始 起ー①
その男は、学生時代は冴えない男だった。名を、佐久田智樹という。
現在23歳。今年で24になる。学生時代、冴えないが故に友人は少なく、趣味もなかったので、両親の勧めで趣味を作った。
オーケストラのコンサート鑑賞、釣り、ドライブ、ラジコン、秘湯めぐり、アニメ、ゲーム、アーティストによるライブの鑑賞……。
しかしどれも彼にしっくりくるものはなく、いつのまにか身の回りにはものであふれかえっていた。釣竿は長く使っていないので錆がところどころにあり、ラジコンは買って1週間くらいしか使わなかったため電池が切れて埃をかぶり、秘湯めぐりのために買った地図はどこへしまったのかわからなくなり、ライブ限定のTシャツは押入れに押し込みっぱなし、ポスターはタンスの上で色あせて……生き残ったのは出勤で使う車くらいという、残念な結果。買ったものの中には、マニアの間では高額商品となっているCDやT-シャツ、ポスターなどがあったが、それらさえも、価値のわからない彼にとってはガラクタ同然で、どこかへ行ってしまった。
多趣味は趣味をもっていないのと同じ、と言う人が世にいるが、この男に限ってはまさにその通り。こんな調子だったので、大学時代終わりまで友達はあまりいなかった。
そんな彼であったが、3か月前に彼女が生まれて初めてできた。酒をまじえた合コンの席で、会社の同僚が紹介してくれた女性で、綺麗とか美人というよりは、かわいい女の子というほうがよさそうな女性だった。彼がかつて持っていた趣味の1つであった、アーティストによるライブ鑑賞。見に行ったライブの中に、たまたま彼女の好きなアーティストがいて、そこで話が弾み、「だったら今度一緒に行こう」と持ち掛けてもらったのがきっかけだった。
交際は1か月、2か月と、あっという間に経過していき、会うたびに仲が良くなっていく気がしていた。 お互いに年齢が年齢なので、もしかしたら結婚もあり得るかもしれないと思っていた。
しかし2週間前、彼女が突然事故にあった。交通事故だった。家の周りをサイクリングしていたときに、出会いがしらにひかれたのだという。相手は酒飲み運転だったらしい。
一応生きてはいるが、当たり所が悪かったようで、意識が戻っていない。
彼はとても悲しんだが、すべてはここからだった。
彼女を見舞いに行き、病室から出て階段を下りているときに転倒し、右足首を捻挫。
翌日、包丁の扱いに慣れているはずの彼の母親が料理中に左手の親指を切断。手術は間に合い修復はできたが、母親自身、驚いたようだ。このことがトラウマになったようで、包丁を握ることがなくなってしまった。
さらにその次の日、急に飲み会が入り、帰りのタクシーは0時過ぎ。くたくたに疲れていたのに、そのタクシーは老人をはねてしまう。そこから今度は警察による事情聴取。おかげでほとんど寝られないまま出勤。そのせいでミス連発、上司から怒られる。
クタクタになった彼であったが、気分転換に、1人で静かに時を過ごそうとして入店したネットカフェでは、彼の苦手とする、ド派手な格好をしたギャルと目が合い、しかも挨拶程度ではあったものの声をかけられてしまい、そして彼の座った席のパソコンの調子が悪く、さらにそのことを伝えるために店員を探すがなかなか見つからず、無駄に疲れてしまった、などなど。
彼女が車にひかれてから今日まで、平穏な1日があったためしがない。
そんな不幸続きの彼は今、ショッピングモールに夕飯の買い出しに来ていた。母親は包丁の件でのショックから立ち直らないため、料理のできない彼は適当に弁当を買って帰るのだった。
「今日はまだ何もないけど、警戒はしなきゃだよな……」
度重なる不幸で、彼は心身疲労していた。何も起きずに今日1日が終わってくれることを心底願っていた。
彼はスーパーから出て、使った分のお金を銀行から補給しようと、ATMコーナーに向かおうと方向転換した。
「ん?」
本来ならば見慣れた100円ショップがあり、そこに向かう途中にATMコーナーがあるはずなのだ。
しかし今日は違う。確かに100円ショップはある。でもその前に、小さな小屋があるのだ。
たこ焼き屋やたい焼きやがその場所に現れることはたまにある。しかしその小屋は見たことのないものだった。
気になった智樹はその小屋に向かった。近づくにつれてどんな建物かがはっきりわかってくる。その小屋はいわゆるログハウスで、1階建て。大きな公園にあるトイレくらいの大きさの小屋だった。玄関の扉は緑色のペンキで塗られており、ドアノブには「OPEN」と書かれた木札が下がっていた。
「なんだろう……」
理由はわからないが、妙に気になるこの建物。
とりあえず開店中のようなので、智樹はレジ袋をもったまま建物の中に入った。
カランカラン……
第1印象は「暗い」だった。
部屋には天井にランプが1つ下げられただけで、明かりは他にない。窓すらなかった。部屋を見渡すと、右に戸棚があった。小瓶がたくさんならんでいる。
左には1人用ベッド。何に使うのか見当がつかない。とりあえずここは病院ではなさそうだ。
そして正面には机、そして客が座るためであろう、丸椅子。丸椅子の向かいには和服姿でいかにも日本人な女性がにこにこして座っていた。まだ学生くらいの年代に見えた。
「こんにちは。ようこそ夢見屋へ」
「夢見屋……?」
聞いたことのない店名だった。
いったい何をする店なのだろうか。
「どうぞ、おかけになってくださいな」
不思議に思っている智樹に、少女は柔らかい口調で座るように勧めた。
彼はレジ袋をわきに置き、言われるがままに、丸椅子に座る。
「どこかで聞いたような声だな……」
頭に疑問が浮かんだ彼。しかし思い出せない。
思い出せないなら、その程度のことなのだろう。大した重要性はないということだ。
気にするのをやめ、ふと顔をあげると、机があった。机の上には木札が立っており、筆で丁寧な字で『夜行芭玖螺』と書かれていた。これが何なのか、どう読むのか分からなかった彼は、目の前の少女に目を移した。
「私、夜行芭玖螺と申します。変わった名前でしょう?」
そう言って木札をコンコンとたたいた。どうやら少女の名前だったらしい。正直、読めない。
少女の正面に座ると、暗い店内であるものの彼女の容姿がよく見えた。
近くで見ると、その姿は、よく夏にテレビで見る怪談番組に出てくる日本人形のようだった。可憐さの中に、何か、言い表せない凄みを感じた。怖さといってもいい。とはいえ、目の前の少女はテレビのそれではなく、生きた人間である。一瞬寒気を感じた彼だったが、すぐにそれは引いた。
見かけは普通の少女。和服が似合いすぎている事以外は、他の同年代の少女と大差はないだろう。
しかしそれは間違っていた。
明らかに普通の人間とは違う部分が一箇所。
「角……?」
思っただけのつもりが口に出してしまっていた。その瞬間に、彼女の目が鋭く光った気がした。同時に再び悪寒が智樹を襲う。蛇に睨まれた蛙。ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。
やってしまった、と思って冷や汗が一筋、彼の頬を伝う。彼女を見ると、袖で口元を抑えて上品に笑っていた。
「フフフ……いいえ、お気になさらず。よく言われますの。でもただの飾りですわ」
不思議なことに、気づかぬ間に悪寒は消え去っていた。
それにしても、ただの飾りにしてはよくできている。牛や鹿のような、本物の骨でできた、直に生えている角に見えた。
「ほら、最近、街を歩いていると、猫耳やらウサ耳やらをつけてお店の前にいる女の子がいるでしょう?それと同じです」
そう言われると、なぜか納得ができた。