肆
「ずっと夢だと思っていました」
落ち着いたハンは、心配するキチを帰すと、イオと差し向かいで座った。
随分泣いた後なので、腫れぼったい目元をしている。だが少なくとも話す気力はでたらしい。先ほどよりも随分ましな表情になっている。
イオが煎じた薬草茶をすすりながら、ハンはぽつぽつと話しだした。
「十五になった夜に、初めてあの人の夢を見ました」
とても奇麗な男の人だった。そう言うハンの目元が微かだが赤く染まる。
「見た事も、会った事もない人で、どうして夢にみるのか不思議でした」
その日以来、ハンは毎晩のように見知らぬ男の夢をみた。
色の白い、青い瞳の男。
ハツユキだ。あの無駄に整った蛇に違いない。
どういうわけか、ハツユキに限らずカガシは美しい容貌の者が多い。
ありゃあ、メスをたらし込むオスの飾りだよ。蛇神様だって、動物と変わりゃあしないんだ。
いつだったか、村の婆様たちがそう言っていた。
ハンの反応を考えると、それも頷ける。伴侶を得る為に、美しい容貌は確かにひとつの武器になる。
ゆいなの村にそのような垢抜けた男はいない。ハンは産まれてこのかた村の外を知らない。
「もしかして、これから会う人なのかもしれない。そう思いました」
そう言うハンの頬全体は、朱色に染まりだした。
恐れながら、惹かれているのが一目瞭然だ。
(違う)
話しを訊きながら、内心でイオは頭を振った。
(これからじゃない。もう会っているんだ)
ハンがその事実を知る術は無い。
ハツユキが三百年もの間待っていたことを。
人には考えもつかない年月だ。長い時を生きられるカガシだからこそだ。だがイオにはその情熱は、いっそ妄執だと思えてしまう。
「あたしに向かって何か言っているんです。でも……なんて言っているのか、あたしには聞こえません。優しい目をして、一所懸命言ってくれているんです。……それから、おいで。おいでって。手招きをして……」
ハンは知りたかった。
会いたくなっていた。
青い瞳の若者に。
だが所詮は夢のなか。いくら手を伸ばしても若者に届きはしない。
夢が続いてひと月がたった頃だ。ハンは奇妙な点に気がついた。
朝起きると布団が汚れている。足の裏を調べると、土塊で真っ黒になっている。
これはどうしたことだろう。
自分は何をしているのか、まったく覚えていない。さすがにハンも気味悪くなった。
「毎日頭がぼおとして。家の仕事も満足にできなくて。母さんに注意されて……」
気がつくと、頭も躯もふらふらになっている。
母にいくら説教をされても、ハンにはどうしようもなかった。いつもの時間に床についている。
ハンは六人兄弟だ。八歳の妹と同じ布団に寝ている。決して夜更かしなどしていない。
なのに実際は、昼間に動くのもしんどくなってきている。目の下のくまが消える日がない。
心配した母に詰め寄られ、ハンはとうとう夢の話しをしてしまった。
「笑われる。そう思ったのに、母さんは真面目に話しを聞いてくれました。その時は気のせいだって。年頃になるとそんなこともあるって。そう言ってお終いだった。けど……」
ハンが考えていたほど、母親は楽観視をしていなかった。
両親はハンには内緒で、寝ずの番をした。
そこで二人は、娘の異常な様を見たのだった。
ハンは微笑んでいた。
楽しくて楽しくて仕方ない。そんな笑みを口元に浮かべ、娘は布団から抜け出すと裸足で外に出た。
母親は夢の話しを信じたわけではない。
悪い男に騙されて、外で躯をつなげているのかもしれない。そう考えていたのだ。
娘の単純な頭で、訳の分からない夢の話しを作り出すのなんて無理にきまっている。大方それだって、相手の男に知恵をつけられたのだろう。親に隠れて男がいる。それだってうんと悪いことだ。
だが二人の最悪の想像は間違っていた。男などどこにもいなかった。
ハンは一人で芋畑をぬけ、村はずれの荒れ地まで歩いて行く。
薄い夜着で、両手はゆらゆらと胸の前で揺れている。目はぽっかりと開いているが、視線は定まっていない。
二人の知っている娘の姿はどこにもない。
第一逢瀬に荒れ地を選ぶ酔狂な者がいるわけがない。
あそこはおっかない場所だ。
ゆいなの村は決して豊かとはいえない。遊ばせておく土地など、どこにもない。にもかかわらず、がらんとした平な土地が村はずれに広がっている。
草も生えない。動物も近寄らない場所だ。
開墾したようにも見える真っ平らな土地は、しかしいくら苗を植えても育ったためしがない。水をやっても、飼料を与えても、苗は真っ黒に腐ってしまうのだ。
そんな荒れ地でハンは楽しげに歩き回っている。しまいには地面にうずくまり、けたけたと声をあげて笑っている。しかもその声には普段の娘からは考えられない艶があった。
ハンは頭をやられているのか。
恐る恐る近寄った父親は娘のはだけた懐から、さっと飛び出す黒いものを見た。長く、細い。その影の目玉は冷え冷えと光ってみえた。
「魔物に取り憑かれた。父さんはそう言って、あたしを部屋に閉じ込めました。夜にはつっかえ棒までして」
両親は隣村まで行って、有名な神社から札を買ってきた。すると、しばらくは夢も夜歩きもぴたりとやんだのだ。
しかし。代わりに恐ろしいことがおこりだした。
話しを聞き終えたイオは、小屋の前に広がる荒れ地に立っていた。
村人が忌み嫌う土地は、明るい午後の日差しを浴びながらも、どこか寒々しい空気をまとっている。
村人が背を丸めながら働いている馬鈴薯畑はすぐそこだ。
なのに向こうは、決して視線を合わせない。必死で見てみぬ振りを続けている。
ここでハンは人知れずに、逢瀬を繰り返していた。
しかしハツユキは言ったではないか。ハンの瞳は、わたしを映さなかったと。
あれは全てでたらめだった。自分の同情をかう為の芝居だった。だとしたら成功だ。
あたしはまんまと、蛇の純愛話しにひっかかったのだから。
だが、どうしてだ? リュウのあたしをどうして連れてくる必要がある。村にはいるだけならば、誰でも良かったはずだ。むしろあたしはカガシの天敵だ。それをどうしてだ?
片膝をつくと、長い間イオは地面を見つめていた。黒々とした乾いた土地をほじると、じんとした冷たさが指先から伝わってきた。
※ ※ ※ ※ ※
(まただ)
夜半。
集落から離れた場所に建てられた小屋の前に男はいた。
真っ白い。
裸足の足が地面を踏む。
(また、懲りずに札をはっている)
男の青い瞳が、剣呑に細められた。
小さな小屋の戸口はおろか、窓枠にまで、びっしりと札がはりめぐらされている。
さらに今夜は、小屋の周囲に見慣れぬものまである。
榊だ。円陣に榊を地面に突き刺し、小屋全体を囲っている。結界のつもりらしい。
だが生憎であったな。
男の薄い唇が、歪んだ笑いを浮かべた。
夜の自分が、これくらいの封印札で抑えられるとでも思ったのだろうか? 愚かな奴だ。ハンの父親といい、人間とはまったく忌々しい。
自分とハンとの間をさく者は許さない。
アレは自分のものなのだ。前世からの縁をたちきるなど、誰にもできはしない。
白い足は、イオのつくった円陣へ躊躇なくはいる。
途端に円陣から光がほとばしり、榊の小枝が一斉にしなりだした。
「しゃらくさいわっ」
怒りにまかせて、男の足が榊を踏みにじる。
「これぐらいのもので、わたしをどうこうできると思ったか!」
今夜は特別な夜だ。
三百年前。
カンノと引き離されたあの日から、ずっと待っていた。
もう一度ひとつになる為に。
その為だけに、自分は生きながらえてきたのだ。カンノに対する思いがなければ、土塊の下でとっくに朽ちていた。この思いを邪魔する者を許しはしない。
この日の為に蓄えていた力。
弱々しい存在に甘んじてきた屈辱をはらすのだ。
「うおおおお」
男の荒々しい雄叫びと共に、榊が倒れ、円陣がくずれる。
さあ、あとはハンを浚うだけだ。
三百年前に奪われたものを、返してもらおう。
ハンは震えていた。
冷たい布団をかぶり、ただただ札を握りしめ、震えていた。
背中も胸も汗でしとどに濡れている。
なのに、躯はしんから凍えてしまったかの様に震えが止まらない。
怖い。
怖い。
怖い。
あんなに優しい目をした人だったのに。
なのに変わってしまった。
父さんがお札をはって、つっかえ棒をした。ぐっすり眠れたのは二、三日だった。
それからは悪夢の連続だ。夢の若者は様変わりをしてしまった。
怒りで顔は歪んでいる。
口を開くと、二股に分かれた長い舌が伸びてくる。
夢で逃げるハンを、どこまでも追いかけ捕らえる。途端に首筋をがんっと殴られ、気を失いそうになるのだ。
だが、恐ろしさで目を閉じられない。そうしてしまったら、二度と目がさめないかもしれない。
その恐怖がハンの正気を保っている。
若者の両腕が万力の強さでハンの躯を締め付ける。
胃が逆流して、吐きそうだ。思わず開けた己の口のなかで、何かが蠢くのを感じて、ハンは悲鳴をあげ目を覚ます。その連続だった。
男は小屋の扉に手をかけた。
魔除けに封印札など、造作も無かった。
脆弱なこの姿に惑わされて、自分を侮ったらしい。せいぜい明日になったら悔しがればいい。
アレの姿はこの村から消えるのだ。やっと元に戻れる。
男の口元に浮かんだ笑みは、残虐な色に染まっている。
みしっ。みしっと床板を踏みならす足音が聞こえてきた。
夢ならば、若者は気がつくと現れている。
なのに今夜は違う。
小屋の引き戸が開けられ、冷たい夜気が流れ込んで来た。湿った土の臭いがハンの鼻をかすめる。荒れ地の土の臭いだ。
昼間にここを訪れた札師の言葉を思い返す。
大丈夫。
ハンは渡された札を、千切れんばかりに握りしめた。
小屋には自分しかいない。札師も夕刻には出て行ってしまった。
ここへキチ以外の人間がやって来るのは滅多にない。
若者が様変わりしてから、悪夢にうなされ半狂乱になるハンを恐れた家族から、この小屋に移された。荒れ地のなかに建つここが、何と呼ばれているのか、ハンだって知っている。
移り病や、罪人がでると使われる忌み小屋だ。
だが来たくないとは言えなかった。
今は末弟のキチが、日に二回飯をもって来てくれる。それだっていつまで続くか分からない。厄介者を喰わしていく程、ハンの家族は裕福ではない。
先週は目つきの怪しい男がやってきた。
男はハンを見るなり、これでは売り物になりはしない。憑き物を落としてから声をかけてくれ。そうせせら笑うと、すぐにも出て行った。
外で誰かの溜め息が聞こえた気がした。
あれは父だったのか。兄だったのか。考えたくはないが、そうであっても責める気にもなれなかった。
いっそこのまま、若者に捕われてしまおうか。
疲れた頭で、そう何度も考えてみた。しかし今は恐ろしかった。
一歩一歩近づいて来る足音に身がすくんだ。
首筋の赤痣が、じくりと痛みだす。
痣などハンにはなかった。若者が豹変してから、できたのだ。
夢で、いつも決まってここを殴られる。気が遠くなる痛みで、頭が朦朧となる。
助けてと伸ばした両手が、若者の変化した長い躯で巻き取られる。
そして呼びかけられるのだ。
甘ったるい声で。
息も絶え絶えでもがき、目を開ける。薄汚れた小屋の天井が見えて、やっと息をつく。
朝がきた。
目が覚めた。
そう安堵する毎日である。
次の朝日を見られるのだろうか?
両手で握りしめていた札の鈴が、ちりんと軽やかになった。その途端。ハンの躯を覆っていた布団が、ぐっと押さえつけられる。
いつの間に止んでいたのか。
もう足音は聞こえない。
変わりに、何かがハンの上に乗っている。
「ひいいっ」
耐えきれずに、か細い悲鳴が喉から漏れる。
「カンノ」
優しげな声で、布団越しに撫で回される。人間では考えられない、長い腕はすっぽりとハンの躯をとらえてしまう。
「カンノ」
夢でも呼ばれた名だ。
(違う。わたしはハン。カンノじゃない)
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、ハンは首を横に振った。
ハンを押さえつけている力が、ぐっと強まる。
「やっと。やっとだ。もう離さない」
白い指先が、布団の端から入ってきた。
異様に長い爪だ。
布団が持ち上げられると、できた隙間から床が見えた。真っ暗だと思っていた室内は月の淡い光が差し込んで、変に白っぽくみえている。
ああ、今夜は満月だった。そんな悠長な考えが、ほんのひと時頭をよぎった。月をあおぐ為に顔をあげたハンは、こちらを覗き込む者と目が合った。
青い双眸。
妖しい魔物の瞳が、じっとハンを見つめている。
瞬きをしないその瞳がにいいっと細められ、「みつけた」嬉しそうに男が呟いた。
「いやあああ」
咄嗟にハンは握りしめていた札を、男の顔面に投げつけて布団からまろび出た。
恐怖で腰があがらない。
尻をついたまま、ハンは床の上を這った。
逃げなければ。それだけで頭のなかは一杯だ。なのに、躯は思うように動かない。
母さん!
父さん! キチ!
誰でもいい。助けて!
背中が中途半端に開けられていた襖に当たった。
振り返る。
すぐそこが隣の板間だ。開け放たれた戸口から、外が見える。
狭い小屋だ。戸さえくぐれば。外に出られさえしたら。
戦慄きながら伸ばされたハンの手は、しかしそれ以上は動かなかった。
ハンの長い髪が後ろからがっ、とつかまれる。痛みではない。恐怖で悲鳴があがる。
「ひいいい」
「なんて悪いことを覚えたんだ」
若者の頬がハンの耳にあたる。
その顔を見上げて、ハンは心底後悔した。
見なければよかった。
声は優しいままなのに、顔は怒りで歪んでいる。
「こんなものを僕に投げつけて。どういうつもりだ?」
そのまま力まかせに抱きしめられる。夜着越しに、若者の冷たい肌の感触が伝わり、重なった肌が粟立つ。寄せられる頬にも、血の通った暖かみがまるで感じられない。
(この人は、やはり人間ではないのだ)
父さんの言った通りであった。
「こんなに震えて。可哀想に。すぐに僕のところへ連れていってあげる。まずは邪魔なものを無くしてしまおう」
若者がハンの目の前で札を握りつぶす。
若者の手のなかで黒い炎があがり、札は消し炭となった。
「あんなに僕を愛してくれたのに。忘れるなんて酷いよ。カンノ……」
耳元で若者が呟く。
愛おしくてたまらないと。
甘い声で。
夢と同じだ。しかし今夜は目が覚めるとは思えない。
ハンはついに絶望で瞳を閉じた。それを諦めと感じ取ったのか、若者はうっすらと微笑むとハンの胸元に手を伸ばした。
その時だ。
小屋全体を一気に光が包み込んだ。若者にもハンにも咄嗟に何がおきたのか分からない。
「上手い具合にひっかかってくれたねえ」
嘲りを含んだ声が部屋に響いた。
「くそっ」
若者が悪態をつく。
目を開けようにも、あまりの光の強さに顔をあげられない。ハンの方はといえば既に気を失っている。
仕方がない。
若者はハンの躯を床におろし、両手で自らの顔をかばった。
伏せた視界いっぱいに、いつの間に張り巡らされたのだろう。包囲陣がまわっている。
小屋を囲んでいたものとは、あきらかに違う。桁外れの強さだ。
二重にかけられた輪の文字が、左右逆に回転している。
輪の内側からは回転しながら、光と共に水煙があがる。見えない壁があるごとく、水は二人を囲うようにして嵩を増していく。
「陰には陽。天には地。偶数には奇数。清には濁。リュウのカガシ封じの陣だ。油断したのは、あんたの方らしいねえ」
「誰だっ」
戸口に誰かがいる。
光の向こうに立っている。
「誰だなんて、つれないねえ。あたしに声をかけたのは、お前さんだろうに」
のっそりと小屋の中にはいって来たのはイオであった。
土足で板間まで入って来ると、陣のなかの二人を見下ろす。
苦しいのだろう。
若者の端正な顔は、今や歪んでひきつれている。それでもハンを手放す気はないらしい。ハンの上にのしかかったままだ。
小刻みに震える姿は、既に足下から変化が解けている。着物の裾から飛び出したのたうつ蛇の尾が、イオに向かって打ち鳴らされる。
飛沫があがり、さらに若者の顔が苦悶に歪んだ。この陣の水は若者にとっては毒だ。人であるハンにはなんら影響を及ばさないが、若者はもって数分といったところだろう。
小屋の周囲のわざと解けやすい結界も。
ハンに持たせた札も。
全てはおとりだ。この封印陣に誘い込む為の。
「あたしゃあ、面倒なのは好かない。あんたがこんな騒動をおこさなければ、手間をかけずに帰っていたんだ。まあ何も殺すわけじゃあない。イドの向こう側も結構過ごしやすいらしいから、行っておくれ」
イオは一枚の札を差し出した。
札がカガシに反応し、紅い文字が浮かび上がる。
人里にいるカガシを封印して歩く趣味はない。そんな面倒なこと、いくらだされたって御免こうむる。しかしこのカガシは駄目だ。ハンに対する執着が強すぎる。
気絶したままのハンにしがみつく若者に向かって、イオは札を投げつけた。カガシ封印のイドの札は、まっすぐに光のなかへ吸い込まれる。
「カンノ!」
そう叫ぶと、若者の瞳が絶望で閉じられる。
だがそこへ、「駄目だ!」
鋭い叫びがおこった。
イオの放った札は、突然現れた白い手によって跳ね返された。必死な形相で若者を守った手の主を、イオは呆然と見返した。