1.屋上の怪 1
「知ってるかい?」
隣に座った彼女は朗々と言う。
僕は眼鏡の位置を少しだけ直して。文庫本に視線を落とし、黙ってそれを聞き流している。
階段には春先の日溜まりが落ちていて。背中をぽかぽかと温めてくれる。
彼女のことはよく知らない。
入学式の日に見つけたこの場所で本を読んでいたら、数日前にやってきた。
名前はええと――なんて言ったっけな。
タイの色と学年章は2年生であることを示しているから、先輩なのは確かだ。
そんな彼女は視線を文庫に落としたままの僕に向けて、語り続ける。
「開かずの扉の向こうにある窓から外を覗いてはいけない」
「校舎裏にある小さなお地蔵様には、水を欠かさないこと」
「第二校庭の片隅にある枯れ井戸は蓋を開けない」
「図書室で文字の読めない本を見つけたらそのままにしておく」
「閉店後の売店。誰も居ないはずなのにする物音は、ただの品出しの音だ」
「2年8組の出席番号がひとり多いのも気にしちゃいけない」
「――さて。ここで君に質問だ」
そこで僕は初めて視線を声の主に向ける。
真直ぐ斜めに揃えられた前髪。そこからは、ちょっとくすんだ黄色の。好奇心旺盛ですと全力で主張する瞳が僕を見ていた。
指先を覆って余る程ぶかぶかの袖を僕に向けて、彼女は機嫌良く問いを投げかける。
「この学校の七不思議。最後のひとつは一体何かな?」
「……4時44分に屋上へ繋がる階段に近付いちゃいけない」
「そう、その通りだ!」
流石だね、と彼女は機嫌良く僕を褒める。が、すぐにそれは溜息へと変わる。
「だと言うのに、君はさ」
「何」
「今、何時だと思ってるんだい?」
腕を少し動かして、時計を確認する。
「もうちょっとで4時50分」
「うん。それで、ここは?」
「屋上前の階段」
「そう! そこだよ!」
びし! と彼女は僕を指差し……たのだろう。実際は袖が僕の目の前で揺れただけだった。
無視すると、そのまま読んでいた文庫本をぐっと下に押しやられた。
「もう5時も近いっていうのに、屋上に繋がる階段で。君は何をしてるのかな……?」
「読書」
「むう。悪びれることもなく言い切ったね」
「事実だから」
言い切ると、彼女は頬を膨らまして手を文庫本から引き下げた。
全く君は、と小さな文句も聞こえてきたが、僕はそれをそのまま返してやる。
「それを言うなら、先輩もそうでしょう?」
「うん?」
彼女は首を傾げたらしい。さら、っと小さく髪が揺れる音がした。
僕は本を閉じて身体を彼女の方に向ける。
「そっちこそ、こんな時間に屋上に繋がる階段で何をしてるの?」
「あー……それは」
彼女はちょっとだけ気まずそうに視線を逸らした。
「何。知られると都合が悪い?」
「うん。都合が悪い」
「そう。それなら何も聞かないけど。同時に僕はここから動くつもりないですよ」
折角見つけた静かな読書スペースなんだ。奪われてなるものか、と居座る姿勢を見せる。ぐぬぬ、と悔しそうな困ったようなうめき声がしたけど無視だ。
二人の間にしばらく気まずい――彼女にとって、という前置きが付く気まずい沈黙が続く。僕は別に本に集中するだけだから気にすることもない。
隣で彼女は色々と考えているようだった。
きっと僕をここから追い出すための手段を講じているのだろう。
残念ながらどんな手段であれ、動くつもりは毛頭ないんだけど。
そのまま文庫本のページがかなり進んだ頃。
「今日は私の負けだ」
はあ、っと溜息をついて彼女は突然白旗を振った。
「仕方ない、帰ることにしよう」
彼女は残念そうに頷いて立ち上がる。上履きらしくない、こつんという音が響いた。視線を少しだけ上げると、編み上げのショートブーツが目に入った。先生に見つかって怒られても知らないぞ。
彼女はそのまま身軽に数段飛ばして下の踊り場まで飛び跳ねていく。
「そうだ」
くるりと振り返って彼女は言う。
「君、■■■に見つかる前に帰りなよ」
ざざ、っと言葉にノイズがかかって聞こえた。彼女の表情は逆光でよく見えなかった。
「ここ、人来ないから」
「そうだけど。――夕方の学校は危ないからな」
「そう。忠告ありがとうございます」
文庫本に視線を戻して言葉を返すと、彼女の足音がこつんこつんと遠ざかっていった。
□ ■ □
「――で。君は今日も居るのか」
「そうだね」
次の日も。その次の日も。彼女はここにやってきては僕の読書の邪魔をし、1時間程したら去っていく。
春が過ぎて新緑さわやかな季節になってもそれは続いていた。
まあ、ほぼ毎日飽きもせずやってくるもんだ。と僕は逆に感心しながら彼女に適当な相槌を打っていた。
そのせいか、いつの間にか僕の敬語も随分と剥がれ落ちて、対応も雑になっていきてる。
「それにしても君、授業は出なくていいのかい?」
ある日のこと。彼女は隣で頬杖をつきながらそう言ってきた。
放課後だから、と答えると、彼女は口を尖らせたようだった。
「それなら部活はどうしたんだい? 1年生は部活動の入部が必須だろう?」
バレた。
この学校は、1年生は必ずどこかの部活に所属すること。という面倒な校則がある。
だから僕も一応、形だけは所属しているんだけど。
「幽霊部員」
できるだけ簡潔に答えた。
「ふうん? 入学1ヶ月にして幽霊部員とはやるな、君」
「部長がそれでも良いって言ったから」
だから放課後は存分に読書の時間に充てさせてもらうことにしている。
部長もそこは了承済みだ。あの人は優しいというか甘いというか。よくそれで部が成り立っているもんだ、とも思うが、そんな緩さだからこそなのかもしれない。
「なるほど。それなら、ちょっと話に付き合ってくれないかい?」
「この本以上に面白いなら」
「それは私の話術次第だからちょっと自信はないんだが――まあ、聞いてくれ。そして聞いたら帰ってくれると嬉しい」
そこまでして聞いて欲しい話とはなんだろう? 少しだけ興味が湧いた。
栞を挟んで、顔を上げる。
「……話に満足できたらね」
頷くと彼女はありがとう、と一言笑って「まずいくつか聞きたい」と言葉を整えた。
「君、幽霊とか信じる?」
「まあ、それなりには」
「霊感は?」
「ない」
きっぱり答えると彼女は不思議そうな顔をした。
鳩が豆鉄砲をくらったような、という表現がぴったりな表情をしている。
「そうなのか……?」
「そうだけど?」
何か? と首を傾げると、彼女は「いや、いいんだ」と首を横に振った。袖を口元に当てて、少しだけ何かを考えている。
僕の答えをどう受け止めたものか考えあぐねているようだった。
「何。そんなに霊感ありそうに見えてたの?」
「度胸はあると思っていたが……いや。まあ、いいんだ。霊感が無いというならそれでいい」
なんなんだ、と思うけれど彼女はぱたぱたと袖を振ってその話を打ち切った。
「この学校の七不思議って言うのはまあ、君も知ってるよな」
「……質問、まだ続きます?」
すっと本を取り出すと、「ああっ、待って!」と慌ててその本を押さえ付けてきた。
「分かった、話を先に進めよう。あの七不思議、今現在メジャーなモノをそうまとめているだけで、この学校にはそれを上回る数の逸話が存在する。ここもそのひとつなんだ」
「へえ。それは、先輩がここに来てた理由と関係が?」
う、と彼女の声が小さく詰まった。
「……ん。まあ。それなりには」
彼女は視線を少し彷徨わせてなんだか言いにくそうにしている。
まあ、彼女なりのタイミングがあるのだろう。しばらく待ってみると、何か意を決したのか「よし」と小さく呟いた。
「君にはこれ以上隠し通せる自信が無いから正直に話すとだね」
「うん」
「私は人間じゃないんだ」
自己紹介より気軽な声で、彼女はとんでもないことを言った。
「いわゆる、学校の怪談とか怪異というやつだ」