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この箱庭よりも大切な人に  作者: 蒼山
第三部 第十三章
120/138

ライトモチーフ ~藍に染まる願い~ Ⅰ

挿絵(By みてみん)


  ◇◇◇   ◇◇◇


「もうやめましょう」


 セオリーによって切り離された部屋に降り立った一人の女が、その場に居る黒髪の男へ窘めるように声を掛ける。

 揺蕩う金の髪に白い布。

 それらを浮かせる不思議な光を纏い、床に描かれた魔術紋様に足をつけて黒いスーツの男と改めて対峙した。

 現時点で彼女を縛る物はどこにも無い。

 故に、傍に置かれた木椅子で座り続ける男には、彼女に勝てる要素が無い。

 普通ならばビフレストにここまで辿りつかれてしまっては目的そのものが中断する状況。

 だが黒髪の男はそんな彼女に目もくれず、ただ時間が経つのを待つだけ。

 彼女に対して興味を示すこと無く、口も開かない。


 少しだけ女の顔が悲しそうに歪む。

 自分が彼をここまでさせてしまったのだ、と。

 でも会話をしてくれないからそれで終わりというわけにはいかなかった。

 この件にはもう一人罪の無い者が無理やり関わらされている。

 以前は彼女も見過ごそうとしていた、生まれた時からそうなる運命を背負わされた者が。

 その彼に問われたあの時、主に自分が逆らってこの重たい口を開いていれば全ては違う方向に動いていただろうに。

 この黒髪の男も、その彼も、自分の弱さが生み出した被害者。

 いくら悔やんでも始まらない、それらを償う為に今レクチェは自由になった体を動かしてここまで来たのだ。


「私と会話をしたくない気持ちは分かります……ですがこんなことをして何になるのです。成し遂げた後に貴方はそれで本当に心から喜ぶことが出来るのですか?」


 そう言って彼女は、描かれた魔術紋様の中心にぐったりと横たわっている別の男の元へ足を向ける。

 いつもは結んで纏め上げられている花緑青の髪は、今は解けてしまっていて彼を中心に渦のように舞っていた。

 彼女が彼の傍へ寄っても黒髪の男は特に反応しない。

 その態度を不思議に思いながらも彼女は膝を折って、倒れている彼の様子を伺う。

 そこでようやく彼女は、黒髪の男が一切動こうとしない理由に気付いた。

 これは単に気絶しているだけでは無い、と。


「……!」

「分かっただろう、一足遅かったってわけだ。元に戻してやることも出来るがそんな気は無い。今のお前に出来ることはもう傍観する事だけなのさ」


 彼女が来る少し前には魔術紋様の陣の中にあった砂時計は今、黒髪の男の手の中。

 つまりそれは先程まで行っていた魔術の終了を意味し、男は砂時計を胸の内ポケットに仕舞ってもう一言、体を強張らせている彼女に言う。


「もうしばらくすればお前の主はソイツに降りる。その後の展開次第ではソイツを元に戻してやってもいい。ただ……俺が死ねばそれは出来ない」


 黒髪の男の言いたいことを察したビフレストの女は、抜け殻となっている足元の王子から離れて魔術紋様の外に出て黒髪の男に近づいた。

 黙ったまま傍に寄り添う形になった女神のような出で立ちの女を一瞥し、黒髪の男はまたぼうっと視線を机上の光源に向ける。

 男の中に渦巻くのはもはや希望では無い。

 そんな楽観視をいつまでも続けられるほど愚かでは無いのだ。

 目的が本当に成功するかしないかはこれから。

 元々、そこの王子を元に戻してやることを前提として、邪魔をしに来た者を味方につけるつもりだった。

 あの女神の末裔のほうがどちらかと言えば良かったが、この女も悪くは無いだろう。


 間もなく何百年ぶりに対面することになる『あの存在』との交渉に、切り札をうまく使えるのだろうか。

 どこまでを相手に把握されているのか分からないのがネックだが、流石に、仲間によってこの自分ごと封印する手筈が整っているとまでは思っていないはずだ。

 自分の体を元に戻すという目的の為に、もう片側の天秤にかけられているものの大きさは尋常では無い。

 その重圧に平然としていられるほどの強さをこの黒髪の男は持ち得ておらず、こうしてずっと溜め息を吐き続けては頭を空っぽにしていた。

 ふっと、全てを投げ出して死んでしまいたい衝動に駆られる。

 魔術が進むのを待つこの間は、今まで費やした時間を考えればほんの僅かであるにも関わらず、そんな血迷ったことを考えてしまうほど途方も無く長く感じられた。


 心が壊れていない者が悪に手を染めるのは、自分自身の心を傷つける行為のようなもの。

 彼のように罪の意識や後悔に苛まされ、苦しみ続ける。

 もしそれらを感じないのであれば……




 その者は心が壊れているのでは無いだろうか。


   ◇◇◇   ◇◇◇


 一旦セオリーを退けたことを確認すると、クリスは槍をニールに重ねてその体を再度仕舞ってやる。

 ずっと出していられたら良いが、精霊を槍の外に具現化させ続けるというのは自分の力を放出し続けることだと以前にニールが言っていたので無理は出来ない。

 それに今のようにニールが状況を察して突如出てきたほうが、読めない分効く戦法だろう。

 先程笑っていたように見えたセオリーだったが、その表情は既に真剣なものになっていて笑みは消えている。

 笑顔を作っている余裕が無くなっている、と受け取っても良いのだろうか。

 だが、どんなにクリスに分がある状態になろうとも、あの地下を封印している魔術がある限りクリスはこの男にとどめをさせない。

 どう言えばこの男の気を変えることが出来る?

 求めている何かがあるはずなのに、クリスの言葉ではそれを掘り出すことが出来なかった。


「私を役立たず、と言うのならばやはり私に何かして欲しかったんじゃ無いんですか?」


 一旦体勢を整えているセオリーにクリスが問いかけると、彼の手はまた懐に入れられて先程の短剣と似たような形状の黒いナイフが取り出される。

 以前にもその剣が二本あることは見ていたのでそれに対して特に驚くことも無い。

 予備があるのは把握済みだ。


「……貴方が彼の代わりになれば、と思ったことはあります」

「え?」


 取り出したナイフはまだ構えないセオリーの口から紡ぎ出される言葉。

 けれどもクリスはその意図をまだ理解出来ないでいる。


「それをさせるに相応しいものを見た、つもりでしたがね。でも勘違いだったようです。少し目を離した間にすっかり貴方は腑抜けていた。どちらに転がる素質もあったのでしょうが、所詮貴方はその程度ということでしょう」


 黙ってその話を聞いているが、やはり聞けば聞くほど何をしたかったのか分からない。

 ただ唯一分かることと言えば、その目的がどこか捻じ曲がっていそうだ、ということくらい。


「だから、」


 そこでセオリーは左腕を天井に向かってかざし、その手からまた氷の矢を作り出す。


「貴方の相手は、これで終わりです」


 そう言い放った後に氷の矢は天井を砕き、崩れ落ちてくる瓦礫が彼の姿を消し去った。


「なっ……!」


 自殺でもしようとしたのか、と思ったがそうでは無いらしい。

 瓦礫に埋もれたというよりはそれに紛れて逃げられたようだった。

 追ってもあの封印を解かせることはほぼ絶望的かも知れないが、何が終わりで、どうしてこの場から逃げるように去ったのか。


「に、ニール、何を企んでいるんでしょうあの男」

『流石にそればかりは私にも分からない』


 どこを探したら良いものか、瓦礫の山となってしまった部屋を出て周囲を見渡すが当然セオリーの姿はもう無い。


「うがー!!」

『落ち着けご主人』


 とりあえず一番怪しいのは、ルフィーナが居るはずの地下くらいか。

 他の場所に隠れ潜んでいる可能性もゼロでは無いが、それは目的地にしようが無い。

 が、同じような通路とドアばかりで全力で道に迷うクリス。


「……うううあああぁぁ」

『焦るなご主人、いつか着く!』


 半泣きで通路を走り抜けるクリスに、ニールが必死の応援をする。

 一人じゃなくて本当に良かった、とクリスは思った。

 レヴァならばこんな気遣いはしてくれない。

 それどころか、一応身につけているのに相変わらず無反応の赤い剣。

 こんな剣をあの子供のビフレストはどうして執拗に狙ったりなどしていたのだろう。

 そのような価値が、レヴァにあるとはどうしてもクリスには思えない。

 とにかくクリスはドアを一つずつ隈なく開けていって、結果として全室網羅したところでようやく地下へ続くフィクサーの物置部屋を見つけることになるのだった。




 そしてその頃のルフィーナはというと、決して良い空気とは言えない、むしろ淀んだ地下の空間であれからずっとその場にしゃがみ込んだままだった。

 地下牢の床や天井、壁に光り続ける魔術紋様が彼女に、セオリーがまだ生きていることを告げている。

 クリスはあの男を見つけて今頃戦っているところだろうか。

 手伝ってあげたい気持ちと、それをしてしまった後の結果を恐れる気持ちと、矛盾する二つの感情が彼女の動きを止めている。

 同一人物内のものだとしても、願いや感情は決して矛盾しないとは限らない。

 どちらも自分の中にあるものにも関わらず、矛盾して混在することなど珍しくは無かった。


 周囲から見たなら先日のクリスのように「結局どうしたいんだ」と指摘されるかも知れない。

 そんな矛盾や葛藤の末の行動の意図は、他人にとって理解し難いだろう。

 だがどちらも内に等しく存在する願いであり、結局それらを選ぶことの出来ない時……普通はクリスや彼女のように立ち止まってしまう。

 この地下に続く階段を今ゆっくりと降りてくる一つの足音は、選べなかったにも関わらず立ち止まらなかった男のもの。

 クリスよりも明らかに間隔の長い足音に、ルフィーナの耳がぴくりと反応した。


「クリスはやられちゃったのかしら」

「いえ、精霊が面倒だったので撒いてきました」


 淡々と交わされた会話の後にようやく視線が合った二つの瞳は同じ色。

 猩々の血のような緋色がお互いを映し、その姿は瞳の中で同じ色に染まっていた。

 ルフィーナは彼の手に短剣が握られたままであることを確認し、その殺意を把握する。


「分からないわねぇ」


 この男の自分への殺意は以前から痛い程感じているが、それならばやはりあの白い花の意味が分からない。

 そう思った彼女の口から小さく洩れる言葉。


「何がです」


 丸い二つのレンズの下でその目がスッと細まり、疑問を投げ掛けた彼女を見下げた。


「いまいちあの花だけじゃ理解出来ないのよ。邪魔な花言葉があるっていうか」


 先日の花には花言葉で意味が示されていたことを前提として会話をするルフィーナに対し、彼はそれを否定すること無く自然に返答する。


「ふむ、どう理解できないのか知りませんが……」


 ということはやはり含みを持たせていたのか、とその行動に気分が害された彼女の声が自然と張り上がった。


「あのね、あの白い毒花! あれがどう考えても変でしょ。アレさえ無ければまだ単にあたしを殺したいだけなんだと理解出来るのに……」


 白い毒花の意味は『あなたはわたしを死なせる』『死をも惜しまず』。

 他の花の意味を受けて藍の毒花の示す「悪意」が芽生えているのならば、単にずっと邪魔だったのであろうルフィーナの存在を消したいのも分かる。

 しかしそうすると白い毒花はそれら全てと噛み合わなくなってしまい、最後で考えていることが分からない。

 少なくともルフィーナは、セオリーが死ねばいいとは思っていても、実力的にその花言葉の通りに死なせられそうにはないからだ。

 そんな異母妹の話を聞いて、兄は右手に持った短剣の刃を左手にぺたぺた叩きつけて不満そうに言った。


「まだ自覚して貰えてないようですね。貴方の存在自体が私を死なせるのですよ。貴方が生きている限り、終わることなく、ね」

「……じゃあ、何であの時……きちんと殺さなかったのよ!!」


 ルフィーナの言い分は尤も。

 異母兄がルフィーナの存在自体に異を唱えるのは、今に始まった話では無い。

 彼は遠い昔、一度それを遂行しようとした。


「何故? そこまで頭の回転が鈍りましたか。あの時貴方を助けたのは誰です」

「そ、それは……」


 今はこの場に居ない、互いの幼馴染みの存在を思い浮かべて言葉が詰まるルフィーナ。

 だがまだそれでも疑問は残る。


「だったらどうして今になってそれをまた実行しようとしてるのよ。別に今までにも沢山……」

「チャンスはありましたね、本当にいつも耐えるのが大変でしたよ」


 そこで思い出したように笑う異母兄の姿。

 それをルフィーナは痛む胸をそのままに、しっかりと目に焼き付けた。

 自分はここで死ぬ気は無い。

 少なくともこの男より先に死ぬ気など毛頭無い。

 自分の存在のお陰でこの男がどんな思いで生きていたか、その胸中は分からないが、それはお互い様。

 自分から言わせて貰えば直接的に人生をめちゃくちゃにされたのはむしろこちらだとルフィーナは思う。

 そして多分、第三者から見てもそうだろう。

 だが戦闘面では何においても負けている異母兄とどうやりあったらいいものか。

 最終的には行き先を指定出来ずとも空間転移で逃げてやる、と考えながらルフィーナの指先に力が篭もる。


「そのまま耐えてくれると嬉しいんだけど」


 軽口を叩いてさり気なく立とうと体を起こした彼女に、もう一歩近付いて来る彼。


「それは無理です、この分だと彼は成功するでしょうから。そして私はもう次は我慢が出来ないのですよ」

「何を我慢出来ないって言うの?」


 当然の問い。

 ルフィーナの問いかけに、セオリーは苦笑した。

 しかしそれはよく彼が作る嘲笑うような笑顔ではなく、もの哀しい笑顔。


「二度もあんな思いは、したくありません」


 何の出来事を思い出しているのかルフィーナには全く心当たりが無く、そのような表情をしているセオリーに対して戸惑う。

 フィクサーは、自分の体の異常を治そうとしているはずだ。

 それによって起こる「二度目」が嫌だと彼は言っている。

 ということは、フィクサーが異常を治した後に起こるそれを回避する為にルフィーナを殺そうとしているのだろう。

 一体何が嫌だったのか、考えても考えても思い出せない。

 いや、違う。

 そもそも「二度目は我慢が出来ない」ということは、一度目は我慢をしていたことになる。

 つまり一度目は、セオリーはそれが嫌だったことをルフィーナに隠し通していたはずだ。

 思い出せないのではなく、その事実を知らないのだから思い出しようが無い。

 けれど、何となく分かることはある。

 これまでずっと隠し通すような事実、言葉に出来なくて花に示すしか無かった感情。

 むしろこれらは『言葉にしてはいけない』ものなのだ。

 彼と自分の間で、絶対にあってはいけないそれを、ルフィーナは花に示されずとも知っていた。

 胸が詰まり言葉が出なくなった彼女をよそに、セオリーは自身が封印の術を施した床や壁を見やり、


「疑いもしないで私に全てを任せて。本当に……馬鹿な男だ」


 いつものどこか壁のある言葉使いを捨て、本気で感情を露わにした物言いで毒づいた。

 しかし露わにされた感情は決して悪意だけでは無く、様々な感情が織り交ざったような複雑なもの。

 これから長年連れ添った仲間が一番怒るであろうことをしようとしているにも関わらず、その表情。

 楽しんでいるわけでも、ただ怒っているわけでもなく、どこか寂しそうに笑う。

 小さい頃から二人の背中を見て育ってきたルフィーナに、その台詞の声色と表情は深く突き刺さり、悄然とさせる。

 本来仲が良いはずの二人の間を、どれくらい障礙する要因となっていたのかと思うと、彼の言う通り自分は存在しないほうが良かったのかなどと気の迷いを生じさせる。

 そんな弱気を篩って落とし、重い足枷のような自分の生い立ちと過去を頭の隅に追いやって、ルフィーナはようやく立ち上がった。


「馬鹿なのはアンタよ」


 そう投げかけながら、自分に言い聞かせるルフィーナ。

 足元の藍墨の床に光る彼の魔術に照らされながら、馬鹿なのは相手なのだと口に出すことで、彼女は自分の心を守ろうとする。

 この男の理屈に付き合っていてはおかしくなりそうだ。

 根本から間違っているのだ、選ぶ道が。


「あの花が示す言葉がアンタの本心だってんなら他に色々あったでしょ、やり方ってものが!」


 少なくとも彼と同じ立場ならルフィーナはそれを選ばない。

 それは決して想像ではなく、過去に実際それとよく似た心情を経験した上で選ばなかった、だからこそ強く言う。

 若干の立ち位置の違いはあれど、彼女とこの異母兄はほぼ同じ気持ち、そして同じ環境に居たのだから、彼女だけは彼の行動を完全に否定出来る立場だった。


「一度も顧みなかったわけでは無いので、その言い分は分からないでもありません」


 そう言いながら少しずつ近付いて来る狂人と同じ歩数で後ろに下がりつつ、太腿のバンドからロッドを抜いて軽く一振りで組み立てる。

 クリスは撒いて来たと言っていたのだから無事なのだろう。

 勝とうとしなくていい、今は取り敢えずこの場を凌ぐことだけ考えろ。

 違う歩幅のせいで少しずつ狭まる距離に、ルフィーナの、ロッドを握る手が震えていた。

 今までにも何度か弄ばれるように痛めつけられはしたが、今度こそもうこの男は手加減をしない。

 それは当人がさっき言っていたように、もう一人がその目的を達成させてしまうからだ。

 その後、戻ってきた大切な友人がすることが、不愉快だからだ。


「他のやり方を選んだ時もあったのですよ。随分昔の話ですが、ね」

「?」

「でも……いつからでしょう。それではやはり駄目だったのです」


 懐かしむように遠い目をしたかと思えば、瞬時に男の顔色が変わる。


「考えれば考えるほど苛々して何かにあたらずには居られず、虫唾が走って常に腹の底から不快感を感じる……」


 ぼそぼそと呟く彼の目の焦点は合っていない。

 ルフィーナの足元くらいの位置に定まらぬ瞳を向けながら黒い短剣を右手側の壁に何度も突き刺し始め、その様はまさに八つ当たり。

 狂気を放ちながらようやく合った焦点の先は異母妹の顔。


「けれど、もう終わりますねそれも」


 全ての痞えが取れたような酷く綺麗な笑顔で、その言葉は紡がれた。

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