葛藤 ~想いに惑う少女~ Ⅰ
◇◇◇ ◇◇◇
エリオットが城で出発の準備を整えていた頃。
フォウと話したことで少し気が楽になったクリスは、以前のように皆と接する気力が湧いて、自然に過ごしていた。
そんな彼女に対し、問いかけるのはライト。
「フォウが居なくて寂しいんじゃないのか?」
「そうですね、あんなムッツリさんでも居ないと寂しいです」
寂しくないと言ったら嘘になるだろう。
素直な気持ちをライトに述べたクリス。
すると彼はやや眉を寄せて、クリスにその金色の瞳を向ける。
「……気になっていたんだが、お前はどうしてフォウのことを急にムッツリ呼ばわりするようになったんだ?」
「え? 実はレフトさんの胸の谷間をね、じーっと見てたんですよフォウさんが。いやらしい目で。とんでもない人です」
「そ、それだけでそんな扱いになるのか……」
何やらクリスの言い分に反論がありそうなライト。
今日は白衣を着ずにシンプルなスモークブルーのワイシャツの下に白いスラックスを履いている彼の足が、テーブルの下でゆっくりと組まれた。
現在クリス達は、レフトではなくライトが淹れたコーヒーを飲みながらダイニングルームで休憩をしている。
日々の過労からだろうか、疲れた、とレフトは今日は家事を休んでいるのだ。
ライトの癒しの力であるディビーナは、過労まで治せるものでは無いのでとにかく寝かせるしかない。
けれどレフトの普段やっていることをしようにも、クリスとライトではうまく進まず、こうやって気分転換の休憩中になっていた。
「何かおかしい点でもありますか?」
ライトが黙ったままなのでクリスが聞いてみると、彼はやや困ったように言葉を紡ぐ。
「……思春期の若者なのだから、それくらい可愛いほうだと俺は思う」
「そういうものですか?」
「そういうものだ」
そうか、胸の谷間を見てしまうくらいは可愛いほうなのか。
ライトが言うならそうなのかも知れない、とクリスは彼の言い分を素直に受け止めた。
「でも、若くないエリオットさんが同じことをしたら可愛くないですよね?」
「……そうだな」
「分かりました。うーん、やっぱりきちんと周囲の意見は聞くものですね! フォウさんに今度謝らないといけません」
「お前の中で一体どんな風に受け止められているのか気になるが……まぁ周囲の意見は聞くべきだろう」
それだけ言って彼はコーヒーを飲み干す。
クリスもそれに追われるようにぐいっとコーヒーを飲んで席を立ち、掃除を再開するべく二人で廊下を歩き始めた。
ライトの後ろを歩いているクリスには、自然と彼の揺れる尻尾が視界に入る。
獣人用の衣類はきちんと尻尾を通せる仕組みになっており、同じように翼を出す部分だけ開いている服があれば、あのような背中全開の法衣を着ずに済むのに、とクリスは無いものねだりなことを考えていた。
クリスの視線に気付いていないライトは、掃除用具を放置したままの部屋の前で立ち止まってドアを開けた。
普段使いもしない空き部屋を、それでも急患の為に毎日掃除する。
レフトほど丁寧に出来てはいないが、クリス達はせっせと手分けして掃除していた。
ライトは無口なわけでは無いが無駄に話を振ったりもしない為、沈黙が流れる時は本当にずっとそのままになる。
クリスがちらりとその横顔を見ても、目の合うことの無い彼。
その自然体さが、クリスには羨ましかった。
自分もこのようにエリオットに接することが出来るならどんなに良いだろうか。
参考にならないかも知れないけれど、聞いてみたい。
沈黙がクリスにそれを切り出させた。
「あの、ライトさんって何でそんなに普通なんですか?」
「何がだ?」
掃除の手を止めてライトが振り向く。
無表情か不機嫌な表情なことが多い彼だが、今は無表情。
勿論、相も変わらず言葉が足りていないクリスの質問に返答など返せるわけもなく、逆に問い返した。
しどろもどろしながらもどうにか聞きたいことをまとめて、クリスはそれを口に出す。
「えっと、ずっと思ってたんです。ライトさんは私にきちんと気持ちを伝えてくれましたけど、時々それが夢だったんじゃないかと思うくらい、ライトさんが普通に私に接するから……不思議で」
不思議で、そして是非ともご教授願いたい、その方法を。
……とまでは言えないので、あくまで疑問だけを述べた。
それに対して彼は、持っていた箒を壁に立てかけて完全に掃除を中断する動きを見せ、クリスにきちんと向き直って言う。
「変えて欲しいのか?」
「い、いや、そんなこと無いです! むしろ助かってます! でもそういうことじゃなくて、何で平常心を保てるのかなって!」
「何故、か……難しいことを聞くな」
俯き考え込んでしまったライトを、クリスは期待の眼差しで見つめていた。
少女の、雑巾を持つ手に力が入り、少し水が垂れている。
ニールもそうだったが、こうやってクリスの無茶な質問にもきちんとした姿勢を見せてくれているライト。
今のクリスは本当に恵まれた環境に居るようだ。
彼はようやく答えが出たのか、ふっと顔を上げて口を開く。
「確かに断られはしたが、俺は今も幸せだからな」
「えっ」
「俺の望みは叶っている。だから気にならない。平常心を無理して保っているわけじゃないんだ」
はにかんで、ライトはクリスを見ていた。
彼がはにかむと、凄い違和感と共に、見ている側が照れてしまいそうになるものだった。
しかし、ライトは無理をしていない、と言う。
確かに見た目からは彼が無理をして取り繕っているようには見えないので、言葉通りなのだろう。
けれど、気持ちを受け止めて貰えずとも幸せとは、一体どのような『好き』なのか。
首を捻って、次の言葉を待つようにクリスは喋らずにいた。
すると彼はそんなクリスに応えるようにまた話す。
「前に言わなかったか? お前と居る時間が好きなのだ、と。だから掃除していても俺は楽しいぞ」
「全然楽しそうに見えませんでしたけど!?」
どうやら掃除ですらも楽しかったらしい。
あの顔で。
クリスは勿論、他の誰が見ても全く分からないだろう。
いや、フォウくらいならば分かると思われるが。
「うーん……」
参考になりそうでならないような、なるような。
クリスはライトの返答から自分に置き換えてみることにした。
自分も確かにエリオットと一緒に居るのは楽しかったはずだ。
けれど、今はそれを楽しいと思えずに辛いと感じてしまっている。
ライトのようにその目の前の楽しいことだけを見ることが出来ていない。
では自分は、どんな『好き』をエリオットに抱いているのだろうか。
「何を悩んでいる」
「い、いえ、ライトさんに相談するような内容では無いので、気にしないでくださいっ」
「そんな顔をされたら気になるだろう」
それもそうだ。
悩んでいるのをきちんと隠していればいいものを、顔に出しまくっていては、むしろそれを気にするなと言うほうが酷いことかも知れない。
とはいっても自分に好意を持ってくれている相手に、別の人が好きだという相談はクリスには出来ない。
しかもクリスは未だに自分の気持ちが、フォウ以外には気付かれていないと思っている。
困りに困り果てたところで、この少女は例え話にしてみることにした。
「と、とある女性がですね! エリオットさんを好きなんですけど! ほら、エリオットさんって既に婚約しているでしょう? それで辛いって言ってるんです! でもライトさんはそうでも無さそうだったんで彼女の参考にならないか聞いてみたんですけど!」
一気に捲くし立てるクリスに、ライトは少し驚いたように口を開けている。
「それだけなんで気にしないでください! いい助言が出来るようにもう少し一人で頑張って考えてみますんで!」
ここまで言ったところでようやく酸素を肺に入れた。
ライトの反応がどう来るのか不安で、じっと彼を見つめるクリス。
その彼はというと、
「とある女性とは、レイアのことか?」
素晴らしい勘違いをしていた。
誤魔化すことに成功したクリスは、あとはもうボロを出さないように無言になる。
頷いてしまってはレイアに迷惑がかかるが、首を横に振ってもそれはそれで色々面倒なことになるのだから。
そこで、
「……客だな」
獣耳と尻尾がぴくりと反応を示したかと思うと、ライトは踵を返して部屋を出る。
一旦会話も掃除も中断し、クリスは慌ててライトの後を追った。
方向が裏口側だった為、それだけで誰が来たのか予想がつく。
まだ昼過ぎだというのにその人物はまたしても城を抜け出してきたようだった。
普段よりも短い青碧色のクロークを羽織ったエリオットはライトをまず見て、次にその後ろに居たクリスと目を合わせると、
「お、こんな所に居たのか。さっさと準備しろ、出掛けるぞー」
何の説明も無しにそう言ってくる。
「あ、あの、説明をください、説明を……」
「時間が無いんだよ、取り敢えず着替えて来いって」
無茶苦茶なことを言う彼の後ろには、蒼白な顔をしたレイアと、似合わない革鎧姿のフォウも着いて来ていた。
「あ、あんな場所に抜け道を作っていただなんて……」
レイアがそう言いながらぷるぷる震えている所を、フォウが宥めている。
これだけで何があったか大体想像がつくだけに、レイアに同情せざるを得ない。
毎度毎度簡単に城を抜け出していて、何かカラクリがあるだろうとクリスは思っていたが……
「もしかして、三人揃って正門以外から出てきたってところです?」
「正解っ」
腕を組んで偉そうに言い放つエリオット。
普段ならここで食い下がるが、レイアまで抜け道とやらで出てきたということは何か事情があるのだろう。
「わかりました、では急いで着替えてきます」
クリスは小走りで自分の借り部屋に向かい、法衣に着替えてその上からケープを羽織る。
そして、壁に立て掛けてあった赤い剣を腰に携え、部屋を出たところで廊下を白い固まりが通り過ぎるのが見えた。
固まりは、ねずみだった。
こうして見ると確かにねずみが気ままに走り回る姿はエリオットでなくとも不衛生と感じるかも知れない。
ねずみはそのままトトトッと裏口の方へ走って行き、それを追うようにクリスも向かう。
「お待たせしましたっ」
以前よりは早く着ることが出来た法衣だが、それでもやはり時間が掛かった。
けれど待ちくたびれた様子を見せることも無く、上機嫌でエリオットはクリスに笑顔を向ける。
「おー、じゃあ行……って何だ!?」
そんなエリオットの右足に、ぺとんと張り付く白いねずみ。
クリスに話しかけていたものの、彼はそのねずみに驚いてそれどころではなくなったようだ。
「ちょ、取れよコレ!!」
言われるまでも無い、とライトが張り付いているねずみを取ろうとするが、実はニールやダインは地味に怪力である。
無理やり剥がそうとしたものの、エリオットの服が破けそうなのでその手を止めるライト。
「……これは、メスの方だな」
「めす?」
そう、ニールがエリオットに自らくっつくわけが無い。
それにこんな悪戯みたいなことをする性格でも無い。
となると、ニールではなくダインだったようだこのねずみは。
「急ぎの用らしいんだ、悪戯するんじゃない」
ライトはあくまで冷静に、ねずみの形のままのダインに話しかけていた。
傍から見るとかなりシュール。
彼の言葉は聞こえているはずなのだが、まるで聞こえていないかのように無視をして、ダインはそのまま服伝いにエリオットの体を駆け登り、
「うぎゃっ」
首元から服の中に入った。
「な、何してるんです、ダインは?」
「俺が知るか」
相変わらず手を焼かせてくれる不真面目なほうの元武器精霊に、ライトはもはや手を出す気力も無くなったと言わんばかりに、げんなりとした表情を見せる。
「取ってくれええええええ!!」
「い、いや、でもっ!」
絶叫するエリオットを助けたいのだろうが、服の中に手を突っ込むわけにもいかずおろおろするレイア。
一匹のねずみによりプチ混乱状態になった家の中は、病人に優しいとは言えない環境だった。
そこへフォウが黙ってエリオットの前に進み出る。
彼は服の上からねずみの位置や進む先を把握出来ているかのように迷うことなく手を伸ばし、布越しにダインを掴むことに成功した。
「で、止めたのはいいけどどうやって剥がそうか?」
ねずみによるさらさらふわふわくすぐり地獄から解放されたエリオットは、涙目でフォウの腕を見ながら言う。
「っ、麻酔銃、効くか?」
「多分効くだろう」
ライトの返事にエリオットは、ゆっくりと左腰のホルダーに手を伸ばしてダインを取り除くべくその銃の引き金に指を沿えた。
「……待った! やめてよね! そういう横暴なことするの!!」
そこへ、いつの間に変化したのだろうか、エリオットの服の中からダインの器の可愛らしい声が辛うじて聞こえてくる。
フォウの手の中でもぞもぞとまた動くソレに、エリオットが悶えた。
「な、何かさっきと肌触りが……違うんだけど……」
「俺が掴んですぐ人型に変化したんだよ。ほら、喋ってるでしょ?」
「な、なるほど」
エリオットは自分の服を少し引っ張ってその中を覗き見て、また驚いた顔を見せる。
つい先程までねずみだった生き物が人型に変わっていて、しかも自分の服の中に居たらそんな顔にもなるだろう。
「で、お前はどうして俺に引っ付いてきたんだ?」
服の中に問いかける彼。
それに対し、元々最大ボリュームの小さい声を必死に張り上げながらダインが答えた。
「ここ暇なんだよね! キミ、面白いことになってそうだから連れてって欲しいんだ!」
エリオットは服の中に向けていた視線を一旦クリス達に戻し、全員の顔を見渡して問いかける。
「これ、多分、大剣の精霊、なんだよ、な?」
途切れ途切れに紡がれたその言葉に、大きく頷くクリス達。
エリオットはそれを受けてフォウの手ごとダインを掴み、その手を少し体から離したかと思うと、
「ふぎゃ!!」
べちん! と体に叩きつけて中のダインを潰した。
ちなみに、一緒に手を潰されたフォウの顔が歪んでいる。
そっと彼らが手を離すと、多分服の中でぐったりしているのであろう、動かなくなった膨らみ。
「か、可哀想に……」
ダインの本性をよく分かっていないレイアが口に手をあてて、居た堪れない表情を見せた。
しかし同情する余地は本来無い。
動かなくなってしまえばこっちのもの、とエリオットは自分で服の中に手を入れてダインを掴み、ようやく服の中から取り出すことに成功する。
へろへろしている子ねずみの獣人の意識は辛うじてあるらしく、自分を掴んでいる者にその赤い瞳を向けていた。
そして小さく口を動かした、が、ぼそぼそ言っていてクリスには聞き取れない。
傍に居たフォウと、話しかけられた当人のエリオットだけがその内容に反応するように顔色を変え、
「まぁ、着いて来るくらいならいいぜ」
とダインの要求を呑む。
「本気ですか!?」
勿論驚いたのはクリス。
レイアは何故か嬉しそうで、ライトは無反応。
「連れてっていいか? ライト」
「別にいいが……その器を壊してしまったらまた精霊がクリスに流れるかも知れないから、扱いには気をつけるんだな」
一応飼い主に許可を取るエリオットに、問いかけられた飼い主はぶっきら棒に答えた。
「分かった」
「いや、エリオットさん……その精霊は私に喧嘩ばかり売ってくるんで、なるべく連れて行って欲しくないんですけど」
突然連れて行く流れになっているのを必死に抵抗するクリス。
「そうなのか?」
キョトンとした顔でクリスを見つめるエリオットの肩で、人型のダインが座りながらクリスに「してやったり」な表情を向けている。
「おいねず公、揉めるようならその場で捨てるからな」
「ハーイ」
気前の良さそうな返事をしたダインだったが、やはりその表情はクリスがイラッとしてしまう作り笑顔。
しかし答えた直後にダインの表情はやや曇り、
「って、ねず公って失礼じゃない? ボクにはダインって名前があるんだけど」
「精霊なんぞ、お前もあの槍の精霊も名前なんて呼ぶ気は無ぇよ」
つまり今後もねず公呼ばわりする、と言っている彼に、ダインはそれほどショックなのか、泣きそうな顔を見せていた。