたのは彼女の方だった。
「何」
僕は文庫本に視線を落として相槌を打つ。
「君は一体。なんなんだい?」
「善良な1年生。それから、それは僕の台詞なんだけど」
「ええ……」
文句ありげな声だった。先に答えるべきは君だよ、と彼女は口を尖らせた。
「多分だけど……普通の人が持ってるような物じゃないよねあれ」
「あのお守り?」
「そうそれ」
彼女の左手が、そっと僕の文庫本を押しのけた。話を聞け、と袖が語る。
「ただのお守りがあんな刀になるなんて、初めて見た。それに、あっさりとあれを破壊できるものか。私達がどうにもできなかった怪異なのに――」
「どうにもできなかったのは、君にダメージが跳ね返されるからでしょ?」
「そう。向こうが受け止めた傷のいくらかは私に反映されるんだ。だから、迂闊に手を出せないと、傷つけることはできないと判断されていたんだ」
溜息をついた。
む。と彼女の口が曲がった。
「今馬鹿された気がしたんだが」
「君達がどうにかできないなら、それ以上の力で潰しただけだって考えて分からない?」
「な――」
ぱくぱくと口が動いたのが見えた。簡単なことだと思うんだけど。その胸ポケットにある2年の学年章は飾りなのだろうか?
「だから! なんで君がそんな力持っ……痛たた……」
「まだ痛むならそんな声あげなきゃいいのに」
「上げざるを得ない状況にしたのは、君だよ……で、なんでだい?」
「そりゃあ、もらったからだよ」
「誰から?」
「秘密」
む。と言葉が止まった。
「まあ、そのおかげで僕はなんかよく分からない物が見えるし分かるのさ」
普段は眼鏡でそれを弱めている。視力も普通に落ちているので、無いと色んな意味で辛い。
ついでにあの刀を使うと、眼鏡をかけても1ヶ月は普通の人とそうじゃない人の見分けが付かなくなる。それも辛い。
だけど、教える義理はないからそのまま言葉を切った。
彼女は「ふむ」と小さく唸った。左袖が考え込むように口元を隠す。何かを思い出そうとしているのか、眉間にしわが寄っている。
何を考えてるのか分からないけど、しばらくほっとこうと本に指を掛けたその時。
「分かった! それが君の言ってた「約束」の相手だ」
あ、それを思い出そうとしてたんだ。本にかけた指を離す。
僕が答えようとするより前に、彼女は満足げに「そうかそうか」となんか勝手に頷いていた。
「なるほどそれは迂闊に話す訳にはいかない内容だ」
うんうんと何かを納得したように彼女は頷いて、よいしょ、というかけ声と共に立ち上がった。ふらふらとしてるし、小さく「痛たた」と口にしたものの、足取りはだいぶしっかりしているように見える。
それから僕の視界で袖が揺れた。
見上げると、彼女は左手を差し出していた。右腕は――傷が深いのだろうか。だらりと下げられたままだ。
「そろそろ帰ろう」
そう言う彼女は薄暗い空を背に、穏やかな顔をしていた。
「一人で立てるよ」
「そうか」
彼女はあっさりと手を引いた。
「ところで」
本をポケットにしまいながら、今度は僕が尋ねた。
「うん?」
「あいつは私だって言ってたけど。あれはどういうこと?」
「ああ。それは――」
踵をこつんと鳴らして、彼女は言った。
「言葉通りの意味さ」
そうして僕達は屋上から踊り場へと戻ってきた。
明かりの付いていない階段は真っ暗だったけれど、不気味さなどは全くない。
ただ。
そこには、上り階段あった。
眼鏡を外して、まぶたを押さえる。
瞬きを何度かして顔を上げる。
上り階段があった。
「ああ、もしかして見えるのかい?」
「……と、言うことは僕の見間違いじゃないと」
深い溜息が出た。
「これが見えるなんて、やるじゃないか」
素質あるよ君。と彼女は笑う。
「前にも言われたことがある」
そんな素質、無い方が正直嬉しいんだけどなあとぼやいてみたけど、彼女はそれを笑顔一つで受け流した。
「まあまあ。と、そうだ。最後にひとつ」
「質問ばっかりだね……」
なに? と僕はその続きを待つ。
彼女は僕へ真っ直ぐ向きあい、視線をぴったりと合わせてきた。
「私は2年8組の榎津。榎津秋という」
「榎津先輩」
繰り返して呼ぶと、彼女は笑って頷いた。
「あはは、律儀だな。私は万年2年生だから先輩とかつけなくても良いよ。それで、君は?」
「和泉」
「苗字は?」
「苗字が和泉ですよ」
「名前は?」
「別にいいでしょそんなの」
苗字で十分だと言うと、彼女は少しだけ不満げな顔をしたが、すぐにくすくすと笑った。
「じゃあ、和泉君。これからよろしく」
「……僕はできれば静かに本を読む場所が欲しいんだけど」
「はは。君のような人間にそんな場所はないと思うよ」
諦めるんだな、と彼女は笑って上り階段に足を掛けた。
「――じゃあ、私はこっちだから」
僕は下り階段に足を降ろす。
「じゃあ、僕はこっちだから」
「それじゃあ、またいつか」
「――それじゃあ」
そうして僕達は、違う道へと帰って行った。
□ ■ □
「で。君は懲りもせずここに居るのかい?」
僕は屋上の前の階段で本を読んでいた。
爽やかな季節は過ぎて、梅雨が近い。今日は日差しではなく薄暗さが階段にあった。
隣には彼女――榎津がいる。
制服は今のものじゃなく、デザインが変更される前のセーラー服だった。袖は相変わらず長いけど。きっとそれが、彼女本来の姿なのだろう。
一体いつの人なのか、は聞かない方が身の為だと思って聞いてない。
「仕方ないじゃないか。他に良い場所なかったんだ」
教室は居残り勉強するクラスメイトがいるし、部活は幽霊部員だし。
ページを捲るとぽふ、と袖が文字を覆い隠した。
「……何」
視線を上げる。
榎津がにこりと笑った。
「あのさ。――ひとつ話を聞いてもらえないだろうか」
僕ににっこりと笑いかける彼女は、これからとても楽しい物が待ってるぞ、と目を輝かせていた。
いや、実際ロクな話じゃ無いと思うんだけど。
僕は溜息をついて本を閉じた。
「……まあ、聞くだけなら」