第二十三話 帰路にて
王都の治安は決して悪くないと聞いているが、夜道を女だけで歩いては何があっても文句は言えない。
しかも、よりによってこの格好。花嫁選考会に参加するために、持っている中でも特に上等なドレスを着ている。貴族令嬢もしくは金持ちのご令嬢であることは一目瞭然だろう。
背後からは王宮を出てきた馬車がひっきりなしに追い越してゆく。そのうちの一台がソフィアの横に停まったので、ソフィアは不審に思って顔を上げた。馬車の小窓がパシンと開いたのを見て、心の中で「げっ」と声を上げた。
「あらあら、こんな夕暮れ時に歩き回っている方がいらっしゃると思ったら、あなたでしたのね。田舎にずっといると知らないかもしれませんけれど、都会では移動は馬車に乗りますのよ。覚えておくといいわ」
馬車の中から勝ち誇った笑顔でこちらを見下ろしているのは、赤い髪飾りの女だ。
「よろしかったら乗せて差し上げましょうか?」
「結構よ。間に合っていますから」
この女の世話にだけはなりたくない。ソフィアはツンと澄ましてそう言い切った。
「あら、そう。昼間にあんなことがあったし手助けをと思ったのに、田舎の方が考えることはよくわかりませんわ。ごきげんよう」
車輪の音を響かせながら、馬車が颯爽と去ってゆく。その拍子に泥がドレスに跳ねた。
(あったま来るわね!)
ソフィアは両手でパンとドレスを叩く。あの女、許すまじ。横で困惑気味にそのやり取りを眺めていたメルが、「ソフィア様。『あんなこと』ってなんのことですの?」とおずおずと尋ねてきた。
「ああ、実はちょっとした事件があったのよ。お昼ご飯を──」
ソフィアが事情を話し始めようとしたそのとき、またしても後ろから走ってきた馬車がソフィア達の横に停まった。
(もしや、さっきの頭にくる赤い花女の友達の、ぽっちゃりの女?)
ソフィアは咄嗟に身構えた。しかし、馬車から姿を現したのは思いがけない人物だった。
「ソフィア嬢。それに侍女の方も。こんな夕暮れ時に女性二人だと危ない。送るから乗ってくれ」
そこに現れたのは先ほどの近衛騎士だった。
驚くソフィアに、彼はもう一度「通行の邪魔になるから早く乗って」と促した。
「あの……、ありがとうございます」
「構わない。なにかがあってからでは取り返しがつかないから」
ソフィアはおずおずと馬車に乗り込むと、チラリと斜め前に座る近衛騎士を窺い見た。ふわりとした茶色い髪は柔らかそうで、思わず触りたくなる。鮮やかな青い瞳の少し垂れた目元は優しそうな印象を受ける。
(この香り、本当にいい匂いだわ)
ほのかに香るのはソフィアを惹きつけてやまない、爽やかで魅惑的な香り。アーサー王子を始めとする多くの男性が付けている香水だ。
「リンギット子爵家だっけ?」
「はい」
「よし。では、このままリンギット子爵家に頼む」
近衛騎士が御者に声をかけると、馬車は颯爽と走り出した。
「あの……。馬車乗り場がひどい混雑でしたけれど、抜けて大丈夫なのですか?」
「大丈夫。部下に任せているから」
近衛騎士は安心させるようににこっと笑う。その眼差しに、ソフィアは胸がドキンと跳ねるのを感じた。
ソフィアは胸の鼓動を確認するように、右手を胸に当てる。
(何? わたくし、こんなに惚れっぽかったの!?)
つい先日、大雨に遭遇したところを助けてくれたアーサー王子に胸を鷲掴みにされたような衝撃を受け、これぞ運命の恋だと思った。今日声を掛けられてやはりあの人はアーサー王子なのだと再認識し、頑張ることを胸に誓った。それなのに、数時間後には颯爽と現れた近衛騎士にときめいた?
(ない、ない、ないわ!)
自らの気の多さにソフィアは愕然とした。もしやこれは『ちょっと優しくされるとすぐ好きになっちゃう女』というやつではなかろうか?
(絶対にそんなはずはないわ!)
ソフィアは青くなって自らに言い聞かせる。
なぜなら、ソフィアは生まれてこのかた十八年間、アーサー王子に出会うまで胸のときめきなどただの一度も感じたことがなかったのだ。それなのに、これはもしかして変な方向に目覚めてしまった?
「ソフィア嬢は……」
沈黙していた近衛騎士が声をかけてきたので、ソフィアは慌てて顔を上げた。
「以前王宮に来ていた時の記憶がないと面接のときに言っていたね。今も全く記憶はないまま?」
「ええ、そうなのです。何度が来たことがあるらしいのですが、全く覚えていなくて」
「そう……」
近衛騎士は目を伏せると、暫し考え込むような仕草を見せてから再び顔を上げた。
「久しぶりの王宮はどう?」
「とても豪華で驚きました。わたくしは田舎の貧乏貴族ですから、本当はここに来ることにあまり気乗りしていなかったのです。でも、こんなにも素晴らしいところなら来てよかったわ」
ソフィアは、馬車の外の移りゆく景色に視線を移した。既に日は落ちて、辺りはすっかりと暗くなっている。あのまま辻馬車を拾おうとしても、なかなか捕まえられなかったかもしれない。馬車の灯りに照らされて、沿道にはリモネが咲いているのが見えた。
「リモネだわ」
「リモネは今も好き?」
「はい。アーサー王子と出会ったときもリモネを摘んでいたのです。雨よけのコートをお返ししたいと思います」
「雨よけのコート? 俺から返しておこうか?」
「いえ。直接お返ししてお礼を言いたいのです」
「──そう。わかった、伝えておく」
近衛騎士はすんなりと頷く。




