32. この胸の想いは
ポンッと弾けるような音がして、目の前が一瞬霞んだ。
「ん?」
「えっ?」
「なんと…このような姿とは」
再び目を開けると、そこには可愛らしい女の子が立っていた。
年の頃は10歳くらいだろうか。透き通る肌に勝気なツリ目気味の瞳、淡い栗色のふわふわの髪は肩まで。物珍しそうに自らの手や足を眺めては含み笑いをしている。
「か、可愛いけど…」
どちら様ですか?と言いかけて、それはあんまりな気がして口を閉じた。
「どちらの趣味かのう、かように可憐な乙女の姿になろうとは」
「趣味?」
って何ですか?と口にしかけて、ユリウスが微妙な顔をしたまま口を挟んだ。
「折伏した後の聖獣の姿は主人の望みを反映すると言われている」
「主人の望みって、私のこと?」
こんな可愛い子があの美しくも壮絶に凶暴な古代獣だったなんてと、ソフィアは目を丸くした。
「あなたは、あの古代獣さんですか?」
間抜けな質問だとわかっていたけれど、念のため確認する。
「いかにも。在りし日の姿からここまで変えられるとは、これまた一興というものかのう」
くくくっと口を押さえて笑う女の子は、そのツリ目気味の瞳もあって最高に可愛い。
可愛いけど…
呆気に取られるソフィアを見て、女の子はニヤリと笑った。
似合ってるんだけど…
「主というても、其方の他にもう一人おるではないか」
ほれ、と目でソフィアの隣に立つレーゼンに移すと、さらに笑みを深めた。
「俗に言う幼女し…」
「断じてない」
一刀両断して顔をしかめるレーゼン様に、ソフィアはピクッと頬を引きつらせた。
レーゼンがロリコンだったなんて全くの想定外だったし、驚きすぎて声もでないけど、人の趣味は周りに迷惑をかけない限り自由だ。
うん、そうだ。
そうだ!と思いつつ、なかなか目の前の現実は厳しい気がする。
「これがレーゼン様の趣味、ですか…」
これは年齢に着目すべきか、美少女という点に着目すべきだろうか。真剣に悩むソフィは自分の心の声が言葉になって漏れていたことに気づいていなかった。
「うーん」
上司としてなら何とも思わないことも、婚約者としての立場だと、なんとも複雑だ。
「レーゼン様、私は23ですし、こんなに可憐な乙女でもありませんけれど…」
本当に私と婚約して良いのですか?と。
小さく呟いて顔を上げると、そこにはジッとソフィアを見下ろす端正な顔。
「レーゼン様?」
ソフィアの呼びかけに、腕組みを解いてため息を一つ。
「婚約者のいる男の好みなど、決まりきっている。この聖獣はお前の姿に似ているか?」
「え?わ、私ですか?…うーん、どう、でしょう?」
ちょっと小悪魔タイプの瞳に、くるくる変わる表情。愛くるしい訳ではないけれど、どこか目を惹く。
「…似ているとは、思えない、かと」
無表情でクールだと遠巻きにされる自分とは明らかに。
「なら俺の趣味じゃない。聖獣の好みで姿を変えているに過ぎん」
「……」
あまりにサラッと言われるから、どう反応していいのか分からない。
レーゼン様、見かけによらず慣れてるんですね。
「どうやら通常の折伏とは色々とかけ離れているようだけど…。それじゃ、ソフィア。名を与えようか」
やれやれと苦笑まじりにユリウスが言った。
名を与えるとは、つまり、完全に聖獣を術者の支配下に置くことを意味する。
「名は何でもいい、君がそれを口にして、聖獣が受け入れれば折伏の完了だ」
「名前…」
実は昨晩から考えていたのだが、まだ決まっていない。
「ちなみに、聖獣さんにご希望はありますか?」
「ない」
即答でした。
「首輪の色を選ぶ趣味などないわ。我に相応しい高貴なる名を付けてみよ」
ほんとに、どちらが主なんだか分からない。
うーん、と考え込むソフィアの脳裏に、ふと言葉が閃いた。
「ギャビー、はどうですか?」
「ギャビー…?ソフィア、それは何か特別な意味があるのかい?」
と、後ろからギャレットがやって来た。
「はい。お兄様のお名前と、ちょっと似てますでしょう?心強いかと思って」
パァーッと顔を輝かせるソフィアに、ギャレットは一瞬、言葉を失う。
「ソフィア、嬉しいよ!」
パァーッと破顔してギャレットがソフィアを抱き締めた。
「聖獣とはいえ、魔獣なんだけど、いいんだね」
と、ミハエルがようやく一言。
「ソフィアもブラコンだったんだな…」
ネルソンも一言。こちらは何かを飲み込むように、深呼吸を一つ。
ソフィアの言葉を受け、聖獣がふむと頷いた。
「なるほど。良い名ではないか。ギャビーか。我と言葉を交わす人間など、もう存在せぬと思っておったが」
感慨深げに呟く。
しみじみと思いに耽る姿は10歳とは思えない。
「本当に、この折伏は例外中の例外なんだけど…。ソフィア、名を授け、それを受け入れられたら完了だよ。君は凄いね」
眩しそうに目を細めると、ユリウスはソフィアの顔を除きこんだ。
「まず、折伏した聖獣がヒトに似た形を取ることなど、滅多にない。それに通常、言葉を交わすのは主だけなんだけど、その限りではない。さらに、自ら名を受けると宣言されている。信じられないことなんだよ、本当に」
「そうなのですか?」
これが初めての折伏だから、普通が分からない。
「あぁ。闇の属性の私にとって、羨ましくなる程だよ」
「え?」
キョトンとしたソフィアに、ユリウスは苦い笑みを浮かべた。
「私の場合、力づくで自由を奪い、名を与え、主従関係を結ぶ。それが普通だと思っていた」
そう言えば。
ギャビーは、ユリウスの術を『あれは我の意思を奪わんとするもの』と言っていた気がする。
「君が羨ましい。いや、君のそばに居られる彼らが羨ましい」
焦れた声でそう語るユリウスは、迷子になってしまった子どものように悲しげな顔をしていた。
「もう帰国しなければならないというのに。…私は君のそばを離れたくない。こんなことは初めてなんだ」
「ユリウス様…」
ユリウスの声にこもる熱を感じて、ユリウスから目が離せない。周囲の音がスッと消えていく。
その沈黙をどう解釈したのか、ユリウスは困ったように笑った。
「婚約者もいる女性に言っていい言葉じゃないことは分かっている。けれど、ソフィア」
「はい」
「まだ私にチャンスがあるなら、教えて欲しい。…今でなくてもいい。君が彼のものになってしまうまで、私は君を想い、待っている」
そう言って、ソフィアの手を取ると指先にそっと口付けた。
下から覗き込まれた翡翠色の瞳が切なそうに揺らめき、吐息が指先を掠める。
「…っ」
まるで絵画のような一瞬に目を奪われ、ソフィアは息を飲んだ。
咄嗟に出かかった言葉は何だったのか、ソフィアは自らの胸の内に気付いて黙り込むことしか出来なかった。
そして、その数時間後。
皇太子一団はユーフェリア国を去っていった。




