壱
自然の樹木が視界を遮るようにして、その洞窟の入り口はあった。
まもなく日が沈む。
カガミ縣北東部の山中にイオはいた。
春がまだ浅い季節だ。行商で鍛えた躯といっても、夜通し歩きたいわけではない。野宿は覚悟していたが、雨風のふせげる洞窟はありがたい。
ただ少しだけ奇妙に感じた。
カリヤ村から、ふじの貯水湖に抜けるこの山道は通い慣れている。だというのに、今日までこの洞窟に気がつかなかった。
イオの形の良い鼻が、空気中の湿り気を嗅ぎ分ける。
雨の臭いだ。
本降りにはならないまでも、じきにやってくるだろう。見上げた頭上には、雨雲が厚くたれ込めている。
カンテラに火を灯し、中を伺う。
獣の気配は感じない。とにかく一晩過ごすだけだ。いざとなれば、これもある。
背にある籠の重さは、心強い。
疑問は一旦しめだし、イオはなかへと進んだ。
村から村へ。
水の臭いを頼りに、イオは旅を続けている。
もう何年この様な生活を送っているのか、定かではない。イオは家族持ちだ。市の中央部には伴侶と娘がいる。伴侶のいれてくれる茶が、無性に恋しくなる時がある。
だが家庭に落ち着くには、この生活が長過ぎた。旅は仕事というよりも、もはや彼女の習性になっている。
苔むした洞窟のなかは岩壁から水が染みだし、たいそう滑りやすくなっている。
手を添えた岩肌も、緑色の苔類に覆われて、ぬるぬるとした感触を伝えてくる。
見回したところ、蝙蝠共の姿はない。これなら一晩明かすくらい平気だろう。
洞窟探検に興味はない。適当な場所まで行くと、イオは腰を下ろした。
食料はまだある。水の心配もない。
ふじの村までは、早朝に出立すれば昼過ぎにはつくだろう。あそこならば馴染みの宿もある。明日は暖かい飯にありつけるはずだ。
イオは干した果実と、堅いパンをゆっくりと噛みしめた。
村までの道筋は、既に頭にはいっている。簡素な食事を終えると、後は眠るだけだった。
目覚めは唐突であった。
気配。であった。
尋常ならぬものの気配で、イオは覚醒した。
カンテラの火はとっくに落ちている。にもかかわらず、洞窟のなかは青白い光で満ちている。
「誰だい?」
イオの声が、暗闇のなかでうわーんと反響し、湿った空気が揺らぐ。
外では雨が降り出しているらしい。
雨に濡れた地面特有の、菌類の放つすえた臭いがする。
鼻が良すぎるのも善し悪しだ。イオは岩壁にもたれかかった姿勢のままで、目線だけを動かした。
イオの真ん前に、気配の主がいる。
「リュウの方とお見受けいたしました」
気配の主が低い声をあげた。
「御前に我が身を晒すことを、お許しください」
青白い光の中心に座っているのは、着物姿の若い男であった。
今時着物とは古めかしい。普段から着物を身につけている者は、金持ちか酔狂な趣味人だ。
いや、これは人に限っていえることだが。
男はイオに向かって、深々と頭を下げている。その為、男の顔は見えない。しかし、イオには分かった。
「あんた……ヒトではないね?」
「はい」
男がゆっくりとした動作で顔をあげた。
「お察しの通り、カガシ。で、ございます」
ここで腰のひとつでも抜かすか、冗談だろうと笑いとばせば良いのだろうが、生憎とイオの勘が告げたばかりだ。
こいつは蛇神だ。
目の前のカガシは色の白い、整った顔をしている。イオの好みではないが、美男子といっていい容貌であろう。しかしイオをまっすぐに見つめる青い双眸は、異形のものだ。
瞬きをしない、蛇の瞳だ。
くり抜かれたような、その瞳がひたとイオを見つめている。
(こいつは確かに人型をしたカガシだ。まず間違いない。だが、この精気の薄さはどうしたことだ?)
イオは内心で首を傾げた。
カガシは、カガメとも呼ばれる異形の蛇族だ。
カガミ縣が、かつてカガミの國の呼ばれていた頃から、この異形の一族はしばしば人里に現れていた。
蛇の瞳。
蛇の目が転化して、かつての國名であるカガミになったとも言われている。それだけカガシは人の生活に関わってきたともいえる。
九百年とも千年ともいわれているカガシの寿命であるが、実は彼らは不死だという話しさえある。
そのネタになるのがカガシを祀る蛇頭神社のご神体だ。
ご神体はカガシ玉や蛇塊といわれる宝玉で、カガシの体内から取り出されると伝えられている。真偽のほどは分からぬが、脱皮を繰り返す蛇が不死の象徴とされてきた歴史は多い。
しかしそれも既に年寄りたちの語る昔話しのひとつになっている。
今時のカガミの子供たちに聞かせても、法螺話しで片付けられるのが落ちだ。実際イオもカガシにお目にかかるのは久方ぶりだ。
さんざん行商で歩き回っていた山にいたなんて、以外と身近な場所に生き残っているもんだねえ。妙なところでイオは感心してしまった。
それにしても、このカガシはまるで幻のように頼りなげだ。
イオは仕事柄、異形の者に対する知識を、そこそこは持ち合わせている。一口にカガシといっても、蛇と人型では、その力に雲泥の差がある。
カガシで人型がとれる程ならば、その精気も並々ならぬもののはずである。
普通の村娘ならば、その場で卒倒しても可笑しくない。なのに、この男から漂う雰囲気は穏やかすぎる。
イオの知っているカガシは、もっと力強い。
強く、ずる賢い。
何よりも、側にいるのを躊躇う程に精気が強いのだ。
「……ここは、あんたの住処かい?」
イオの問いかけに、「はい」あくまで丁寧な口調でカガシが応える。
「以前はここに蛇頭観音がありました。もうかれこれ三百年程前の話しですが」
「そのくらい前だったら、確かにあたし等の一門はリュウと名乗っていたよ。けれどその名前はもう捨てている。今は一門も少なくてね。みな、てんでばらばらに暮らしている」
リュウはイオの出身の村の名だ。産まれは確かにそうだが、今現在村に残っている同胞は数えるほどしかいない。
「さようですか」
こちらを探るような目つきで、カガシがこころもち顔を近づける。
「しかし、リュウの札師として水の力は授かっている。そうでしょう? あなたからは、水の臭いが漂っている。我らの目は不思議でしてね。ヒトに見えないものが見える。あなたを取り巻く水流の輪がわたしには見える。
奇麗ですね。わたしはリュウの者と懇意にしたことはありません。しかしひき付けられる。それほどこの水は美しい」
「……そりゃあ、どうも」
カガシに褒められたって、嬉しくともなんともない。何が言いたいんだ? このカガシは。イオは訝しさに眉をひそめた。
「あなたがリュウの名を持っていなくとも、わたしには関係ありません。あなたが我らと同じ水の加護を得る者であれば、ぜひにもお願いしたいことがありまして、でてまいりました」
「お願いねえ……」
このカガシは随分と腰が低い。
だが、イオは元来蛇が苦手であった。
それは彼女に限らず、同胞の女たちに共通している。
同じ水の加護を得ているといっても、カガシはまがりなりにも神の名を得ている。その神が何をお願いするっていうのだ。イオは心底迷惑そうに顔をしかめた。
聞かない方が身のためだろう。
「悪いけど、蛇神さまのお願いをきく程の力はない。あんたのねぐらに入り込んだのは悪かった。今からでもでて行く。お願いとやらは、あたしより腕の良い札師でもみつけて……」
腰を浮かせかけたイオは、そこで言葉をきった。情けないが続く言葉がでてこない。
イオの目の前には、カガシの青白い顔がゆらゆらと揺れている。
大人しそうに見えてこれだ。気味悪いったらありゃしない。
カガシは下半身はそのまま、蛇の胴を伸ばしてきたのだ。白い鱗で覆われた躯に繋がる顔だけがヒトであるとは、悪趣味もいいところだ。
「ぜひにも、我が願いを聞き届けていただきたい」
口を開くと、二股に分かれた舌がのぞく。
「……わかった」
いやいや顔を背けながら、
「とりあえず、話しは聞こうじゃないか。だから」
イオは両手でカガシの頭部を遮りながら、言った。
「その頭は胴体にもどしておくれ。気味悪くって、しょうがない」
「……気味悪い。そんなものですか?」
躯に戻ったカガシの頭部が、どこか寂しげに眉をよせる。
「まあ……見ていて楽しいもんではないだろ?」
「……どうもリュウの方は我らをお好きではないらしい」
不満そうにカガシが呟く。
リュウの村では札を作るのを主な生業としてきた。火の用心の一般的なものから、悪霊退散まで幅広く扱っている。
リュウの札といえば、カガミでも古くから知れ渡るものだ。
あそこの村では魔物との婚姻を繰り返している。だからこそあれだけ効力のある札をつくるのだ。
そんな下世話な噂は、子供の頃から耳にしてきた。
商売の際に色眼鏡で見られるのも、もう慣れた。言いたい奴らには言わせておけばよいのだ。事実は自分等が知っていればそれでいい。イオはそう割り切っている。
「仕方ないだろう。あんた等みたいのを相手にするのも、あたし等の仕事にはいっているんだ。仲良くお友達ってわけにもいかないだろう……?」
そうとも。リュウの札師と知っていて声をかけるのだ。カガシもその点に触れるつもりはないらしい。真面目な表情でイオに向い合うと、口を開いた。
「わたしをゆいなの村に連れて行って欲しいのです」
※ ※ ※
「ハツユキ」と名乗ったカガシの願いは、転生した妻に会いたいというものだった。
彼女はここから峠ひとつ越えたゆいなの村にいる。
前世の名はカンノ。今生では、ハンという。
「そこまで分かっていながら、なんであたしの助けがいるんだよ。残念ながらゆいなの村は、あたしの仕事にははいっていない」
ゆいなの村ならばイオも名前だけは知っている。
ふじの村に抜ける街道から、道ひとつ西に進路をとれば行ける。馬鈴薯の産地だ。
ただあそこには目立った水場がないので用事がない。
イオの応えに、ハツユキは悲しげに首をふった。
「今のわたしでは夢うつつとしてしか、彼女の前に現れることができないのです。夜な夜な彼女の元を訪れましたが、わたしだとは分かってもらえませんでした」
深い溜め息が、ハツユキの薄い唇から漏れた。
「あんた、まがりなりにも三百年は生きているんだろ? なんだってそんなに頼りない精気なんだい?」
イオはもってまわった言い方が苦手だ。
例え相手が蛇神であろうと、それに代わりはなかった。言われたハツユキの方が困ったように苦笑いを浮かべてしまう。
「三百年前。ゆいなの村一帯は、わたしの根城でした」
カガミが現在ほど発達していなかった時代。ヒトの数は今よりもまばらで、カガシはその生活に深く入り込んでいた。
異形の姿と力。
カガシを恐れながらも、人々は土着神として崇めてもいた。天地を護る力は、自然に左右されていた水問題を抱えるヒトにとって、畏怖であり憧れでもあった。
その頃のハツユキに、名はなかった。
蛇神様と呼ばれ、ゆいなの村を横断するはつ川の上流に、彼を奉る祠が建てられていた。眷属の者もちかくにはいなく、独りきままな生活であった。
「カンノは祠を祀る家の娘でした」
「で、あんたが見初めたってわけかい?」
過ぎ去った妻との思い出を懐かしむように、ハツユキは目を細めた。
「カンノは心優しい娘でした」
色の黒い。どこにでもいる薄汚れた田舎娘であった。
身なりも祖末で、寂しげな顔立ちは陰気にもみえた。山里のゆいなの村でさえ、カンノより見目いい娘はいくらでもいた。
カガシの寿命は長い。
水鎮めの祭りの度に、山の中腹にある祠から姿を現すハツユキに、熱をあげる娘もいた。
「あんた男前だしね」
「リュウ殿にそう言っていただけるとは、光栄です」
すらりとした美形のハツユキは、自身が望めば女には事欠かなかった。それでなくとも蛇神は、好色だといわれている。
ハツユキの寝所に潜り込もうとする娘もいたくらいだ。しかしハツユキはヒトの女に心を寄せはしなかった。仲間うちから、偏屈と揶揄される程であった。
「わたしが初めて愛した女がカンノでした」
愛おしそうに、その名を口にする。
「わたしは彼女の心根を愛しました。決して豊かではない家族の為に、日がな一日働く娘でした。忙しいなか、時間をつくっては祠を清めにきてくれました。ひび割れた指先で丹念に。その手をわたしは取ったのです」
カンノもハツユキに気があったのではないだろうか。
イオにはそう思えた。いくら祠を祀っている家だからといって、年頃の娘が責任感だけで蛇の巣に近づくとは思えない。
異類婚姻。
認知はされていないが、カガミには古くからその手の記録が残っている。
どうしようもなく惹かれるのだ。
一皮むけば、異形の姿があると分かっていても。
「わたし達は二世を誓いました。カンノはわたしを受け入れてくれ、名を与えてくれたのです。ハツユキと」
「彼女が名付け親かい。どおりでね。蛇神様にしちゃあ、随分と可愛らしい名だと思ったよ」
「雪の降る夜でした。我らが交じり合ったのは」
「……そこんとこの惚気はいいよ」
うんざりした口調でイオが遮った。
蛇の惚気話しなどまっぴら御免だ。
出会って二年目。
カンノはハツユキの子供を身ごもった。
「その年。ゆいなの村一帯に大雨が続きました」
春先の長雨は一向にやまず、畑の被害は甚大なものになった。
いつもは子供たちが水遊びをする穏やかなはつ川が氾濫し、橋を押し流した。
「ゆいなの村は、山とはつ川に挟まれた小さな村です。橋が流されたら、陸の孤島となってしまいます。これ以上の川の氾濫が続いたら明日にはどうなるかも分からない。雨を止める。村人はその為に何をしたと思います?」
瞼のない瞳が、ひときわ大きく見開かれた。
可笑しそうに口元が弧をかく。
しかし笑っているのではない。イオはその目の奥を覗き込んで後悔した。
穏やかだった気配のかげりなど、どこにも無い。あるのはカガシ特有のねっとりとした、冷たい精気だ。
「あなたなら分かるでしょう?」
「……ああ」
苦い思いで、イオは頷いた。
カガミに古くから伝わる悪習が、すぐにも頭に浮かんだのだ。
普段は崇められているといっても、所詮は異端だ。状況が悪くなれば真っ先に狙われるのは、いつの時代だって普通じゃないもの達だ。
「人柱だ。違うかい?」
「ご明答です」
今度こそはっきりと、ハツユキが笑みを浮かべた。
場違いな、いっそ綺麗だといって良い笑顔である。薄い唇が冷酷につり上がっているさまは、獲物を狙うまえの蛇を連想させる。
「では、もう一つ。生け贄は?」
どこまであたしの口から言わせれば満足なのか。これだからカガシは嫌なんだ。
吐き捨てるようにイオは言った。
「カンノだろう」
「ええ。そうです」
満足気にハツユキが頷く。
「あいつ等は、蛇神の妻を贄に選んだ」
蛇神を奉じているのに雨は止まぬ。天の雨を司る龍神をないがしろにしているせいだ。
それが村人の言いぐさであった。
「ばかばかしい屁理屈だ」
蛇が駄目なら龍などと。吐き捨てるようにイオが言う。
顔をしかめたイオに、ハツユキが頷いた。
「ええ。しかし当時わたしは、ゆいなの村人を信じきっていた。彼らの浅はかで恐ろしい計画など、想像もしていなかった」
混ぜ物をいれた酒を運んできたのは、カンノの父親であった。他に村長と世話役の男たちもやって来た。
もうすぐ蛇神様の血をわけた子供が産まれる。ゆいなの村は祝福されるであろう。
男たちは次々と心地よい言葉を投げかけながら酒を勧めた。
今考えれば、己もまた愚かだったのだ。ハツユキは山の中腹の祠にいる。
下界の大雨など彼にとっては何の関係もない。農作物や橋などに感心をいだくカガシがいるものか。
ゆいなの村人にとって、それがどれほど大切なものなのか。考えもしなかった。
カンノを側におき、上機嫌に酔っていた自分は、さぞや滑稽であっただろう。
「知ろうとしなかった、罪。それは認めよう。だからといってわたしは、許しはしない。酒に入っていた薬でわたしは眠りおち、妻は浚われた。父親が身重の娘を運んでいったのだ。生き埋めにする為に。わたしには信じられない。信じたくなかった」
だが目覚めると、全てが終わっていた。
流された橋のたもとに、泥まんじゅうを見つけた。
カンノはそこへ埋められた。
生きたまま。
腹の子は後二ヶ月もすれば産まれてくるはずだった。
「わたしは……どうすればよいのか、分からなかった」
村人の無知を呪えばよいのか。己のふがいなさを嘲笑えばよいのか。カンノの悲運に泣けばよいのか。
「あんた……よくも正気を保ったね」
「そう思いますか?」
「だって、そうだろ?」
カガシが怒り狂えば、地が裂けると伝えられる。
リュウの札師が過去に、何人それで犠牲になったことか。
カガシは執着心が強い。赤子を宿していた妻を失ったというのに、どうやって自分を律し得たのか。まさか村大事でもあるまい。
イオには訝しく思えてならなかった。
「わたしは……もう一度会いたかった。それだけです」
どこを見つめているのか。冷たい光が去った視線が、空中を彷徨う。
「だからわたしは……彼女にわたしの力を差し出したのです」