第一話 恋の嵐は突然に
空は鉛色に染まり、地面に雨粒が叩きつけられる音が鳴り響く。
つい先ほど降り始めた雨は、あっという間に大粒へと変わり勢いを増していた。
「困ったわ……」
バケツをひっくり返したような大雨に、ソフィアは途方に暮れて嘆息した。その片手には、先ほどまで摘んでいた花が握られている。
街道沿いに停めている馬車に戻ろうにも、その距離を走ることすらためらわれるほどの大雨だ。たった百メートル程しか離れていない馬車が、雨のせいで白く霞んで見える。
「どうしようかしら?」
「本当に困りました。ソフィア様が風邪をひかれては大変ですので、わたくしが走って馬車に戻り、なにか被るものを取ってまいります」
「あら、ダメよ。それではメルが風邪をひいてしまうわ」
ソフィアは頬を膨らませて、その案を却下した。
(……でも、困ったわ)
ソフィアは恨めしげに鉛色の空を見上げる。
さっきまで青空が広がっていたはずなのに、急にこんな大雨になるなんて。
とてもよい香りがして車窓を覗いたら案の定綺麗なリモネの花畑を見つけ、寄り道してしまった。そのせいで、天気の急変に見舞われてしまったのだ。
おまけに、先ほどから時折、空がピカリと光るのだ。これは、よくないパターンである。
(やっぱり、雷雲がこっちに来る前に戻るしかないわね)
そうは思うが、この木の下から飛び出すには勇気がいる。飛び出た瞬間、ソフィアの着ている上質のドレスはビショビショになるだろう。
そんなのもったいない!
このドレスで種芋が何キロ買えることか。なんとしてもそれは阻止したい。
──ピカッ! ゴゴゴゴゴゴゴ……。
「ソフィア様、雷ですわ! 近づいていますわ」
メルが怯えたようにソフィアのドレスの裾を掴む。
ソフィアはうーんと悩んだ。
先ほどは光ってから音が聞こえるまで二十数える余裕があったのに、今は十五の余裕しかなかった。確かに近づいている。
雷のとき、木の下にいると危ない。
御者が迎えに来てくれないかとちょっぴり期待したが、それもなさそうだ。ここで馬車を離れると馬がどこかに逃げてしまい危ないのかもしれない。
(仕方がないわ。行くしかないわね)
そう意を決してソフィアがメルの手を引いて駆けだそうとしたとき、彼は現れた。
雨よけ用の黒いフードを深くかぶっているせいで、顔はよく見えないが、背の高い男性のようだ。こちらを見つめる瞳は先ほどまで広がっていた青空のように透き通っていた。
「大丈夫?」
「え? だれ?」
「──通りがかりの者だよ。可愛らしい歌声に惹かれて来たら、向こうに馬車が停まっていた。おかしいと思ったら、きみたちが戻ってこないと御者が心配していたから」
突然現れた男は、腕に抱えていた雨よけのコートをメルに手早く被せる。そして、自分が羽織っていた雨よけのコートもバサリと脱ぐと、ソフィアに被せた。その拍子に、長く艶やかな金の髪が印象的な、端正な顔立ちが見えた。
男はソフィアの手元をチラリと見る。
「花摘みでもしていたのかな?」
「ええ」
「そっか。この突然の大雨はタイミングが悪かったね」
そう言うと、男性はソフィアの持っていた花に軽く触れるような仕草をした。そして、背後の暗い空を見上げ、ソフィアの方を振り返る。
「雷が近いからここは危ない。行くよ。走れる?」
「はい」
大きな手で、花を持っていない手を強く握られる。雨の匂いに混じって、とても心地いい香りがスンと鼻を掠めた。
濡れたドレスで足がもつれそうになる。途中で転びかけたソフィアを、彼は握っていない方の腕で咄嗟に支えた。すらっとした見た目からはとても想像できないような力強い腕に、トクンと胸が跳ねる。
体が近づくと、大雨の中でもわかる。先ほどと同じ爽やかな匂いがまたふわりと香った。
もぎたての柑橘のような、甘酸っぱくて爽やかな香り。なぜかとても懐かしいような感覚がした。
──ドッシーン!!
離れた場所から耳をつんざくような轟音が鳴り響き、「きゃあ!」っと近くにいたメルが悲鳴を上げた。
握られた手が熱い。胸がドキドキする。
ソフィアは手を引かれながら、突然現れた男の後ろ姿を見た。ソフィアより頭一つ高い背はお父様と同じくらい。びしょびしょに濡れた長い金の髪は、きっと日の光の下で見れば金糸のように美しいだろう。髪の合間からは、形のよい耳が見えた。
街道には二台の馬車が停まっていた。一台はソフィアが乗っていたマリオット伯爵家の、もう一台は男が乗っていた馬車だ。男の馬車は黒を基調に金の装飾が施され、傍目に見てもとても豪華だった。
「どうぞ」
男はまっすぐにソフィアとメルを馬車へと促すと、その扉を開いた。
全身濡れてびしょ濡れなのに、扉を開けてエスコートする姿が妙に様になる。改めて見ると、精緻な刺繍が施された高そうな上着を着ている。
ソフィアは握られていた手から温もりがなくなったことを残念に思った。
おずおずと馬車に乗り込むと、パタンと扉が閉められる。ソフィアは咄嗟に馬車の窓を開けた。
「わたくし達のせいで、無関係のあなたまで濡れてしまったわ。ごめんなさい」
「僕は大丈夫だよ。レディーをびしょ濡れにするわけにはいかないだろう? それに、思ったよりも早くきみに会えた」
「え?」
「運命を感じたギフトの力は確かだってことだよ。さあ、雨が吹き込むから窓は閉めて。風邪をひかないようにね」
大雨の中、外に立つ男は、水色の目を柔らかく細める。おどけたような軽口を叩いているのに、不思議と不快感はない。きっと、ソフィアが気を遣わないようにわざとそうしてくれているのだと思った。また胸に、不思議な感覚が広がる。
男はそれだけ言うと自分の馬車へと駆けて行き、すぐに馬車が動き出す。
──ゴロゴロゴロ、ドーン!
雨は激しさを増し、十メートル先も見えないほどだ。馬車の屋根を大粒の雨が打ちつける音が響き渡った。追い越しざまに馬車に乗り込んだ男と目が合う。男の口が「ま・た・ね」と動いた気がした。ソフィアはその馬車が走り去って行く後ろ姿をぼんやりと見つめる。
「──メル。わたくし、胸がおかしいの」
「ええ! ソフィア様、大丈夫ですか?」
ソフィアは右手で自分の胸を押さえた。先ほどから早鐘のように鳴っている。正面に座ったメルが大慌てでソフィアの体をペタペタと触り始めた。
「確かに少し体温が高いわ。それに、脈も速いですわ。大変だわ! ソフィア様ったら、少し濡れてしまったせいで風邪をひいたのかも!」
メルは悲鳴を上げてソフィアの体をタオルでごしごしと拭いた。ソフィアはされるがままになりながら、先ほどの男性に思いを馳せた。
すらっとした体形、整った容姿、力強い手、こちらを気遣うような優しい眼差し……。そして、あの魅惑的な香り。
間違いない。これは本で読んだことがある。
運命の相手に出会うと、胸を締め付けられるような苦しさを感じるという。
(あっ! 名前、聞いていないわ……)
ソフィアは肝心なことに気付き、顔を青ざめさせる。そのとき、自分が着ている、彼が脱いで着せてくれた雨よけの上着のボタンがふと目を止まった。
「これ……」
ソフィアは目をみはった。
そこには、火を吐くドラゴンが刻印されていた。ドラゴンはこの国では王族の印だ。
金の長い髪に青い瞳、年の頃は二十歳前後の王族。それに当てはまる人は、ソフィアが知る限りではたった一人しかいない。王太子であるアーサー王子だ。
「メル。わたくし、頑張るわ」
「はい?」
「だから、明日からのアーサー王子の花嫁選びよ。絶対に選ばれるように頑張るわ」
「え? え? ええーー! 今朝まであんなに嫌がっていたのに?」
メルの驚きの悲鳴が馬車の中に響き渡った。