一話「ダンジョン」
一面の銀世界。
大都市ニューカリーナには今、冬が訪れていた。
建物も地面も街路樹も、その全てが降りしきる雪によって白く染め上げられている。
その雪の中一人の人物が、ギシギシと足を鳴らしながら歩いていた。
頭までをすっぽりと覆う厚手のフード付きのマントを被ったその人物は、小柄な体を屈め、降りかかる雪を受けながら歩く。
「はぁ、最悪だな。こんな大雪に遭うとは……」
それは女性だった。彼女は冷え切った風に吹かれる雪を受けながらも、しっかりとした足取りで歩き続けた。
「今日はついてないな、報酬も渋かったし……はあ、早く帰って暖炉で暖まろうか」
彼女は歩きながら、今日のことを思い出す。
迷宮での魔物の駆除。それが傭兵である彼女の今日の仕事だった。だが何故か今日は魔物の数が少なく、思ったほどの利益は出なかった。
「もう辞めようかな……でもこれ以外に出来ることなんかないしな」
彼女は、かじかんで感覚が薄くなった自分の手を見る。
長く剣を握ってきたせいで、皮膚が厚くなりごつごつとしたその手。とても女性のものとは思えない。
彼女は物心ついた頃から剣を握ってきた。
剣士である父の期待を一心に受け、女の子らしいことは一切せずに、ただひたすら剣を振り続けた。
だがそのおかげで、今では傭兵としてそこそこいい生活が出来ている。
「はぁ……こんなことを考えるのは、もう辞めよう」
そうして彼女は、今日幾度目かのため息をつく。
と、その時。彼女の視界に何かが映り込む。
白い、真っ白な景色の中、その翡翠の様な美しい緑は、遠目でもよく目立った。
彼女には最初それが何か分からなかった。だがそれに近づくにつれて、その異様な姿がより鮮明に彼女の瞳に映る。
少女だった。
雪の中大した防寒もせずに、薄手の白いワンピースだけを着た少女が、そこに立っていた。
「っ! き、君! 大丈夫かい!?」
彼女は、慌てて少女の元へと駆け寄る。そして少女のむき出しのすべすべとした肩へ、自分のマントを強引に羽織らせた。
「こんなに冷たくなって……一体どうしたんだい?」
少女へ話しかける。だが少女はその青い目で見つめ返してくるだけで、何も話さない。引き込まれそうな、その深い海の様な両目は、感情がないかの様だった。
おかしい。
第一こんな吹雪の日に少女が一人で出歩くはずがない。それに服装も明らか普通ではない。絶対にこの子に関わるとろくなことにならないだろう。
だが、彼女の良心はその少女を見捨てることを許さなかった。
「……まあ、今はいい。とりあえず私の家に来るんだ。雪が止んだらギルドにでも……」
その時……。
少女が、笑った。
……いや、笑った訳ではないのかもしれない。
口の端をグニャリと歪ませ、感情が読めないその瞳でこちらを見つめてくる少女。
ただそれだけ、それだけなのだが、そのあまりに禍々しい表情に思わず鳥肌が立つ。そして冬の寒さとはまた違った、おぞましい寒気が全身に走る。
彼女の本能が全力で危険だと叫ぶ。だが彼女は……少女から目を離すことができなかった。
そして
「あはは、良かったぁ」
少女が、言葉を発する。
「一体……なんなんだ……君は」
「せっかく迷宮都市に来たのに、誰もいなくて困ってたんだぁ! お人形さん達も全部外に置いて来ちゃったからね」
少女の表情から歪なものが消え、年相応の無邪気な笑顔へと変わる。
幼く可愛らしいその笑顔は、見るもの全てを癒すだろう。だがその変化に、目の前の彼女はより一層警戒心をあげた。
――この子が、怖い。
それが、彼女が最後に思ったことだった。
「でももう大丈夫! 新しいお人形さんを見つけたからね!」
彼女の視線が、少女の瞳と重なる。
その暗く青い瞳。それが彼女が『人』として最後に見たものだった。
――――――――――――
「ふぅ、ひとまずはこれで安心だね」
少女は、目の前に立ち尽くす『人形』に目をやる。やっと見つけた貴重な傭兵だ。大事に使わなくては。
「はあ、でもこんなに時間がかかるとは思ってなかったな。季節も変わってるし……寄り道しすぎたな」
二ヶ月。それが少女がここまで来るのにかかった時間だ。
途中盗賊やモンスター相手に力の検証をしていたので、想定していたよりかなり多くの時間がかかってしまった。おそらくあの森を飛び出したままなら、数日でここについていただろう。
だが、そのおかげで、沢山のことがわかった。もうあの時とは違う……少女は今、力を使いこなせる。
「ふふっ、じゃあ早速迷宮に行こうかな。もう待ちきれないや!」
少女が久しぶりに感じた感情。最後はいつだったのだろう。
あの子達と暮らしていたあの頃? それとも、初めて力を手に入れたあの時? ……でも、もういい。今は過去のことよりも、これからのことを考えなければいけないのだ。
「じゃあ、僕はこの鞄の中に入っているから、迷宮まで運んでいってね。丁寧に頼むよ!」
「……はい、かしこまりました」
抑揚のない声が響く。それは間違いなく、人形となった女が発したものだった。
少女はその答えに満足そうな笑みを浮かべた後、この街の外で拾ってきた鞄の中に入り込む。小柄とはいえ少女一人を飲み込むその鞄は、かなりの大きさがあった。
女はそれを苦もなく担ぎ上げると、再びしっかりとした足取りで、来た道を引き返し始めた。
「やっぱりこの子供の姿だったら、迷宮には入れないからなぁ。持ってきててよかった!」
少女が入る大きな鞄は、街の外で力の検証をしている時に手に入れたものだった。
何かしらの皮でできたこの鞄は、かなりの耐久力がある。それなので少女はこんなこともあろうかと、こっそりと持ってきていたのだった。
「さて、迷宮か……どんなところなんだろう。楽しみだなぁ! 今から待ち遠しいよ!」
夢にまで見た迷宮。ついにそこに入ることができるのだ。
少女は高鳴る鼓動を抑えることができず、窮屈な鞄の中で鼻息を荒くする。
「後どれくらいかかるの?」
「……はい、あと約二十分ほどです」
待ちきれない少女は、担がれた鞄の中から頭だけを出して、周囲を眺め始める。
吹雪のせいで全く人はいないが、森では決して見ることができなかった様々な店や建物があり、少女は物珍しいそれらを夢中で眺める。
『あの時』は見て回る余裕がなかった為、今回が少女にとって初めての人の街ということなのだろう。
そうして、二十分はあっという間に過ぎ去った。
迷宮、正体不明のその場所は、世界中に点在する無限に魔物が湧いてくる謎の洞窟だ。
原理も理由も不明だが、それは常に魔物を産み出し続け、やがてはそれらを外へと放つ。そして、未曾有の災害を起こしてしまうのだ。
故に迷宮がある街では常に魔物の駆除の依頼が貼り出され、沢山の傭兵達が金を稼ぐ為にそこに集まる。
原理も理由も分からない。だが多くの人々にとって迷宮とは、金を生み出す商業施設程度の認識でしかなかった。
それは彼女も同じだった。今日、この日までは……。
「ん? カレンではないか。どうした、今日はもう帰るんじゃなかったのか?」
鞄に隠れる少女の耳に、優しげな若い男の声が流れ込んでくる。少女はこっそりと、自分を担ぎ上げる女に小声で命令する。
「無難な感じで返事して」
「……はい、かしこまりました」
「へ? なんだって?」
しまった……。少女は鞄の中で額に手を当てる。
少女の作る人形はこの二ヶ月でかなりの進化を遂げたが、まだこういうところで融通が利かない。まさかこんな時にまで返事をするとは、彼女にとっても想定外だった。
「ど、どうした大丈夫か?」
「大丈夫だ問題無い。やっぱりもう一稼ぎしようと思っただけだ」
「……そうならいいんだが」
だがそれでも、命令には忠実に従う。少女はこの結果に安心し、鞄の中で安堵のため息をつく。
「でもほんとに大丈夫か? なんだか目に力が無いし、俺には具合が悪そうに見えるが……」
「だから問題無いと言っている。それより早く私を中に入れてくれないか? 早く終わらせたいのだが」
「……そうか、ならいい。では門を開けるから、また名簿に名前を書いてくれ」
一瞬の静寂、そして鳴り響く何かが軋む大きな音。少女からは見えないが、おそらく迷宮の門か何かを開けているのだろう。
少女の鼓動がいっそう早くなる。……いよいよだ。
「じゃあ入ってくれ。……絶対に帰ってきてくれよな」
「ああ、わかった。済まないな」
思い詰めたような、男の声。もしかしたら、彼はこの先何が起こるか勘づいていたのかも知れない。
だがそんなことも知らない少女はそれに気づかずに、この先の迷宮……まだ見ぬモンスターの巣窟に胸を馳せるのであった。
そして、門は固く閉ざされる。