吹き荒れる風 ~地に二王なし~ Ⅰ
エリオットはクリスの姿が見えなくなるのを確認してから、すごすごと建物の中に戻って行った。
いくつもある大きな入り口は、先程クラッサがやっていたように特定のリズムを叩くことによって起動する魔術が施された特殊な扉。
その厚さは大人が両手を広げたくらいのもので、普通の扉として機能させるには難しいからだ。
何故そのように分厚いかというと、ここには竜が閉じ込められているからに他ならない。
フィクサー達の知識を駆使して造られたらしいこの施設は、常識では計れない物だった。
分厚いだけではその壁すら壊してしまうかも知れない数匹の大型竜は、特殊な催眠によって普段は猫のようにほとんど眠っている。
そこへ十数人の世話係が毎日働いているらしい。
逆に言えば、ここに居る者で戦力となるのはあの三人だけということだ。
彼らの表の仕事は竜の育成であるため、戦闘要員は表だって集めていないのだろう。
この広い建物の狭い通路で、名前も知らない従業員と何度かすれ違いながら、エリオットは自分に割り当てられた一室へ向かう。
「くっそ……」
あの時向けられたクリスの顔を思い出し、呻くしかなかった。
いつもみたいに皮肉を言えばいいものを、あのような反応をされては聞いた甲斐があり過ぎて逆に困るというもの。
もしクリスがローズの妹でも何でもない普通の娘だったならキスの一つくらいエリオットはしている、そのようなシチュエーションだった。
それを思い留まらせたのは、否が応にも目に入ってくるあの白い翼。
あの状態のクリスにいきなりキスなどしては、それこそ鈍感なクリスはその翼を理由にローズの代わりだと誤解してしまいかねない。
いや、実際代わりとして見ているのかも知れないが……エリオット本人にももうよく分からなかった。
あの時見たクリスの表情から色々妄想しながら歩いていると、あっという間に目的の部屋の前まで来ていた。
ドアノブを回して開けると、
「お帰りなさいませ」
何故か出迎えてくれたクラッサと、
「大変面白かったですよ」
『玄人隠し撮り映像⑱』と書かれたラベルが貼られている水晶を手に持っているセオリー。
そのラベルの意味を考えて、つぅ、と頬を伝う汗。
「お前ら何でここに……って言うかソレ……」
エリオットは震える人差し指をゆっくりとその水晶へ指し向けた。
水晶は、アゾートで監視している映像を受信するものだろう。
わざわざそれをエリオットの部屋で見ている理由は……
クラッサは、戦慄く王子にほんのり緩めた表情を向けて一言。
「ちなみに私には通じましたよ、王子の最後の言葉」
「やっぱり覗き見してやがったな!?」
「逃げないだなんて信じられるわけがありませんから、監視しておくのは当たり前でしょう」
エリオットの叫びに平然と自らの行いの正当性を言い放つセオリー。
しかしその顔は監視と言うよりはやはり覗きだ。
とても楽しそうにその大きな口の口角をを上げている。
本当に悪趣味な二人であった。
この場に居ないフィクサーが幾分かマトモに見えてしまうくらいに。
「散々暴力を振るった後にわざと伝わらないように愛を囁くだなんて、王子は生粋のドSですね」
そう言ってフフフ、と口元を押さえてクラッサが笑った。
エリオットは別に暴力を振るいたくて振るったわけでは無い。
ああしなければクリスは飛べてしまうからこその苦渋の決断だったのだ。
ここである程度の怪我をさせてでも帰したほうが、それ以上進ませてセオリー達と対峙することになるより危険は少ないだろう。
……とはいっても、そのような考えが裏にあったとクリスが察しているかどうかは謎である。
「勘弁してくれ……」
どんなに伝えたくても今はまだ伝えてはならないその気持ちを、エリオットはあの時クリスに、女神の遺産に使われている古い言語で呟いた。
決して伝わることの無いように、でも聞かせたくて。
エリオットがクリスを好きだと言えば、きっと彼女は今以上にエリオットをセオリー達から取り戻そうとするだろう。
クリスのあの表情から、エリオットはもうクリスの無自覚であろう感情に気付いている。
だからこそ、自分の気持ちは伝えてはいけない。
無論、これから婚約する身の上で、そのような無責任な発言をする気も彼には無い。
レイアの時同様、本気であろう相手に中途半端な態度は取るべきでは無いと彼は思っているからだ。
そちら方面には非道徳極まりない彼だが、『遊び』としてその一線は越えてはいけないことを分かっている。
中途半端な扱いをしていいのは、本気では無い、相手もまた半端な情の相手だけだ。
例えば、間違いなく自分のことを好きでも何でも無いことが分かるクラッサとか。
火照る顔を落ち着かせるべく、エリオットは額の汗を拭う仕草でそのまま目元を隠す。
そんな彼の耳に届く、クラッサの声。
「あぁ可哀想なレイア准将……裏切ることが前提だったとはいえ、あのお方のことはこれでも結構気に入っていたのです」
だったらその笑いが堪えきれてない顔を何とかするべきではないか。
クラッサは、やはり口元を押さえたまま笑っていた。
ここで突っ込んだらフィクサーと同じように更にいじられるのが目に見えている為、からかわれている王子は言いたいことを黙って飲み込んで、占領されている椅子をすり抜けてベッドに向かい、腰掛ける。
そして溜め息を吐くことで遠まわしに出て行けと催促したのだが、そこへセオリーが水晶を見つめながら言った。
「しかし……流石にそういう目で見ているとは思っていなかったので驚かせて頂きました。想像よりもずっと使える人質だったわけですね、あの子供は」
驚いているとは思えないくらい淡々と紡がれたその言葉を聞いて、エリオットは青褪める。
監視されているかも知れないことなどよく考えれば分かったはずなのに、その場の感情に任せてあんなことを言うだなんて軽率だったのではないか。
エリオットの焦りに気付いたセオリーは、子気味良さそうにその短く淡い緑の髪を指先で捻り、改めてその言葉の意味を遠回しに口にした。
「これからもよろしくお願いしますよ」
そう、つまりそういうこと。
脅しの価値を知った彼らは、今後一層エリオットをいい様に扱おうとするだろう。
クリスを仲間に引き込むことが出来ればそこまで心配せずに済んだのだが、彼女の性格とあの反応を見る限りでは、何をどう言ったところでそれは無理だった。
セオリーがローズの本当の仇だと知らないとはいえ、やはり……敵は敵ということである。
「お手柔らかに頼むぜ」
この件が片付いたら真っ先にこの男を殺してやる。
そう思いながらエリオットは軽く返事をした。
しかし……あの大騒ぎの中、一切出てくる気配の無いフィクサーは一体どこに行っているのか。
何をしているのか分からないと、どうも不安で仕方が無い。
エリオットはセオリーではなくクラッサに顔を向けてその疑問を口にする。
「なぁ、フィクサーはどこだ?」
「……何か御用でしょうか」
場所を答えるのではなく用件を逆に聞いてくるとは、ますます怪しい。
「例の件についてちょっと聞きたくて」
例の件というのはエリオットがこれから彼らにやらされる『不本意な要求』のことである。
今聞かなくてもいいことなのだが、これが一番自然な話題だと思って彼は出してみたのだ。
「そうですか……施設内には居らっしゃるのですが、多分今行くとブチ切れると思いますよ」
「どういうこと!?」
虫の居所でも悪いのか、いやそれにしてもブチ切れることは無いだろう。
全く想像がつかないので、エリオットはベッドに座ったまま少し前屈みになって彼女に回答を求めて視線を送った。
クラッサは随分悩んでいたようだったが、
「ブチ切れて頂くのも大変面白そうですから、お教えしましょう」
と、何だかとても不真面目な発言をする。
しかしそれを止めるべく、セオリーが渋い顔で口を開いた。
「待ちなさい。何の為に敢えて避けさせていると思っているのですか」
「避けさせて、いる?」
何と?
不機嫌なフィクサーと?
もうここまで聞いてしまった以上は疑心を拭えるわけもなく、エリオットは二人を交互に睨む。
ややお遊びが過ぎてしまったように見受けられるクラッサは、黒いスーツを正しているその手が若干震えていた。
それは、セオリーが彼女よりも絶対的に上の立場だからなのかも知れない。
本来の首謀者であるはずのフィクサーに怒鳴られても動じない彼女がここまで焦るのだから、セオリーは別格なのだろうか。
未だに彼の利害と上下の関係が把握しきれていないエリオットは、怯えの色を見せているクラッサを問いただすのも可哀想だと思ってセオリーに切り出す。
「おい、そこまで言っておいて今更隠せないだろう。フィクサーの居場所を教えろ」
「彼と手を結んでいるとはいえ、貴方は私に指図出来る立場ではありませんよ」
「あぁ? 今すぐ自害してお前等の目的を達成出来ないようにしてやることも出来るんだぞ?」
「一応言っておきますが、フィクサーの目的は私の目的ではありません。貴方が自害したら笑いながらあの子供の前に放り投げてあげましょうか」
「この……ッ!!」
思わずエリオットはセオリーに掴み掛かっていた。
座っていた椅子ごと床に押し倒して思いっきり右拳でその頬を殴ると、丸い眼鏡は割れて転がり、セオリーの頬には大きな痣が浮かび上がる。
口の中が切れたのか、唇の端には少しだけ血が滲んで。
エリオットはてっきり今のセオリーも人形だと思っていたのだが……
「お前、本物か……」
血が出ている、とはそういうことだろう。
今ならセオリーを楽に殺せるのではないか、という考えが過ぎる。
愛した人の命を奪った、憎き仇を。
馬乗りになったまま一瞬動きが止まったエリオットを見止め、それまで抵抗の素振りを見せなかったセオリーが急に動いた。
動いたのは左腕。
その先で握られている拳はエリオットの腹にめり込む。
「ぐっ」
隙を突かれて一撃貰ったが、エリオットはまだセオリーに跨ったままだ。
顔を顰めながらも左手で相手の胸を抑えて、エリオットは右腕を振り被る。
が、その腕を後ろからパシッと掴まれて王子の攻勢はそこで止まった。
言うまでも無い、クラッサが割って入ってきたのである。
彼女は左手でエリオットの腕をただ掴んだだけで、その手に大した力は入っていない。
振りほどこうと思えばすぐ振りほどけるその拘束。
だが彼女の右手には既に剣が鞘から抜かれて携えられていた。
「……分かったよ」
セオリーと精霊武器を同時に相手するのはなるべく遠慮したい。
エリオットが素直にセオリーの上から退くと、ほっと安堵の溜め息を吐くクラッサ。
セオリーもそれ以上エリオットに掛かっていくことも無く上半身を起こして、傍に転がっていた眼鏡に手を伸ばす。
王子はそれをセオリーが取る前に先に拾った。
「…………」
どれくらい視力が悪くてどこまで見えているのかは分からないが、セオリーは眼鏡の外れた目を細めながらエリオットを黙って見据える。
「直してやるだけだよ」
一言、自分の意図だけを述べてエリオットは魔力で眼鏡を元通りに直した。
構造を把握した上で、エリオットの硬質な魔力を操作すれば、物の形を直すことなど容易なのだ。
直った眼鏡はセオリーに向かって放り投げられ、それはうまく持ち主の右手でキャッチされて定位置に収まる。
「もうほとんど使いこなせているようですね」
掛け直した眼鏡のずれを中指で整えながら、そう呟くセオリー。
「そうだな」
魔力が硬質だ、とルフィーナから表現されたことがあった。
あれは本当に正しかった。
一般的な魔力と同じ工程で火や水をエリオットの魔力で作り出そうとしても失敗する意味はそう……そもそも材料が違うから、同じように行っても作りようが無いのである。
別の工程でこなしていたなら、エリオットにも魔力できちんと火や水を生むことが出来ていた。
更にその魔力は、硬質であるが故に『全てを操作出来る』のだ。
例えるならば、水銀で泥をこねることは出来ないが、固形である銀でこねることは可能ということ。
そして、こねた物を何の形にするかは使い手の腕次第。
昔はこの力を大雑把な物だと解釈し、細かい操作は無理だろうと思っていた。
それに固形や非生命体にしか使えないという先入観もエリオットにはあった。
……しかしそうでは無かった。
それはまだ彼がこの力に対する解釈が追いついておらず、技術も足りなかっただけの話。
夢によって世界の『理』と『意味』を頭に直接刻まれた今のエリオットは、それらを統べる技術を身につけ始めていた。
まだエリオットはその夢は途中までしか見ていないが、先にそれを見ているフィクサーが空間転移の魔術などという馬鹿げた技を使えるのも納得がいくというものだ。
そして本人から聞いてはいないが、同じように空間転移を使えるセオリーも多分見たのだろうとエリオットは思っている。
エリオットを含めたその三人は……もう人間の枠を外れているといっても過言では無い。
記憶が戻っていた時のレクチェは、どんな想いでそんな自分自身を受け止めていたのだろうか。
きっと遠い昔にエリオットと同じように力を植え付けられた彼女は、ずっと一人でその神とやらの命令に従ってきていたはずなのだから。
「お前らが教えないなら俺が自分の足で探すだけだ」
塞ぎこみたくなる考えを一旦置いて、エリオットは部屋を出ようとした。
「好きにしなさい」
背中に投げかけられたセオリーの言葉。
返事をせずに立ち去った後、エリオットは建物内を隈なく探したが、結局フィクサーを見つけることは出来なかった。
そして、エリオットが見つけられなかったフィクサーはというと、王子がその存在を知らない隠し階段を降りた地下に居たのである。
滅多に使われない牢獄や、いくつかの部屋がある階。
その一室で彼は、
「評判らしいんだ、このブラウニー生ロールケーキ」
「あぁ、そう……」
王都にわざわざ空間転移して直で店舗から購入してきたケーキを、昔から好意を寄せている幼馴染のエルフに勧めていた。
ルフィーナは、品の良い食器に乗せられたロールケーキをとりあえずフォークで綺麗に切ってすくって口に運ぶ。濃厚なクリームとふわふわの生地で、確かに流行っているだけのことはある一品。
しかし、
「美味しいことは美味しいんだけど、貴方の顔を見ながら食べる物でも無いわねぇ。可愛い男の子をここに連れてきなさいよ」
「俺は君の顔を見ながら食べられて幸せだ」
「もー、この男は本ッ当に話が通じないッ!!」
確かにこのひと時を邪魔されたならば、彼はブチ切れたであろう。
だが代わりにルフィーナがこの後、肝心な情報を喋らないで雑談を続けるフィクサーにブチ切れたのであった。