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夕立とセーラー服

   1、



 管内の発電所がすべて停止していると新聞で読んだ。夏が始まっていた。僕は学校帰り、変電所近くの公園の小高い築山のてっぺんで、体育座りの姿勢で、平野を眺めていいた。夏が始まったと誰かが宣言したわけではなかったけれど、もう気温はじとじとと高かったし、晴れる日はほとんどなくなっていた。テレビの天気予報で見れば、梅雨前線とやらが姿を現して、じめじめ空気を平野へとひっきりなしに送り込んでいるらしい。公園の入り口で買った缶コーラは、取り出した瞬間にびっしりと汗をかいて、僕は一気に飲み干して、しばらくは缶の冷たさを掌に感じさせていようと思ったのだけれど、あっという間にアルミニウムは僕の体温でぬるくなってしまった。あとに残るのは、アルミ缶が全力疾走したあとのようにびっしりと全身に浮かべた汗だけ。それが僕の掌をじっとりと濡らす。

 築山から見ると、僕の町の風景がほとんど見渡せる。くすんだ瓦屋根と、生垣を廻した家並。そして、濃い緑色の社の林。あとは、田んぼ。どこまでも田んぼ。さえぎるものがなければ、地平線まで田んぼと、僕の町と同じような風景が東京まで続いているんだと思う。普通電車が停まる駅があるこの町。独立した自治体ではないから、三駅離れた市役所の出張所が駅のそばにある。快速も特急も止まらない。高速道路のインターチェンジはずっと離れた場所にあって、国道といえば、町外れの田んぼを突っ切るようにして走るだけで、家並を縫うようにしているのは、名ばかりの県道と市道。路線バスが向こうから現れたら、自転車に乗った僕たちは、自転車から降りて道路端ぎりぎりに寄らなければならない狭い道。そして狭い町。コンビニは二軒くらいあったと思うが、顔なじみのおばちゃんがやってる雑貨屋のほうがまだここで幅を利かせている。スナック菓子からノートからペン、制服や体操着やジャージにつける名札まで売ってる店。もちろん制服だとかを扱う店はしっかりと別にあって、普通電車を三駅乗った先にある馬鹿みたいに大きなショッピングモールで売ってるようなTシャツやパンツは扱ってない。おばちゃんやおじさんが着てる垢ぬけない服は、たいていその洋品店で買ったものだと思う。かくいう僕が今着てる中学の制服もその店で買ったわけ。値引きという概念が存在しなさそうな店。それが普通の町。

 ドロドロと遠くから鈍い音が耳に届いてくる。雷だ。平野のずっと先に、黒々とした雲が立ち込めている。きっとあの雲の下は雨だ。かすかに漂う空気に雨の匂いがする。僕はそうした匂いに敏感だった。前世は犬だったんじゃないかと母親にも祖母にも言われた。高校生の姉にも言われた。家一軒一軒、全部の匂いが特有で、一軒たりとも同じ匂いの家はないんだと力説しても、家族のだれ一人して同意してくれない。父とは、そういう話もしたことがなかった。仕事のせいだと思うが、生活パターンが僕らと全く違うからだ。父は電力関係の仕事をしている。この公園のそばに広い敷地を持つ変電所で働いている。背の高い鉄塔が立っていて、それがマイクロ波通信塔なのだと父に教わった。ずいぶん無人化が進んでいるらしいけれど、それでも変電所には運転員が必要らしく、父はそこでずっと働いている。電力は昼夜関係なく流れ流されるから、僕が寝ようとしたころに出勤して、僕が学校へ行くころに父が帰宅することもある。この町でそういう父親を持っている家庭は多いと思う。農家でなければ、電力関係の仕事。変電所のほかにも開閉所という施設もあるらしい。

 僕の町。空を分厚い雲がふさいでいる。雨が降りそうだ。僕は傘を持っていない。でもまだ帰る気がしなかった。雨雲が僕のいるこの場所まで手を伸ばしてくるまで、ここにいようと思った。

 鉄塔。関東平野のはずれの、田んぼばかりが続くありふれた小さな町であるここの特徴といえば、場違いなほどに背の高い送電塔がいくつも立ち並んでいることだと思う。家一軒の敷地よりも太さのある裾と、そこからまっすぐに立ちあがる送電塔には、合計四対八本の腕がある。三角形を組み合わせた構造は、トラス構造と呼ぶのだと、これも父に教わった。小さなころ……といっても僕はまだ十五歳にもなっていないのだけれど、そう、小学校に上がったころには、ちらしの裏に僕は送電塔の絵ばかり描いてきた。同級生が、車や飛行機や、テレビの戦隊ヒーローの絵を描くのに対して、僕はずっと送電線や変電所や、通学路に並ぶ電柱と腕木と碍子と変圧器ばかりを描いてきた。電柱にくくりつけたような街灯や、国道や県道に並ぶ水銀灯、ナトリウム灯、公園の街路灯、マイクロ波通信塔、携帯電話の通信基地局の塔。そんなものばかり描いてきた。

 僕の町にひとつだけある中学校に入学して、図書室で見かけた一冊の小説に僕は魅せられた。僕よりもずっと小さな少年が、送電塔に魅せられて、鉄塔に振られたナンバーをたどって、まだ見ぬ原子力発電所を目指そうという小説だった。僕は、正直驚いたんだ。鉄塔なんかに興味を持つ人が僕のほかにもいたんだと。それを物語にするような人がほかにもいたんだと。けれどそのとき僕はもう中学生になっており、僕の町を出入りしている送電線が、どこから来てどこへ向かっているのか、父から聞いたり自分で調べたりしてほとんど知ってしまっていたから、送電塔に振られたナンバーをたどって発電所へ向かう旅をしようという気にはならなかった。あと五年早くあの本に出会っていたら、もしかすると、僕は真夏の日差しをものともせず、たぶんひとりで、自転車に乗って、二七万五千ボルトの超高圧送電線の、巨人のようなその威容をたどる旅に出たかもしれなかった。

 首筋を汗が一筋、こぼれて背中に落ちていくのがわかった。夏服。といっても、ただのカッターシャツ。半袖の。袖から、中に着ている体操着の袖がはみ出ている。クラスメイトの何人かは、この無様な姿を嫌って、わざわざ体操着の袖を肩口までめくり上げてカッターシャツを着ている。僕は面倒なことはしない主義だった。制服の袖から体操着の袖がはみ出ていても別に気にならなかった。素肌にカッターシャツを着る奴もいたけれど、それはもちろん校則違反だったから、いちいち先生ともめる労力を考えると、それも僕は満場一致で却下すべき事柄だった。だいたい、カッターシャツが素肌にべたべた貼りつくほうがよほど気持ちが悪かった。クラスの女子の大半も、夏服セーラー服の袖口から、体操着の袖をはみ出させて着ていた。紺色に白線三本のセーラー服の袖カフスから、エンジ色の体操着の袖がはみ出ていて、それはそれは不格好そのものだったのだけれど、女子たちはみんな何食わぬ顔でその田舎スタイルのまま過ごしていた。きっと僕とおなじく、女子という生き物は面倒を嫌うんだろうと思った。けれど、セーラー服のスカーフの結び方には一定のトレンドがあるらしく、いちいちそれを守らなければ気がすまない同級生たちの努力は、やはり僕には理解しがたかった。だいたい、制服の下に体操着を着ている時点ですべて終わりなのに。夏服を透かして、体操着の胸と背中に縫い付けてあるゼッケンが透けて見えてる時点で、なにをやっても終わりなのに。僕の姉も中学生のころは同じような姿だった。なのに、高校生になって、普通電車で三駅離れた市役所そばの県立高校に通いだすと、しきりに身だしなみに気を使うようになった。朝隣の部屋で姉の目覚まし時計が鳴り響いてから、本人が階下に下りてくるまでの三十分、いったい何をしているのだろうと思う。中学生のころは、帰宅したとたんに、これまた史上最強のダサさを誇る指定ジャージに着替えて、休日は朝から翌朝までジャージ姿で平気だったくせに、いまはそれが黒歴史だと言わんばかりの衣装持ちになってしまったのだ。

 雨の匂いが強くなっていた。雨が降り出してからの匂いとは違う、水の匂い。平野のはずれとはいえ、県境を越えれば、空っ風と温泉とキャベツとだるまが名物の県から、山の風が時折吹いてくる。けれどそれは冬の話で、夏はこの県よりもずっと暑い。気温差で対流が生まれて風が吹くのだとしたら、それだけ暑い地域があるのなら、そこから気持ちよく風でも吹いてくればいいものを、ここは平野が平野であることを忘れて、盆地だと偽っているように、風が吹かない。だから暑い。草の匂いや、自分の身体から立ち上ってくる汗の匂いや、制服から漂う学校の埃っぽい匂いがするのだ。そこに雨の前触れの匂いが混じる。

 電車の汽笛の音がする。家並が邪魔をして、築山程度の高さでは、線路まで見えない。線路は単線で、電車どうしの行き違いは駅でする。東京へ向かうのが上り、隣の県に向かうのが下り。どうしてそう呼ぶのだろう。東京が上なんだろうか。地図を見るなら、北へ向かうほうが「上り」だと僕は思うんだ。けれど、東北新幹線ですら、東京へ向かう電車が上り。岩手へ北上する電車が下り。東海道新幹線は、名古屋へ向かう電車が下り。大阪へ向かう電車も下り。そんな呼び方をするから、大阪の人はみんな東京を嫌ってしまうんじゃないかと思う。そういえば、来年の修学旅行は京都、奈良、大阪だったっけ。京都なら行ったことがある。日本海沿いまで京都府なんだと知ったときは驚いたっけ。父と母と姉と四人で行ったんだ。小学生のころだった。姉は中学生だった。そういえばあのとき、姉はおそるべきことに、パジャマではなく指定ジャージを着ていた。あっぱれだと思った。僕も小学校も体操着を着ていたことは棚に上げて。

 雷鳴が近付いてくる。空気のじめじめ度も上がったような気がする。雨が本当に近いと感じる。雨が降りだしたら帰ろう。そういえば、カバンはどうしよう。傍らに置いてある学校指定のこれまた果てしなくダサい紺色と水色の中間くらいの色に夜光反射テープ付きの、背負いタイプの指定カバンは硬い生地のくせに防水機能がない。中の教科書やノートは当然防水機能はない。この空気の匂いだと、夕立という言葉がそのままあてはまるような雨になると思う。制服は乾かせばまた着られるが、書物は一度濡れると二度と元の姿に戻ってくれない。僕はふと、やはり雨が降る前に帰ろうと思った。もう僕の真上の空も黒々とした雨雲に蓋をされていた。さわさわとかすかに涼しい空気が流れてくる。対流ってやつだ。どこかで気温が下がっているから、風が吹く。僕は立ち上がる。標高がほんの少しだけ高くなる。でも見える景色はほとんど変わらない。本当に住民がそこで暮らしているのかと思うほど、見える町並みは変化がない。車が走っているのかそれもわからないほど。きっと走っていないのだろう。走る車と言うと軽トラばっかりなのだから。

 築山を降りたところに僕の自転車が止めてある。鍵はかけていない。もちろん学校の駐輪場では施錠するし、家に帰っても施錠する。築山にいるときに施錠しないのは、立ち上がって十秒もかからずに自転車まで戻れるからで、そして、僕の自転車を拝借しようと企てる輩が接近して来たら、至近距離まで寄られる前に逃走できるからだ。鍵をかけていたら、かえって緊急発進に手間取ってしまう。僕は指定カバンを背負う。これが重い。なれたけど。子どもに重たい物体を背負わせるのが大人たちは好きなんだと思う。小学校一年生になった途端に、自分の身体の半分はありそうな大きさのランドセルを背負わせ、中には教科書からノートから筆記用具から果てはたて笛まで突っ込ませて、中学生になったと思ったら、今度はランドセルよりも破局的にダサいデザインで一回りは大きいカバンを背負わせて、さらに重い書類を詰め込ませるのだ。これまた校則で、自転車のかごにカバンを入れるなと意味不明な規制をされているから、僕は律儀にカバンを背負い、かごに入れておいた、これがまた絶望的にダサい学校指定のヘルメットをかぶるのだ。校章付き。名前の記入欄付き。男子は青いラインで女子は赤いライン。だから僕は姉からお下がりのヘルメットをもらえないわけだ。もちろん頭のサイズが違うというのもあるとは思うけれど。それで言ったら、姉が使った中学の制服を僕は着ることができないし、それはまあ当然としても、体操着も指定ジャージも男女色別だから、姉のジャージを僕はお下がりでもらえないし、体操着ももらえない。あの洋品店が学校に手を廻して、利益を確保しようと画策しているに違いない。ヘルメットをかぶると、僕はペダルを踏み込む。いまや雷鳴は町外れに落雷しているのが疑いないほどに近く、稲妻が眩く光りはじめていた。最初の一滴が僕のヘルメットに落下してくるのはもう時間の問題だった。さっさと帰ろうと僕は既に翻意して、公園から脱出した。

 公園を出ると、同じように雨の予感に帰宅を急いでいる同じ中学の連中とすれ違った。夏服セーラー服の袖から体操着の袖をはみ出させた女子が二人。岡野と相川。奇しくもおなじクラスの女子だった。僕と同じく絶望的ダサさのヘルメットをかぶり、指定カバンを背負い、しかし自転車のかごには、サブバッグを入れていた。サブバッグには制服のスカートが入っているに違いない。なぜなら、岡野も相川も、上はセーラー服だが、下はハーフパンツ姿だからだ。なにもこの二人が独特のファッションを主張しているわけではなく、これまたばかげた校則で、自転車通学の女子は全員、スカートが禁止なのだ。どういう理屈なのかよくわからない。スカートを自転車の車輪に巻き込んだ間抜けが過去にいたからだという噂だったが、そんな光景はいまだかつて僕は見たことがなかった。

「朝倉だ」

 岡野が僕に並ぶように自転車を走らせて呼んだ。見たらわかるだろう。同じクラスなんだから。なのに岡野は僕の名字を呼んだ。

「なんだよ」

「帰り?」

「見りゃわかるだろうよ」

「なによ。あんたの家、そっちじゃないじゃん」

 岡野はヘルメットを浅く被っている。本当は目深にかぶらなければいけない決まりだから、これはきっと彼女の精いっぱいの反逆の姿勢なんだろう。セーラー服のスカーフは、もう見た目アンバランスなほど、目いっぱい大きく襟からはみ出させて結んでいる。これが、ファッションに敏感な女子の制服の着こなしらしい。僕からすると理解不能だ。

「寄り道してたんでしょ」

 岡野が言う。

「公園」

「ひとりで?」

「ひとりだよ」

「ふうん」

 僕は速度を上げる。クチナシの香りがした。僕はクチナシの花の匂いが好きだった。甘い匂い。懐かしいと思うのは、小さい頃、祖母の家の庭で満開になったクチナシの生垣の思い出があるからだと思う。今年も祖母の家ではクチナシの生垣が満開の花を咲かせていた。むっとするほどに濃い匂いを漂わせて。

「岡野は何やってたんだよ。部活かよ」

「そうだよ」

「岡野って何部だっけ」

 言うと岡野はむっとして僕を睨んだ。本当に知らない……いや、忘れたから訊いているんだ。

「吹奏楽」

「ああ、そうだっけ」

「ちょっとひどくない? ミッキー」

 振り向いて、後ろからついてきている相川に岡野が言う。「ミッキー」というのは相川のあだ名で、本人はひどくそう呼ばれるのを嫌っているのだが、スポーツ少女然とした顔立ちの割に内気な相川は、クラス全員が統一呼称として彼女を「ミッキー」と呼び続けていることに異議申し立てをできないでいる。だから、ではないが、

「相川も同じ部活だっけ」

 と僕は相川を名字で呼んでやる。だいたい、相川を「ミッキー」と呼ぶほどに、僕は彼女と親しくない。セーラー服の下に透けている体操着のゼッケンに「2‐1 相川みつき」と書かれていなかったら、僕は相川の下の名前を思い出せなかったと思う。僕は人の名前を覚えるのが得意ではなかった。だから、歴史の授業も苦手だ。歴史上の偉人の顔は思い出せても、名前を混同する。もちろん、織田信長と豊臣秀吉と徳川家康を取り違えるようなことはなかったけれど。

「朝倉君は帰宅部だったっけ」

 意外に凛とした声の相川が訊いてくる。

「放送部」

「ああ、そうだっけ」

 相川は妙に納得した風でうなずく。ヘルメットが重そうに見えた。実際重いのだと思う。相川のショートヘアの襟足が濡れている。汗だと思う。まだ雨は降っていない。

「部活やってないのかよ」

 岡野が乱暴な口調で言ってくる。口調の割にかわいらしい声をしているのが岡野だ。相川と声だけ入れ替えればいいのに。

「部員が五人しかいないのに、なにやるんだよ」

「発声練習とか」

「俺アナウンサーじゃないし」

「違うんだ?」

「アナウンサーは女子しかしいねえし」

「そうなんだ?」

「朝倉君、校内放送してなかったっけ」

 相川が言う。

「えー、朝倉、校内放送なんてやってたっけ」

 岡野が返す。

「してたよね、朝倉君。あたし覚えてるよ」

「あれは、女子のアナウンサーが休んだからだよ。誰もいないから、おれがやったんだよ。よく覚えてるな、相川」

「だって目立つもん。男の子の声だと」

「あたし気がつかなかった。それいつ?」

「五月だよね?」

「連休明け」

「知らなかった」

 気がつかなかった、の間違いだろう、そう言い返そうと思ったが、面倒なのでやめた。

「ふうん」

 岡野が手の甲で頬の汗をぬぐっていた。例えると更衣室みたいな匂いが岡野から漂ったが、それはもしかすると、吹奏楽の部活をやっている音楽室の匂いかもしれないと思った。たしかうちの中学の吹奏楽部は女子しかおらず、その女子がぎっしりと詰め込まれた音楽室だから、匂いがこもりそうだなと変な想像をした。

「暑いなぁー」

 汗をぬぐいながら、岡野がつぶやいた。それには同意する。アンバランスなほどフワフワに結んだ紺色のスカーフが空気抵抗になって、岡野の胸元からお腹のあたりまでで乱舞していた。やはりセーラー服を透かして、中に着ている体操着のゼッケンが透けて見えた。「2‐1 岡野由梨」。ああ、そうか、岡野って由梨って名前だったか。梨の木でも岡野の家にはあるんだろうかと、はっきり場違いな想像をした。

「朝倉、家こっちだっけ」

「こっちだよ。うちに来たことあるだろう」

「あったっけ」

「小学校の時」

「そうだっけ」

「忘れたのかよ」

「忘れた」

「あたしは覚えてるよ」

 また相川が言った。それこそ今度は僕が首をかしげる番だった。岡野がうちに遊びに来た記憶はあるが、相川が来たことがあっただろうかと記憶を手繰る。

「いつきたっけ」

 つい訊いた。

「なんだ、朝倉君、覚えてないんだ。プリント届けに何回か行ってるのに」

「そうだっけ」

「そうだよ」

 おとなしい割にやはり相川の声は凛として聞こえた。僕は知っている。実は、気の強さばかりが目立つ岡野より、おとなしい相川のほうが、男子には人気があるということを。当然ファン層は完全に二分されるが、相川の場合は隠れファンがかなりいるのだ。間近で相川を見ていると、なんとなくそれが理解できるような気がする。なにを考えているのか一見してよくわからない雰囲気なのも、ファン心理をつかむのだと思う。真面目。内気。でも足は速くて、成績も悪くなくて、しかも人の悪口は絶対に言わない相川。意識しだすと、気になりそうだから、僕は相川について考察するのはそこでやめた。

「ミッキーの家って朝倉んちの近くだったのか」

「割と近いよね」

 同意を求められたが、僕は相川がどこに住んでいるのかを知らない。相川も岡野も同じ小学校だ。僕の中学は、二つの小学校から生徒が入学する。だから、二人とも同じ「校区」で、ようするに近所のはずなのだが、岡野の家も相川の家も、僕はわからなかった。

「もしかして、朝倉君、あたしの家も忘れちゃった?」

 自転車で走りながら、上目づかいで僕を見てくる。ファンが見たら僕は殺される。

「ごめん、忘れた」

「がっかり」

 がっかりされることだろうか。だいたい、僕は相川の家に行ったことが……、

「プリント届けてくれたこと、あったのに」

 行ったことがあったらしい。もしかすると、僕はどこかで記憶をアブダクトされたのかもしれない。あるいは、うちのすぐ横を通過している二七万五千ボルトの超高圧送電線の影響で、記憶にかかわる僕の頭の機能が狂わされているのかもしれない。

「そうだったか」

「うん」

 というわけで、どうやら同じ方向らしい僕ら三人は、岡野をリーダー機にして、旧日本海軍の戦闘機の編隊みたいに……僕は最近、飛行機にも目覚めてしまった……自転車を走らせた。学校から僕の家の中間地点にあの公園はあったから、岡野と相川の家が僕の家の近所であるなら、この編隊走行も不自然ではないのだなと思った。

「雨降りそうだなぁー」

 言われなくてももういつ降り出してもおかしくない空だったが、岡野はひとつひとつそうした現象と感想を言わないと気がすまないたちなのだ。そういう岡野のさっぱりした性格が気になるというファンがいることを僕は知っている。困ったものだ。

「ミッキーのうち、あっちだよね」

 唐突に先を行く岡野がヘルメットを揺らして振り向き、似合わないほど華奢な腕をハンドルから離して、三差路の左手を指した。僕の家へ向かう通路だった。

「うん。由梨ちゃん、こっちね」

 ふたりの間ではきっと自明のことだろうが、僕に説明しているのだろう。だから、「へぇ」と言っておいた。ちらちらと先ほどから、ペダルをこいでいる相川のハーフパンツから見え隠れする太ももが目についていた。困ったものだ。

「じゃあね、由梨ちゃん。また明日ね」

「バイバイ。ミッキー、朝倉を頼むね」

「なにを頼むんだよ」

「わかった、由梨ちゃん、バイバイ」

 手を振って、岡野はいきなり立ちこぎをしてダッシュ、三差路の右手に消えた。

 そうして、僕は相川と二機編隊になった。どっちがリーダー機というわけではない、校則で禁止されている並走状態。そして、三差路を過ぎれば、僕の家までは五分とかからない。その五分がたまらなく長く感じられそうだった。そして、その時、きっと天佑というのはこういうことを言うのだろう。僕の左手の甲に、夕立の第一撃が撃ち込まれた。そして稲妻。

「やっ!」

 相川が急停車。両手でヘルメットの上から頭を押さえた。間髪をいれず、雷鳴が轟く。かなり近い。この町には送電塔からアンテナ塔から様々な背の高い塔が建っているから、避雷針代わりになっているのか、住宅に落雷した例はあまり聞かない。それでも十四歳の女子は雷が怖いと見えた。またファンのキルリスト上位に食い込む要因が増えた。理由・相川みつきが怖がる姿を間近で見た罪。

「相川、土砂降りになる前にさっさと帰ったほうがいいよ」

 僕はそういうと、岡野のように立ちこぎダッシュの体勢に移ろうとした。が、次の瞬間、路地の向こうが霞んだと思ったら、土砂降りになった。

「あーあ……。雨だぁ」

 か細いくせにやはり凛とした強い声で、相川が嘆いた。すでに僕と相川の間には、千のような雨が降り注いでいる。相川のヘルメットを雨がたたき、彼女のセーラー服が見る間にずぶ濡れになっていく。キルリスト掲載事由・相川みつきのずぶ濡れセーラー服姿を間近で見た罪。

「相川、行こう」

 言うと、相川はこくりとうなずき、ペダルを踏み込んだ。

 また僕と並んで走る。今度は、速度を上げて。そして、僕らは無言で走った。タイヤがまたたく間にできた水たまりで水を跳ねる。僕の黒い学生ズボンに水滴がしみていくが、もともと黒いから、濡れているのか元の色なのか、よくわからない感じ。でも、雨の匂いが立ち込めている。濡れたシャツやその下の体操着から、汗の臭いが上ってくる。

 そうするうち、僕の家が見えてきた。

「朝倉君、着いたね」

「うん」

 ここで僕が相川に、雨宿りを持ちかけたら、相川ファン全員を敵に回したうえ、もしファンではない輩ですらその様子を目撃したなら、明日から僕は教室で宗教裁判にかけられてしまう。そもそも、ずぶ濡れのクラスメイトの女子を自宅に上げたところで、なにもできないのだ。制服が乾くまで駄弁るか? 残念ながら、僕と相川はそこまで親しくない。それこそ姉が中学生時代に着ていた制服かジャージか体操着を相川に貸すことはできるかもしれないが、そもそもこの雨は一時間やそこらで止むタイプではないだろう。天気予報では、夕方から夜までずっと傘マークだった。

「相川、気をつけて帰れよ」

 僕が相川に言える言葉はそれだけだった。そしてできるだけ相川を見ないようにした。すっかり雨に濡れた相川は、セーラー服がずぶ濡れになっており、下に着ている体操着のゼッケンの文字がくっきりと見えるほどだった。紺色のスカーフはしぼんだように垂れ下がり、水滴が落ちていた。視線を落としたため、僕は相川のハーフパンツの裾から見える白い太ももを直視する結果となり、あわてて顔あげると、困ったような表情の相川がいた。

「風邪引いたら、またプリント届けてあげるからね」

 かすかに笑って、相川は肩の高さで手を小さく振った。水滴が腕から散った。

「あ、うん」

 僕は、かろうじてそう答えた。相川は言うとペダルを踏み込んで、走り去った。岡野のように立ちこぎをするわけでもなく、すっかり諦めたような後ろ姿で、普通のスピードで。

 相川のカバンの中身が心配になった。

 カバンの中身を心配しなければ、僕は、相川のずぶ濡れのセーラー服だとか、透けた体操着だとか、ハーフパンツの太ももを思い出してよからぬ衝動に駆られてしまうのではないかと思ったからだ。

 僕は自転車を玄関横の軒下に停めて鍵をかけて、玄関のドアを開けた。

 僕の家の匂いがした。

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