癒しの石 ~寇する互いの正義~ Ⅰ
◇◇◇ ◇◇◇
彼女は一瞬、意味が分からなかった。
それほど時間は経っていない。
私服から勤務用の軽鎧に着替え、戻ってくるまでの間。
先に頼んだメイドの夕食すら届いていない、ほんの短い時間だったはず。
なのにもう部屋に彼は居なかった。
残された大きな血溜まりが二つ、そこから片方に寄っていくような血の足跡。
自分との部屋の距離はそこまで遠くないので、こんなに血が流れるほど争ったのならば物音が届くだろう。
だが音は聞こえず、争ったような形跡はほとんど無く、一体ここで何が起こったのか全く想像がつかない。
ただ、あの王子に何か出来るとするならばあの連中しかいない。
また攫われた、となるとあのニザフョッルの施設か。
確証は無いが、セピアの髪を振り乱しながら自室に戻って武器を選び準備を整えて、城内の飛行竜の小屋までひた走る。
鳥人である彼女の全速力は、それをたまたま見た従者達に何事か、と思わせる程のものだった。
飛行竜使用の手順を正式に踏まずとも、彼女の形相とその立場からあっさり飼育担当の者に手綱を渡され、それに乗る。
どうせ上にこの事実を報告したところでまた責任がどうのと追求されて身動きが取れなくなるのが目に見えていた。
もう、どうでもいい。
その辺りのしがらみを捨てる覚悟はした。
自分が誰かに報告せずとも間もなく給仕のメイドによってあの惨状は発見されるはずだ。
そして自分も居ないとなれば弟達にも連絡が行き、クリスにも伝わる。
自分は、元々自ら動く人間だ。
誰かに頼んでいては落ち着かない。
ここで動けなくては全く意味が無い。
彼女はそう考えた。
風を裂くような飛行竜のスピードに耐えながら目的地に向かう彼女の目の前に広がる、紺よりも更に濃く暗い藍染のような搗色の空。
モルガナを過ぎた頃には地上の明かりもほとんど見えず、埃にくすんだ月だけがか細く彼女を照らす。
時折その月に見せる鳥人の表情は、今彼女がその瞳に映している穹窿のように曇っていた。
やがて山の向こうで搗と黄味掛かった淡紅が浅く溶け始めた頃、彼女の乗った飛行竜は目的地へと到着する。
背に乗せた女の命令通り、渓谷に構える大きなグレーの立方体の建物へとゆっくり降り立った飛行竜。
しかし竜はその中の存在を本能で感じ取ったのだろう。
主が降りた途端、逃げるようにまたその翼をはためかせて空に戻ってしまった。
飼い慣らされた飛行竜がこんな風に命令も聞かずに飛び去ってしまうのは、普通ならば考えられない。
「この建物が大型竜の飼育をしていることに間違いは無さそうだな……」
どうせ片道切符のようなものだ、と彼女は帰りの足が無くなったことを気に留めること無くまずは入り口を探す。
周囲を一周するだけでも骨が折れそうな巨大な施設を前にして、些かに戸惑いながらもブーツの底を赤土で汚していった。
と、そこで何かが風を切る音に即座に反応した彼女は、すぐ様その音の元となる何かに腰の剣を抜き振るう。
盾すらも役立たずにする幅広の後曲剣に呆気なくも落とされたのは、
「短剣……? あぁ」
そういえばここの連中は剣に魔術を掛けて操作し、偵察等に使っていたのだった。
柄と刃を二分された元短剣が地に転がり、彼女はこれで自分の存在を把握されてしまったことに気付く。
やはりこっそり潜入というのは難しいらしい。
普段は直刃の剣を好んで使う彼女だったが、精霊武器相手に少しでも保たせるには、と自分の持つ剣の中で一番丈夫であろう名剣を持ってきていた。
先日クリスとセオリーとの戦闘を見た限り、上質の剣ならば多少は耐え得ることが分かったからだ。
そんな彼女が、セオリーの持っていたあの短剣をちょっと欲しいだなんて思っているのはここだけの話。
もし全てが終わったら没収しよう、そうしよう。
そんな邪心も一パーセント程度くらいなら真面目な彼女にだってある。
とにかく、気付かれてしまったのだろうから早めに入り口を探さなくては、とその足が布を擦らす間隔を速めると、大きな門構えのような壁から同化が解けるようにぬるりと姿を現す一人の人物。
入り口のようではあったが押しても引いても反応しなかったその壁の使用方法を目にして一瞬驚く鳥人だったが、すぐにその琥珀の瞳で刺すような視線を目の前の人物に放った。
建物から出てきた黒髪の女は呟くように小さく口を開く。
「先に来るのが貴方だとは思っておりませんでした……レイア准将」
「そうだろうね、クラッサ」
准将と呼ばれた鳥人は、見覚えの無い彼女の頬の火傷に内心少し驚きながらも自然に返答し、且つ決して気を緩めない。
クラッサが軍に在籍し始めたのは四年半前のこと。
それからたった二年余りで、地位は高くなくともレイアの元に配属させられるほどの実力を見せ付けていた有望な女性だった。
銃を使わせれば右に出る者は無く、更に博識。
やや表情が固いが立ち振る舞いも良い。
たまに飛ばすジョークだって少なくともレイアは気に入っていた。
だが……それらは全て紛い物だったのだろう。
「君がエルヴァンに反旗を翻す理由は捕らえたメイドから聞いた。だが、そのやり方はあまりにずれているのでは無いか?」
「はあ、何を聞いたのかは分かりませんが……」
「君の兄がエマヌエル様によって殺されていた、と聞いたんだ」
「あぁ……」
そこでクラッサはレイアに微笑んだ。
あまりに真っ直ぐで滑稽な上司に、だ。
「普通の者ならば、それが動機になるでしょう。実際、私があの第一王子に憎しみを抱いているのは事実です。ですがそれよりも重要視すべき理由があるのですよ」
「あのようなことが出来る理由が、他にあるというのか……!」
レイアは、彼女が敵だと頭でどれだけ分かっていようが簡単に切り替えられなかった。
だからこそ敢えてまずは言葉を発したのである。
元部下の本心をその口から聞いて……言うなれば、その甘い心にとどめをさして貰った上でないときっと逆に痛手を食らう、レイアはそう思った。
クラッサ自身もこの元上司のことは別に嫌いでは無い。
本当ならば答えずに突っ撥ねることも出来るところだが、自分の今現在の仕事はしばらくの間この建物の中に人を入れないこと。
時間稼ぎとして語るも良いだろう。
そう思ったクラッサは黒いスーツの襟を整えてから、青い宝石の填まったショートソードを構えたまま話し始めた。
「……彼らがやろうとしていることは、多分、この世界が出来て初の試みでしょう」
「?」
「その様子ですともうご存知かと思いますので言いますが、彼らはあの王子に創造主を降ろして自身の願いを叶えさせようとしています」
願い、という表現は微妙に違うかも知れないが、まぁいい。
そこが焦点では無いのだから。
コーラルオレンジの紅を塗ったその唇がまた言葉を紡ぐ。
「しかしそれよりも現時点で注目すべきは、過去にビフレストによって歴史の修繕を行っていたであろう神的存在が、それによって完全に一人の人間の体に魂、精神を拘束されるという部分でしょう」
この後対峙するのは避けられないことなのだから、エリオットならばここで容赦なく話を聞かずに銃を撃つだろう。
傍から見てもそのほうが有利だと思われる。
だが、レイアは黙って耳を傾けた。
「王子に目をつける以前は、その存在に干渉することでどう歴史が動くのかと、とても楽しみだったのです」
そこでそれを想像したのか、クラッサはまるで憧れの異性を思い浮かべるような表情になり、その目と頬に熱が帯びる。
「しかし直接の干渉は適わず……次はご存知の通りエリオット王子の存在に目をつけさせて頂き、私は軍に潜ることで貴方がたに近づきながらその確信となる資料を探していました」
そんな彼女の艶掛かった声がその先を告げることで、なるほど、とレイアの中のいくつかの疑問点が払拭された。
王子を攫うだけならば軍にあそこまで長い期間潜り込む必要は無い。
このように大それた内容だ。
ただの予測だけで実行するには危険過ぎる。
確実性を得る為の資料を手に取るまでがきっと長かったのだろう。
機密書室でのこともきっと……ソッチ方面では情けない王子をたぶらかして事を進めたのだと推測できた。
「資料を読んだ限りでは、こちらが奪って壊したビフレストの代わりに新しく王子をビフレストに仕立て上げようとしているのだと考えられましたし、こちらの上司もそう思っていたようです。ですが、どうも最近……そうでは無さそうな動きが見えておりまして」
「そうでは無い、だと?」
ここで、それまで口を挟まなかったレイアが疑問符を投げかける。
ビフレスト関連の話はレイアはそこまで詳しく無い。
とにかくビフレストが神の手足のようなものだということは把握していて、あとは王妃が自分の子である王子をそれに仕立て上げようとしていたというくらいまでは聞いている。
歪んではいるが、自分の子に超常的な能力を植えつけようという考えも分からなくはなかった。
全く共感は出来ないが。
そう思ったレイアの顔が歪み、それを見据えるクラッサの表情は彼女と真逆に微笑んだ。
「えぇ。普通ならば神が人という器に無理やり入れられて縛られるなど、神を貶める行為に等しい。なのにそれを他のビフレスト達は止めようとしないのですよ。こちらの思惑を恐らく……把握しているにも関わらず」
「そ、それは」
「お分かりになりますね?」
琥珀の鳥人はみるみるうちに青褪めてゆく。
この者達を止めるだけでは済まない、そう悟って。
「多分王子は、指示されたことを遂行する役割であるビフレストではなく、神が自身の器とする為に創られたのでしょう」
もし目の前の元部下の言葉が全て真実なのだとしたら、自分はどう足掻けばいいのだ。
大きな後曲剣を向けている手に微弱な震えが起こるがレイアはそれをどうにか耐えて、紐でしっかりと滑り止めの成された柄を力強く握る。
本来普通に話せばリリコ・スピントに分類される力強いその声を、低く静かに響かせて言葉を紡ぐレイア。
「流れは分かった……だがそれと君の行動理由とどういう関係がある?」
「その後に何が起こるか、それが私の興味をそそるのです。本当ならば傍観する側で居たいものですが、それでは多分事実を知らないままで終わると思いますので……僅かながらも協力することにより、傍で見届けさせて貰うつもりでした」
知的好奇心からの行いだというのか、とレイアはクラッサの発言に思わず一瞬で血が沸く思いを抑制した。
そんなことで他人を踏み躙って良いはずが無い。
やはり聞いて良かった、これならば自分は躊躇いなくこの女を斬ることが出来るだろう。
だがその後、だんだん明けて来た空の輝きに黒髪を晒して煌めかせる男装の麗人は、レイアの覚悟を呆気なく揺るがせる言葉を発した。
「ですが、そうですね。エルヴァンの軍部にもぐりこんでからはその考えも少し変わりました」
「……何?」
クラッサはその反応を見て笑わずには居られない。
ふふ、と思わず洩れてしまった息は、決して沸点が低いわけでは無いレイアをも不愉快にさせる。
「何故そこで笑うのだ」
「いえ、私はきっと貴方にこうして本音を語りたかったのだと思います」
「本音を……?」
「えぇ。貴方なら真剣に悩んで頂けると、そう思うからです」
もう終わるはずだった会話。
しかしクラッサは終わらせないどころか、深いところまで掘り下げ広げようとしていた。
なるべく時間を引き延ばしたい……それはクラッサが『負けない自信』があるにも関わらず、『勝つ自信』が無かった為でもある。
レイアは、彼女の言わんとすることが気にはなるものの、時間に猶予が無い状況でそれを黙って聞き続けるわけにもいかず、声を尖らせて言う。
「焦らさないで貰おうか!」
半分は確かに長引かせ、焦らすのが目的。
しかし状況が状況だけにそれもさせてはくれないか。
牽制の為に構えていたショートソードを再度きちんと持ち構えて、その切っ先を真っ直ぐに元上司へ向けるクラッサ。
その構えは鋭い眼光を光らせて見据えてくる鳥人とは比べ物にならないほどお粗末なものであった。
この鳥人は剣一つで銃弾など受け流してしまうだろうし、剣が無くともゼロ距離で無い限り避けるだろう。
本来はここであの女神の末裔を相手にする為に待ち受けていたのだが、まさかこの人物が城を離れて来るなどとクラッサは思っていなかったのだ。
だが仕方ない。
「簡単なこと、この国は一度落ちるところまで落ちた方が良いと思っているのです、よ!」
そこまで話したところで先に攻撃を仕掛けるクラッサ。
勝つ気も負ける気も無い、ただ間を持たせるだけに振るわれたショートソードは当然の如く空を斬り、それを合図としてレイアも容赦なくその剣身の厚い武器を縦一直線に振り下ろした。
掠るだけでも深手を負いそうなその剣は、空振る音でさえクラッサのショートソードとは段違いの唸音を彼女達の耳へ運ぶ。
その一閃目をぎりぎりの間合いでどうにかかわしたクラッサは、この元上司ならばそこで終わるわけが無い、とすぐ様ショートソードを強く握り締めて二撃目に備えた。
そこにきたのはまたしても縦の動き。
振り下ろした後曲剣を手首で綺麗に返しながら、今度は下から上へ垂直に振り上げる。横か斜めの線だと思っていただけにコンマの遅れを取るクラッサ。
その上、レイアの足は一歩踏み込んでいて、後ろに更に逃げようにもその速さに対応しきれずもたついたクラッサは、
「くっ!!」
迎え討とうと出していた右腕を簡単に斬り裂かれた。
傷は深くないが、決して浅くも無い。
三撃目が来るところで黒いスーツの懐から抜いたハンドガンの銃口を左手で向けたが、懐に手を入れた段階で琥珀の鳥人は軽く後ろに下がって距離を取り、弾丸をいとも簡単に弾き返す。
一見すぐ決着がつくような勝負に見える光景。
だがそうでは無い、と朝焼けの下で青い光が異を唱えるように瞬いた。
「!?」
レイアの視界に入ったその青い光はクラッサの持つショートソードから放たれている。
からくりは分からないものの、彼女の持つ武器は精霊武器であるからして何かの超常現象を巻き起こしかねない。
また狭めるつもりだった距離を一旦離し、何が起きても対応出来るように、と目瞬きすらも惜しんで開かれる琥珀の瞳。
……だが、何も起きなかった。
構えていただけに若干拍子抜けしてしまうが、何かが起こったことに間違いは無いだろう。
この鳥人が気付いていないだけで、何かが。
「ねぇレイア准将、そうは思いませんか?」
クラッサは先程斬られた右腕とその先に持つショートソードを真っ直ぐレイアへ向けては問いかける。
「落ちたほうが良いと? 思うわけが無いだろう」
「いいえ、そんなことは無いはずです」
また先手を打ってくるのはクラッサだった。
右手で剣を向けていたにも関わらず今度は銃で先に二発牽制をし、そこからまた剣を振る。
銃弾を返していたおかげでレイアの剣刃は精霊武器の刃を受け流すのではなくまともに受け止めることになり、僅かだがその瞬間刃こぼれを起こした感覚を指先から知るレイア。
腕の差を分かった上できちんと有効となる工夫を凝らしてくるその冷静な判断に、彼女が部下で無くなったことを心の底から惜しいとレイアは思わされた。
しかしもう一つ、今の攻撃を受け止めて感じたことがある。
怪我をしているはずなのに攻撃に力がしっかり入っているのだ。
「貴方ならば気付いているでしょう! あの廃退ぶりに!!」
そこでもう一撃繰り出されたそれも先程と同じ。
今度はあえて受け止めてみたが、やはりそうだ。
それなりに傷を負ったはずの右腕が何のダメージも無いように動き、そして剣に力を乗せてきている。
振るわれたその剣戟に違和感を感じながらも弾き返し、レイアはクラッサの言葉に耳を傾けた。
いや、傾けたくて傾けているわけではなく、単に否が応にも聞こえてきて無理やり考えさせられてしまっているだけなのだが。
クラッサの言う通り、気付いていないわけでは無い。
大陸を統一して久しいこの国は今やどっぷりとぬるま湯に浸かっていた。
今回のモルガナの件で言うなれば、危機的状況にも関わらず危機感が感じられない上層部。
大変なのだと口では言っているくせに自分が動こうとする気配が全く無い。
立ち上がる者が居ない。
むしろ立ち上がるような状況に持っていかれることにも怯えて問題を先送りにしようとする。
各々の仕事に手を抜いてもどうにかなってしまう環境は、簡単に人を腐らせてゆくのだ。
王子達への対応も然り。
確かに廃退は、していないとは言えない。
だが、
「それがどうしたと言う! 廃退している、だから何をやってもいいと言うのか!!」
その想いを一撃に込め、レイアの後曲剣がショートソードを大きく右上がりに払いのける。
そしてがら空きになった腹部へ、右上から左下へと断ち切るように下ろされた厚い刃は、今度こそ致命傷をクラッサに与えるべく深々と肉に埋まった。
はずだった。




