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恵まれていたのだと思う。母は未婚でアタシたちを産み、名前だけ大事につけてくれた。どうやら子育てはしなかったようだ。母の仲間がアタシたちを育ててくれた。食事もかわいい洋服も夏休みだってあちこち連れて行ってもらった。母はいないことが多かった。母と言うよりは帰ればそこにいる同居人のようで、かわいいことが取り柄だった。仕事でいないのか遊んでいるのか判別は難しく、母の仲間はそれを悟られないように一緒にいてくれるかのようだった。ママと呼んだこともない、授業参観も三者面談もいつも違う人で母を学校で見たことはなかった。
「お前、これ、提出したのか?」
高校生になったアタシは課題で出された作文を今日のお守り役、柳瀬 さつきに見せた。
「課題が『家族』だった」
さつきくんは軽いため息をついてから続きを読む。家業の探偵を継ぎ、最近、お嫁さんをもらった。お嫁さんは事務所のパソコンと電話に向かって文句を垂れている。焼きたての、おやつにくれるクッキーが入ったマフィンがおいしい。
母が台所に立つのは掃除をしているからで、料理をすることはない。そういえば、掃除だけは好きみたいだ。いつだってどの部屋もきれいである。ただそれは、鼻歌を歌いながら分かりやすい幸せな母を演じているようにしか見えなかった。
母は年に一度、3月4日だけ真っ黒のワンピースを着る。一日ベランダにいて、空に向かって呟いている。理由は決して教えてはくれない。母の仲間も教えてはくれない。さすがに黒い服を着てはいないが、誰かの死を悼んでいることは分かる。会いたいのだろうか。会えるのだろうか。いつもはどれだけ盛っても足りないかのような付けまつげを、一枚もつけずにいる母の背中を見ていた。
母は見えない何かを信じる人だ。多分、この3月4日のことが信じる根っこなんだと思う。信じていれば、その死んだ誰かに会えるのだと、多重に信じているのだ。信じることを確認するための真っ黒のワンピース。
毎年の儀式にいつか潰されるのではないだろうか。
母の仲間も同じだろうか。それとも悼む母に同情しているんだろうか。母はそれをどう思うのだろうか。母に同情しているから、私に優しいのだろうか。私はかわいそうなんだろうか。去年の暮れに死んだ私の妹もかわいそうだったんだろうか。12月23日に真っ黒のワンピースを着て空を見ていれば、いつか妹に会えるのだろうか。
みんながくれる優しさは同情なんだろうか。
「夏織」
「なあに、さつきくん」
実はまだ提出していない。家族って何だろうかと考えたら分からなくなった。アタシは母の仲間だけではなく、この神張ハミングロード商店街の住人に育ててもらっているから、アタシの中では全部「家族」である。さすがに小学生じゃないのでそんなことは書かない。とりあえず、母のことを書き出したらこんな文になってしまった。
さつきくんがまた、お前なぁ、と言いかけたとき、さつきくんのタブレットが唸った。ふいに目付きが変わった。仕事のメールだろう。操作する手元を見つめる。
「さつきくんはさぁ、アタシのこと、好き?」
「そうだね」
今まで何回も母の仲間に聞いてきた。答えは同じ。好きでなければ、面倒なんて見てくれないだろう。お嫁さんが紅茶を淹れなおしてくれた。
「夏織ちゃん、寂しいのね」
寂しい? そうでもない。
「違うよ」
お嫁さんはふんわり笑っている。違うのに。
「夏織、幽霊、見に行くか?」
「うん、行く」
信じていないけど。見えないけど。
さつきくんは今のタブレットをバックに入れて立ち上がった。湯気が立ち上がる紅茶を残すのは忍びないけど、寂しいのねと思ってるこのお嫁さんとはいたくなかった。柳瀬探偵事務所を出てすぐに、さつきくんは謝ってきた。
「悪かったな、あいつ、あんな言い方して」
「平気、慣れてる」
シングルマザーで学校にも来ない母を持つアタシは寂しいに決まっている、と思われている。仕方ない。事実と気持ちは違うのに。
向かった先は駅の向こう、住宅街の中だった。駅から十分も歩いていない。
裏野ハイツという古いアパートだった。