憎悪 ~悪意は伝染していく~ Ⅰ
◇◇◇ ◇◇◇
フォウが、クリスによって被せられたパンツを手に取って悶えていた時から二時間くらい後のことである。
城ではモルガナからの要求に対してどう対応するか結論が出され、それを臣下、軍上層部、そして一部の記者に伝えるべく玉座の間に一同が集められて整列していた。
玉座に座るはこの国の王。
少しくせのついた萌葱色の髪に、息子達によく似た、形がいいんだか悪いんだか何とも言えない中途半端な翡翠の瞳。
年には勝てず、頬の弛みや皺が目立ってきてはいるが彼は毅然とした佇まいでそこに居た。
だがそれはあくまでこの場だからの話であって、普段の彼はとても温厚で優しく、むしろ気は弱いほうだろう。
皆が揃ったことを確認し、彼はその口を開き、言い放った。
「モルガナの要求には一切応じぬ」
簡潔なその一言が意味することは、人質となっている息子を見捨てる、ということ。
それを聞くなり、王の前だというのに皆がざわめく。
無理も無い。
決断の内容自体は勿論のこと、この良くも悪くも温和な王がその決断をしたということも従者にとっては驚きなのだ。
それを受けて、彼らの疑問を解消すべく隣に座っていた王妃が続ける。
「軍を放棄などという要求に応じれば、その後に侵攻されるのは簡単に想像がつく。結局息子だけでなく国民の安全すらも保障は出来なくなる。当然の、選択なの……じゃ」
王妃は最初は淡々と説明していたが、話が進むに従ってその声は小さくなり、羽扇子を持つ手が震えていた。
その彼女の様子を見ればこの決断が無情なものではなく、苦渋の決断であることが容易に受け取ることが出来、ざわめいていた一同もその思いを汲んで押し黙る。
「あの子は強い。そう簡単には死なぬ……心配など……」
が、そこで王妃の羽扇子がボキッと真っ二つに折れた。
「ほほほほほ!! もう無理じゃ! これが我慢出来るものか! 私自ら赴いてあの肉達磨を八つ裂きにッッ!!」
どうやら我慢していた王妃がブチ切れたようである。
すっくとその場を立ったかと思うとスカートの裾を持ってどこかへ行こうとする王妃を慌てて止めたのは、傍に居た家臣の一人。
「おおおおお王妃様、どうか落ち着いて!!」
レイアを含めた軍人や家臣達は皆同様に母親の愛の偏りっぷりに畏怖なようでそうでは無い感情を抱いたが、口になど出せるわけもなくただその様子を固唾をのんで見守るだけだった。
王はそんな妃の様子を見ながら、後のフォローに気を揉みつつも、その場をうまくまとめて終了させる。
その辺りは、根は気弱であっても国の主に足る手腕だ。
結局大型竜の件に関しては国民の不安を煽る為、隠蔽。
つまりこの場で触れられることは無かった。
そして、エリオットの手紙はモルガナからの文書のおかげで、真実ではなく工作として受け止められ、おかげでダーナの君との婚約話はそこまで荒れずに済んだのだった。
いや、それでも当人が不在には違いないので、かなり荒れてはいるのだが。
「ふぅ……」
一応謹慎が解けたレイアだったが、この後何かしらの処罰が待っているのは変わらない。
結局自分の部下が、駆け落ちではなく誘拐をしたということになっているのだから。
だが彼女を悩ませるのはそれよりも、真実を城の誰にも伝えられないことだ。
不幸中の幸いと言えるのが、国の決断。
これがエリオットの身を優先してしまっていたら目もあてられなかった。
気を落ち着かせるように軍服の襟元を少し緩ませ、職務に戻るレイア。
しかし玉座の間を出てすぐのところで後ろからちょん、と肩を突かれて振り返る。
そこにはオレンジのツンツンした髪の獣人の青年と、長い白金の髪を三つ編みにまとめた色白の青年が立っていた。
「王子の護衛の……ヨシュアとガウェインだったかな。何か用かい?」
「クリスさんの居場所を知りたい」
ガウェインがぼそりと一言。
彼は王子不在の今、ただの一般兵でしかない。
それにも関わらず准将である彼女にこのぶっきら棒な物言い。
レイアは思わず眉を顰めるが彼が獣人であることは明白なので、どうせ鳥人である自分のことが気に食わないだけなのだろう、と敢えてそこは大人な対応でスルーをする。
「クリスの? どうしてまた」
理由を尋ねる彼女に、獣人の青年はチッと舌打ちをして顔を背けてしまった。
仕方無しにその隣に居た三つ編みの青年が、口を開く。
「城に……連れて来るように、と……命令、が」
「ふむ、誰から?」
「自分達に、命令したのは……言えません、が……きっとその方が発端では無い……と思い、ます」
となると更に上からの伝令なのだろう。
彼らがクリスと行動していたことを知っていてこの二人に指示したのだろうが、結局彼らは普段のクリスがどこに居るか知らない。
それでレイアに尋ねてきた、というところか。
「何の用があって、というのは聞いているのだろうか?」
「…………」
それもやはりヨシュアは口を閉ざしてしまう。
「私の命令でも答えられない、と」
「申し訳、ございません……」
「では私が城に連れて来よう。丁度彼女に用事があるのでね。行くところだったんだ」
そうレイアが言うととても困ったように顔を見合わせる二人。
勿論その二人の行動に不信感を抱くレイア。
だが彼女は彼らを責め立てたところで無駄だろうと判断し、それ以上は深く追求しなかった。
「君達のところまで連れて来ればいいかい?」
「お願い……致します。自分達は、城門近くで……待機して、おきます」
そしてレイアは二人を後にして、痛む頭を酷使しながら思考を張り巡らせる。
普通に考えて、今クリスが城にとって必要というならば竜絡みだろう。
エリオットが居ない今、クリスは云わば完全にフリーであり、城に仕えているわけではない。
竜殺しの異名を持つ彼女を呼んで、正式に味方につけたいという流れが普通だ。
だがしかし、それならばあのような呼び出し方は不自然である。
正直なところ、呼び出す理由が良い内容であるとはレイアには思えなかった。
「どうすべきか……」
とりあえず彼女は、昨日クリスを見た時に気になって用意させておいた新しい法衣をメイドから受け取ると、それを持ってまた城門の方角へ歩いていく。
その途中のことだった。
「キャアアアアア!!」
レイアの右側の通路の先から甲高い悲鳴が聞こえ、何事か、と慌てて彼女はそちらに走る。
少し進んだところの角を曲がると、そこは床と壁、そして少し天井に、赤い飛沫が飛び散っていた。
「なっ」
その赤い血の持ち主であろう兵は既に喉を掻っ切られて床に横たわっており、悲鳴をあげたと思われるメイドは今レイアの目の前で、剣身の細い、太い針に近い形状の短剣によってその胸を突き刺される。
城のど真ん中でこの狼藉。
先に死体に目がいった為、それらを行った張本人の顔を今ようやくしっかりとレイアは見た。
そこに居たのは、緑髪の男。
服装も王族のそれで、上等なものをきちんと着付けている。
だがそれも返り血で台無しだったが。
「お、王子!」
一瞬彼女は目の前の人物を自分の想い人であるエリオットと見間違え、その言葉を発する。
だがすぐに王子は王子でも別人だと把握し、首をふるふると振って気を確かに持った。
エリオットは目隠しなどをして城を歩いたりしない。
それにエリオットは今は髪が長い。
だが目の前の彼は短い。
そしてレイアはこの人物を知っている。
エリオットに良く似た顔と特徴を持ちながら、目の見えない男。
しかし彼は滅多に城内を動き回ることなどしないはずだ。
何故、と思いながらも久々に見た目の前の人物が、やはりあまりにも想い人に似ている為動揺してしまう。
そんな彼女に、血塗れた剣と腕を下ろして口元だけふっと笑みを浮かべる、殺人者。
「レイアか。相変わらず他の連中とは違う反応をするからすぐ分かる」
「お久しぶりです、エマヌエル様……他と違う反応、ですか?」
勿論盲目である彼はレイアの顔は見えない。
けれど彼は他とレイアが違うから分かる、と言った。
何のことだろうか、と彼女は目の前の惨劇から目を逸らしながら平静を装いつつ問いかける。
するとエマヌエルは足元のメイドの死体を平然と踏みつけて答えた。
「君が俺に向ける音は……いつも好意的に感じるんだ。大半は俺を見ると癇に障る怯えた音ばかり鳴らすからなぁ。そんな中でレイアはとても珍しいんだよ」
そして八つ当たりをするように、踏みつけていたそれを蹴り上げる。
「おやめください!」
死者を更に踏み躙る王子に、彼女は躊躇いもせず止めに入った。
きっと他の兵ならば彼に怯えて絶対にしないこと。
エマヌエルは逆にそれが気に入ったというように、驚くほど大人しく彼女に従って足を引く。
「はいよ」
「っ、お聞き入れくださったこと、感謝致します!」
レイアはそれを確認してからまず遠巻きに見ている兵に指示を出して遺体を運ばせ、ただちに清掃させた。
少しでも早くこの場を元に戻さねばまた話が広まって、その結果「気に食わない」と言われて殺される者が増えてしまうのだから。
どんどん舞い込んでくる問題に、彼女の頭痛が止むことは無かった。
やがて、その場しのぎではあるがとりあえず辺り一体を染めていた血は拭き取られ、慌ただしく去っていく兵と少しだけ残った兵。
何故彼らがまだ残っているのかというと、最後の仕上げがまだ手付かずだからである。
「……ふん」
壁に背を預けて兵士達が片付ける様子を、見るのではなく聞いていたエマヌエルが、自分に向けられた視線をまるで見えているように鼻で笑った。
気を害せば殺されかねない、と彼の立っている周囲と衣服はまだ血に濡れたまま。
大方事態を収束させたことを確認したレイアは、最後の仕上げに取り掛かる。
「お前達は下がっているといい。後は私がやろう」
そう言って部下を下がらせて、周囲が避ける仕事をも率先して行う彼女。
だからこそ人望も厚い。
それを煙たがる者も居るが、彼女にとって大した問題では無かった。
レイアはまず最初に強めの口調で血塗れた王子に言う。
「王子、剣を捨てて頂けますか」
「何故?」
「何故も何も、今ここで王子が剣を振るう必要が無いからです」
「はっ、誰に何をされるかなんて分からないだろう。必要が無いかどうかは俺が決めることだ」
あくまで手放す気は無い、と短剣の刃を人差し指でなぞりながら彼は笑い放った。
後天的に視力を失った分、見えない不安は先天的なものよりも深い。
見えていたからこそ……見えないその恐怖から、エマヌエルはエリオットとはまた違った意味で歪んでしまっている。
そして、代わりに常人よりも冴えてしまった聴覚が追い討ちをかけるように彼の価値観を変えていた。
微弱な風の音から人の息遣いや心音まで、音という音が目に見える以上に相手の気持ちの変化を彼に聞き取らせてしまっているからだ。
やがて、積もる周囲への不信感が許容量を超えた頃、彼は『自分の気分を害する音』を出す者を殺すことに躊躇わなくなった。
顔すら見えていない相手などどうでもいい、音が鳴らないように一生黙らせてしまえばいい……
勿論レイアはそのような彼の心境など知る由も無い。
ただ彼の臣下として彼女は自分の責務を果たすのみ、とそれだけを行動理念にして今も動いていた。
だから、
「何かあれば私が剣を振るいます。故に王子が剣を振るう必要はありません」
真剣な眼差しで、目の前の王子を見つめる。
彼のその目が見えずとも、やること、するべき態度は同じ。
盲目の王子だからと変える部分など何一つ無い。
そんな一本筋の通っている鳥人の准将に、先に折れたのはエマヌエル。
彼女の、自分に対して向ける乱れの無い音に、気を悪くしようが無かった。
他と同じように扱われることこそが、他と違いすぎる彼の一番望むものなのだからむしろ心地よかったことだろう。
「……分かったよ」
とはいえそんな心中を億尾にも出すわけが無く、仕方なしといった態度で短剣を放り投げる。
慈悲の名を冠するその短剣は、無慈悲な王子の手元からカランと音を立てて離れていった。
それをレイアは拾い、ポケットの中から取り出したハンカチで丁寧に血を拭ってから、とりあえず後ろに下がって待機していた兵士の一人に預ける。
「それと、顔も服も汚れています。王子の側近をお呼び致しますのでしばらくお待ち頂けますか」
「……いや、このまま行くからいい」
壁にもたれていた背をスッと伸ばし、どこかへ行こうとするエマヌエルに、レイアは驚いて思わず声をあげた。
「おっ、お待ちください! そのようなお姿で城内を歩いては目立ちすぎます!」
「部屋を滅多に出ない俺がここに居る時点で、何か急ぎの用事があるとは思わないのか?」
彼の言い分は尤も。
けれどレイアの言い分も間違ってはいない。
「駄目なものは駄目です」
既に武器を持たぬ王子にきっぱりと彼女は言い放ち、それに対して彼は驚いた様子を見せる。
長い間会わないうちに随分と強気な態度がとれるようになったものだ、と……実はレイアがそうなったのはエマヌエルの弟が原因なのだが、彼が知る由も無い。
「通路に居ては目立ちますから、中へお入りください」
そう言ってレイアはエマヌエルの手を取って、半ば強引にすぐ近くの一室に押し込んだ。
こんなことをやってのけるのは城内広しと言えどもこの准将だけだろう。
周囲の兵達は、これはこれでまた彼女を「凄い人物だ」と尊敬なようで尊敬ではない、何か複雑な眼差しで一部始終を見ていた。
外の兵にタオルを持ってこさせ、エマヌエルの側近を呼ぶよう伝えると、レイアはひとまず今は使われていない小さめの会議室で、椅子に座らせた彼の顔や手だけを丁寧に拭っていく。
「こんなメイドがやるようなことまでするだなんて、君もなかなかの苦労人だな」
「どなたのせいだと思っているのですか」
そう、側近以外に彼をまともに扱える者はなかなか居ない。
大抵が「怯えた態度が癇に障る」と言われて不敬罪の名目の下に殺されてしまうのだから。
レイアも決して怖くないわけでは無かった。
けれど彼女の微かな不安はエマヌエルには伝わらない。
何故なら、レイアはそれ以外にも別の感情を彼に抱いていて、そちらのほうが彼の気を引くからである。
「随分と可愛らしい緊張の仕方をするなぁ、レイアは」
「かっ!?」
顔を拭いていた手を止めて、自分に向けられた言葉の意味を把握するなり驚き詰まるような声をあげるレイア。
「怯えて緊張というよりは、恥ずかしいか何かだろうか。触れる手も熱い」
そして彼女の手を握って、体温の変化を再確認する。
「そ、それは……!」
「今は……准将だったか? 忙しいのは分かるがもう少し男に慣れておいたほうがいいと思うぞ」
レイアはどちらかといえば『異性』ではなく『エリオットに似ている』彼に対して、顔を拭うだなんて近くでまじまじと見つめる機会に照れていただけなのだが、そういった事情を知らないエマヌエルは彼女がウブなだけと勘違いをしたようだった。
「生憎……そういうことにかまける余裕も相手もおりません」
少しホッとしながらも彼のズレた忠告に返答する。
「そりゃあ大変だ」
と笑ったその口元は、そりゃあもうエリオットにそっくりの、人を馬鹿にしたような動かし方。
レイアは別にエリオットの顔が好きというわけではないので、あぁ腹が立つ、けれど憎めない、と思いながら口を開いた。
「えぇとても大変です。このように問題を起こす王子ばかりですので」
「俺は問題など起こしていないが?」
「お咎めが無くとも自覚してください、本来ならば大問題です。貴方が殺した兵は先月昇級して恋人との結婚を控えていました。メイドはまだ城勤めが浅いものの母親への仕送りをしつつ頑張って働いていた良い娘だったのですよ」
下の者の事をきちんと把握する、がレイアの主義。
すらすらと出てくる先程自分が殺した者達の詳細に、エマヌエルは笑って呟く。
「……どうでもいいなぁ、見えないんだから」
「そう思うのは結構ですが、次に同じことをしたら私が体を張ってでも止めますよ。主君の過ちを正すのも務めですから」
大体拭き終えたところでタオルを近くのテーブルに置き、そこへようやく彼の側近が到着した。
「エマヌエル様! どうして何も言わずに出られたのです!?」
薄い飴色の髪の六十代くらいの執事が慌てて駆け寄ると、途端に嫌そうに口角を歪めてげんなりする第一王子。
「この私がそんなに頼りないと!? この間の演劇を録音し忘れたことをそんなに怒っておいでですか!?」
捲くし立てるように喋り続ける執事に、思わずレイアも呆気に取られる。
王子に対してきちんと正面から接しているし、癇には障らないのだろうが……エマヌエルの様子はどちらかといえばこの執事を気に入っているというよりも、苦手なような印象をレイアに抱かせた。
「あぁもうこの服! 私の月のお給料以上の金額の物なのですよ!? これを台無しにするということは私をゴミ箱に捨てるのと同意なのです!! エマヌエル様は私をゴミ箱に$#ゞ=@」
「悪かった、悪かったから黙ってくれ。お願いだから……」
なるほど、悪意を向けられること無くああやって叫ばれるのに弱いのか。
レイアは執事を見ながらエマヌエルの扱い方をうんうんと頷いて勉強していた。
ただし、エマヌエルは耳で心を聴くことが出来る為、それを真似出来るのは、心からエマヌエルに動じないことが出来る人間だけである。
「ところで王子、用事とやらが私に手伝えることであれば手伝いますが」
「……あぁ。その場で脅して取り上げるつもりだったんだが、君ならそれをせずともすぐに用意出来るか」
その発言に超反応する執事。
「私ではダメなのですか!?」
「お前は軍関係の書類など持って来られないだろう……」
「軍、の?」
エマヌエルが何故そんな書類を欲しがるのだろう、とレイアはその部分だけを聞き返す。
すると彼はにやりと笑って、
「ダーナが提供した情報書類を全て欲しい」
「? 何に使うのでしょうか」
そもそも読めないではないか、と言う疑問は怒らせるかも知れないので言わないでおくレイア。
誰かに渡すか、誰かに読ませるか、どちらにしても王子という立場の彼がそれをする意図が掴めない。
「君が持って来ないなら実力行使に出るだけだ」
「っ」
鳥人の准将は、人命と情報漏洩の可能性とどちらの被害を取るか悩んだ挙句に……後者を選んだ。
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きびたか様のフラクタル図形素材↓
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