参
せっかく店をだすはずだったのに。
イオは臍を噛んだ。
これでは蛇を探すのが先になりそうだ。なんて手間をかける蛇野郎だ。これだからカガシは信用できない。
草むらに足を踏み出したイオの背後で、かさりと小さな音がした。
なんだ?
振りかえると、まだ幼い男の子がじっとこちらを見つめている。近くに他の子供はいない。
広場には、ちらほらと大人の姿もでている。井戸の周辺では、おかみさん達が立ち話をしている。イオの存在にはとっくに気がついているはずだが、みな顔はあさっての方を向いている。
イオの出店の前にいる子供は五歳くらいだから、学校は無いのだろう。
あれだけ警戒していたちびすけが、一人でイオの前にいる。坊主頭が籠かつぎではないと説明したからだろうか。
それにしたって、他の子供はみなで走り回ったり、縄跳びをしたりしている。
時折こちらを伺う目つきはしているものの、目が合いそうになると、ついと逸らす。おかみさん達と似た反応だ。
子供はどこか暗い目つきでイオをじっと見つめていたが、唐突に口を開くと、
「悪霊退散って、お化けに効くの?」
ひそめた声で聞いてくる。
「お化け?」
イオは思わず出そうになった大きな声を飲み込むと、子供におっかぶさる様にして尋ねた。
「うん」
真剣な眼差しで、子供が応える。これはひやかしや、冗談半分で聞いているのではない。
イオは子供の目線にしゃがみ込むと、うんと優しい声で言った。
「お化けがでるのかい?」
「姉ちゃんが……」
男の子は言いよどむと、戸惑ったように背後を振り返った。
途端に何人かの頭が、やけに不自然に揺れる。
どうやら関わり合いになるつもりはなくとも、興味はあるらしい。そしてこの子はそれを望んではいない。
「もちろん、あるさ」
イオは男の子の肩に両手をかけると、小さな顔を覗き込んだ。
「あたしはカガミ一の札師だ。化け物退治だろう? まかせてくれ。札をここで広げるのもなんだし。その化け物が出るって所に案内しておくれ」
「……札だけ売ってくれりゃあ、いい」
「そうかい?」
「うん」
男の子がふかく頷く。
「けどねえ、そんで化け物に効かなかった時はどうすんだい。あんたは丸損だ。化け物といったって、色々種類があるんだ。あたしが行って、確かめるのが手っ取り速い。さ、行くよ」
子供の返事も聞かずに、イオはせっかく出した札を籠に戻していく。
「あたしは札師のイオだ。あんたは?」
籠をかついだイオに、子供はあきらめた様に溜め息をつくと、「キチ」と、短く告げた。
キチと歩くイオを、すれ違う村人たちは顔を伏せてやり過ごす。
こうなると、気のせいなどではない。
小さな村だというのに、見知らぬ大人と連れ立っているキチに、誰一人声をかけないのだ。それは極めて不自然だ。
道すがら話しを聞くのは、諦めた方が良さそうだ。とてもそんな雰囲気ではない。
キチは家が立ち並ぶ集落を抜け、畑の間をずんずん歩いて行く。
口元は堅く結ばれて、開く様子もない。
耕されたばかりの畝と、種付けの終わった畝が交互に現れては消えていく。のどかな風景だ。だがほっこりと山もりになった畝が途切れると、そこから先は荒れた地面がむき出しになっている場所にでた。
畑も家もここでお終いだ。
「お前の家はこっちなのかい?」
イオが尋ねると、やっとキチは立ち止まり頭を振った。
「いんや。でも姉ちゃんはこっちにいる」
キチが指差した方。
荒れ地の中程に、ぽつねんと掘建て小屋がある。
農作業の道具でも置く小屋なのかと思って近づいたイオは、ぎょっとして足を止めた。
壁は長さや太さの違う板でつくられ、お粗末にも隙間だらけだ。赤茶けたブリキの屋根も、穴が開いていたって可笑しくない程古い。
こんな小屋に人がいるのか?
この辺は豪雪地帯だ。冬になったら、これでは越せないだろう。
祖末な貧しい小屋。それだけならばイオもここまで驚きはしなかった。行商であちこちを歩き回っている。赤貧の暮らしだって見てきた。だがこれはそれだけではない。
小屋の周りは淀んだ気で、満たされている。思わず後ろを振り返ると、そこには畑がのどかに広がっている。
まるで違う。
見えない線がひかれて、こっから先は違う世界にいるようだ。
「……ひどい空気だ」
イオの呟きにキチが怯えた目をする。
この少年も、感じ取ってはいるらしい。
だからあんなにも懸命に、足を動かしていたのだろう。躊躇う気持ちが少しでもあれば、ここに入るのは無理だ。
もはや疑う余地はない。
夜な夜な夢で現れる。
ハツユキはそう言った。
馬鹿な。そんな生易しいものではない。子供でも感じ取れる程のカガシの情念の残滓に、胸が悪くなりそうだ。
小屋の窓には、なかから紙が貼られ、目張りがされている。
壁や戸口には破れて茶色に染まった紙片が、はたはたと風にたなびいている。
イオがそっと紙片の一枚に触れると、
「お札だったんだ!」
キチの尖った声があがった。
「ちゃんとしたお札だった! 父ちゃんだって、母ちゃんだって心配している。金をかき集めて祈祷を頼んで、隣町まで行って札を買ってきた。なのに、駄目なんだ。全然役に立たない……」
涙声でキチの言葉は震え、か細く消えていった。
こんな札では駄目だ。
イオは唇を噛んだ。
こんなもので、止められるはずがない。
イオは戸口の紙片を乱暴にはがすと、キチを振り返った。
「姉ちゃんの名は?」
今さら聞いたって、分かりきっている。だが蛇をここまで連れてきてしまったのは自分だ。
「……ハン」
「ハン」
キチの口にした名を繰り返す。
前世の名はカンノ。
そして今生ではハン。
うっとりとその名を告げる色男の顔が脳裏によぎる。
決心したように、イオはがらりと引き戸を開ける。土間に朝の柔らかな日差しがはいる。しかし家全体を覆うひんやりとした空気は、そんなもので変わりようもなかった。
カガシ独特の気配が濃く漂っている。
天井の梁などを見回してみたが、ハツユキらしい影は見つけられない。
当然だ。いくら小蛇になっているといっても、カガシだ。相手が本気で隠れたら、そうそう簡単に見つけられるものではない。
土間に続く板間の奥に襖がある。そこに手をかけたキチが動きを止めると、イオを振り返る。
「姉ちゃんよぶけど……大丈夫?」
「……何がだ?」
「おばちゃんで、大丈夫?」
「知るか」
子供の揺れている瞳に、任せろと言いたい。
しかし安請け合いはしない。できるかどうかなど、蓋を開けてみないと分からない。それが本心だからだ。
「けれど、精一杯やる」
「……うん」
不満はあるだろうが、イオが請け負ったのに、幾ばくかの満足は得られたのだう。キチは大きな声を張り上げると襖を開けた。
「おはよう、姉ちゃん。起きている?」
わざとらしい大声だ。
子供ながらに姉に気を使っているのが、痛いほど分かる。
「ね、札師の人が来ている。起きて」
キチに手をひかれ連れて来られたハンは、イオの姿に躯を強ばらせた。しかしそれも一瞬で、すぐにも顔を伏せると、そのまま板間に座り込む。能面のような表情に、イオは眉をひそめた。
田舎娘だが、その心根に惚れた。
ハツユキはカンノをそう語っていた。
客観的に見ても、ハンも魅力的とは言い難い容貌である。少なくともあの蛇は、面食いではないらしい。
イオは、「あがるよ」と声をかけると、籠をおろし、ハンの前に座った。
あまり寝ていないのか、目の下のくまが痛々しい。
浴衣から覗く手首も足も、がりがりに痩せている。
お化けとキチは言った。
そうとも。
単なる病などではない。村人も感づいている。キチにさえ視線を合わせない行動も、それで納得がいく。
この娘は取り憑かれている。
「姉ちゃん、握り飯もってきた。茶いれるね」
キチが握り飯を皿にのせてきた。
ハンはかいがいしく姉の世話をやく弟の手さえ、煩わしそうにしている。ただ喉が乾くのか、出がらしのお茶は、すぐさま飲み干してはまた欲しがる。
そうしながら、しきりに首筋をさすっている。
癖なのか。そう思ったが、首筋に当てられた右手は下ろされない。いくらなんでも不自然すぎる。
「そこ、痛むのかい?」
イオが声をかけると、途端にハンの躯がぎくりと強ばった。成る程。素直な娘らしい。誤摩化すのは苦手なのだろう。
「……」
一重の黒目がイオに向けられたが、怯えたようにすぐにそらされる。
何事かと流しから顔をだしたキチを手で制すると、イオは言葉を続けた。
「知っているかい? ここいら辺には、色男の蛇がでるらしい」
イオの言葉に、ハンの顔色が変わった。
瞳が探るように辺を見回す。襟を握った左手が、かたかたと震える。
「大丈夫だよ」
ゆっくりと近づくイオに、ハンは尻で後ずさって逃げようとした。
狭い小屋だ。すぐに壁際に追い込まれる。イオを拒絶するかのように、ハンは躯を丸くして震えるばかりだ。
怖がらせないようにイオは、こちらに向けられた背中に優しく手をおいた。
「あたしはあんたに怖いことなんて、しやしないよ」
手をおいた背中は薄っぺらだ。
「あたしにも娘がいるんだ。あんたと年も近いよ。あの子も蛇が苦手でね」
父親似の髪をした娘を思い浮かべながら、イオはハンの頭を撫でる。
若い娘らしい艶やかな黒髪は、ずっと櫛もいれていないのであろう。くしゃくしゃになっている。
「あたし。あたし……」
イオは泣きじゃくり始めたハンを、後ろから抱きしめると、そっと襟ぐりを広げた。
ハンの躯が震えたが、今度は逃げはしなかった。逆に必死にイオの腕にしがみく。 日に焼けた細い首。そこに拳だいの赤痣がある。まるでたった今殴りつけられたように、浮かび上がっている。
顔を近づけると汗の臭いとは別に、よく知っている臭いが鼻先をかすめた。
ゆいなの村にはいるまでの喜楽な気分など、とうに吹っ飛んでいた。これはあたしの責任でもある。
怒りを堪えながら、イオは泣き出したハンの躯を抱きしめた。