恋と愛 ~それは常に不意打ちの形で~ Ⅰ
それから数日が経ったとある日の朝。
クリスが洗濯物を干していると、朝だと言うのにいつも以上に通りが賑わっていた。
王都の最南西に位置するライトの家にまで中央通りの騒がしい様子が伝わってくる。
大きなシーツまで干し終わったところで、クリスは気になってライトとレフトに聞いてみた。
「何か外、騒がしくないですか?」
「あぁ、これだろう」
そう言ってライトが新聞を手渡す。
一面のトップ記事は……エリオットの婚約のことだった。
クリスの手がぷるぷると震える。
婚約話が出ていることは何度も聞いていたが、決定したとはまだ聞いていない。
ぐいっとのめりこむように新聞に目を通していくと、どうもこう言うことらしい。
「政略結婚……?」
顔合わせはこれからするがそのまま婚約は確実だろう、と朝刊には書いてある。
相手はモルガナに次ぐ東の勢力であるダーナの民の次期巫女長で、東との関係緩和が狙いか、と記者の予想がつらつらと綴られていた。
「どうせ好きでもない相手と結婚するなら、と考えたのかも知れん」
「ふぇあおぉあぁぁ……」
クリスはもう、何を言ったらいいのかよく分からない。
「きっと話は以前の見合い写真の頃から進んでいたんだろう。今日これからその相手が王都に着くらしい。それで一目見ようと皆が大通りに出ているわけだ」
「み、みみみ」
「見たいんだな」
コクコクと頷いてライトに意志表示。
巫女長のような立場で結婚していいのだろうか? とクリスは一瞬疑問に思ったが、クリスが暮らしていた教会の属する宗教のルールでも、司祭になる前に結婚するならば可能だった。
ダーナの巫女もその様なものなのかも知れない。
巫女長に就く前に婚約と結婚を済ませておく、と言うことか。
ライトは一服終えてから椅子を立ち、
「さっさと着替えて行くか」
と、言って自室に歩いて行く。
レフトもそれに続き、クリスも急いで部屋に走った。
城に続く大通りは、朝だと言うのに既に凄い人混みになっている。
強い日差しを遮るようにブリムの広い黒のソフト帽を被っているライトの顔を、下から見上げつつ待機するクリス。
「馬車の中から顔を出してくれたりするんですかねぇ」
顔が見えないと、来ている意味が無い。
クリスの疑問にライトが少しだけ視点を下げて答えた。
「敢えて顔を出してここを通ると思うぞ」
「敢えて、ですか……」
「国民アピールだな。ここまで注目されるのは、エリオットが一番注目を浴びている王子だからと言うのもあるだろうが……相手が東の民だから、と言うのも大きいだろうな」
「そうですよね……」
クリスは自分が先日彼に言ったことを思い出す。
東が反乱しないように、とは言ったがまさかここまで彼が考えていたとは予想だにしていなかった。
「ダーナの民だなんて素敵なところを選びますわね~」
「確かに」
こちらも日避けに白いショールを被っているレフトがほわほわと言った。
「ダーナの民って、どういう種族なんですか?」
「エルフに近いですわ~。寿命はエルフのように長くありませんが、不老の民と呼ばれるほど美しいまま生きて死すと言いますの。ダーナの民の住むティルナノーグの水は綺麗で美味しいんですのよ~。不老の秘訣は水とも言われておりますわ~」
「ほえええええ」
ずっと若いままともなると、政略結婚ではなく趣味なのではないかとも勘繰ってしまう。
クリスは帽子を持って来なかったため、暑い時期では無いがこれだけ晴天だと日差しを浴びて頭がじりじりしてくる。
朝から待っていたと言うのに、ダーナの次期巫女長の到着は結局昼前だった。
エリオットの公務とは違い、至極真っ当な数の護衛と馬が並んでいる。
そしてその後方からお目当ての馬車がゆっくりと進んで来ていた。
白い馬車にしっかりした造りの屋根は無く、アコーディオン状の屋根が今は後ろに仕舞われていて、乗っている次期巫女長の姿がよく見える。
光に溶けてしまいそうな薄紫の長い髪が風に揺れ、透き通った肌はまるで今まで日差しに当たったことが無かったのでは無いかと思うくらいの透明感。
アメシストと同じ色の瞳は、大きくて本当に宝石のようだった。
エルフほど長い耳では無いが少しだけツンと上に尖った耳は……言うなれば妖精。
妖精が羽を失くし、身長が大きくなればこういう種族になるのでは無いだろうか。
レイアの言う『エリオットの好み』と程遠い少女は花のようなドレスを着ていて、儚げな表情で俯きがちに座ったまま通り過ぎて行った。
「……羨ましいな」
「!?」
ぼそりと呟いたライトの言葉に、クリスは思わず彼の方にバッと振り向く。
ライトの好みはああいうタイプなのか。
馬車が全て城壁の内に収まると、やがて人ごみはばらけていった。
家に戻ってきたクリスは、ライトと一緒に、見た物を思い出して物思いに耽る。
レフトは掃除中でこのダイニングルームには今居ない。
「美人でしたね~……」
あれではエリオットを尻に敷きそうに無い。
生粋のお嬢様な香りがした。
しかもクリスと同い年くらいではなかろうか。
不老に近いと言うから年は上かも知れないが、見た目はそれくらい若かった。
「美人でもエリオットは乗り気じゃ無いだろうな」
「でしょうねぇ……」
あんなの反則だ。
好みではなくても我慢出来る、少なくとも自分なら我慢出来る。
そう思ったら、
「あー!!!!」
腹が立ってきて、ダイニングルームの椅子に座ったまま叫ぶクリス。
「どうした」
「あんなお淑やかな美人をお嫁さんに貰うだなんてムカつきます! あの人にはもっと強そうで尻に敷くタイプが似合ってますよ!!」
「大方同意はする」
いっそレイアと結婚すればいい、とクリスはそんなことを思っていた。
レイアが相手なら素直に祝えるのにあの次期巫女長と婚約かと思うと、何故かクリスはちっともおめでとうと言える気分になれない。
「……私」
「ん?」
「エリオットさんと結婚するのは自分が認めた人じゃないと、嫌なのかも知れません……」
ふと思った自分のこのもやもやの結論を、ライトに静かに伝えた。
彼は困った顔で首を傾げ、少し間を置いてから答える。
「近しい者のことならばその反応は普通だろう」
そしてポケットの中から煙草を取り出して火をつけ始めた。
彼は煙草を銜えながら息を吸い、その先にともる小さな火。
「だがあいつが珍しく国にとってまともな決断をしたんだ。そのことに関しては応援してやるのが筋では無いか」
ライトはそこまで言ってもう一つ付け加える。
「友なら、な」
ふぅ、とクリスの方に煙がいかないよう、反対を向いて息を吐いた。
その表情はいつも通りの無表情。
「友なら、ですか……」
自分はエリオットと友達なのだろうか。
あまり友達という感覚では無いので、クリスはその点が引っかかってしまう。
姉の元相方……と言うか恋人だった人。
義理兄と言うほうが近いが、でもそれもあまりしっくりこない。
主従、と言うほど命令を全部聞いているわけでもないし、でも今は傍から見ればこれが一番近いのかも知れない。
「よく考えることだ」
彼はまだ吸い終えていない煙草を銜えたまま席を立ち、この場を離れようとする。
まるで言い逃げるように。
「ま、待ってください!」
思わずライトのシャツの裾を引っ張ってクリスは彼の動きを止めてしまう。
引っ張られて歩みを止めたライトは、クリスに振り向き、黙ったまま見下ろしていた。
クリスの次の言葉を待っているのだろうが、次の言葉などこの少女の頭の中には無い。
「え、えっと……」
ライトは銜えていた煙草をすぅっと吸ってから手に持って、しどろもどろしているクリスの顔に思いっきり煙を吹きかける。
「わぶっ」
「放せ」
煙で咳き込んで、言われずとも自動的に放してしまうクリスの手。
煙を吹きかけられる寸前、凄く近くに見えていた彼の顔は……クリスにはどことなく悲しそうに見えた。
◇◇◇ ◇◇◇
「ディーナ・シー・リアファルと申します」
後ろに側近を連れ、深々とおじぎをする妖精のような少女。
エリオットは形式張ったことは嫌いだが賓客を無下に扱うわけにもいかない。
「エリオット・アルフォズル・ヴァグネールです。遠路遥々感謝致します」
彼は彼女の白く細い手を取って、内心げんなりしつつ挨拶を交わした。
思っていたよりもずっと若すぎるからだ。
少なくともこの相手に、可憐さはあっても色気は無い。
エリオットとしては大変不服なこと。
しかし不満を言える状況でも無い為、それ以上は閉口する。
婚約前の顔合わせだの何だのと世間で言われている今回のダーナの次期巫女長との対面は、実際はそんな生易しいものでは無かった。
勿論その話も進むのだが、それは本題のカモフラージュ。
そう、彼らの居る場所はれっきとした会議室だ。
エリオットは黒い軍服を着ているし、リアファルもドレスを脱いでダーナの民族衣装を着ていた。
「こちらがモルガナで行われている竜の飼育に関わる書類です」
彼女とエリオットが席に着くと、ダーナ側の側近が広い会議室の長机に座っている重役へ順々に分厚い紙束を配っていく。
その長机の上座に着いているエリオットの手元にもそれが届き、彼はさっと目を通した。
「……流石に大掛かりだな」
竜の飼育場所は東に三箇所。
サイズに応じて区分けしているらしく、小さいものはモルガナに比較的近いようだが大きくなると更に北東の地に移しているとある。
エルヴァンが東を重要視していないのを良いことに、よくここまで進めたものだ。
エリオットのぼやきを聞いてから、ダーナの側近が書類をつらつらと読んで説明していく。
政略結婚に間違いは無いが、最初からここまで政治を持ち込むのも珍しい。
それほど国側が急いでいる、と言うことになる。
何しろ公務で訪問している王子が襲われるような事態だ。
これ以上後手に回るわけにはいかない、と満場一致で話は一気に進んでいて今の状況がある。
「飼育場所の情報提供、よくぞ決断してくださいましたな。謝念の意を表します」
既に聞く前から読み終えてしまっている長い説明をエリオットが聞き流していたところで、エルヴァン側の老害が礼を言った。
そのまま何やらぐだぐだと対策を練っているのやらいないのやら。
話を進める素振りは見せていても、それを進めると自身の利や安全が保障されなくなることが怖いのだろう。
決断することを恐れているようだ。
私的な思惑が性根に絡んでいる彼らとの会議はいつも纏まらないので、それらに見飽きたエリオットは苛々し始める。
そろそろ口を挟もうかと思っていたところで、随分離れた対面に座っているダーナの次期巫女長とエリオットの目が合った。
彼女はスッと無言で手を上げて発言の意を示し、他が沈黙することでそれを了承する。
「これでは纏まりません」
キッパリと言い放ったリアファルの言葉に、老害達が顔を顰めた。
彼女を助ける為……では無いが全く以って同感なエリオットもそれに続く。
「全くだ。大義名分はこちらにあるんだから場所が分かった以上、やることは一つじゃないのか」
「ダーナとしては、竜をなるべく自然に帰してさえ頂ければ問題ありません。武力はお貸し出来ませんがそれ以外なら助力致します」
エリオットの言う大義名分を澄ました顔で肯定する彼女。
大人しそうな見た目の割に結構言うタイプのようだが、そうでも無ければ次期長など務まらないだろう。
「ダーナが王国側についたことは知られているはずだ。まずは書状でも送って放棄を促して、断られたらコッチからけしかければいいだろ。はい、会議おしまい」
「し、しかし交渉が成立せずに竜が戦闘態勢に入ってしまった場合の対処はどうするのです!? それを決めずして先に進むなど……ッ」
老害の一人が慌てふためく。
彼らはそう。
全ての対処を万全にした上で望みたいのだ。
しかしその解決方法は唯一つ、大型竜を使われる前に飼育施設を使い物にならなくするしか無い。
そして、それが出来なかった場合のことなど考えても仕方ない。
対応出来ても出来なくても、相手は向かってくるのだからやるしか無いのだ。
「どうせ老い先短い命だ、特攻でもしたらどうだ?」
エリオットが軽く笑いながら言い放ってやると、今や前線には一切出ないお飾りのような中将が顔を真っ赤にして王子を睨む。
そこへスコーン! とエリオットの頭に羽ペンが飛んできた。
ペン先にキャップが付いていたからいいようなものの、使い方によっては武器にも成り得るそれを王子に投げるとはどういう所業か。
飛んできた先をキッと見据えるエリオット。
その視線に悪びれる様子も無く、鳥人の准将が言う。
「口が過ぎますよ王子」
「お前は手が出てんだろーが!!」
もはや何も怖いものなど無い、と言わんばかりにこんな公の場ですらエリオットに反抗するようになったレイア。
しかしそんな彼女を窘める者は誰も居なかった。
それは、彼女の王子に対する態度がこの場の全員の総意である、と暗に告げている。
エリオットが舌打ちして頭をさすっていると、その対面の少女は随分と呆気に取られた顔をしていた。
「随分と……気さく、なのですね」
多分言葉を選びに選んで話しかけているのはリアファル。
本件のトップ二人の結論だけをさっさと押し付けてお開きとなった会議が終わった後、彼女は用意された宿泊用の客室ではなく、エリオットの部屋に来ている。
別にエリオットが何かしようと部屋に誘ったわけでは無い。
挨拶だとか交流を深めるだとかそれ以前に、彼らの婚約は決定事項なので今更話すことも何も無いのだ。
後はただ形式上、婚約を済ませるだけ……
なのだが、彼女自身はそうでも無いらしい。
きちんと相手の人となりを見極めたいのだろう。
婚約予定の相手のところにくっついてきてこの通り、エリオットの対面の椅子に座っている。
先ほどと違うのは場所だけで、結局また二人で向かい合っていた。
「そんな言葉を選ばなくとも、品が無いって言っていいんだぜ」
少なくともどこぞのクソガキはそう言うと、エリオットは思っている。
「いえ、私の周囲にそのような言葉遣いの者はおりませんのでとても新鮮です」
それを新鮮、と表現する次期巫女長。
先の会議の発言を見る限りあまりお嬢様していないのかとも思われたが、それは誤解だったようだ。
単に言うべきところはきちんと言える、というだけでやはり箱入り娘なのかも知れない。
クリスもそうだが、外見は子供にも関わらず敬語を使うリアファルに、エリオットはあまり良い気はしていなかった。
エリオットの生い立ちとして、自分自身が子供の頃に子供らしいことを出来ていなかったからこそそう感じるのだと思われる。
「そうかよ……」
特にこれ以上話すことも無いのでエリオットはそのまま口を閉ざした。
彼女はもう少し会話を続けて欲しいようで、会話が尽きてしまったことに困った素振りを見せるが、エリオットは気付かぬ振りして彼女から視線を逸らす。
沈黙が続き、テーブルで頬杖をついてぼーっと明後日の方向を見ていると、すすり泣く音が聞こえてきてエリオットは我に返った。
リアファルを一瞥すると、彼女は涙が溢れている瞳を必死にこすっているではないか。
「……何で泣くんだよ」
聞いてはみたものの、多分放っておいたのが悪かったのだろう、と予想はつく。
でもそれで泣くだなんて精神面が弱すぎる。
いや、それこそが強がっていても中身は成長出来ていないことの表れであり、クリスもまさにそれなのだが。
早くも前途多難な予感に王子は頭を抱えたくなった。
「こういった場でどうしたらいいのか、分からないのです……」
それだけ言ってまた泣くリアファル。
本当に心から面倒臭いとエリオットは思っていた。
けれど放っておくわけにもいかないので仕方なく慰めモードに入ってやる。
「あのなぁ、どうもしなくていいだろうが。話すことが無いなら黙っていればいいし、話したいなら話せばいい。何か間違ってるか?」
まだ泣きつつもその言葉に黙って首を横に振るリアファルを見て、何故か彼の脳裏に浮かぶのはもう一人の泣き虫のことだった。
見た目の年齢、そして多分精神年齢も。
それらが近いせいだろうか、先程から水色の髪の、大人になりきれていない少女のことばかりを思い出して、エリオットは不愉快な気分になる。
似ているところを見ては思い出すし、違うところを見ても比べるように思い出す。
これが未来の嫁候補かと考えると目眩がしてしまう。
ローズの影を振り切ろうとしているのに、今度はその妹の影が頻繁にちらつくような相手と生涯を共にするなど、苦痛でしかない……
「…………」
と、そこまで考えたところでエリオットは思考を停止させる。
あと、顔が引きつり始めていた。
何故苦痛なのか?
あまりの衝撃的事実へと繋がった一連の流れに、停止させてしまった思考。
それをまた働かせようとする彼の額に、どんどん滲んでくる汗。
いやまさか、そんなわけが。
でもこれは、そういうことなのでは……
そのように至った結論に、エリオットは笑うしかない。
「は、ははは……」
突然笑い出す王子にリアファルはその大きな紫の瞳を丸くする。
「如何致しました?」
「い、いや……ちょっと笑わせてくれ」
顔を見られたくなくて、テーブルに肘をついて額を覆うように頭に手をあてながら、エリオットは俯き笑った。
――いつからだ。
いつから自分はこんなことになっていた?
何故気付かなかった。
外見的な意味での魅力をそこまで強く感じられないからか?
その存在は、彼の中にあまりに自然に居付き過ぎていた。
それはもう、エリオットとしては出会いを最初から無かったことにしてやりたいくらいに、何の遠慮も無くするりと。
減らず口ばかり叩いては食って掛かってくる。
そんな憎たらしい奴のことで日々頭がいっぱいだなんて、エリオットは自分で自分に腹が立ってきた。
何が嬉しくて、胸も色気も無いクソガキのことばかりを考えていなければいけないのか。
それほどまでに腑に落ちないけれど、何故そこまで気に掛けているのかと考えれば『その結論』しか無いだろう。
思い起こせば、自身の普段の様々な感情の起伏もそれを物語っているように思える。
あの少女の縁談が流れたことも、妙に嬉しかった。
面倒を看ることになった最初の動機からだけではない気持ちが湧き上がっていた。
ウザくて仕方が無いはずなのに、傍に居ない生活など考えられない。
――俺、アイツのこと好きだろ、コレ。
エリオットは、クリスのことが好きだと自覚した。
◇◇◇ ◇◇◇