古傷 ~失いたくないもの~ Ⅰ
へたり込んだままのクリスをフォウが引き摺るように抱えて部屋まで運び、そのまま彼の手によってクリスはベッドに腰掛けさせられた。
「クリス、大丈夫?」
ようやく彼の言っている意味が頭まで伝わってきたクリスはそれに返答しようとする。
が、
「…………」
分かります、と答えたつもりの口は動くだけで音を発しない。
クリスは自分で自分に驚いて目を見開いた。
普段通り喋ろうとしているのに声が出ず、少女の手は震えてくる。
フォウもそんなクリスを見てわなわなと肩を震わせた。
「こんなつもりじゃなかったんだ……クリスが自分で気付いていないだなんて、思ってなかったんだ……」
フォウは感情が色となって見える力を持っているが、それはどうやら『本心』であり、当人が気付いていないものでも奥底にある真実であればそこにある感情として見えてしまうようだ。
彼が泣きそうな顔で言うから、クリスは今自分の身に起こっていることに対して更に不安を掻き立てられる。
見ている周囲が釣られて潤んでしまいそうなくらい、青年の青褐の瞳は薄らと滲んでいた。
「とりあえず先生呼んでくるから!」
そう言って出て行ってしまうフォウ。
クリスは声を出せないかと試してみるけれど何故かやはり出なかった。
何か、言葉にしたくない、無意識に声を出すのを拒否してしまうほどのことが先程のやり取りの中にあったのかも知れない。
今は特に気にかかるようなことなど考えていないのに、何かが心の中でもやもやと渦巻いて酷く落ち着かない。
考えようとすると気持ち悪い。
怖い。
何が怖い?
何だったっけ。
そんなクリスのところに、ライトとレフトが連れられてきた。
ライトはいつも通りの無表情だが、レフトはクリスを心配そうに見つめている。
「大丈夫ですの~?」
クリスは答えられないのでコクンと頷いてそれを返事の代わりとした。
何が何だか分からないけれど、別に声が出ない以外は問題ないのだから。
「大丈夫じゃなさそうですわ~」
レフトが室内を落ち着き無く歩き回り始める。
「クリス、声が出ないのか? イエスなら右手を上げろ。ノーは左手だ」
ライトが冷静に質問と指示をしてきたので、クリスは右手を上げる。
「何故声が出ないのか心当たりはあるか」
……無い、と答えるならばノー。
左手を上げる。
クリスの上げた手を見て、困り果てる一同。
「クリスに怯えの色が見えたんだ。だからどうして怖がっているのか聞いたんだけど、そしたら一瞬何かを思い出したような顔をして……」
「話したくないような心的外傷でも掘り下げたか」
「……ごめん」
ライトが首を横に振って金の瞳を閉じた。
「俺は専門外だ。心が見えるお前の方が得意なんじゃないのか?」
「俺は色って言う抽象的なもので心が見えるだけなんだよ。それに今はその色すらも普段通りに戻ってるし、悩んでいる様子ってのが見当たらないんだ」
確かに今クリスは特に悩んでなどいない。
そして、さっきまで一体何を怖がっていたのかもよく分からないのだ。
「本人も分からない原因を探るってのは専門家でも難しいだろうな……ましてやクリスの過去を知る人間もいない。その原因が最近のものであることを祈るだけだ」
それだけ言ってライトはさっさと部屋を出ていってしまう。
フォウとレフトはその後姿を見送ってから、二人で顔を見合わせて深く息を吐いた。
急に声を失ってしまったクリスは、何も言うことが出来ずに二人の様子を伺うだけである。
「一時的なものだといいですわね~」
それに頷いたクリスを確認し、レフトは強張っていたその表情を少し和らげて、白い三つ編みを揺らしながらクリスに笑いかけた。
そこへフォウが、辛そうな表情で言葉を挟む。
「俺……ちょっと出かけてくる」
「あらあらどうしたんですの~?」
レフトが問いかけ、クリスも心配になってフォウに視線をやると、その目とぱっちり合った。
「悪化したら、ごめん」
真顔で何を言っているんだ彼は。
この事態を悪化させる気なのか、と思わずクリスは彼を止めようとベッドから立ち上がるが、力の入らない体がそれを拒否して足をよろめかせる。
「危ないですわ~」
咄嗟に支えてくれたレフトの手を借りてベッドに座り直した時には、もうフォウの姿は無かった。
「今夜もエリオット様が訪ねて来られそうですわね~」
のほほんと一言。
何故ですか? と聞きたいけれど声が出ないクリスは、彼女に視線だけでその疑問を訴えかける。
が、クリスの視線に気付いているはずの彼女はにっこりと笑って少女の頭を優しく撫でるだけだった。
そうやってしばらく撫でていた後、レフトはそっとクリスの隣に腰掛けて、クリスの頭をぎゅっとそのふくよかな胸に沈めさせる。
「皆様クリスさんをいっぱい気に掛けてくれていますわね~」
クリスの頭に頬を置いて、今度は背中を撫でるレフト。
レフトは、普段作っているお菓子のものと思われる甘い匂いをさせていて、しかも物理的にふかふかしている。
気持ち良くないはずがない状態に、クリスはそっと目を閉じ、体を預けた。
「でもクリスさんは、そんな皆様の気持ちが不安なのでしょう~」
そしてレフトは、またクリスの肩から背中にかけて撫でる。
「周囲の殿方は揃って感情表現が下手ですから~、たまにはきちんと好意を表に出してほしいと思いますわよね。女の子ですもの~」
こんな風に、とレフトはまた両手でぎゅーっとクリスを抱きしめて。
確かにこんな風に愛情を示されたら怖いものなんて何も無い、とクリスも思う。
レフトをぎゅっと抱きしめ返して、その気持ちを肯定した。
「クリスさんはほんのちょっと心がお休みしたいのかも知れませんね~」
モルガナでの一件以来、何かとクリスには考えることが多すぎたのは確かだろう。
黙って彼女に包まれていると、そこへガチャリとドアノブが回った音。
ライトが入ってくる。
「…………」
珍しく気の抜けたような顔をしている彼は、黙って二人を見ていた。
「あらお兄様、フォウ様と鉢合わせでもしましたか~?」
「その通りだ」
返事を聞いてふふふ、と笑うレフト。
ライトとフォウの行き先は同じだった、ということだ。
とはいえその意図がクリスには分からず、どういうことなのか説明してほしいけれど問う言葉は出てこない。
これでは不便で仕方が無い。
治らなかったらどうしよう、とふと思ったその瞬間、何かが込み上げてくる。
「……、……!」
声にならないくらいの擦れたような風の音だけを喉で鳴らすクリスを、レフトはまた強く抱きしめて撫でた。
落ち着かせるように、あやすように。
しばらく撫でて貰っていると激しかった動悸も落ち着いてきて、クリスは彼女を見上げる。
視線に気がついたレフトはにっこり笑いかけて言った。
「わたくしも食べちゃいたいくらい可愛いと思っておりますわ~」
にぱっと大きく口を開けて笑った彼女のその台詞は、ちょっと本気に聞こえて笑えない。
いや、冗談だとは思うが。
「しばらく任せておいて良さそうだな」
「食べないように気をつけます~」
……これほどツッコミを入れられないことをもどかしいと思ったことは、クリスは無い。
気付いたらうたた寝してしまっていたらしい。
目を覚ましたクリスはレフトの膝枕に頭を乗せていた。
その場所はベッドで枕もあるのに、彼女はずっと膝を貸していたようだった。
ありがとうございます、と口パクでどうにか礼を伝えようとするクリス。
察しのいい彼女には伝わったようで、
「どういたしまして~」
と返事をされた。
「お夕飯の準備、してきましょうかしらね~」
そう言ってレフトが立つ。
何となくレフトに離れて欲しくなくて、クリスも一緒にベッドを降りて立った。
口がきけなくても手伝いくらいは出来るのだから、自分で着いて行けばいい。
しかし、
「あら?」
レフトがその獣耳をぴこんと動かして、足の動きを止める。
「ったく何やってんだお前ら」
「ちょ、ちょっと! 乱暴な扱いはしちゃダメだからね!?」
「頭でも叩けば治んだろ!」
エリオットとフォウだ。
どったどったと周囲を気にしない足音を立てて、その音はどんどんクリス達の居る部屋に近づいてきて……
「おー、声が出なくなったとか言う細い神経したガキはここかー?」
バタン! と勢いよくドアが開いたと思うと憎たらしい笑みを浮かべてやってきたエリオット。
後ろには焦り顔のフォウが着いて来ている。
エリオットはクリスの前に歩み出ると、にやにや笑いながら言い放った。
「そのまま喋らない方が可愛げがあっていいんじゃねーの」
人のトラブルをこうも笑えるものか。
声は出ないけれど食って掛かるようにクリスは彼を見上げて鋭く睨む。
「……反論してこないな」
「そりゃそうでしょ!!」
クリスの突っ込みたかったところを、フォウが突っ込んだ。
エリオットはぽりぽりと頭を掻いてから、その手をそのままクリスに向けてきて、
「じゃあこうしてみるとか」
今度はクリスのわき腹を思いっきりくすぐる。
しかし、クリスはくすぐったくて笑っているはずなのだが、それでも声は出ていない。
笑っているような口の開け方と悶え方をしているだけで、喉の奥からは一切音が出なかったのだ。
多分声が出ていればそろそろひぃひぃ言い始めるくらいに悶えたと思う頃、ようやくくすぐり地獄から解放される。
「……これもだめか」
「折角連れて来たのにふざけてない!?」
フォウがそう叫んで、エリオットのポニーテールを後ろから思いっきり引っ張った。
「いだい!!」
「真面目にやってよ! 少なくとも最近のクリスの悩みの原因なんて、王子様しか思い当たらないんだから!」
なるほど、それでエリオットが連れて来られたらしい。
くすぐられて苦しくて涙が出てきた瞳をごしごし擦りながら、彼らの会話をクリスはただ聞く。
「んー……一体どういう状況でこいつに怯えの色とやらが見えたんだよ。お前との会話の最中なんだろ? むしろお前が原因なんじゃないのか」
「え゛っ」
原因を自分に押し付けられて、変な声をあげるフォウ。
しばらくあの時の状況を思い出すように悩み考え込んで、彼は黙ってしまった。
クリスも一緒になってあの時の状況を思い出してみる。
タオルを破ってしまい、それをフォウに見られて、その後フォウが重い表情を見せ……
「……!」
クリスはそこで思考を停止させた。
これ以上は考えたくない、と頭と体が言っている。
吐き気がしてきて口を思わず抑えると、すかさずレフトがその背中をさすった。
「エリオット様の指摘、遠からずってところですわね~」
「おおおお俺のせい!?」
「急に拒否反応示してるんだ、やっぱり何かあったんだろ」
「ええええええええ!?」
叫んでからフォウは、額に片手を当てながら記憶を探るように一つずつ言葉を紡いでいく。
「……クリスが、洗濯物を干すのを失敗していたんだ」
「干すのをどうやって失敗するのか、その時点でもう理解不能だぞ」
半眼で呆れ顔をクリスに見せるエリオット。
仰る通り過ぎて恥ずかしいので、クリスは彼から顔を思わず背けた。
「それで、クリスが力を制御出来てないことを知ったんだ」
「どういうことだそれは」
エリオットが怪訝な表情で問いかけ、それに対してフォウは一呼吸置いてからその続きを話し始めた。
「クリス、タオルを間違って引き千切っちゃってたんだよ。つまり……分かるよね」
三つ目の青年のその言葉に、エリオットが驚いた様子のまま固まっている。
知られたくなかったことを話されて顔を歪めたクリスの頭を、レフトは何も言わずに撫でていた。
そしてエリオットはようやく動き出したかと思うと、クリスを凄い形相で睨む。
「何でそんな大事なことを黙ってたんだ……!」
低く震える声で、責めるように。
「王子様、ストップ……」
「これが止まれるか!! 力が制御出来ない!? いつからだ!! やっぱり異常が出てきてるんじゃないか!! 他には無いのか!?」
クリスの両肩を揺すって捲くし立てるが、答えられないクリスはただ揺すられるがまま、彼の瞳を見つめることしか出来ない。
そこへレフトが割って入ってきて、エリオットからクリスを庇うように抱きとめる。
「エリオット様」
レフトは、彼女にしては強い語尾で名前だけを呼んで窘めた。
「……っ」
クリスから離されたエリオットは、まだ何か言いたそうであったが歯を食いしばってそれを飲み込む。
色々な感情が織り交ざったような彼の目に、クリスは口唇を噛んだ。
皆が押し黙ったところでフォウが先程の続きを話し始める。
「この数年で、らしいよ。それを聞いて大丈夫かなって心配したんだけど、そしたらクリスが自分の力に対して苛むようなことを言ったんだ」
「苛む?」
「うん。こんな力気持ち悪いよね、みたいに。その時の色が怯えた色だったんだよ……って」
そこまで言って、エリオットとフォウの目が合う。
「それ、俺が原因には思えないんだが」
「ち、違うかも……」
エリオットは、フォウの首根っこを掴んでぶんぶん前後に揺らす。
ただ背丈が同じくらいと言うこともあってそこまで持ち上がるわけでもなく、少し首が絞まる程度だったが。
「お前が最初からきちんと思い出していれば話は早かったんじゃねーか!!」
「だだだだって、ほんとにその時は何に対してか分からなかったんだよ!!」
はぁ、と溜め息吐いてエリオットはその手を離した。
「つまり、クリスは自分の異常に対して不安を感じてたんだろ?」
そう言ってクリスを見る。
目が合う。
クリスは首を傾げた。
エリオットもそれを見て首を傾げた。
皆、首を傾げた。
「ち、チガウノカ?」
多分違うと思うので、クリスは静かに頷く。
確かにそれも不安と言えば不安だったが、そこまで思いつめるほどクリスはそれに対して悩んでいない。
あの時自分は何に対して恐怖したのだろうか……
考えようとすると麻痺する思考。
頭痛がしてきて額に汗が滲む。
「やべぇ、分からん」
「だから言ったでしょ! 分からないんだって!」
感情が出てくると子供みたいな仕草に戻るフォウは、明らかに大人の容姿であるにも関わらず、子供のように両手にぎゅっと力を入れてエリオットに対して喚いていた。
エリオットは困った顔で顎に手を当てて再度考え込んでいる。
そこへ、クリスを抱きかかえたままのレフトが眉間を寄せつつ口を挟んだ。
「……お二人とも本気で分からないと仰るのですか~?」
「レフトは分かるのか?」
「どう聞いても、嫌われたくないだけのようにしか聞こえませんわ~」
嫌われたくない。
ストンと心に落ちる言葉に、クリスの頭は一瞬空っぽになる。
そうか、自分は嫌われたくないんだ。
でも何で嫌われたくないだけでこんな気分になるのだろう。
嫌われるのが怖い、どうしてこんなに怖い?
「クリスさんは度々エリオット様に嫌なことを言われる前に自分からその先を言うのを、気付いてらっしゃいますか~?」
「え? その、先?」
「常々気になっておりましたが~、それは表面上はただの皮肉のように聞こえますが一種の自己防衛反応なのですわ~」
レフトはそっとクリスの頭に手を置いて宥めようとするけれど、今にも噴き出しそうな恐怖という感情の渦が胃を圧迫するようで、クリスは気分が悪くなってきた。
何かが頭の中でフラッシュバックする。
ただ、怖い。
嫌われるのが怖い?
嫌われたらどうなる?
嫌われたら……
育ての親に疎ましく蔑む目で毎日見下ろされてきていたあの頃が怖い。
力を制御出来なくて、周囲に気持ち悪がられていたあの頃が怖い。
同じ孤児からも悪魔、と石を投げられていたあの頃が怖い。
それらは全て変化の力を制御出来ていなかったのが原因だった。
忌み嫌われる存在だったあの頃、今またそれに戻るのが……クリスは堪らなく怖いのだ。
そしてその事実そのものが、言葉に出したくないほどの思い出でもある。
恐怖の正体を自覚したクリスは圧迫感からげほげほと嘔吐き、レフトが背中をさすってくれるが、その手を思わず振り払ってしまう。
こみ上げる吐き気に口元を押さえつつ、思った。
これは彼らのせいでは無い、自分一人の問題だ、と。
クリスは古傷を克服できていなかっただけなのだ。
「クリス、大丈夫か?」
珍しくエリオットが本気で心配しているような声色で話しかける。
それにクリスは静かに頷いて変化を始めた。
部屋の中に急に起こる突風と、何も無いはずの背から生えてくる黒い翼に、角、尻尾。
変化を終えてもクリスはそのままその場に立ち尽くしていた。
何をするわけでもなく、ただトラウマの原因である自分の姿を再確認したくて。
「クリスさん~?」
「ど、どうしたの?」
レフトもフォウも、少しびっくりした様子でクリスを見ていた。
二人はクリスのこの姿を見るのは初めてだからだろう、圧倒されていて少し後じさっている。
――耐えろ、これが普通の反応なのだから。
怖くてもきっと二人は自分を嫌ったりなどしないと信じろ。
そう自分自身に言い聞かせる。
この視線に耐えれるくらい強くなれ、と。
素人判断の無理のある強引な療法と思われるが、クリスにはそれくらいしか思いつかなかった。
「おいクリス」
そこへぶっきら棒にクリスは名前を呼ばれた。
勿論そんな呼び方をこの場でするのはエリオットだけだ。
クリスが感情を押し殺した目を向けると、彼は呆れ顔で言う。
「何を思って変化したのかは知らんが、また服が破けたぞ」
相変わらず通常運転のツッコミが、そこに入った。
クリスの変化した姿など、相変わらず気にも留めていないように。