予習
※虫の描写があります。
夢とは、便利なものだ。
未来を予感して先取りできたり、現実に当たる前に予習をさせてくれたり。
そう、予習だ。事前に。
予習と言う言い方では、伝わりづらいだろうか。
少し例をあげてみよう。
例えば、私が女子高生の頃に見た夢は、こういう具合だった。
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真夜中、布団の中でふと気付いた。
右手の甲が、何となく痒い。
何の気なしに引き出してみると、大きな蛾が私の手に張り付いていた。
驚きのあまり、声が止まった。
たいていの女子高生がそうであるように、私もまた、昆虫類は総じて苦手だった。哺乳類にはないグロテスクな形状と、何に触れていたかも分からない不衛生さに、生理的な嫌悪をもよおすから。
その夜はその嫌悪感が、私の視線を逸らす方向ではなく、縫いとめる方向へと働いた。
小刻みに翅を動かし続ける蛾から、目が離せなくなった。
大きな翅は、広げれば私の手など覆い尽くしてしまうだろう。体にも翅にも、ふっさりとした毛が隙間なく生えていて、まるで絨毯のようだ。大きさも相まって、虫と言うよりは小動物に近い感触。
真っ黒い丸ボタンのような眼は無機質で、視線を交わすことはできないように思われた。
指先に引っかかる6本の足は硬く、蛾が動こうとすると、肌に引っ掛かり刺が突き刺さる。掻痒感は、これが原因なのだろう。
さて、いつまでもこうして睨み付けているワケにはいかない。
観察していた間、少しずつ足を動かしたソレは手の甲から手首の方へと上がってきていた。
このままにしておいて二の腕や首や……あるいは顔の上を這い回られるなんて、想像もしたくない。
振り払ってしまえば、室内を飛び回るだろう。叩き潰して平気でいられるような大きさでもない。潰れた体をひくひくさせながら体液を垂れ流す姿を想像するだけで、吐き気を催しそうになる。
どうしようかと考えて、机の上に小さめのポリ袋があるはずだということを思い出した。昨晩コンビニに行ったときのものが、出しっぱなしになっていたはずだ。
右腕をできるだけ動かさないよう意識しつつ、左手を伸ばしてポリ袋を掴む。慎重に引き寄せて、片手で袋の口を広げた。
準備の出来た袋を蛾の真下にセットしてから、一息に袋の口を引き上げる。このまま右手ごと袋に詰めて、ベランダから外に放してしまえば良いだろう。
しっかりと袋の口を握って立ち上がると、ようやく異変に気付いたソイツが、袋の中でばたばたと翅を踊らせ始めた。飛び回ってはポリ袋の壁にぶつかり、振動を帯びた鋭い羽音を立てる。
袋の中に一緒に閉じこめられている右手が、何度も体当たりを食らっている。鱗粉が手のひらに塗れ、乾いた不快感を覚えた。
布団を出て、さあこれをベランダから外に放そう、と立ち上がる。
そこで、はてと思い当たった。
こんな巨大な蛾、今までこの辺りで見かけたことなどなかった。
明らかにこの周辺の生態系にはなかった存在だ。このまま外に放せば、外来種による生態系の破壊が起こるのでは?
ちょうど授業で習ったばかりの、外来種問題に脳の回路のどこかが触れたらしい。
このまま放してはマズイのでは、と躊躇した拍子に、袋の口をしっかりと掴んでいた手が緩み、隙間から黒い目が覗いた。
いけない、と思ったときにはもう遅かった。
私の手を擦り抜け、巨大な翅が顎を掠め、天井へと飛び上がっていく。
ああ……と嘆息したところで、目が覚めた。
さて、目が覚めた私は、未明、布団の中にいた。
右手に何やらおかしな痒みがある。
何の気なしに手を引き出してみると、大きな蛾のようなモノがしがみついていた。
驚きのあまり、声が止まった。
夢で見たのと同じ大きさの、蛾のような翅と蛾のような体を持つソレは、しかし決して蛾ではあり得なかった。
夢で見た蛾のサイズが大きかったのは確かだが、それでも夢の中では蛾はただの蛾でしかなかった。昆虫の範囲だった。
ところが、今右手についているソレは、顔を持っていた。重ね合わせた翅の上、小さな人の顔のようなモノが付いている。
こういうのを人面蛾、と言うのだろうか。
人面蛾の顔は、本当に生きている人間の顔のようだった。顎に当たる部分に無精ひげを生やしていて、まるでくたびれた中年男のように見える。黄色がかった目玉も全体に脂じみた肌も、ただただ気持ちが悪いとしか言いようがない。
目が合った瞬間に、嫌悪のあまり放り捨てそうになった。
実際には、私の手はぴくりとも動かずに、ただその顔を正面から見つめているだけだ。
こちらの怯えを面白がるように、蛾の後ろ翅がじわりと動き、中年男の口が奇妙に歪んだ。
砂を擦るような尖った声が、にまにまと笑みを浮かべる口から漏れた。
「……おい、分かってんだろが」
何が、とは問い返さなかった。
さっきの夢は予習だったのだ。
私はさっきとは違う行動を選択しなければならない。
ポリ袋でそっと覆うなんてやり方では、目的を遂げられないと理解した。
覚悟を決めた私は目を見開き、甲の上でうごめくソレを素早く左手で掴んだ。
手のひらは、奇妙に温かい柔らかさを強く握っていた。暴れる翅が私の手を振りほどこうとするけれど――さっき失敗したことを思い出し、絶対に力を緩めなかった。
翅を震わせながら忌々しげに私を見ていたソレは、しばらくしてふん、と息を吐いた。手のひらに吐き出された息が当たる。
翅の上、手入れのされていないぼさぼさの眉が吊り上がり、目を細めて呟いた。
「……やれば出来るじゃねぇか」
ああ……と、嘆息したところで、目が覚めた。
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夢はこれで終わりだ。
朝日の中で目が覚めた私は、いつも通り顔を洗い歯を磨き、朝食をとって制服に着替え、いつものように登校した。
実はその頃、私はいじめ――とまではいかない軽いイジリにあっていた。相手はクラスの派手なタイプの女子と、そのグループの女の子達だ。
リーダーである彼女に、私が何かをしたワケでもない。いじって面白いキャラでもなかったと思う。私はどちらかと言えばおとなしい方で、誰かといるより1人でいる方が好きで、成績も真ん中よりやや下、良くも悪くも目立たない生徒だったのが彼女のおめがねにかなったらしい。
受験前、鬱屈して停滞した空気の中の、ひとつまみのスパイスが私だったのだろう……と、これは今だからそう思えることだが。
本格的ないじめとは到底言い難い。殴られたり蹴られたりということはなかった。物を隠されたとしても散々探した後で必ず返して貰えたのだから。
「死ね」という言葉の後には「冗談だよ」と軽く付け加えられ、教科書への落書きは必ず私の目の前で行われた。ジュース程度を奢らされることはあっても、あくまでも上限はそこで止まり、本当にお金を持っていない時にそれ以上を要求されるなんてことはなかった。
つまり……大人から見れば、十分に「おふざけ」の範囲だったのだ。
多分、彼女自身も「おふざけ」だと思っていただろう。
クラスの少年少女達の中には、そのギリギリの嫌がらせに気付いている子もいたかもしれない。けれど、教室の中で女王のように振る舞う彼女に対し、私を庇って声を上げるような子はいなかった。
そもそも、身体的、金銭的にたいした影響はないのだ。
すり減っていくのは、びくびくと生きる私の心だけだった。
――その夢を見る、前日までは。
夢を見た日の朝、私は普通に登校し、普通に自分の席についた。
いつも早めの時間から来ている彼女は、慣れた玩具の登校に気付いて、目を輝かせながらこちらに近付いてきた。
にまにましながら、私の鞄に手を伸ばしてくる。
ああ、また私の教科書を引き出して、落書きでもしようと思ってるんだろう。「ブス」とか「でぶ」とか「息が臭い」とか、他人にとってはどうでも良い落書きを。
いつもなら、気付いても黙って下を向くだけだ。笑っているのか泣いているのか自分でも分からない、弱々しい笑みを浮かべながら。
だけど、その朝は違っていた。
私は既に予習を終えていた。
伸びてきた腕を左手で掴んで、まっすぐに彼女の目を見上げる。
「やめて」
声は、思ったよりも大きく、朝の教室に響いた。
手のひらは、奇妙に温かい柔らかさを強く握っていた。
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もう10年も経っているというのに、今更こんなことを思い出したのは、昨晩の夢のせいだ。
久々に見た夢の。
夢の中の私は、布団にくるまっていた。
右手が妙に痒い。
何の気なしに引き出すと、大きな蛾のようなモノが手の甲にとまっていた。
驚きのあまり、声が止まった。
蛾は震える翅に中年男の顔の模様を浮かび上がらせ、にまにまと笑っている。
「おい、分かってんだろが」
何が、とは問い返さなかった。
私は無言のまま右手を持ち上げ――勢い良く壁に叩きつけた。
鱗粉が舞う。手の甲と壁に挟まれて、ぐちゃりと潰れる感触。黄色と黒の混ざった液を垂らしながら、私の手から蛾が落ちていく。
私は冷静に、右手についた汚れを壁に擦り付けた。
ああ……と、嘆息したところで、目が覚めた。
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実は先日、10年前の彼女と再会した。
派遣先の会社で、「奥さん」と呼ばれる社長夫人が、あの彼女だと気付くのに時間はかからなかった。
派手な容姿でクラスに君臨していた彼女は、今や普通の奥様になっていた。正規雇用の従業員は数人しかいない零細企業。その中で女王のように振る舞う彼女は、高校時代、私とどういう関係だったかを自分に都合の悪いところだけ忘却したらしい。
「あの頃は楽しかったね」と思い出を語った直後、「あのさ、この書類やっぱこれじゃおかしいわ」と、自分が指示した仕事のやり方を撤回する。
イジメ、とまではいかない軽い嫌がらせだ。
所詮、派遣だし、黙って従っていればそのうち派遣期間も終わるはずだ。
……と、思っていた。
昨日までは。
今朝、私は既に予習した。
結局、元を断たなければ、また姿を現すだけだ。
彼女は相変わらず朝が早い。誰よりも早く職場に行き、優雅にコーヒーを淹れて仕事に取り掛かる。
そのことを知っていた。
この時間、私を止める者はいない。
低い踵を打ち付けるように廊下を進み、彼女のいる事務室の扉の前までたどり着く。
一息つこうと、担いできた鉄パイプをがらんと床に下ろした。
「……えっ? 何?」
音が聞こえたらしい。扉の向こうから、困惑した声が聞こえる。
カツンカツンとハイヒールのしなやかな足が近付いてくる音。
私は、ああ……と嘆息して、鉄パイプを振り上げる。
ガチャリ、とドアノブが音を立てて回った――