五話 少女の決意
一切の光が消え去った街の中、翡翠色の影が一筋暗闇の中に疾った。
「早くっ! 行かなきゃっ……みんなが!」
あの子達なら大丈夫だ。みんなうまく隠れているはずだ。少女はそう自分に言い聞かせた。
だがそれでも彼女は足を止めようとせず、ただひたすらに剥き出しの土を蹴り続ける。
何度も転んだせいで白いワンピースは薄汚れ、膝には擦り傷が目立つ。
だがそれでも、彼女は立ち止まらずに走り続ける。
「はぁっ、はあっ! もう、すぐ……」
やっと大通りまで出た。後はもうまっすぐに門まで走るだけだ。それでも少女は足を緩めようとはしない。
彼女は胃がひっくり返りそうな痛みと不快感を堪えながら、まだ走る。
シモンと別れた路地を過ぎ、大きな酒場を横目にしながら、少女は整えられた石畳の上を走る。
松明の明かりが見えて来た。
そして少女の大きな目に、開け放たれたこの街の門と……そこに群がる大勢の人間達の姿が映り込んだ。
「……っ!」
無意識に、下唇を噛む。
大丈夫だ、大丈夫なはずだ。あの子たちがそんなに簡単に捕まるはずはない。あれは、絶対に僕たちと関係のないことなんだ。
――そう、少女は自分に言い聞かせる。
だが目の前の群衆が時折上げる歓声が、少女の不安感を更に増幅させる。
「どいてっ、お願い!」
人の群れへとたどり着いた少女が、立ち並ぶ人々の足をかき分けて前へと進む。手足は疲労によって震え、体は火照り絶え間なく汗が流れる。
それでも彼女は自分の都合のいい妄想を信じ、自らを安心させるために進む。
――そして、『それ』を目にした、彼女は見てしまった。
彼女は釘付けにされた様に、『それ』から目を離すことができなくなった。
「あ……あぁ……」
まず目に入ったのは、武装した傭兵達だった。おそらくこの街の全ての者達がそこに集まっているのだろう。彼らは酷く疲れた様子だが、それぞれが満足げな表情を浮かべ、お互いに讃えあっている。
だが、少女が目を奪われたのは、その光景ではない。
「……嘘、う、嘘だぁ……」
傭兵達の前、彼らを囲む群衆との間、その場所にわざと目立つ様に置かれていた……荒い目の大きなカゴ。
少女はそれから、その中身から目を離すことが出来ない。
それはもともとは、木の皮などと同じこげ茶色をしていたのだろう。だが、今は別の色が混ぜられ、全体的に黒っぽく変色していた。
そしてその中は、黒く染まったカゴとは対照的な白いものと、潰れたトマトのように赤いもので溢れかえっている。少女にはそれらが何なのか、すぐに分かった。だが、理解ができない。
いや、分かりたくなかった。
「……みんな……なの? ねぇ……?」
少女の頭はだんだんと理解し、それを受け入れ始める。それらがあの子達の、変わり果てた姿なのだと。
あるものは真っ二つに裂かれ、またあるものは手足を千切られ。
その亡骸の全てが、まるで死を、命を陵辱するかの様に無残に傷つけられている。
自分の帰りを喜んでくれた子が、真っ先に治癒魔法をかけてくれたあの子が、泣きじゃくる自分を慰めてくれたあの子が……妖精として……いや、『生き物』としての尊厳も何もかもを奪われ、まるで収穫された果実の様に無残に詰め込まれている。
意味がわからない。どうしてそこまでできるのか、何故自分達と似た姿をした妖精達に、こんなに残酷なことができるのか。元はと言えば、お前達が悪いんじゃないのか。
色々な考えが、少女の脳内でぐるぐると廻る。
青い瞳は、涙を零しながらも逸らすことなくその全てを映す。
「人の形をして、気持ち悪い」 「やっと全部片付いたんだな」 「だから早く駆除しろって言ったんだ」 「さっさと燃やしてしまえ」「最初からこうすれば良かったんだ」
立ち尽くす少女の耳に、人間達の言葉が流れて来る。
もう、限界だった。
彼女の胃の中を埋め尽くす不快感がいっそう激しくなり、その場に立っていられなくなる。
「う、おえぇっ」
少女は蹲り、えずいた。だが彼女の胃の中には逆流するものがなかったため楽にはならず、いつまでも嘔吐の苦しさが続く。やがて彼女は蹲りながら力無く、よだれと涙を舗装された地面へ零した。
「お、おい! まずいぞ、子供がいる!」
誰かが叫んだ。その声のせいで群衆の視線が未だ蹲る少女に無慈悲に突き刺さる。
彼らは少女に向かって口々に何かを言い始めたが、大勢の人々の声は重なり、その言葉はただの雑音へと変わって行く。
蹲る彼女はそれを理解できずに、ただ地面の染みを増やすだけだった。
「うぅっ……もう、いい」
彼女は小さく呟くと、よろめきながら立ち上がり、周囲の人々を睨みつけた。
そして伸ばされた手を払いのけて、来た時と同じ様に人混みをかき分けながら今度は門の、この街の外へと向かって駆け出す。
誰かが少女を呼び止める。戻って来いと叫ぶ。だがその声は彼女の心には届かない。
「もう、いい! みんな死んじゃえばいいんだ! 人間達も……僕も!!」
そう叫びながら、少女の翡翠に染まる小さな影は宵闇に染められた深緑の中へと飲み込まれた。
「やっぱり……人間なんか大嫌いだっ!」
少女の叫びは、満天の星空へと虚しくこだまする。
――――――――――――――
夜の森の中、木にもたれかかるようにして、少女は膝を抱えていた。
俯いたままの顔からはその表情を伺うことは出来ない。
「……こんな力……あっても何の役にも立たないじゃないか……」
絞り出すような、かすれた声が溢れる。
「……奪うだけじゃ、だめじゃないか。それだけじゃ、みんなを……」
守れなかった。言葉には出さず、頭の中で呟く。
少女は狩られた妖精達の顔を思い出す。みんな優しくて、いい子達だった。
自分よりもずっと痛かっただろう、苦しかっただろう。だが、自分は何も出来なかった。いや、しなかった。
仲間の仇を討つと言い訳して、貰ったばかりの新しい玩具を試しに行っただけだ。
全て自分のためだった。自分のために、逃げ出したのだ。
「ははっ……僕って、自分勝手だな」
羽根と目が無くなったのは、天罰なのかもしれない。少女はそう自嘲した。
「……どこがだめだったんだろうな」
少女は自分の行いを振り返る。
何も考えず、無鉄砲に飛び出したこと。力を手に入れ、調子に乗ったこと。何も考えず、その力を使ったこと。
まだまだ思いつく。だが、少女にはどれがだめだったのか分からなかった。
でも、もういい。もう本当にどうにも出来なくなってしまったからだ。
その時
「グルルゥ」
「あぁ……」
枝が折れる音と共に、少女の前に大きな犬が姿を現す。
彼女の背丈よりもはるかに大きなその飢えた獣は、鋭い牙をむき出し、ゆっくりと近づいてくる。
「……モンスター、かなぁ? もう、いいよ……殺してよ」
少女は、死を受け入れた。そしてその小さな両手を目の前の獣へと伸ばす。
そして少女の肩口に、モンスターの鋭く生え揃った牙が深く食い込んだ。
……だが
「ひっ! 痛い! 痛い痛い痛いっ!」
想像していたよりもはるかに激しい痛みに、思わず叫ぶ。
少女の柔らかな肉を掻き分け、骨を削る牙の不快な感覚が、言葉にできないほど激しいその痛みを助長させていた。
「痛いよぉっ! 嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だぁっ!」
死にたくない。少女はとっさに力を発動し、食らいつく魔物の支配を奪う。この痛みから……死の恐怖から逃れるため。
食らいついていた魔物は顎の力を緩め、虚ろな目で少女から離れた。
「ひっ、ひぐぅっ……うぇぇ……」
少女は砕けた肩を抑えながら、静かに涙を流す。
情けない。あれだけ死にたいと思っていたのに、いざ死ぬとなったら怖くて……痛くて逃げ出した。その自分の甘さと弱さに悲しくなった。
また、少女は逃げ出したのだ。
少女の体は、未だ小刻みに震え続ける。
「……痛いよぉ、怖いよぉ……誰かぁ……」
助けを求めても、誰かが来ることはない。もう彼女は一人ぼっちなのだから。
「ひぐうぅ……もっと……力が、欲しい……」
少女は顔を上げ、悲しいほど綺麗な星空を見る。
「……もっと、強くなりたい!」
少女は叫ぶ。もう自分が傷つかないために、そしてもう何も失わないために、自分勝手なその思いを空へと吐き出す。
その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃに汚れていたが、そこには確かな『欲望』があった。
そして、彼女はふと思いつく。自分が強くなるための方法を。
「……そうだ、人の記憶や支配権が奪えるんなら、もしかしたら……」
モンスターの特性や固有の能力も奪えるのではないのか。それが、少女が思いついた強くなるための一つの方法だった。
妖精に飛ぶ力が、少女に奪う力があるように、この世界のモンスターには【特性】と【固有能力】と呼ばれる力が存在する。
彼女はモンスターのそれを奪って、自分のものにしようというのだ。
「そうだ……これなら、いける……」
震える体に命令し、動かせる左手を使って、少女はゆっくりと立ち上がる。動くたびに、砕けた肩から溢れたものが地面に染みを増やす。
既に満身創痍の体、だがその大きな青い目だけは爛々と輝いていた。
「……あはっ……じゃあ、モンスターがいっぱいいる所を探さなきゃね」
少女は目を閉じ、刻み込まれた『沢山の』記憶をたどり始める。膨大な情報のせいで激しい吐き気が再び蘇るが、歯を食いしばり堪えた。
そして、すぐにその答えに辿り着く。
「ッ!! ……迷宮……そうか、迷宮かッ!!」
【迷宮】、モンスターの巣窟。それが彼女の記憶が出した答えだった。
「あはっ、迷宮都市ニューカリーナ……馬車で五日か、子供の足だったらどれだけかかるんだろうなぁ……」
だが、少女に迷っている暇はない。彼女は目の前で立ち尽くす犬を呼び寄せると、左手を使い、器用にその背中へ飛び乗った。
右肩の『必要ない』痛みは既になくなっていたが、傷が深いため、まだ自由に動かせない。
「あははっ! さあ行けっ! 迷宮都市まで僕を連れて行くんだっ!」
少女を乗せた犬は、言われるがまま走り出す。
薄っすらと光を取り戻し始めた森に、少女の狂った笑い声が響く。いつまでも、いつまでも……。