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夏草の線路

作者: 長曽禰ロボ子

挿絵(By みてみん)


 夏は趣向を変えて毎年私を誘ってくれるのに、私の思いはいつもあの夏に帰る。

 入道雲と夏枯れの野原。

 真っ黒に日焼けした彼と蒸気機関車。

 もう一八になった今でも、小学四年の夏が私を捕まえて放さない。




 八月。

 通っている大学がある新潟市から同じ新潟県でも西の端のこの町に帰省してみると、お盆の混雑を嫌って早めに休みを取った兄一家の帰省とかちあってしまった。両親と私。兄、兄の奥さん、甥っ子ふたり。狭い団地にこれはきつい。

「おばさん、おばさん、おばさん」

 甥っ子どもが暑苦しくもなついてくる。

 昨日、プロレス技を教えてやったのが楽しかったのかしら。我が家にはTVゲームなんてないし。

「こら、おばさんじゃないでしょ。お姉さんと呼ぶんでしょ」

「いいのよ、義姉(ねえ)さん。私がそう呼べって言ったんだから」

 歳が離れている兄がいるってことは、若くして「おばさん」と呼ばれる権利があるということだ。私は結構それに憧れていた。そのうち、「お姉さんと呼びやがれ!」と目くじらたてる歳になるんだろうけど、それまでは「若いおばさん」を楽しみたいの。

「じゃあ、夏織(かおり)おばさん。そいつらをどこか連れていってくれよ。暑苦しいったらありゃしねえ」

 エアコンの前でごろごろしていた兄が言った。

 わかってないな、兄。

 自分がお義姉さんも連れて遊びに行くんだよ。うちの親の前で息が詰まりそうなのはお義姉さんなんだから。ドライブにでも連れて行ってあげなよ。

 でも。

「いいよ」

 私は兄に手をつきだした。

「……なんだよ、この手は」

「軍資金」

 どんな「おばさん」だよ。

 ぶつくさ言いながらも、兄は諭吉さんを一枚出してくれた。

「よっしゃ、町にでも行くかあ!」

 といっても、ほんとになにもない田舎町だけどね。

 まあ、私も息が詰まりそうではあったのだ。




「ねー、泳ごうよ」

「ねー、海あるじゃん」

 団地を出てすぐに甥っ子たちが言いだした。

 うちの町は海辺の町だ。団地のすぐそこに海が広がっている。

「だめだよー。泳げないんだ」

「どうしてー」

「どうしてー」

 私が生まれる前。

 街中を通すより国有地である海浜を通した方が安上がりだと、そこそこ広かった砂浜を埋め立てて国道バイパスにしちゃったのだ。反対した人は多かったらしい。町を素通りされてしまうとか、貴重な観光資源を自ら捨ててどうするのだとか。

 でも結局やってしまった。

 堤防を兼ねているから一石二鳥だと。

 だけど残されたのは海のない海の町。

 幾らテトラポットを積んでも沈んでいく蟻地獄のような堤防。お店のひとつも建たない建てる土地がないバイパス。結局、街中にも道路を通す工事が始まっているようだけど、田舎なんてそんなものだ。

 行き当たりばったりに大切なものを失ってしまう。

「おや」

 遠くから太鼓の音が聞こえてきた。

「今日、祭か。そうか、祭だっけ」

 これも観光のために作られたお祭りで、正直言ってそれが露骨すぎてあまり愛着はない。でもきっと甥っ子たちは無邪気に喜んでくれるだろう。

「街に行こうか。屋台が出てると思うよ」

 君たちのお父さんから巻き上げた軍資金もあるし。

「うん、行く!」

「行くーー!」

「わたがし!」

「焼きトウモロコシ!」

「りんご飴っ♪」

「……」

「……」

 おっ。

 なんで君たちりんご飴でテンション落ちるの。なんでなの。

「焼きそば!」

「たこ焼き!」

「りーんごっ飴っ♪」

「……」

「……」

 ようし。

 意地でも買ってやるぞ、りんご飴。

「ねえ、おばさん、あれなに!?」

 話を逸らすんじゃねえ。

「あれなに」

「あれなに」

 ん?

「蒸気機関車だ!」

「蒸気機関車だよ、おばさん!」

 団地を出てすぐに広がる野原。

 昔は工場があったらしい。

 そしてJRの駅まで繋がる線路があったらしい。いいえ、この夏草の野原の中にだけその線路は残されている。そして駅まで貨物を運んだのは日本でいちばん小さな蒸気機関車。

 私はチリッと胸が痛むのを感じた。

 まだあったんだ。

 子供の頃に一度見たきりだったのに。まだ残っていたんだ。




 ちょうど私があんたたちの頃。

 一〇年前のあの夏。

 あの蒸気機関車が走るところを、私は見ることができなかった。




 一〇年前――正確には八年前の夏かな。

 私は小学四年生。

 遊びたい盛りだ。

 その遊びたい盛りは、しかし夏休み前の通知表の結果が思わしくなかった。

 三と四だけ。

 私自身は悪くはないなー。なんかきれいだよねとのんびり考えていたのだが、両親とも教師で年の離れた兄が一流国立大に現役合格する我が家にあって、これは許されざる成績なのだ。

 私に下された判決は、夏休み中の図書館通いだった。

 遊びたい盛りにこれは死刑に等しい。

 しかし反論はできない。

 反論など許されない。

 父はともかく、いや、父も怖かったけど、とにかく母が怖い。同じ小学生を相手に規律を守る手練れなのだ。モーションのないビンタが飛んでくるのだ。私に許されるのは「どうごまかすか」「図書館行ったふりでどう遊ぶか」と考えることだけなのだ。

 だけど、その悪巧みを考える気力も萎えた。

 その夜。

 いつもなら明日から夏休みのわくわくの夜だ。

 暑さに目が覚め、水でも飲もうと襖に手をかけたところで両親の声が聞こえてきた。叱られたばかりだ。手が止まった。

「夏織は誰に似たんだ」

「いやになるわ」

「夏織は誰に似たんだ」

「いやになるわ」

 私は怖くなって布団に潜り込んだ。

 暑さなんて吹き飛んだ。体が震えた。カチカチと歯が鳴った。私は親を泣かせる子なんだ。ダメな子なんだ。

 怖ろしくて悲しくて。

 私はしばらく眠ることができなかった。




 灰色の夏休みが始まった。

 翌朝、私は本当に図書館へと送り出された。

 夜の両親の記憶がまだ鮮明だ。逆らえるわけもない。梅雨明けまもない燃えるような陽射しの中を私は歩いた。

 あきれるほど青い空。

 どこまでもおだやかな青い海。

 山々までもが青い。

 でも灰色なのだ。私の心も、楽しみにしていた夏休みも、これからずうっと灰色なのだ。いつ終わるかもわからない果てのない灰色なのだ。ひどく悲しくて、不幸のヒロインのようで足が重い。

 ふと視線を上げると、夏草の野原。

 立ち入り禁止の紐が張り巡らされているけど、ふつうに私たちはそこで遊んでいた。だから知っていた。そこには線路がある。

 私は紐をくぐり、野原に入った。

 JRの線路からは外れた線路。

 夏草に埋もれた錆びた線路。

 私は線路に腰を下ろした。もう陽に焼けて熱くなっている。私はそのまま横たわり、線路に頭を乗せた。

 少しくらい熱いのは我慢しよう。

 だって、もうすぐ終わるのだから。

 もうすぐ、全部終わるのだから。


「ここじゃ死ねねえぞ」


 その低く太い声に私は飛び上がった。

 まっ黒に日焼けした顔に麦わら帽。

 小学四年生にとってはとてつもなく背の高い人がそこにいた。

「この線路にはもうなにも走らない。死にたいならあっちにいけ」

 彼は野原の向こうのJRの線路を指さした。

 サボろうとしたら、魔人が来た!

 それは衝撃的で、私は慌てて逃げだした。魔人は追ってこなかった。




 図書館ではけっこう真面目に勉強した。

 サボろうとしたら現れた魔人。

 メールによる母のチェックが入るというのもある。まあ、もう両親を悲しませるもんかという健気さも少しはあった。残念ながら今でもそうなのだが、その手の誓いなんて数日後にはさっさと忘れてしまうのだけれど。

 お昼を食べるために団地に戻る時、あの野原の前を通るのが怖かった。

 魔人はいなかった。

 ほっとしたけど、なんだか残念でもあった。




 図書館通い午後の部だ。

 午前中は真面目にノルマをこなしたし、母のチェックでも珍しく褒められたし、午後は大好きな図鑑を眺めることもできるだろう。なにしろ図書館だ。いくらでも図鑑がある。

 ぎょっとした。

 魔人だ。

 夏草の野原に、魔人の麦わら帽と大きな背中が見える。

 魔人はなにか黒い大きなものを弄っている。なにをしているんだろう。なにか黒い大きなもの。いいえ、図鑑を眺めるのが大好きな私はそれがなにかを知っていた。

 蒸気機関車だ。

 夏草を踏んで近づいてくる音に気づいたのだろう、彼は振り返った。

 あら。この魔人、結構ハンサムで優しい目をしているわ。

 朝にからかった子供か。たぶんその程度の認識で私から視線を外し、彼は自分の作業へと戻った。

「それ、なにをしているんですか」

 私は聞いてみた。

「オーバーホールをしている」

 期待していなかった返事がかえってきた。

 私はすぐに調子に乗る子だ。今でも。

「それ、どこから持ってきたんですか」

「どうするんですか」

「動くんですか」

 彼は私の質問をすべて無視した。

 さすがにこれ以上はいけないらしいとお調子者の私も思った。

 私は近くにあった大きな石に座って、彼の作業を眺めた。石も熱かったが、立ったままよりいい。

 眩む強い日ざし。

 金属と金属がたてる耳障りな音。

 そのうち、その音が響いてきた。

 こん、こん、こん。

 彼が小さな金槌で蒸気機関車を叩いているのだ。

 こん、こん、こん。

 こん、こん、こん。

 暑さと、心地よいリズム。昨夜よく眠れていなかったのもあるからだろう、私はそのうち眠ってしまったようだ。母から渡された携帯が鳴っているのに気づいて私は目を覚ました。

「なにをしているの。早く帰ってきなさい!」

 不機嫌な声だ。

 時間を見ると一時半。

 まだ呼び戻される時間じゃない。

 魔人はまだ作業をしている。なごり惜しいが母の命令は絶対だ。私は立ち上がった。

「あ」

 頭に麦わら帽が被せてある。

 そうだ。魔人は短く刈り込んだ後頭部を私に見せているじゃないか。

「あの」

 私は彼に声をかけた。

「ありがとうございました」

 彼は無言で私が差し出した麦わら帽を受け取ると頭に被った。そしてすぐに私を含めたすべてを無視して作業に戻った。

 私はもう一度頭を下げて夏草の野原をあとにした。




 思いがけずはやく呼び戻されたのは、午後の図書館をサボったのが母に筒抜けになっていたからだった。午前中の健気な努力となけなしの評価は霧散し、柔らかだった母はいつもの不機嫌な母に戻ってしまった。

「明日から、健一(けんいち)君に一緒に行ってもらいます」

 なぜだ、どうしてだ。

 疑問符の嵐だった私は、母のその言葉ですべてを理解した。

 また健一か!

 同じ団地に住む同級生の「健一君」。彼は、私の両親にとって私専門の情報屋だ。例えば私が給食を残すと、詳しいリストを用意してご注進にくる。健一君はそんな男の子なのだった。

 そして翌朝。

 ヤツはしれっとやって来た。

「おはよう、夏織ちゃん」

「あんた、いくらで雇われたのよ」

「ちがうよ。僕から言い出したんだ。僕が夏織ちゃんと毎日図書館で勉強するって」

 私は成績は悪いが馬鹿ではなかった。この女顔の少年が私に恋していることくらい承知していた。だからなんだ。今の男っ気のない私からしたら大切にしなくてはならない貴重な絶滅危惧種かもしれないが、当時の私からしたらただの卑怯で細かくてうざったいヤツだったのだ。

 ただまあ。

 この女顔の少年が私に恋しているのなら、それを利用しない手はない。ふたりで団地を出て、そして私の目に映るのは夏草の野原だ。

「あのさ、健一君」

「なあに、夏織ちゃん」

「サボろうよ」

 単純突撃突進娘はこの頃から立派な単純突撃突進娘なのだった。

 健一君は顔を歪めた。

「おばさんに頼まれたんだ」

「一緒に勉強したって言ってくれればいいんだよ」

「一度失った信用を取り戻すのは大変なんだ」

 大人か。

「それに、バレたときに叱られるのは僕も一緒なんだ」

「う」

 それは重い。

 うちの母のビンタは痛い。まさかよそさまの子を叩きはしないだろうが、想像するだけでこの言葉はとんでもなく重い。

 そもそも。

 野原に魔人がいない。

 蒸気機関車だって見当たらない。野原はただの夏草だらけの野原だ。

「行こう、夏織ちゃん」

「……」

 どこか行っちゃったのかな、あの魔人。

 がっかりした。

 恨めしくてなぜか胸が痛かった。




 それからしばらく、冷房が効いた図書館で過ごす青白い夏が続いた。

 私はぼーっと窓の外を眺めていることが多かったが、健一君はいつ見ても持ち込んだ宿題をしているようだ。真面目だなと思う。どうしたって不真面目で、それでいてそれを自己嫌悪してしまう自己完結な私にはうらやましい。

 私が健一君だったらいいのに。

 私が兄貴だったらいいのに。

 こんな注意散漫なブー垂れ娘じゃなくて、真面目で頭がいい子だったらいいのに。

 ちえっ。




 そして突然彼は戻ってきた。あの夏草の野原に。

 あの音とともに。


 こん、こん、こん。

 こん、こん、こん。


「あっ、夏織ちゃん!」

 健一君が止めるのも聞かず、私はロープをくぐって走った。


 こん、こん、こん。

 こん、こん、こん。


 帰ってきた!

 蒸気機関車とともに帰ってきた。私の魔人が帰ってきた!

「どこにいってたの!」

 私の声に、彼はゆっくりと振り返った。相変わらず日焼けしたまっ黒な顔。魔人は視線を上げた。私を追いかけてくる健一君を見ているのだろう。健一君は、びくっと足を止めてしまった。

「どこにいってたの! 一週間もどこにいってたの!」

 戸惑っている。

 そりゃ、小学四年生の女の子から突然責め立てられちゃなあ。

 魔人がなにも答えないので、私は健一君へと振り返った。そして得意そうに胸を張った。

「どう!?」

 どう、じゃねえよ。

 少し落ち着けよ、単純突撃突進娘。今の私と同じだよ。会話になんねーよ。

「……」

「……」

 魔人はなにも言わないし、健一君は大きな魔人に縮こまっているし、しょうがないので私は前にも椅子にした石に座った。

「続けて」

 強いぞ、単純突撃突進娘。

「……」

「……」

「続けて!」

 魔人は私に背を向けた。

 こん、こん、こん。

 こん、こん、こん。

 またあの音が響き始めた。リズムに気分が落ち着いてくる。

「健一君」

「……」

「あたし、しばらくこれを見て行く。一緒に見る? じゃないなら、図書館に行っちゃえば?」

「……」

 健一君は魔人におびえて後退るように遠ざかっていった。道に出ても、どこにも行かずにそこでウロウロしている。

 私はその姿をにらんでやった。

 ああ、すぐに母に知られてしまうんだ。彼の御注進が待っているんだ。怖いな。こんなの、やめちゃおうか。でもさ。だけどさ。

「こんなもん、見ててもつまらんだろ」

 あの低い声が聞こえてきた。

 魔人は私に背を向けたままだ。

「それ、蒸気機関車でしょう」

 ほら、すぐに調子に乗る。

「そうだ」

「あなたの?」

「ちがう。この野原に捨てられていた。おれはそれを整備しているだけだ」

「でも、ときどき消えちゃうよね。ていうか、そんなのあるの知らなかったもの」

「整備する時以外はブルーシートを被せている」

 そうだったのか。

 そういえばここは資材置き場のようになっていて、ブルーシートとか廃材とか、ところどころに放置されている。

「面白いか?」

 魔人が言った。

「うん、面白い。特に、その、こん、こんっていうの」

「これか」

 彼は自分の手の金づちを見た。

「どこか悪いところがないか、音を聞いて確かめている」

 ふうん。いいな。悪いところがわかるんだ。

 私もこんこん叩いてもらって、悪いところを見つけてもらえないかな。

 こん、こん、こん。

 こん、こん、こん。

 私をいい子にしてくれないかな。

 こん、こん、こん。

 こん、こん、こん。

 携帯が鳴った。わかっている。母だ。振り返ると健一君の姿はない。わかっている。してしまったことの代償は払わなければならないのだ。ほんの少しの自由を味わって、叱られて、元に戻るだけだ。

「さようなら」

 私は頭を下げた。

 彼は振り返って私に顔を向けてくれた。

「ああ」

 それだけ言うと、彼はふたたび私を含めたすべてを無視して作業に戻った。

 重い足で野原を歩いていると、歌声が聞こえてきた。年の離れた兄が古い時代の洋楽が大好きで、私も小学生にして邦楽より洋楽に詳しい生意気な子供だった。だからその曲がなにか私にはわかった。

 ボブ・ディランの『風に吹かれて』。

 真っ青な空の下、蒸気機関車を弄りながら魔人が歌っている。




 もちろん健一君の御注進はあった。

 家に戻った私はとりあえず叱られた。

 だけど同時に幸運も待っていた。兄の帰省だ。

 おかしい。兄が自慢で大好きな母は、兄の帰省の前にはそわそわするはずだ。だいたい、何日も前から予定が知らされているはずだ。図書館通いの日々で、みんな頭の中からすっ飛んでしまったのだろうか。

 まあいいや。

 とにかくこれでしばらくは安穏の日々だ。

 兄の帰省を私の泣き声で汚すわけにはいかないのだろう。母のお小言は最低限で済んだし、ぶたれずにも済んだし、それに、お風呂からあがるとまだ夕方なのに豪華な夕ご飯だ。いつもは沈黙で重い三人の食卓が、今日は笑顔で会話が弾む明るい食卓だ。

 ああ、ほんとだなあ。

 そうなんだなあ。

 お父さんは溜息をつかないし、母は不機嫌じゃないし。




 なんだあ、ただ私がいらない子なんじゃん。それだけなんじゃん。




 降るような星空だった。

 虫の鳴き声に混じり、彼の歌声が聞こえてくる。

 相変わらず、『風に吹かれて』。

「おっ!?」

 蒸気機関車の運転席に座っていた彼は、私の姿を見つけて腰を上げた。

「子供の癖に、こんな時間になにをしている。帰れ」

 魔人のくせに、まともな事を言う。

「帰らなくていいもん」

「帰れ」

「家にはお兄ちゃんがいるもん。あたしなんかいらないんだもん。あたしは――あたしなんて――」

 そこまで言って、私は泣いた。

 自分がかわいそうで。

 世界一かわいそうで、大声を上げて私は泣いた。

「なにか言われたのか」

 手が伸びてきて、私の頭を撫でた。大きい手だった。

「おまえの年で言われたらつらいだろうな。おれなんかよりずっとつらいだろうな」



 おれたちは大学にバリケードを張った。

 機動隊が突入してきてむちゃくちゃに殴られた。

 みんなはなにかを変えようとしていた。おれだけが違った。おれはただ、祭に参加していただけだった。みんなと何かをしていたかっただけなんだ。

 かつての仲間が同窓会をしているのを見た。

 楽しそうに、いいスーツでいい酒を飲んでいた。

 おれだけがなにをしているんだ。偽物だったおれだけが、今でも偽物のまま流されて、いったいなにをしているんだ。



「見ろ」

 彼が言った。

「この蒸気機関車は小さいんだ。本物より小さいんだ。いらなくなって捨てられていたんだ。だけど動くんだ」

「動くの?」

「動く。おれが動かす」

 彼は夜の野原を見渡した。

 線路は野原の中だけだ。昔は広いと思ったけど、ただの工場跡だ。夏草が茂るだけの野原だ。たったそれだけの線路だ。

「おれはいつも言い訳ばかりだ」

 彼が言った。

「動かしてやる。石炭だって用意しているんだ。どんな線路だって、こいつは走ることができるんだ」

 待ってろ。

 彼は闇の中に消えた。

 虫の声がすごい。夏草の中に佇む蒸気機関車の黒い影。彼は小さいといったが、その頃の私には大きく見えた。

 人の気配がして私は振り返った。

 彼にしては早い。

 母だった。私は激しく頬を打たれた。私が泣いても母は容赦なかった。更に何発かぶたれ、私は団地へと連れ戻された。




 あの蒸気機関車は、あの夜、野原を走ったのだろうか。

 誰も見ていない。

 誰も音を聞いていない。

 だけどきっと彼らは走ったのだ。私はそう思っている。そう信じている。




 それから彼の姿を見ることもなくなった。

 ブルーシートの下に蒸気機関車だけが残された。

 やがて私は、あの線路に関することを自分で調べることができる歳になった。あの線路はセメント工場と駅を結ぶものだったらしい。町に工業港ができてその線路は不要となったが、折からの「SLブーム」とかで観光客を見込んだ町が線路を買い取った。

 日本一小さなSL。

 しかしたいして観光客は来なかった。

 線路の撤去も話題になったが、意外とかかる撤去費用のため立ち消えとなった。線路と機関車は忘れ去られた。彼がいなければ、あの蒸気機関車はあの野原で朽ち果てていたのだろう。

 ひとつ不思議なことがある。

 彼が口にしたことを考えれば、あのときでも彼は六〇を越えていなければおかしい。でも私の記憶のなかで彼は若かった。今の私より少し上くらいか、せいぜい二〇代。日に焼けたたくましい背の高い人だった。




 駅前をパレードが練り歩いている。

 甥っ子ふたりとベンチに座ってりんご飴をなめていると、ときどき高校時代の友達が手を振って通り過ぎていく。高校生だった頃からもう誰も歩いていなかった大通りが今は賑やかだ。この祭に愛着はないが、町にとってきっと必要なものなのだ。

 それにしても、卒業してまだ半年も経っていないのに、みんな大人の顔になっている。

 ほとんどの子がもう社会人。

 学生なんてやっている私は取り残されていく。

 「あっ」と、私は腰を浮かせた。

 雑踏の中にあの魔人を見た気がしたのだ。

 あの夏のままに若く日焼けした彼が、高い背を少し猫背にして雑踏の中に消えていった気がしたのだ。

「おばさん」

「おばさん、どうしたの」

 突っ立っていると、肩を叩かれた。

「やあ、帰ってきていたのかい、夏織ちゃん」

 健一君だ。

 健一君は春から市役所に勤めていると聞いた。団地を出て一人暮らしもしているらしい。隣には彼女らしいきれいな女性(ひと)

「その子たちは?」

「お兄ちゃんの子供」

「連絡するよ。今夜にでも呑もうぜ。けっこうみんな帰ってきてる」

「そうだね」

「あ、知っているかい」

 行きかけた健一君が振り返って言った。

「よく遊んだろ、あの野原。ショッピングセンターになるんだってさ。ほら、線路があった野原さ」

 彼女の手を引いて、健一君は歩いていった。




 なくなっちゃうんだ、あの野原。

 魔人と錆びた線路と蒸気機関車。私の夏を閉じ込めたあの野原が――。




「わあ、この線路、ちっちゃい!」

「ちっちゃい、ちっちゃい!」

 甥っ子たちがはしゃいでいる。

 ほんとうだ、この線路って小さいんだ。私の子供の頃なんて、そんなことに気づきもしなかった。

「蒸気機関車もちっちゃい!」

「ちっちゃい!」

 甥っ子たちは歓声をあげて蒸気機関車へと走っていった。

「……」

 なぜ気づかなかったのだろう。

 あれから一〇年。八年。

 手入れをしてくれる人がいない蒸気機関車がなぜあんなにきれいなの? それどころか、ブルーシートすらかけられてないじゃない。


 こん、こん、こん。


 その音が聞こえてきた。

 こん、こん、こん。

 こん、こん、こん。

 私を小学四年生に引き戻す、懐かしい音。

 蒸気機関車の陰から誰かが顔を覗かせた。背の高い誰か。見たことがない人。でも誰かに似た人。彼は目を輝かせている甥っ子たちに微笑んだ。

「ねえ」

 私は彼に声をかけた。

「それ、その、こん、こんって」

 私の言葉に、彼は自分の手の小さな金づちを見た。

「ああ、これ。音で確かめているんだ。どこか問題がないか」

「昔、同じようにしていた人がいたの」

「えっ」

 彼は甥っ子たちのように目を輝かせた。

「君、おれたちの前にこいつを整備してた人を知っているんだ! ねえ、会えるかな!」

 私は頭を振った。

「子供の頃、見かけただけ」

 そしてもう、どこかに行ってしまった。

「そうか、残念。おれたちの前にすごく丁寧な仕事をした人がいるなってさ、みんなで言ってたんだ。こいつ、小学校に寄贈されるんだ。それで好きな連中が集まって、少しでもきれいな姿で送り出してやろうとおめかししてるんだ。ああ、その人と話してみたかったなあ」

「小学校に寄贈されるの?」

「そう。棄てられたり、このままボロボロになっていくより、小学校の校庭に屋根をつけて飾ってもらった方がいいだろう? でもさ――」

 そして彼は、いたずらっぽくニヤリと笑った。

「おれたちは、こいつを走らせるつもりなんだ」

「走るの!」

「これ、走るの!」

 甥っ子たちが声をあげた。

「そうさ、たった数十メートルだけど走るんだ。屋根の下でこいつはもう動けなくなるんだ。そうなる前に、こいつをもういちど走らせてやるんだ。でもこれは内緒なんだ。おれたちだけでやるんだ。それでさ――」

 彼は私へと顔を向けた。

 まっ黒に日焼けした笑顔を。

「君たちもどうだい」

 あっ!

 ――と、あざやかにあの夏が私に甦った。

 私と彼。小さな蒸気機関車と金づちの音。群青の空。夏枯れの野原。ボブ・ディラン。

「ねえ、なぜ泣いているの?」

 彼が言った。

 甥っ子たちも心配そうに私を見ている。

 待って。

 もう少しだけ待って。このあざやかさの洪水にもう少し身を委ねさせて。

 やがて私は言うだろう。

 思いっきりの笑顔で。無邪気な声で。楽しみ!って。




 そして私は、一〇年ぶりに夏を終えることができる。

 今年の夏は、まだ始まったばかりなのだけど。


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