後編
ゲルトが美術館に到着すると美術館は既に厳戒体制入っていた。
数メートル置きに制服警官が立ち並び、まさに蟻の這い出る隙間もなかった。
もっとも、犯人は既に逃亡した後なので今さらいくら美術館の警備を厳戒にしてもそれは税金の無駄遣いと思わないでもなかったが、ゲルトはそれを指摘するのを止めておいた。
「警部殿、お待ちしておりました」
入口には黒いスーツを着た白髪、白髭の老人がいた。
美術館の館長だと、ファーレンホートに耳打ちされ、ゲルトは小さく頷いた。
「事件に進展がありました。
先ほど犯人から電話がかかってきたのです」
館長の言葉にゲルトは驚いた。
「なんですと?!
《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》を盗んだ犯人から電話があったというのですか。
それで犯人は、なんと言ってきましたか?」
「犯人は《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》を返して欲しくば身代金を払えと言っております」
「なんたる破廉恥な。
犯人は《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》を返して欲しくば身代金を払えと要求してきたのですか!!」
ゲルトは無駄に、いや、念のための確認としておうむ返しをしてみた。
「そうなのです!
犯人は卑劣にも、《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》の身代金を要求してきているのです!」
「ううむ、なんと卑劣な。
《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》を人質にとるとは!」
「全くです。
《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅―――
ちっとも話が進まないので以下略
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ケルン美術館 館長室
部屋の真ん中にはマホガニーの巨大な机が一つ。その机には館長がちょこんと座っていた。
館長の前には何本ものコードが付けられた電話器が置かれていた。電話から伸びたコードはギリシャ神話のメデューサの毒蛇の髪のようにのたくりながら、館長の隣に陣取ったゲルトの前には置かれた録音機に接続されていた。
ゲルトは妻の肌を慈しむような優しいタッチで録音機を撫でた。
「いいですかな館長」
ゲルトは緊張した面持ちの館長に説明を始めた。
「犯人は必ずや身代金のことで電話をしてきます。
できる限り話を長引かせてください。
そうすれば逆探知で犯人の居場所を突き止めることができます」
ゲルトの言葉に館長は無言で頷いた。
と、それが合図とでも言うようにけたたましく電話のベルが鳴った。
電話の受話器を取ろうとする館長を静止し、ゲルトは慌ただしくヘッドフォンをつける。
「良いですね、できるだけ引き伸ばしてください」
ゲルトはもう一度念を押すと館長にGoサインを出す。館長は微かに震える手で受話器を取った。
「こちらケルン美術館、館長だ」
「用件を言う」
甲高い声が受話器から聞こえてきた。変声機で声を変えているのだ。
絵を盗んだ手際といい、変声機で声を分からなくするところといい、今回の犯人は一流プロの仕業なのは明らかだ。ゲルトは、これは一筋縄では行かないものと身を引き締めた。
「用件はなんですかな?」
「館長。下手な引き伸ばしは無用だ。逆探知が嫌なのでな。早速商談だ。私の《ペルピニャン駅》を買い戻す金の用意はできたか?」
「……はっ?」
「はっ?じゃない。
ふざけているのか。
《ペルピニャン駅》の身代金は用意できたかと聞いている?」
「ああ、失礼。
当館には《ペルピニャン駅》などという名称の絵は無いので戸惑いました。
あなたが言われているのはもしかして《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》のことですかな」
「……そうだ。
その《ペルピニャン駅》のことだ」
「いや、いや。
商談をされるというのならば扱う商品の名前は正確に間違いなく伝えていただきたい。
後で間違ったものを送ってこられても困りますからな。
さあ、もう一度あなたが買い戻して貰いたい絵の名前を正確に一語も違えず言ってください」
「……面倒くさいな、全く。
言えば良いのだな。
《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》を買い戻す用意はできたか?」
「《ガラ》が抜けましたな」
「なんだと?」
「あなたは今、《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》といっておりますが、正しくは《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》です。
ダリの後の《を眺めるガラ》が抜けてます。
もう一度お願いします」
「細かいな、おい!」
「もう一度お願いします」
「くそっ!
いいか、《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅の中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》の金は―――」
「ダメですな」
館長の冷たい声が犯人の声を遮る。
「今度はなんだ」
「あなたは今、《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅の中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》と申しておりましたが、正解は《"ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》です」
「あってるじゃねーか」
「イイエ。《まさに》が抜けております。
《ペルピニャン駅のまさに中心で》です」
「良いじゃねーか、そのぐらい」
「ダメです。さあ、もう一度お願いします」
「ううう
《"ホップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空が、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである》 はぁはぁ
ど、どうだ」
「う~ん、惜しい。
《ポップ》が《ホップ》になってますな」
「一文字目からかよ。
気づいてるなら早く言えよ。
全部言わすなよ!」
「それはさて置き」
「置くなよ!」
「正確に言えるまでお願いします」
「もう勘弁してください」
「正解に言えるまでお願いします」
「ううううう
《"ポップ、オップ……」
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『名画、無事戻る!
昨夜、ケルン美術館から盗まれ《ペルピニャン駅》が無事戻ってきた。
警察の迅速な捜査に称賛が集まっている。
本件を担当したゲルト・リッテンマイヤー警部の話によれば、犯人からの身代金要求の電話を逆探知することに成功したのが犯人逮捕に繋がったとの……』
ゲルトは自宅の近くのオープンカフェで朝刊の記事を満足気に読んでいた。
熱いコーヒー胃に流し込みながらゲルトは一人呟く。
「犯人の誤算はあの世界一長い名前の絵画を盗んだことだな。嫌でも長電話になると言うものだ」
ピリリリリ
ピリリリリ
「私だ」
ゲルトが携帯電話に出るとザルツ・ファーレンホートの緊張した声が聞こえてきた。
「警部大変です。
今、ケルン美術館で特別展示されていた絵が盗まれました!」
「なんだと、一体誰の絵だ、まさかまたあの絵ではないだろうな?」
「ご安心ください。今度はピカソ氏の絵です」
「何だって?」
ゲルトの顔がみるみる白くなる。
「ピカソ氏の絵です」
携帯の先のファーレンホートの声が少し怪訝そうに答えた。
「ファーレンホート君。卑しくも精緻かつ正確さを誇るドイツ警察が略式で事を済まそうとするとは何事かね。
ちゃんとフルネームを使いたまえ」
「はぁ、パブロ・ピカソ氏、ですか?」
「ちがう!
ピカソ氏の正しい名前は、
パブロ・ディエゴ・ホセ・サンティアゴ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・クリシピン・クリスピニャーノ―――」
物語は終らない……
2018/12/04 初校