第2話
古ぼけた机の引き出しに大切にしまった採用通知を取り出し、私は内容をもう一度よく確認した。集合場所、集合日時に間違いは無い。やっとだ。やっとここまで来た。何回も何回も取り出しては見直した採用通知は、端が少しくたびれたようになってしまった。
出発の日はどんよりとした曇り空だった。汽車を待つ地元の駅のホームで、私は両親に出発前の最後の挨拶を告げた。
「お父さん、お母さん。行って参ります」
「気を付けて。達者でな」
「お手紙書くのよ?身体に気を付けて」
両親は私の手をしっかりと握り締めると目に涙を浮かべた。私も思わず涙ぐみ、母が刺繍をしてくれた綿製のハンカチで目元をそっと拭った。
私はしっかりと両親の手を握り返すと、心配をかけないようににっこりと微笑んだ。ホームの脇にはローズマリーの花が風に揺られている。
私は今日、生まれてから15年間住み続けたこの町を出る。
汽車の姿が遠目に見えてきて、いよいよここを去るのだと実感した。曇った空に蒸気機関車の蒸気が溶け込んで灰色に空を染め上げていた。汽車に乗ると窓から両親の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
初めて乗る汽車は揺れが酷く、とても快適なものでは無かった。殆どの乗客は1人客で、無言で目を閉じている。
私は着替えなどが入った大切な鞄を胸に抱えるように持ち直すと、窓の外に目をやった。どこまでも草原と畑とぽつんぽつんと佇む家が広がるのどかな景色が後ろへ後ろへと流れていき、段々と建物の密度が高くなっていくのを窓越しにずっと眺めた。
半日揺られて降り立ったその街は、所狭しと建物が密集し、沢山の店が軒を連ねて人々が往来するこの国の首都だ。それは、16年前と何ら変わらない印象だった。
胸元から懐中時計を取り出して時刻を確認すると、まだ日が暮れるまでには少し時間があった。私は少し迷って、とある場所へと足を向けた。
お店の看板や外装は変わっていても、街の雰囲気は大きくは変わらないし、かつてあった道はやっぱり存在している。迷い無く足を進めて辿り着いたそこは、以前となんら変わりない様子だった。茶色い煉瓦造りの建物にグレーの木製扉が幾つか並んでおり、その1階の端から3番目の扉にはボロボロになった表札がかかっていた。かつて私が作った表札だ。
「まだ居るのね……」
ここに彼が居るかは半ば賭けに近かった。けれど、事実として彼は居る。それは私の胸を熱くさせた。何をするわけでもなく暫くその扉を眺めていると、後ろから声をかけられて私はビクリと肩を揺らした。
「お嬢さん、うちに何か用かな?」
「え?」
振り向くと、そこには中年の男性が立っていた。茶色い癖毛に茶色の瞳、背は高く、紺色のコートで身を包んでいてもがっしりとした体付きが伺えた。目元に刻まれた皺は年齢を重ねていることを示していたが、立ち姿はかつての彼を彷彿させるものだった。
「ロン……」
思わず口から出た私の呟きに彼は怪訝な顔をして眉間に皺を寄せた。いけない、私はもうナーシャでは無いのだから彼が判るわけは無いのだ。
「突然申し訳ありません。私はオリヴィエ・クルーニーと申します。陸軍病院で看護助手として働くためにこの街に出て来ました。実はロンバートさんの亡き奥様と母が昔の知り合いでして、時々話を聞いていたので親しみのようなものを感じてこのようなところにまで来てしまいました」
私は咄嗟に考えた言い訳を並べて彼を見上げた。
「君の母君とナーシャが?」
目の前の彼は益々眉間の皺を深くした。そんな話は聞いたことが無いという思いがありありと表情に出ていた。実際にはナーシャと私の母は知り合いでも何でも無いので当然だろう。
──ロン、ロン、ロン!
私は思わず歓びで叫び出したい衝動に駆られた。歳を重ねても見間違う筈も無い、私の愛した人。その広い胸に飛び込みたい衝動を必死に抑えつけた。
溢れそうになる想いを打ち明けることを留めたのは大好きだった筈の彼の笑顔だった。
「そうか。それはご足労だったね。この街には来たばかり?なにか面白いものはあったかい?」
彼は私を見下ろすと年相応の柔らかな微笑みを浮かべた。でもそれは私の知っている慈愛に満ちた笑顔では無くて、まるでモデルのように綺麗な微笑みだった。そう、作り物みたいに。
***
私の勤務する陸軍病院と彼の所属する陸軍は同じ基地の敷地の中にある。
働き始めたその日から私は機会を見つけては彼の姿を探した。お昼休みの食堂だったり、健康診断の書類を陸軍基地にわざわざ届けに行ったり、何かおつかいがあるときは必ず私は手を挙げた。基地を歩き回っていれば、彼に会えるかも知れないと思ったから。
彼は陸軍の隊員で、生え抜きで太尉の位にいた。16年前の暴動事件で幹部の目に留まり、更に数年前に起きた戦争でめざましい活躍を見せて出世コースに乗ったと陸軍病院の噂好きな先輩が教えてくれた。それは、ナーシャの知らないロンの姿。暴動事件はナーシャが死ぬきっかけにもなった事件だ。
当時、ナーシャは小さな食堂で働いていた。14歳で働き始めたその食堂は陸軍基地のすぐ目の前にあって、陸軍の隊員が頻繁に訪れていた。2階建ての建物の1階にあり、客席数は20席ほどしか無い。そこによく客として訪れていたのがロンだった。
ナーシャがお水を出して注文を聞くと、ロンはいつも優しい目をしてなにか一言二言世間話をしてくれた。だから、ナーシャがロンがお店に来てくれるのを楽しみにするようになるのもすぐだった。
店員と常連客としてよく会話を交わすだけの関係は1年以上続き、二人の転機はナーシャが16歳になる少し前だった。仕事終わりに帰宅しようと店の外に出ると、寒空の下でロンが立っていた。コートを着込んで冷たくなった手をすり合わせていた彼は、私を見つけると嬉しそうに笑って近付いてきた。そして、迷惑でなければ交際して欲しいと言って恥ずかしそうにはにかんだ。
まさかそんなことを彼が言ってくれるなんて夢にも思っていなかったナーシャは天にも昇る気持ちだったわ。
付き合い出して一年程したナーシャが17歳になる直前、ナーシャとロンは結婚した。小さな食堂の店員であるナーシャと陸軍の一般兵のロンは安月給をやりくりして郊外に小さなアパートメントを借りて二人の愛の巣にした。私が見に行ったあのアパートメントだ。
ナーシャとロンは貧しいながらも寄り添って幸せな夫婦だったと思う。毎日、食堂が終わったらまっすぐに家に帰り温かい料理を作って大好きな彼を待つ。ささやかな晩餐を囲んで他愛ない話に二人で笑い合った。少なくとも、ナーシャはとても幸せだった。
だけど、そんなささやかな幸せは長くは続かなかった。結婚生活が4年目を迎える頃、世界的な恐慌がこの国にも押し寄せた。銀行の破産を皮切りに発生したこの恐慌はたちまち街を失業者で溢れさせた。そして国への不満から反政府活動を推進する暴徒の数は日々増え続ける。あの頃、街中は至る所で軍や警察と暴徒が衝突する暴動事件が起きていて、国は事実上内戦状態だった。
ナーシャはその事件が起きた日、いつものように食堂で働いていた。開店準備をしているとやけに外が騒がしいと疑問に思い様子を窺いに外に出たのがまずかった。流れ弾に当たり負傷し、やっと授かった我が子は流産した。そして、負傷した傷口から感染症にかかり衰弱し、命を落とした。
あの時、ナーシャはまだ20歳、ロンは23歳だった。
ナーシャが居なくなった後のロンの様子は回りの人から聞いた話でしか知らない。
ナーシャが死んだあと、ロンは暴動事件の征圧とその後起きた戦争でめざましい活躍を見せたという。もしかしたら、ロンはナーシャとまだ見ぬ我が子を亡くしたことで自暴自棄を起こして死にたかったのかも知れない。命を落とすことを恐れなくなった人間は死と隣り合わせの戦闘でも恐怖しない。その自暴自棄の結果、ロンはただの一般兵士ながら幹部の目に留まった。
陸軍の幹部は通常、陸軍学校を卒業したエリート達がなる。そこを卒業していない一般兵で出世コースに乗るのはほんの一握りしかいない。死のうと思ったらそれが成果になるとは、なんとも皮肉な話だ。そして今、ロンは陸軍の太尉の地位に居る。




