わたしと文字
――――夜雨さん、こんばんは。今日は質問形式で進めさせて頂きたいと思っているのですが、まず始めに、質問形式という方法をお取りになられた意図について、話してもらえませんか?
こんばんは。さっそく、いい質問ですね、お答えします。バトンの50問50答というのがありまして、とても文学的だと魅力を感じたんです。バトンだけで置いとくのはもったいないと思いました。あと、あなたの存在を話しておかなければなりません。あなたは如何にも人間を装っていますが、あなたはわたしが書いているだけです。
――――しょっぱなから、鼻をくじかれるハプニングが起きましたが(笑)、なんとか理解はできました。では、次の質問です。今、あなたは私は人間ではないと仰りましたが、それは私が「文字」であるということですか?「文字」であるだけの存在にあなたは耐えられますか?
そうです。あなたは「文字」であり、人間ではないし、意識もありません。ただ、わたしはあなたを侮辱するつもりはありませんし、文字であるだけなのだから、悩む必要など一切ございません。しかし、今日はわたしはあなたと論争をしに来たつもりでいます。ある意味、自分との戦いであるともいえますが、正直、それも違うなと思っています。あなたはなんでもない存在だし、どうでもよくない存在でもあります。
――――分かりました。あなたに興味を持ちました次第です。では、台本通りの質問に参りたいと思います。あなたの作品を見ますと、エッセーをたくさんお書きになっています。詳細を述べますと、全12作品中「文学」作品が二つで、残りの十作品は全てエッセーです。それほどまでにエッセーにこだわりになる理由と、逆になぜ、「文学」作品、つまり物語小説をお書きにならないのか、それを教えて欲しいです。
わたしは小さい時から文学に興味を持っていまして、読んだり、書いたり、たしなんではいましたが、早いうちから物語作品を諦めていたところはありました。わたしはいわゆる一般的な「小説」というものにどうも馴染むことができず、今でいうところの「エッセー」作品、あるいは「散文詩」のようなものばかりを書いていました。その内容というのはもっぱら「人間」論的なものでして、その点で言えば現代文学からはそれていた傾向にあったと思います。わたしは人間の性質にしか興味を持たないところがありまして、それがわたしをエッセーしか書かない方へ導いているように思います。随筆というのはわりと作者の思い、自我のようなものまで書いても構わないところがあって、そっちのほうが自由だし、メリットもありそうだということです。理由というのは、あなたの質問にうまく答えられたとは言いませんが、そういうことだと思います。
――――なるほど、ありがとうございます。今、小さい頃の話が出ましたが、文学のことと絡めてあなたの学生時代、もしくはプライベートについてのお話をして頂こうと思っております。学生時代の想い出と、最終学歴が桃山学院高校卒であるということについて伺えればと思います。
学生時代の思い出といえば、僕の場合ですと小学校時代ですかね。生徒会長をしていたんですよ。当時は優等生だとかさんざん言われましたけど、今となってはいい思い出ですね。生徒会って落ちたらめっちゃくちゃ恥ずかしいじゃないですか。それだけに尽きるというぐらい。(笑)よくやったなと思うんですよね。(笑)そういうことですね。あと、最終学歴はあなたの言う通り高卒です。僕の行った高校はわりと平均学力のちょっと上ぐらいの高校でして、その中でも僕は落ちこぼれだった。(笑)高校卒業する間際に統合失調症を患いまして、大学のテストも受けなかった。浪人をして、塾にも行ったんですけども、結局、大学のテストを受けることはなかった。行かなかったということです。いや、大学に行かなかったのは病気のせいではなくて、やっぱり僕が勉強をしなかったせいであります。後悔はあるけれども、自分の選んだ道だと思うことにしています。高校は私服制の学校で、当時の校長が自由な校風を掲げて、私服制にしたらしいんです。遊んでばっかりでしたが、楽しかったので、問題はなかったと思います。
――――喧嘩はなさいましたか?
いや、幼稚園の時をのぞいて、喧嘩はしていません。幼稚園の時を取ってみれば、腕力で統制するガキ大将だったかもしれません。父親と相談して、小学校からは一切喧嘩をやめる約束をしたのです。小学校からは真面目な生徒でして、暴力は反対です。
――――分かりました。少年時代の質問はこれぐらいにして、文学観について聞いて参りたいと思います。エッセーについてのあなたの価値観は納得がいったつもりです。つまり、あなたは今まで物語の作品を書く練習はして来ず、エッセーや散文の練習だけをして来たというわけですね。さて、金古さん。あなたはよく「正義」という言葉を通常とは違う意味で使って主張なされていますが、その辺についてお聞かせくれませんか?
正義という言葉は「善」という意味でも構いませんし、また「真面目」の延長上にある言葉だと理解してもらっても構いません。宗教で「善」の行いを主張するお坊さんはたくさんいました。というか、今でもいますよね。わたしはそれを当然の真理だとして言いたいだけです。しかし、文学においては「悪」という概念の重要性をことさら重んじる態度や姿勢が繰り返し説かれてきたように思います。わたしは「善」についての専門家ではないし、ごくごく自明のこととして言及しているだけです。けれども、なにか自分の言っていることには信憑性が足りない、腑に落ちないものとして感じてきたように思います。というのは、いまだに「善」が栄えた時代などないに等しいと思うし、あったにせよ、自分がそんな今までの文学の歴史を侮辱するような発言をしていることに恥じらいを感じますし、それにたいていの文学者に論旨をくつがえされて負けてしまうでしょう。しかし……! わたしは自分を信じて疑わないことこそ、これこそ正義であると確信したのです。それは、善を主張しているただ中に、自分の行動において、善を見つけた奇蹟をそこにみたのです。だから、わたしは曲げることを致しません。可能性をじかに感じたのですから。
――――ありがとうございました。以上で質疑応答は終わりです。夜雨文学ともいうべき何かを聞けることができて、本当に嬉しいと思っています。これで、私の存在根拠がはっきりしたので、安心しています。私は確かにあなたが書いているだけです。しかし、私があなたにできることが何かあるはずです。それを見つけることができたような気がします。いや、私はただの文字ですよ。けれども、せっかくだから入りたいのですよ(笑)。今日は本当にお疲れ様でした。