レチタティーヴォ ~台風の目~ Ⅱ
騒いでいたヨシュアとガウェインも彼女の涙に気付くなりおろおろし始め、クリスも普段自分が泣いて慰められる側なのでどうしていいか分からず困り果てる。
先日のレイアの時も気の利いた言葉を一切言ってあげることが出来なかったクリスは、自分が本当に経験の浅い、薄っぺらい人間だと自覚させられていた。
クリスとヨシュア、ガウェインの三人は顔を見合わせた後、目で意思疎通をする。
取り乱している彼女を一旦帰そう、と。
「今夜はとりあえず戻っていいですよ。食事も大体出来ているようですし後はこちらで何とかしますので、また明日の朝よろしくお願い致します」
ヨシュアが泣いているリズを宥めながら送っていく。
その後ろ姿をロビーから見届け、見えなくなったのを確認するとクリスとガウェインは二人で同時に大きく溜め息を吐いた。
「王子と居るとホント面倒なことばっかりだ」
「全く以って同意しますね」
このような調子だからどの従者も長く続かないのである。
部屋に戻ったクリス達は慣れない手つきで食卓を整え、どうにか食事の準備が出来たところでヨシュアも戻ってきた。
あとは二階で不貞腐れているであろうエリオットをどうにかしなくてはいけない。
エプロンを外してソファの背に掛けると、クリスは二人に名乗り出る。
「エリオットさんは私が呼んできます」
「さっすがクリスさん! 行ってくれると信じてました!」
「かっこ、いー……」
パチ、パチ、と気の抜けるくらいゆっくりな拍手でヨシュアが褒め、ガウェインはその鋭い八重歯が見えるくらい大きな口を開けた笑顔で喜んだ。
普通に考えれば従者にとって、不機嫌な主に声を掛けることほど気が重いものは無いだろう。
正確には従者という立場ではないクリスでさえも気が重いのだ。
これらの行動に生活が掛かっている彼らにはもっと苦痛と思われる。
笑顔で送り出す二人を背に、クリスは行く前から既に精神的にどっと疲れつつも、ロビーの階段を上がってエリオットの部屋を訪ねた。
「エリオットさーん、開けますよー」
彼の返事など、この少女が待つわけが無い。
速攻でドアを押し開けるとそこにはエリオットと、
「!?」
彼の座っている椅子から丸いテーブルを挟んだ対面の辺りの窓際に、誰かが立っていた。
金髪の小さな男の子。
けれどそれは夢だったのか、クリスが意識をしてその人物を見ようとした時には既にその姿は無かった。
「い、今誰か居ませんでしたか?」
「……あぁ、居たな」
夢ではなかったらしい。
あっさりとその謎の存在をエリオットによって肯定される。
「誰だったんですか? 玄関から入って来てない、ですよね?」
ギィ、と風に揺れる開いた窓とカーテン。
暗闇の中、明かりもつけずにこの部屋は月明かりだけで光を取っていた。
彼はそんな窓に視線を向けながら、一言だけ小さく呟く。
「ビフレスト……だ」
久しぶりに聞いたその単語。
クリスは汗で滲んだ背筋が凍るような感覚に震えた。
◇◇◇ ◇◇◇
時は少し前に遡る。
エリオットは一階でリズに暴言を吐いた後、篭もった二階の部屋で一人椅子に座りながら黙考していた。
レクチェが居なくなってから、エリオットは毎晩例の夢を見続けている。
それで彼は、レクチェの力と自分の魔力がやはり同じものではないかと推察しており、それによって、死んだレクチェの代わりに自分が後釜として第三者に夢を見せられているのだと考えていたのだ。
夢の内容は、簡単に言えばこの世界の膨大すぎる歴史そのもの。
だが、魔術を使うにあたって、歴史はそのまま糧となる。
魔術とは、世の『理』を体現した技術。
そこにある『形』と『意味』を理解し、統べる技。
故に、歴史と魔術……魔術紋様は切っても切れない関係だった。
この夢を見始めてから、特に練習もしていないエリオットの魔術知識は飛躍的に上がっていた。
何をどうすればいいのか、その夢が補ってくれる。
以前は「レクチェのようには使えない」と思っていた自分の魔力も、今では同じように使えるくらいまで知識が追いついている。
今までのエリオットはただ、その技術に対しての知識が追いついていなかっただけなのだ。
けれど、良いことばかりではない。
四年以上の間、毎晩忘れることのない夢を見せられ続けるというのは苦痛以外の何物でも無かった。
その道を選んだ者ならまだしも、エリオットを始めとする大半の人間は、そこまでして魔術を使えるようになりたいとも思わないだろう。
毎晩寝ても寝ても、心身共に休まることが無いのだから。
そこで現れたリズ……つまりはレクチェ。
彼女は死んでいなかった。
にも関わらず自分がその後釜にされているような状況。
彼女が解放されて楽しく生活している中、エリオットは得体の知れない夢を見せ続けられるという不安が積もりに積もっていた。
エリオットは要するに、彼女に八つ当たりしてしまったのだ。
「どういうことだ……レクチェが死んだわけじゃないのなら、どうして俺がこんな目に……」
一つの推測が外れたことで、彼の悩みは必然的に増える。
明かりを付ける気分でも無いため、窓の外から入る月光が彼を照らす。
だが、ふっとその光が何かに遮られた。
何事か、と窓を見ると、ガイアが上からぶら下がっているではないか。
気の抜ける光景に、エリオットは少しだけ落ち込んでいた気分を上げて貰えた。
「どうした?」
「王子に取り次いで欲しいって子供が居るッス」
「……子供?」
「ビフレストって言えば分かるって言ってるッスよ」
上がった気分は一気に急降下して、どろりと暗い感情へと切り替わる。
レクチェと接触した途端に、ビフレストがやってきた。
これは、完全に意図的なものだと思っていいだろう。
「……通せ」
エリオットの呟きに、ガイアは無言でその場を後にする。
間もなく、小さな男の子が同じく窓からひょいと入ってきた。
一応言うがここは二階で、鳥人のガイアならまだしも、普通の子供が外壁から上って来られる場所では無い。
ふわふわしたフードから、ぴょこぴょこと金髪がはみ出ているのが見える、見た目だけならば普通の少年。
けれどその表情は酷く冷めており、少年と呼ぶには躊躇うものだった。
「こんばんは」
「挨拶はいい、用件を話せ」
全てを見透かし、それでいて全てを見下げ、物事に大した興味も無いような虚脱感が奥に秘められた金の瞳。
話を急かされた少年はエリオットに近づくことなく、窓際に立ったまま話をし始めた。
「随分悩んでいるようだから、少し教えてあげようと思ってね」
「教えてやる、だと……?」
何故今更。
それはもっと早く言えばいいことでは無いのか。
このタイミングで話そうとするからには、必ずそこに理由があるはずだ。
得られる限りの情報は得つつ、しかし、疑って掛からなくてはいけない。
エリオットは湧き出る疑心感による表情の歪みをなるべく抑えながら少年の目を見た。
「まず、私はビフレストだ。そして君も……ビフレストなんだよ」
少年の言葉はエリオットの胸に深く刺さる。
信じたくない現実をはっきりと突きつけられ、動揺が僅かに彼の指に出た。
この暗がりで、遠目には見て取れないほどの小さな震えが。
「そもそもビフレストと言うのはとある連中が付けた呼び名なんだがね。特に私達を括る名前は無いから、この場で使わせて貰うとしよう」
「あぁ、分かった」
「まず君は、どこまでビフレストのことを聞いているのか、聞かせて貰ってもいいかい?」
「……俺はほとんど知らない。ビフレストが神の使いだとか言うことと、あと、女神の末裔とビフレストが敵対していてそれが本能に根付くほどのものだ、ということくらいしかな」
そう、エリオットはルフィーナから直接話を聞いていないが故に、具体的なことはほとんど知らずに居たのだ。
これには流石に少年も少しだけ表情を変えた。
『え、ほんとにそれだけ?』と、そのような感じで目を丸くして。
だがすぐに気を取り直し、
「なら逆に説明はしやすい。彼女が神の使いだというのは間違っていないよ。私も神の使いだからそれは断言しよう」
「あぁそうかよ。じゃあ見せてみろよ、神ってのを」
「……君は、神が目に見えるものだと思っているのかい?」
エリオットに一切の信仰心は無い。
目に見えたものを信じる彼にとって、何かの陰謀が渦巻いていることは分かっても、それをただ神がどうのと言われては疑ってかかってしまう。
けれど、少年はそれを根底から覆した。
「神がこの世界を作ったのだとしたら、そのような存在が目に見えると? 馬鹿を言っちゃあいけない。例え見えていたとしても、それをこの世界の住人が『神』として認識出来るのか。少なくとも出来ないと私は思う。目に見えるものが全てじゃあ無いんだよ」
「だったらどうやってソイツが神だと判断すりゃいいんだ」
「信じるしかないのさ、私の言葉を、ね」
信仰の無いエリオットに、信じさせる手段。
それは、信じる以外の道を無くすことだった。
それが嘘だろうと、真実だろうと、信じなければ話は進まない。
この少年は暗にそう言っているのだ。
やられた、とエリオットは思う。
けれど、
「信じりゃいいんだろ……」
屈服せざるをえなかったエリオットに、少年は冷めた目尻を少しだけ下げた。
「この世界はね、神の傑作の一つなんだよ。だが女神がそれを良しとしなかった。彼女はこの世界の存在そのものに異を唱え、君達が女神の末裔と呼ぶ存在によってこの世界に直接手を下すようになった。そしてそれを食い止めるための存在が、ビフレストなのさ」
「……そういう流れなのか」
「そうさ。けれどね、最近になって困ったことが起きたんだ。何だと思う? そう、君達がレクチェと呼ぶ個体が、壊されてしまったんだ。本当ならば神はそれを止めたかった。けれど彼女はある時から神に反抗的になってね。神と繋がる手段を、例の連中に壊させてしまったんだよ。だから結果として、神は彼女を救うことが出来なかった」
少年の言葉に、エリオットは気付けば食い入るように聞き入っていた。
信じるつもりの無かった言葉なのに、信じてしまいそうになる要素が入っている。
レクチェが神に反抗的になった……それは、以前レクチェと共に軽食を取った際に感じていた違和感の答えだったからだ。
そのエリオットの変化に気付いている少年は、見下げた視線のまま、薄く笑う。
「神託を受ける存在である彼女が使い物にならなくなった後、私はその代替品として普通の人間から作りかえられたビフレストだ。だから、つい最近までこの身体は普通の人間だったのさ」
レクチェが使い物にならなくなった時期は百年以上前のことであるからして、決してそれまで普通の人間だった存在が「つい最近」と表現出来るものでは無いのだが、その違和感はそこまで気に留めず、エリオットは聞き続けた。
相槌などもう必要無い。
固唾を呑んで、少年の唇が紡ぐ音を待つ。
「けれど私の身体は決してビフレストとして適性があったわけでは無い。この身体は不死の適性を与えられた。だがそれだけ。手を尽くしたが、この弱い身体では限度がある。そこで、君だ」
「俺をビフレストに仕立て上げたってことか」
「少し違うね。君はビフレストとしての適性を、神によって故意に持たされて生まれてきたんだ。つまり途中から仕立て上げたのではなく、最初から定められて作られた、いわばビフレストの上位種」
「俺がビフレストなら、何故クリスや精霊武器達は気付かない? レクチェのことをあいつらは敏感に察知していたぞ」
「出来が違うからだよ。途中から身体を変えられた紛い物とは違う、君は本物になるために生まれてきたのだから当然だろう」
普段はすぐにカッとなるエリオットだが、状況判断が出来ないわけでは無い。
冷静になるべき時には冷静になる、するべき時にはする、くらいの分別はつく。
だがそんな彼ですら、今はただ心の赴くままに表情を変えていた。
驚きのあまりに翡翠の瞳を見開いて、けれど伝えられた言葉の意味を理解し、怒りに震えた指は気付けば机に爪を立てている。
「どうして俺なんだ! 仮にも王子なんだぞ!?」
そう、神はどうしてそのような目立つ存在を神の使いとして仕立て上げようとしたのか。
「それは逆に、王子だからこそ、だ。私も、レクチェも、この姿で目立つ超常現象を起こしてしまうとすぐに国が調べようとしてくるとは思わないかね?」
「そ、それはそうだが……」
大陸を統一しているエルヴァンは、何かあればすぐに軍隊を派遣し、その状況の確認を行い、問題を突き止めようとする。
それ自体は自然なことだが、ビフレストにとっては厄介なことだろう。
折角女神の遺産の破壊を止めたとしても、それをこの世界の民に見つけられてしまうと、ただ恐れ慄かれ、邪魔をされるのだから。
「君達が以前敵対していた連中は、まさにそれを調べようとしていた者達だ。案の定レクチェは彼らに見つかり、そこで神はレクチェの代わりに彼らの対処をした。少し手違いがあって、色々と彼らの身には申し訳ないことが起こったようだったがね。でも人間には過ぎるほどの知識と魔術適性を得たのだから、損ではないと私は思うよ」
「そうか。セオリーがあれだけの力を持っているのは、そのせいだったのか……」
クリスは知っているが、この点もやはりエリオットは聞いていなかったこと。
エリオットとクリスは相変わらず情報交換が出来ていないようである。
「だが大陸全土の王ならばどうだ。王族が素晴らしい力を持って生まれた。その時、民は多少恐れつつも、それが自分達の利になると分かれば手の平を返し、崇めて終わるだろう? 四年前の、スプリガンの時のように」
「確かに……そうだったな」
全てが、合点のいくものだった。
水晶になった人々をエリオットが戻した時。
有り得ない現象でありながら、民は喜んだ。
これが通りすがりの魔法使いがやってのけた、となれば悪い噂も立ちかねないが、王子がやったとなれば「凄い」で終わる。
たとえ終わらなくても、裏で噂は握り潰されることだろう。
王子のためならば国は、それだけの圧力をかけることが出来る。
「別に君だけじゃない。君の兄達もビフレストになる可能性はあった。ただ……成功したのが君だけだった、ということさ」
エリオットはもう、目の前の少年の言葉を何一つ疑っていなかった。
最初に「このタイミングで話そうとするからには、必ずそこに理由があるはず」と思っていたにも関わらず……それは彼の頭の中から自然と抜け落ちる。
その後、クリスが来たことによって話はそこで終わったが、もう十分、彼の疑問は解けていた。