【お題】養われるぽち
男は期待されていない。
運動も出来ず、勉強も出来ないその男は、学校の中で自然と出来上がる序列の最下層に属していた。
学校でこうも様々な事柄を学ぶのは、各々個人の可能性を見つけ伸ばすのに適しているからだと、その男は感じていた。
その考えの下で自分が好きな事にばかりに時間を使っていたら、勉強の成績など上がらない。
男はそれでいいと思っていたが、そういう事を周囲の大人に言う度に「言い訳をするな」と怒られていた。
ふと、周りの人間達を見渡してみた。
成績の良い人は良い大学に行ける。そこを卒業して、良い会社に就職して。それがその人の可能性と言っていいのだろうかと、疑問に思った。
成績優秀であるほど行ける大学の選択肢が増える。だが、それがその人が好きな分野と一致するのはどれ程の割合か。
あの絵が好きなあの子は、絵を止めてしまうのだろうか。
料理が好きなあの子は、専門学校に行きたいと言っていなかったか。
生物が好きなあの子は、それを学ぶことを止めてしまうのだろうか。
数学が好きなあの子は、それで生涯食べていく気は出来ないという。
現実としてある選択肢と自分自身の能力や職業や生涯給料などで折り合いをつけるのが、一つ大人になる事であると、誰が言うでもないが、感じた。
「やりたい事はやりたい事として分けて考えろ」
「現実に生きていくうえで必要ないが、好きなら生業としてではなく続けていってもいいではないか」
「大学に行く事で考えが変わる事もある」
「皆が行くから、自分も何となく行く」
雑音が、耳に残る。
私がしたい事に学校の成績は必要ではない。
しかし、大学に行けという親の意向には勝てず、しょうがなく底辺の大学に入った。
これは今でも思う。妥協だ。自立していないのだからしょうがないと、負けを飲み込んだ。
さて、それでも色々あった大学生活を終え、昔の同級生の話などを聞くと、そこまで行っても周囲の流れのままに就職して、働いて…という人が多かった。多かったというより、全てがそうだった。
その頃になると、自分にも現実が見えてきた気になっていた。
そういう流れに乗った人生というのは、なんともリスクとリターン分かりやすく、将来の見通しが良い。設計図が描ける人生、なんと良いことではないか。
でも、自分が欲しいのはコレじゃない。
そこからは、自分の好きな様にした。
その中で、実際に働く多くの人達と接する。
「仕事が楽しい」と言う人間が多くの人を巻き込み組織を腐らせ、「仕事したくない」と言う人間がシステム的に間違いが起こらず手間も減る働き方をしているのが面白かった。
「仕事したくない」と言って本当に何もしない人も、「仕事が楽しい」と言っているのに笑っていない人もいたが。
様々な人が、妥協の上で働いているのを目にした。
そんな中で、違和感を覚える。
凄く、凄く、稀にいるのだ。
ただひたすらに、自分と向き合い続けて生きてきた人間が。
妥協して、寄り道をした自分には眩しくて直視できない様な、そんな人間が。
そういう人間が、好きになった。
そういう人間に、恋をする。
そうした人間の、傍にいたいと、そう願う。
男は夢みる。そういう人と一緒になれたらいいなと。
もし、なれないとしても、自分がそうなれたなら、それがいいな、と。