嫉妬 ~堅くして陰府にひとし~ Ⅲ
◇◇◇ ◇◇◇
それから小一時間経った頃、クリスとフォウは骨董品や術具を扱っているお店をハシゴして回ってから、劇場でお芝居を観て楽しんでいた。
王都の案内という名目だが、どちらかといえば工程そのものはデート以外の何物でもない。
ただし、クリスはそんなことを一切考えていないし、クリスが全く意識していないこともフォウは見えている。
「はー! 面白いものですね!!」
クリスは初めて観る芝居に、本当に心を奪われていた。
未だに収まらない胸の高鳴りの苦しさが心地よくて。
「目、きらきらさせながら観てたねクリス」
「きらきらもしますよ! 口も開きますよ!!」
冷めぬ興奮にまた昂ぶって声を上げるクリスを、満足げに見つめる青年。
そしてクリスの興奮が少し落ち着いたところで彼は、
「ね、王子様に少し話があるんだけど、会えるのかな」
と尋ねてくる。
「えぇ、大丈夫だと思いますよ」
久々に会ったのだから、エリオットにも挨拶したいのだろう。
全く知らない者を連れていっても受け付けて貰えないかも知れないが、フォウは元々エリオットと面識がある。
多分平気だ、とクリスは根拠がスッカスカな判断をした。
エリオットと面識があろうとも、普通ならば城に交流の無いフォウがすぐに王子に面会など、まず無理だ。
だがそのスカスカな判断が出て来るのは、クリスが王子の我儘によってほぼ特権に等しい優遇を受けているからかも知れない。
この少女はいつ城に行っても受け入れて貰えるし、従者達からも別格として見られている。
太陽が下がり始めたばかりの頃、クリスはフォウを連れて城へと向かった。
「王子なら多分いつもの機密書室に篭もっているだろうよ」
門番に声を掛けてしばらくしてから出てきたのはレイアだった。
忙しいだろうに、クリスのこととなると彼女は出来る限り直接来てくれる。
「機密書室、ですか?」
入ってはいけなさそうな名前の部屋に少し気圧されつつ、場所が分からないのでそのまま城内を案内されながら、クリスとフォウは彼女に着いていく。
「あぁ、王子の取り扱っている遺物はそこに保管されているからね。大抵一人でそこに篭もっているんだよ」
「ははー、大変ですねぇ」
「ただ、そこに篭もられると私も安易に出入り出来ないから、仕事をしているのかさぼっているのか判断がつかないんだが」
そう言って溜め息。
クリスとフォウはお互いの顔を見合わせながら、こっそり笑った。
どうせさぼってるよね、とそんなことをお互いに思っているのが分かる顔だったから。
北東の端の塔の最上階が機密書室で、長い階段を上って行って着いた先には、何かをはめ込んで認証するタイプの装置が付いた分厚そうなドア。
「ロックが解除されているから、中にいるのは間違いないと思う」
そう言ってノックをするレイア。
「王子、居るのでしょう! 客人ですよ!!」
彼女がドア越しに呼びかけているのをぼーっと見ながら、二人はエリオットが出てくるのを待った。
「…………」
「…………」
出てこない。
「居眠りでもしてるとか」
フォウがぼそっと呟く。
もうしばらく待っているとドア越しに人の気配がした。
「レイアか?」
「えぇ、王子。クリスとそのお友達が来てますよ。公務はほとんど終わっているはずです、さぼっていないで出てきたらどうですか」
ドアは開けられていないため、声でしか判断出来ないが間違いなくエリオットの声。
さぼってることを断定してレイアは話しており、またフォウと顔を見合わせて、笑いを堪えるクリス。
世間での評判は一時期上昇したものの、レイアから見れば手の焼く男に違いない。
「あー……分かった。後で行くから俺の部屋に案内しておいてくれ」
エリオットの部屋の位置ならクリスにも分かる。
それを聞いてクリスは先に上ってきた階段を数段降りたが、レイアはと言うとドアの前で突っ立ったまま渋い顔をしていた。
「……王子、中には入りません。開けてください」
眉間に皺を寄せ、ドアの向こうに居るであろうエリオットをその琥珀の瞳で透かし睨むような鋭い目つき。
どうしてあんな顔をしているんだろう、と首を傾げるとフォウがクリスにこっそり耳打ちした。
「あのお姉さん、王子様に疑心を抱いているっぽい」
「なるほど」
レイアの第六感みたいな何かが働いたのだろうか。
それともエリオットの声から僅かな違和感を感じたか。
クリスには比較的普通に聞こえたし、内容も疑うものではなかったと思うけれど。
クリスはフォウと二人でしばらく、レイアとエリオットのやり取りを聞くことにする。
「ど、どうしたんだ? 俺の顔がそんなに見たいのか照れるじゃないか」
「えぇ、今とっても見たい気分なんですよ、開けてください」
「後でいくらでも見せてやるからちょっと待っててくれよ、実は寝癖が酷いんだ」
「ほう、やはりさぼっていた、と。その髪の長さで酷い寝癖がつくだなんて、どんな寝方をしていたんでしょう、ね!!」
そしてドアノブをがちゃりと回して、思いっきり蹴って押すレイア。
バンッ!! と何かにぶつかった音と、ゆらゆら不安定な位置に止まるドア。
そこにはエリオットが仰向けに倒れている。
クリスもこっそり横から覗いたけれど、特に異常は無い。
少し狭い部屋には本棚がいっぱいで、更にその奥に扉が見えただけだ。
「気のせい、か……」
特にエリオットにも部屋にも変な様子は無い。
普段後頭部で結っているエリオットの髪は解けているので、本当に居眠りをしていたのだろうとクリスは思った。
機密書室で。
レイアはまだ少し何か引っかかっているような顔をしていたが、それ以上突っ込まずにエリオットを無視して階段を下りようとする。
いいのだろうか、王子の扱いがそれで。
と、クリスの隣に居たフォウが、エリオットを蔑むような顔をしていた。
「ど、どうしたんです?」
フォウの表情に思わず突っ込まずには居られない。
折角の整っている顔が、随分と歪んでいる。
クリスの問いかけにレイアも立ち止まった。
三つ目で四つ目の青年は、ドアの境界の前で長い足を開脚しつつ中腰になり、エリオットに冷たい視線を浴びせながら言う。
「王子様、服に白い汚れが着いてますよー」
「え!?」
「嘘だよー」
飛び跳ねるように慌てて起き上がったエリオットと、しゃがんで見ていたフォウの目が合う。
「て、てめぇ……」
「物証が無くても、事後は色がそういうものに変わるから俺にはバレバレ。昼間っから何してるの王子様」
あの優しい青年はどこへ行ったのか、フォウがまるでタチの悪い不良みたいに人を馬鹿にした体勢で静かにエリオットを見下ろしていた。
そしてクリスは肩をぽんっと叩かれたので何事か、と後ろを振り向くと……鬼のような形相のレイア。
「ふ、二人ともどうしたんです、か……」
レイアはフォウの言葉を拾って彼の言いたいことを察したらしいが、そちらに疎いクリスがあれだけで察することが出来るはずも無い。
責められている張本人ならば冷や汗ものであるレイアの表情に、張本人でも無いクリスですら思わず後ろへ下がる。
フォウは呆れ顔をしつつも、怒れる鳥人に書室の入り口を譲った。
彼女は書室には入らずその入り口手前から、中で尻餅をついているエリオットを見下ろして言う。
「よりによって機密書室に連れ込むなんて……今度はどの娘を?」
氷のような視線を一身に浴びつつ、エリオットはその問いの返答を渋っていた。
「名前も知らん子だよ……」
「では特徴を。大体分かります」
「あー……」
片手で頭をがしがし掻いて言葉に詰まる彼。
とりあえずエリオットが何かやらかして怒られている、というのはクリスも把握出来ているのだが、一体何をしたらここまでの剣幕で問いただされるのかが分からない。
「……エリオットさん、何をしたんです?」
不思議に思ってフォウにこっそり聞くと、彼は溜め息まじりに答えてくれた。
「ここで女性と逢引、かな」
「逢引!」
なるほど、それであんなに怒られているのか。
本当に好色な人だな、と至極客観的な視点で一人思う少女。
フォウと同じ呆れ顔になったクリスは、怒るレイアを止めることなどするわけもなく傍観者となった。
「仰ってくださらないと後の対応が出来ません。下手に身篭らないように毎度投薬を促す身にもなって頂けませんか」
「あぁ……ははは……」
小さく乾いた笑いだけが響く。
エリオットはその相手の特徴を言いたくないかのように誤魔化し続けていた。
何でだろうなと考えたクリスの頭に、ようやくきちんと彼らの会話がしっかりと把握出来るくらいに届く。
勿論、『身篭る』という言葉が入っていたことも。
そういうことにはとても疎いクリスだが、身篭ることがどうやったら出来るのかくらいは知識として知っていた。
ただし、知識として知っているとはいえ、友達がほぼ居ないこの少女は具体的な情報が入ってくる機会が無い故に教育以上のことは知らない。
おしべやめしべといったレベルだ。
「エエエエリオットさん、まさか婚姻もしていない相手とせせ、性交渉を!?」
思わず彼らの会話に口を挟んでしまい、三人の視線がクリスに集中した。
その視線が痛くて自分で言った後に肩を竦めてしまうが、それでもクリスはエリオットから視線を外さなかった。
彼はぽかんとした表情でクリスを見つめ、言う。
「今更そこを突っ込まれるとは思ってなかったんだけど……」
「いや、だって、あ、あの!」
動揺し過ぎて何を言ったらいいのか分からなくなる少女。
「じゃ、じゃあまさか姉さんにもそこまでしたと!?」
クリスの悲痛にも似た叫びに、呆気に取られる一同。
うろたえたクリスは、とりあえず隣に居たフォウの二の腕をグッと掴んで気持ちを落ち着かせようとした。
小さく「痛い」と悲鳴が聞こえたが皆それどころでは無かったので、その悲鳴は華麗に流されることとなる。
「ここは、してないと言ってやったほうがいいのか?」
「わあああああ!! したんですか!? したんですね!! 最ッ低です!!」
「お前な、普段散々俺をエロ男扱いしておいて、むしろソレをしてないと思ってる方がおかしくない!?」
エリオットがクリスの疑問に反論するが、
「私にとってそこは絶対的に有り得ないことなんですよ!! 貴方がどれだけ女性の胸が好きでも、そっ、そこまでしているだなんて想定外なんです!! って言うか婚前交渉だなんて、ね、姉さんが穢れて……」
がくっ、と床に両手を突いて項垂れるクリス。
この少女にとって、そうなるくらい、衝撃的なことだったのだから。
どうやらクリスは純粋にエリオットが女性の胸を揉むのが好きなだけだと思っていたらしい。
余談だが、クリスも実はあの感触は好きだと思っているからこその発想だった。
勿論、二人の「好き」は意味合いが全く違う。
とにもかくにも、結婚もしていなかった姉が既に処女を喪失していたことに、親族として、この男に出会わせたことを悔やんでも悔やみきれない様子。
「いや、あいつ俺が初めてじゃねーし……」
「わー!! 聞きたくないー!!」
両耳を手で押さえて首をぶんぶん振り、彼の言葉の続きを聞くのを体全体で拒否した。
レイアもクリスの様子に少し驚いていたようだったが、エリオットに向き直って再度彼への責めを開始する。
「……クリスの価値観は素晴らしいと思います。王子も少しは見習ったらどうです? きちんとお相手を見つけて跡継ぎを作ると言えば文句を言われないのですから」
「この流れからそう来るか……」
その指摘に、王子が頭を抱えた。
彼のその長い髪は、彼の気持ちを表すかのように床に力なく舞っている。
「さ、だんまりもこのくらいにしておいて、早く教えてください」
レイアがにっこりとエリオットに笑いかけた。
いや、補足しておく。
その笑顔はとても怖い。
それでも口を閉ざしたままのエリオット。
しばし無言の対峙が続くが、その空気に一人の女性が割って入ってくる。
エリオットよりも奥に見えるもう一つのドアが、ギィ、と静かな音を立てて開いた。
その音にビクリと体を震わせて、彼は慌てて後ろに振り向く。
「ちょ、何で出て……」
エリオットの言葉を遮るように、本棚で埋め尽くされた部屋の更に向こうから現れたのは、短い黒髪の女性だった。
身長はレイアより少し高いくらいで、黒いワイシャツに白いパンツルックのスレンダーな体型。
少なくともクリスの知らない人物である。
涼しげな目元が何となくルフィーナを思い出させるが、ルフィーナよりつり目で黒い瞳。
彼女はエリオットを見て静かに首を横に振った。
「クラッサ……何で?」
当然と言えば当然だが、レイアはこの女性を知っている。
ただ、その台詞からすると予想外の人物だったようで、その表情と声は驚愕の色を隠せていなかった。
「戯れに過ぎません、ご安心ください」
淡々と話す、クラッサ。
エリオットは罰が悪そうにその光景から目を背けている。
と、
「――もう我慢の限界だッッ!!!!」
天に向かって叫ぶ、黒い名残羽の鳥人。
そして書室に勢いよく右足を踏み入れた。
入ってはいけないはずのその部屋へそのまま体も入れて、彼女はあれから尻餅を着いたまま立ち上がっていないエリオットの襟首を左手でぐいっと掴んで無理やり立ち上がらせる。
「れ、レイア?」
両手の平を向けて上げて、降参のポーズ。
そんな怯える彼に一喝。
「歯ぁ食い縛れッッ!!!!」
エリオットの左頬に、彼女の右ストレートがゴキッと鈍い音を立ててめり込んだ。
軍人であり、准将という地位のレイアが、その国の王子を殴った大変爽快な瞬間。
クリスもフォウも、そしてクラッサも、見たものを信じられずに開いた口が塞がらなかった。
「言えないわけだ、私の部下に手を出したなんて言ったら普段以上に怒られる、そう思ったんだろう馬鹿男!!」
「うう……す、すまな……」
「悪いと思うなら最初からやるな!!」
謝ろうとする彼に間髪入れず、腹に膝蹴りをお見舞いする。
アクション映画さながらに、彼女の茶色いポニーテールの揺れがスローモーションで見えた。
腹部を押さえて呻く王子に、そのまま右肘で後頭部にエルボー。
スリーコンボ。
王子はずるりと床に倒れこんだ。
「じゅ、准将……」
流石の事態に、無表情だったクラッサもたじろいでいる。
しかしその声掛けにレイアは答えること無く、また天井に向かって叫ぶ。
「手順を踏まずに機密書室へ侵入及び王族への暴行!! 罪にでも何でも問え!! 私は逃げん!!」
……半ば自棄になっているようにクリスには見えた。
叫ぶだけ叫ぶと彼女は俯きながらツカツカと書室を出てきて、そのまま階段を下りて行ってしまう。
呆然とそれを見送るクリス達だったが、エリオットがゆっくりと顔だけ上げて言った。
「早く、止めろ……っ」
「え?」
「あぁもう!! レイアを止めろって言ってんだよ! このまま辞めかねないだろ!!」
「そ、そうですね!」
力を振り絞って叫び、命令するエリオット。
そんな命令のされ方はクリスとしては癪だが、そこを気にしている場合では無いのも分かる。
慌てて長い回り階段を走り下りていく。
レイアは早歩きではあったが走ってはいなかった為、すぐに彼女の背中が見えた。
「レイアさん! 待ってください!」
斜め下の彼女に階段上から飛び掴む。
「放してくれないか! けじめくらい付けさせてくれ!!」
クリスの腕の中でもがくレイアだったが、クリスの方がずっと力が強いのでその拘束が振りほどけることは無い。
「大丈夫ですよ、エリオットさんは怒っていませんって!!」
「そういう問題じゃ無いんだ!!」
そう言って叫ぶ彼女は……
「れ、レイアさん?」
泣いていた。
もう抵抗もせず、レイアはクリスに後ろから掴まれたまま涙を流す。
初めて見る彼女の涙に、クリスはただ無言でそれを見つめるしか出来なかった。
腕の中の彼女はとても静かで、顔さえ見なければ泣いているかどうかなんて気付けそうにない。
どうしてレイアが泣いているのか、何となく分かるようで……何となく分からなかった。
だから、クリスには何も言えなくて。
捕まえていた腕の力を緩め、しばらく彼女をそっと抱きしめる形を取り、二人は階段にどちらからともなく座り込む。
「……嘘を吐き続けるのは辛いな」
「嘘?」
レイアの小さな小さな呟きは、独りごちるように響いた。
何が嘘なのか分からなくてクリスが復唱して問うと、短い一言が返ってくる。
「あぁ、気持ちに、ね」
レイアがエリオットを好きなことは、以前の一言多い事件によってクリスは知っている。
「それは、気持ちを彼に隠しているのが辛いって意味ですか?」
その言葉に彼女は小さく首を横に振った。
「ちょっと違う、かな。あの人は気付いているだろうから」
「えっ」
気付いている、と言うのはレイアの想いのことを言っているのだろう。
塔を下から上へ吹き上げる微弱な風に涙の痕を乾かさせながら、彼女の唇は次の言葉を紡ぐ。
「王子が城内の娘達に勝手に手を出すのは確かに色々不都合があるんだけれど、別に私にとってはそんなことはどうでもいいのさ」
あぁ、そうか。
クリスは、そこでようやくレイアの真意を汲み取れた。
「嫉妬による怒りをそれと言わず、他の理由に託けて叱咤する自分が嫌なのだよ」
彼女は、自分の行動理由に嘘を吐いているのが辛かったのだ。
多分日常茶飯事と思われる先程の出来事に、建前を上塗りすることが。
「それに今回は私に近しい者に手を出されて、正直メイド達に手を出されるよりも堪えたんだ」
「先程の女性は部下だと仰ってましたね」
「あぁ。彼の好みのタイプだとは思っていたが、彼女の性格上間違いが起こると思えなくて警戒していなかった」
「ああいうタイプがエリオットさんの好みなんです?」
ローズとは随分見た目が違うが。
「あくまで過去の例でしかないが、彼は芯が強そうで色気もきちんとあって出る所が出ている女性によくちょっかいを出すね」
「ぐはぁ」
そんな人物像が出来上がるほどちょっかいを出しているのか。
一体どれほどの数により統計されているのか、気になるけど聞きたくないクリス。
レイアも芯は強そうで胸も程よく大きいけれど、その項目の中でなら色気が無い。
格好よくて美人だが、女性っぽい表情や仕草は彼女には感じられなかった。
「もう疲れたんだ。近くに居るくらいなら牢にでもぶち込まれたほうが幾分もマシと言うものだよ……」
彼女の泣き言にクリスは、思ったことをそのまま言ってやる。
「逃げないって言ったのに、逃げるんですか?」
レイアはただ押し黙る。
これ以上辛い思いをする必要は無いかも知れない。
けれど、初めて会ったあの時……あんなに素敵な人に見えた彼女がそんな風に弱音を吐くのをクリスは受け止められなかったのだ。
彼女に強くあってほしいと勝手なことを思ってしまったから。
するとそこに上から足音が聞こえた。
随分硬い足音で、それが多分高めのヒールによるものだと分かる。
上を振り向くと黒髪の女がゆっくり階段を下りて来ていた。
レイアは彼女に泣き顔を見られまいとするように壁側を向く。
部下の女性はそれを一瞥すらすること無くそのまま通り過ぎながら言った。
いや、敢えて視界に入れないようにしているのだろう。
「今回は私から誘いました。しかし特別な感情はありません。薬も飲んでおきます」
最初に奥の部屋から出てきた時と同じように淡々と話して、ピタリと少しクリス達よりも低い位置で止まると、
「……申し訳ございません」
最後にそれだけ言って彼女は去っていく。
意図は不明だが、何やら理由があったように思える今回の出来事。
不思議な雰囲気の人物だ、とその背中を見送って……もしかしてこんな事態になったのは自分達がこんなタイミングで訪ねて来たせいでは、とクリスは申し訳ない気持ちになる。
そして……
レイアを見ながらクリスは自分の気持ちがまだ恋と呼ぶには早すぎるものだと自覚した。
何故ならクリスは、そういう行為をするエリオットを恥知らずだと軽蔑はすれど、レイアのように嫉妬などしていないのだから。
恋だの愛だのを面倒臭いと言えるほど、まだそれらを何も分かっちゃいなかった。
【第二部第三章 嫉妬 ~堅くして陰府にひとし~ 完】