古傷 ~失いたくないもの~ Ⅱ
風が止み、室内も静かになる。
それでもレフトとフォウは、クリスと距離を置いたまま不安そうに様子を伺っていた。
もしもこの時レフトがさっきのようにまたクリスを抱きしめていたなら、あっという間にクリスの心は満たされたかも知れない。
だがそれはもしもでしか無い。
先ほど近寄ってきた彼女の手を先に振り払ってしまったのはクリス自身で、それ以上の包容を彼女に求めるのは酷な話だろう。
「……、……」
『ひとりに なりたい』と出ない声にも構わず呟いた。
どうせこの症状はクリスが自分で治すしか無い。
周囲の者に原因があるわけではなかったのだから。
しかし口だけ動かしたところで伝わらない気持ち。
一向に出て行ってくれない彼らに一人で勝手に苛立って、クリスは八つ当たりをするように自分の頭を掻き毟った。
そこにエリオットがぼそりと一言。
「レフトとフォウ、席外して貰っていいか」
クリスは一人になりたいのに、それでは二人になってしまう。
「構いませんわ~、お夕飯の支度してきますわね~」
少しだけ躊躇いつつも、彼の言う通りに部屋を出て行くレフト。
そしてフォウは、レフトよりももう少し後ろ髪を引かれる様子で、
「いいけど……乱暴なことしちゃだめだよ?」
「お前じゃねーんだからしねえよ!!」
「俺じゃないからしそうなんでしょ!?」
と、喚きつつも部屋を出てそのドアを閉める。
残ったのは何を考えているか分からないエリオットが一人。
一緒に出て行けばいいのに、と目だけでそれを訴えようとするが、彼はクリスを見てもいなかった。
そして近くにあった椅子を引いて腰掛けると、一人でつまらなそうな顔をして話し始める。
「昨日のことだけど、誤解を解いておきたい部分が一つある」
彼は一切目を合わせないし、クリスも相槌を打てない。
そのせいか、まるで独り言のように彼の声は響いていた。
「……俺は最初から、ローズの目的がお前の為であることを知っていた」
そこだけは、聞き取れるか聞き取れないか分からないくらいの小さな声。
どうやら昨日クリスが誤解していた部分の訂正をしたいらしい。
「勿論、具体的にどうお前の為になるのか分かったのは最近だけど、別にそれに対してがっかりなんてしてない。その根本の目的はローズに聞いて知っていたんだからな」
ぶすっとした表情で話すその様を、クリスはただぼんやりと見ていた。
「売り言葉に買い言葉でああ言ったけど、そういうことだ。結果としてお前の為には違いないが、それも全て分かった上で俺は俺の為にやりたいことを今までやって来ていたんだ」
そしてやっと彼とクリスの、目と目が合った。
すんごいどや顔で言い切っているのに、耳が真っ赤で締まりが無い。
この人は本当に自分勝手な人だ、とクリスは思う。
人が、声が出ないと困っているのに、昔を思い出して悩んでいるのに……そんなことどうでもいいと言わんばかりに、自身の言いたいことをぶん投げてくる。
「だから……その、何だ。いくらなんでもお前が嫌いだったらあんな面倒なことを何年も続けていないわけで、そこを勘違いされるのは非常に腹立たしいと言うか」
酷く乱暴で……でも、クリスが本当は欲しかった言葉を。
自分は嫌われていないのだという、確たる証を。
くしゃくしゃになりそうな顔を手で押さえて、少女は喉から声を絞り出した。
「……ぃ、今、言うことじゃ、無いで、しょう……」
誰も突っ込んでくれる人がいないのだから、自分がこの馬鹿に声をあげなくてどうするのだ。
「お前が喋れないと思ったから今言ったのに、何でこのタイミングで喋り出すんだよ!?」
「だ、って……っ」
しゃくり上げるように泣いてしまい、折角声が出ても言葉をうまく話せない。
少しして落ち着いてきたけれどまだすすり泣くクリスの頭に、エリオットが優しく手を置……
「いだだだだ!!」
かと思ったら次の瞬間思いっきり力を入れてぐっしゃぐしゃに髪を掻き毟った。
クリスの悲鳴を聞いて満足した表情を見せる彼。
「な、何するんですか!!」
「泣いてても分からんだろ? また声が出なくなっても困るんだ、何があったのか言えよ」
軽く会話が噛み合っていない感が否めないが、確かに言っていることは間違ってない。
クリスは再度向き合わなくてはいけないのだ。
自分の過去と、その時蓋をして押し込んだ感情に。
「……分かりました」
自分の頭に生えている角にそっと触れて、口を開く。
「私が力を制御出来なくなっていることは……フォウさんが言った通りです」
「あぁ、そんな大事なことを黙ってるとかほんっと最低だよなお前。黙っていられたこっちの身にもなれよ」
額に手を当て目元から前髪を遮るような仕草をしつつ、容赦なく責め立てるエリオット。
一瞬、この男に打ち明けるのは間違いなのではないかと不安が過ぎるが、それでもクリスは続けた。
「知られたくなかったんです。それで私は……彼に見られた時、自分で思っている以上の動揺をしていたんだと思います」
爪が鋭く伸びた両手を見つめながら淡々と話すクリスに、エリオットがもう一つの木椅子をガタンと動かして寄越す。
とりあえず座れ、と言うことだろう。
クリスはそれに静かに腰掛けた。
「で、何で知られたくないんだ? レフトが嫌われたくないんだろうとか言ってたけど、まさかそれくらいで嫌われるとでも思ってたんじゃねーだろうな」
「その、まさかです……」
彼は翡翠の瞳を細くして睨んでいた。
凄く怒っているのが伝わってくる表情で、何やら言いたそうに口を開こうとするけれど、すぐにそれも閉じ、また何か切り出そうとしてはやはり口を閉じる。
そして結局何も言わないまま、ふいっと少しだけ顔を斜め左に背けてしまった。
クリスはこれから話そうとしていることに対する恐怖という衝動を抑える為に、グッと手を握る。
変化した際、手の平に食い込む鋭い爪の感触は、もう慣れっこだ。
「皆を信じていないわけじゃ、ないんです。でも、もしかしたらって気持ちが消えないんです」
「それは信じてないって言うんだぜ」
ばっさりとクリスの言い訳を否定するエリオット。
けれど彼はすぐにその表情を少しやるせなさそうなものに変えて言う。
「……いや、お前が心から信じられなくなるような態度を取っていたのは、ライトに言わせれば俺なんだろうけどな」
辞するように。
エリオットが何だかんだで素直にしおらしく自分の非を認めるような発言をしているので、クリスもそれに影響されるように心中を明かす。
「違います、これは皆のせいじゃありません……ただちょっと昔の嫌なことと被ってしまって怖くなっただけ、今はそう思います」
「昔の、嫌なこと?」
あまり他人に軽々しく話す内容では無いが、言うしか無い。
はぁ、と肺にあった空気を全て吐いて、勢い良く吸ったところでクリスは思い切って切り出した。
「小さい頃、いわゆる……虐待やいじめと言ったものを受けていた時期があったんです」
「……お前がか?」
信じられない、と言いたげな表情で訝しむエリオット。
「今でこそ自分の意思でこの姿に変化していますが、小さい頃はコントロール出来ずによくこの姿を周囲に晒していたんですよ」
「なるほど、そういうことか……」
それを聞いたら少し腑に落ちたようで、彼は小さく溜め息を吐いた。
ここまで言ってしまえば後は似たような内容ばかりである。
もう気合を入れて口にすることも無いので、クリスは体に入れていた力を抜いて肩を下ろし、手の平に滲んだ血が彼に見つからないようにそっと指の腹で拭った。
「少なくとも姉さんは私が物心ついた時からきちんと変化を制御出来ていましたし、それもあってか最初の育ての親に虐待を受けていたのは私がほとんどでした。姉さんの姿よりも私の方が周囲から嫌われるようなものですからね」
「さ、最初?」
「えぇ。最初に両親だと思っていたのはヒトの夫婦でした。多分実の親では無いでしょう。その人達に捨てられてから次に獣人の老夫婦に拾って貰いましたが、それも数年で今度は教会に預けられています」
他人に打ち明けるのは全て初めてのこと。
たまに悪夢として見るくらいの、今思えば嫌な思い出しかない頃の話。
「俺も子供の頃ってのはいい思い出が無いつもりだが……全くの別次元だな……」
重たい口を開いて、ここまで聞いた感想を静かに伝えるエリオット。
確かに城で大切にされながら育ってきた彼との悩みどころは別次元だろう。
それだけ言うとエリオットはクリスの手をそっと取って、高そうな服の袖口で血を拭った。
「ああぁ……汚しちゃって……」
思わず現金換算して呻くクリスに、
「そう思うなら怪我すんなよ」
と戒めにも似た言葉が投げかけられる。
投げやりに言う彼の顔はその口調とは合わず慈しむようなもので、その視線が自分の手に向けられていると思うとクリスは胸のどこかで何か重い物が圧し掛かるような感覚がした。
「ごめんなさい……」
「謝らんでいい。……で、その姿が原因で小さい頃は嫌なことばかりだった、と」
「はい。あの頃は本当に……私には姉さんしか居ませんでした。姉さんがお金持ちの人に引き取られてしまってからは、他の孤児からのいじめ……みたいなものから庇ってくれる人も居なくて結構しんどかったですね」
いじめられていた、だなんてやっぱり言うのは恥ずかしい。
弱弱しく悄然と笑うと、エリオットがクリスの目を見つめて無言で首を横に振った。
どんな理由で首を振ったかは分からないけれどクリスにはそれが『笑って誤魔化すな』と言っているように感じ取れて、笑っていたその顔をどんな顔にすればいいのかと悩み引きつらせる。
今のクリスはきっととても滑稽な顔をしているだろう。
「泣き虫は大人しく泣いてりゃいいんだよ」
促されるままに、クリスはほろりと涙の粒を頬から零していた。
声をあげて泣くような大きな感情の昂ぶりは無いのに何故か止め処なく溢れるその滴を、ごしごしと擦って頬に伸ばしていく。
しばらくして涙が止まり、ようやく続きを話し始めた。
「……でもいじめられることも、感情と変化能力を制御して私がしっかりしてくると、徐々に無くなったんです。それで私は事実上克服出来たと思っていました」
「けど今になって力の制御が出来なくなってきて、それが他人にバレたもんだから制御出来なかった頃のトラウマが蘇った、ってワケか」
こくんと頷く。
昔に比べるとずっとずっと幸せなクリスの今。
それがもしかして再び不安定になったこの力のせいで失ってしまうかも知れない、そう思うと押し潰されそうな気分になっても不思議では無い。
クリスの反応を見た後、エリオットは少しだけ話題を変えてきた。
「……お前の中にもう一人居る精霊ってのは、あの槍や大剣の精霊と違ってチェンジリングって言う手法によってお前の中に居るらしい」
「え?」
聞いたことの無い単語に首を傾げる。
「それを解除すればお前を普通……とまではいかないが、きっとローズと同じくらいには戻せると思うんだ」
「姉さんと、同じくらいに……」
それはこの黒い翼ではなく、あの白い翼がこの背に現れる時がくるかも知れない、と言うことだろうか。
「ってことは、だ。お前が昔悩んでいた理由そのものが、もうすぐ消え去る可能性があるんだ」
「それは……本当の私、なんですか?」
今の自分は、偽者、なのか?
昨晩気になっていたことがクリスの口をついて出てくる。
縋るように彼を見上げると、エリオットは少し唇を引き締めて言った。
「それはお前が決めることだ。俺にはどっちだろうがお前だからな。でも体の中に本来あるべきでは無いものがあって、それが無くなったなら……それが本来のお前の姿だとは思う」
クリスに答えを選ばせつつも、彼は彼の考えを述べる。
ローズが元に戻そうとした姿が、本来のクリスの姿だと。
そう言っている。
「姉さん……」
クリスは両手で顔を覆って俯いた。
――どうして姉さんは居ないのだろう。
どうしてこんなことになっているのだろう。
姉さんは何をどこまで知っていたのだろう。
姉さんが居たなら悩まずに済んだのに、どうして全てを自分に打ち明けてくれなかったのだろう。
……どうして自分は未だに姉さんにしがみ付こうとしているのだろう――
「ったく面倒臭い奴だな」
椅子を少しずらす音がした後、クリスの頭に何かが当たった。
エリオットの胸だった。
少し強く、クリスは正面からエリオットに抱き締められていた。
いや、抱き締めたくて抱き締めているというよりは、クリスの背に手を伸ばすために自然とそういう形になっているようにも思える。
クリスの、背の、黒い翼に。
「改めて触ってみると面白い手触りだよなぁコレ」
クリスの背中に回した腕を翼に伸ばし、いじる。
「や、やめてくださいよ」
俯いていた顔を上げてクリスが睨むと、すぐにエリオットはもう片方の手で抵抗する少女の頭を再度下に押しやって俯かせて叫んだ。
「こっち見んな!」
理不尽過ぎる。
おかげでクリスはさっきよりも深く彼の胸に顔を埋める体勢になり、彼はまた人の翼を玩具のようにいじるのを再開させる。
レフトとは違う、酷く乱暴でがさつな抱擁。
というか実際は抱擁ですらも無い。
けれど同じくらい、この瞬間のクリスの心は不安や恐怖から解放されていた。
そこへコンコン、とノックの音。
「!!」
がばっとクリスの体を自分の胸から剥がしたエリオットに、何事かとクリスも釣られて動揺する。
「え、エリオットさん?」
折角の良い気分が一瞬にして台無しになった。
クリスが声を放つとすぐにドアが開き、目を見開いたフォウが入ってくる。
「今クリスの声しなかった!?」
「あ……ご心配お掛けしました。エリオットさんにツッコまずには居られないと思ったら、声、出ました」
「…………」
ぽかんと口を開けて二人を交互に見やるフォウは、その後に苦笑しながら言った。
「流石だなぁ」
にこっ、とその大人びた顔立ちを砕けさせて笑う彼。
エリオットはそれに対して不満そうな表情を見せている。
「付き合いが長いだけだっつの」
何故そこで仏頂面になるのか。
「はいはい、照れ隠し照れ隠し」
そう言われてエリオットは右手を振り上げてフォウの方にバッと踏み込み、それを見てびくりと肩を震わせたフォウはそのまま部屋の外に逃げて行った。
遠くから彼の、低くも澄んだ声だけが聞こえてくる。
「ご飯出来たってよー」
エリオットに追い払われるような形になったが、食事に呼びに来ただけだったようだ。
「俺は帰る」
立ったまま、ぼそっと一言言い残して部屋を出ようとする彼の後ろ姿にクリスは声を掛ける。
「食べて行かないんですか?」
「あぁ。三日後に出発だからな、忙しいところを来てやったんだから有り難く思えよ」
「出発って……」
「お前も準備しておけよ、モルガナは一旦置いてリャーマに先に行く」
クリスの傷は完治していないが、それでも行くと言うのだから既に決定事項なのだろう。
クリスは汗が体中から吹き出すのを感じていた。
次にこの前のような大事があったら対処しきれない。
そんな不安を汲み取ったようでエリオットが補足を付け加えた。
「流石に前回のがあるからな、人を増やすのは嫌だったんだが断り切れなくて護衛は増える。滞在期間も短くなるから着いたらだらだらしている余裕なんて無いぞ」
「は、はぁ」
しかし誰が増えたところで竜などなかなか太刀打ち出来るものでは無いのだが。
「んじゃな」と短く言い残して彼は裏口の方へ歩いて行く。
とりあえず変化を解いて破けた服を着替えてから、クリスはダイニングルームへ向かった。
用意されていた食事は多くて、エリオットの分もあることが一目で分かる。
「エリオットさん忙しいからって帰っちゃいましたよ」
「あらあら~」
レフトがそれを聞くなり、エリオットの分と思われるお皿を自分の席へススス、と動かした。
二倍食べる気だこの獣人。
ライトはそれには触れず、けれども上機嫌そうな顔をこちらに向ける。
「落ち着いたか」
目を細くしてにこりと笑うその一瞬だけ、凄くレフトに似ていた。
それくらいの笑顔。
「あ……ありがとうございます」
失礼なことかも知れないが、ライトもあんな笑い方が出来るんだな、と少し驚いてしまうクリスが居る。
「悩むのが馬鹿らしくなりますよね、あの人見てると」
「違いない」
そう言って皆で笑う。
食事をしている最中はエリオットの悪口でとても盛り上がったのだった。
◇◇◇ ◇◇◇
次の日の朝早くに、一見三つ、実は四つの目を持つ青年はエルヴァンの城をまた訪ねていた。
日課である朝風呂によってほんのりまだ湿った髪を風にさらしながら、待合室で人を待つ。
この国の第三王子の名前を借りることで比較的容易に取り次いで貰えた、青年の会いたい人物。
これがもっと位の高い人物ならば難しかったかも知れないが、一般人である彼より上とはいえ身分が高いわけではないのですんなりと話は進んだ。
「お待たせ致しました」
それは彼が先日機密書室の前で出会った女性だった。
黒く短い髪に、今日は紫のシャツに黒いトラウザーズを着ていて、先日と色は違えど然程変わらぬ外観のクラッサ。
「……先日お会いしましたね、何か御用でしょうか?」
「単刀直入に言うよ」
クラッサは武器を持っていない。
フォウは懐に隠し持っていた短剣を取り出して構え、彼女との間合いを計りつつ口を開いた。
「顔に術がかかっている、その顔は偽物だ。それも腑に落ちないけれどそれよりも……あんたが持っているそれは、あんたの物じゃないはずだ!!」
フォウが即座に彼女のシャツの胸元を切り裂く。
そこには彼女の肌と、大きな琥珀のネックレスが露となった。
◇◇◇ ◇◇◇
【第二部第五章 古傷 ~失いたくないもの~ 完】