涙 ~滅紫の歴史~ Ⅱ
「レクチェさんが起きたんですか!?」
既に就寝中だったクリスの元へ、ライトがその事実を伝えにやってくる。
半分寝惚けていた思考も体も、言葉一つでパッチリと覚めた。
「あぁ、今ダイニングルームでレフトと雑談しているぞ」
「すすすすすぐ行きます!!」
パジャマのまますぐにベッドを飛び降りて、猛ダッシュでダイニングルームへ掛けていくとそこには確かにレクチェが座っているではないか。
しかも、普通に。
「あっ、クリス!」
クリスの存在に気付いたレクチェは、先日の怪我など何の心配も感じさせない笑顔を向ける。
その動きと一緒に揺れた金色の髪は、夜の陰りを帯びながらも光源宝石の柔い灯りを受けて眩しく輝いていた。
そして……クリスにとってはいつもの不快感も、元通り。
「お久しぶり、です」
彼女が目覚めてくれて凄く嬉しいのに、素直に喜ばせてくれない体。
本当は抱きつきたいけれど、本能がそれを拒む。
彼女から漏れる力が、クリスに拒否反応を起こさせる。
ただ、目覚めて早々にクリスの名前を呼んだということは、今の彼女には記憶がある、ということ。
それだけで良かった。
クリスは揺れる感情を抑えながら静かに彼女に答える。
しかしそれすらがもう皆に違和感を与えるものだったのだろう。
しん、としてしまう室内で、レクチェの表情が切なげに影を落とした。
でもそれは一瞬。
すぐに彼女は花が咲くような笑顔をつくって言う。
「事情は説明して貰ったの! セオリーさんが私をここまで運んでくれて、そこのお兄様さんが力を分けてくれたんだよねっ。皆には本当に感謝しなきゃ!」
「感謝するべきでは無い人が混ざってますよ!?」
「さっきからこの調子で毒を抜かれて敵わん」
クリスの後ろに追いついてきたライトの声が力無さげに部屋に響いた。
確かにこれだけ明るいと周囲もそのままその色に染められてしまう。
そこでトン、と背中を軽く押してきたのはライト。
立っていないで座れと促したのだろう。
少し迷ったが、クリスはレクチェの対面あたりに回りこんでなるべく距離を取った。
そうすると自動的にライトがレクチェの近くの椅子となり、彼はクリスをちらりと見た後、そこへ座る。
「ごめんねクリス、いっぱい心配かけちゃったね」
改めて会話を再開させた彼女は、申し訳無さそうに眉尻を下げているがそれでもふっと口元は微笑んでいた。
「いえ、レクチェさんは何も悪くないですから。悪いのはフィクサー達です」
レクチェが申し訳なく思う必要などどこにも無い。
そう思って彼女の発言を否定したのだが、その後に彼女の鈴のように透き通った声が更に否定を被せてくる。
「彼らも、悪くないの」
「え?」
あれが悪くなかったら誰が悪いのだ。
優し過ぎるのが良いこととは限らない。
彼女のその言葉にクリスは思わず眉を顰めてしまう。
けれどレクチェはクリスの反応には触れずにこう言う。
「だから折角こうしてクリスとまた話すことが出来たけど私……もう行かないといけないの」
「ど、どこへです?」
「彼らの元へ」
ぶかぶか気味の白いワイシャツ、白いズボン。
どう見ても外を歩くには微妙な服装のまま彼女は立ち上がった。
「ま、待ってください……」
自分にあれだけ酷いことをしてきた連中の元へまた戻ろうと言うのか。
ルフィーナが知ったら発狂気味に叫んで止めそうなことをしようとしている。
「あ、貴方を心配している人のことも、少しは考えてください……ッ!」
気付くとクリスも椅子を後ろに押し出し、立ち上がって叫んでいた。
ライトはレクチェには目もくれず、クリスを黙ってじっと見つめる。
彼からすればお前が言うな、と思うのかも知れない。
「そうだよね、皆を皆救うのって、難しいね」
金髪を肩で撓らせて、俯きがちにレクチェは答えた。
しかし、分かってくれたのかとほっと息を吐くクリスに、次に掛けられた言葉はある意味爆弾発言。
「じゃあ、無事に戻ってくるって約束するっ」
「それなら……ってえええ!?」
そんな約束一つで心配が解消されるわけが無い。
あちらはただのヒトにも関わらず精霊武器が使えるクラッサが居るのに、無事に戻ってくるだなんて断言出来ないだろう。
でも、
「私を信じて?」
一片の穢れもない優しい笑みで、
「っ、それは卑怯です……」
ここで信じてあげられなかったら、クリスはダメな奴になってしまう。
「行くのも我侭、止めるのも我侭。どっちが折れても大して変わらん」
ぼそりとライトがクリス達のやり取りに口を挟んできた。
言葉にとげはあるものの、ライトが言いたいことは要するに「やりたいようにすればいい」ということだった。
「心配なら二人で向かえばいいではありませんか~」
「ぬぬっ」
レフトの提案はもっとも。
なのだが……クリスはあの連中を救おうなどとは微塵も思っておらず、一緒に行ったら傷つけてしまいかねない。
どうしよう。
そう思っていたところにカラン、と正面玄関のベルが深夜だというのに響いた。
クリスは嫌な予感がする。
それは皆も同じ。
表情を曇らせながらレフトが玄関へ向かい、それを見送るライトの顔もやや険しい。
「急患かな?」
レクチェの言う通り、確かにここならそれも無くは無いだろう。
だがクリスはこの四年以上の間で急患が来たのを見たのは二回しか無い。
滅多にあることでは無いのは確かだった。
あまり聞きなれない足音、声もそんなに大きくないようでクリスのもとまで響いて来ない。
でも猫科の獣人であるライトは聞こえているようで、その綺麗な顔立ちが残念になるほど眉間に皺が寄っており、あまり良くない来客なのが伺われる。
やがてレフトと共に歩いてダイニングルームに入ってきたのは、
「こんばんは……ッス」
「ガイアさん!?」
まさかのまさかな客人に、思わず大声をあげてしまうクリス。
ガイアはガイアでレクチェを見て少し驚いたようだったが、それよりも、と彼は静かに連絡事項を告げる。
「えーと……申し上げにくいんスが……王子がまた攫われたッス」
「ぶっ」
毎度毎度、もう王子様ではなくお姫様になったほうがいいのではないか彼は。
……なんて考えている場合ではない。
「多分、やばいッスよ、ね?」
クリス達が帰った後でルフィーナから説明を聞いたのだろう。
落ち着いて話しているようには見えるがガイアの顔色は優れず、攫われたその先にあるものを考えたなら無理も無かった。
「行く理由が増えたな」
ライトが笑いながら言う。
楽しくて笑っているのではなく、もう笑うしか無いのだ。
クリスも笑ってしまいたい。
やはり彼らを救うだなんて甘すぎる。
クリスは、自分の内側が憎しみで染まっていくのが分かった。
折角傍に居られると思ったエリオットから引き離されて、もうあの連中に殺意しか芽生えてこない。
「クリス……!」
怒りが顔にも出ているクリスの名前を、レクチェが呼ぶ。
だが、
「ごめんなさいレクチェさん。一緒には行けそうにないです」
「それって……」
「目的が違いすぎるのに、並んで歩けないでしょう」
クリスは、レクチェが大好きだ。
けれど、クリスにはもっと大好きな人が居る。
「レイアさんは?」
一旦レクチェを視界から外し、ガイアに問いかける。
本来ここにそれを伝えに来そうなのは彼女なのだが、また責任問題で城内がごった返しているのだろうか。
すると彼はその三白眼を潤ませて、
「実は……もう一人で行っちゃったみたいで居ないんス」
「!!」
「この獣人から詳しく聞いて欲しいッス。一部始終を見ていたらしいんで」
そう言った彼の服からもぞもぞ出てきたのは、白髪のねずみの獣人に入っているあの精霊。
赤い瞳をこの状況下で楽しげに細めて彼女は口を開いた。
「やぁ、女神の末裔」
「どうも……」
「教えてやるからボクを連れて行ってよ」
「え!?」
「あの鳥人のお姉さんのコレクションからボクになれそうな剣は選んで来てる。行き先には竜も居るんだろう? ボクを元に戻してくれるなら……力を貸してやってもいいよ」
そこでガイアが背中に背負っていた大きな剣と槍をどっこいしょ、と出して壁に立て掛ける。
「あのお姉さん見所あるよぉ。剣マニアってやつ?」
普段ならば人間を「人間」「お前」や「君」としか呼ばないダインが、レイアのことは「お姉さん」呼びだ。
大剣の精霊として、彼女の剣への愛情は好感を持てるものなのかも知れない。
確かにレヴァの材料になった剣も、元はレイアから貰った武器だった。
当時のクリスの力でも折れないもの、と彼女が選んで持ってきたのがあの剣である。
立て掛けられた大剣は黄金の柄に青い宝玉が埋め込まれ、刃は鈍い鉄黒。
以前のダインのようにギザギザした刃では無い直刃だ。
槍のほうは、穂先部分に波紋状の模様が浮かんだ柄の短い……多分投槍のようなもの。
「姉は剣しか収集しないんスが、この槍は折れた剣を打ち直した物なんスよ。だから収集していたんだと思うッス」
「へぇぇ……」
「ニールも戻してやればいいと思ってソッチもそこの人間に持たせたんだ。優しいでしょ、ボク!」
あははと甲高い声で笑うダイン。
クリスも何となく一緒にあははと笑ってやって、こう答える。
「じゃあ大剣は重いんで、この短い槍だけ持ってニールを連れて行きますね」
「ちょおおおお!?」
ガイアの服の中でダインが暴れているが、もう視界には入れないでおくクリス。
「教えて貰う必要はありません。とにかくエリオットさんを追ってレイアさんも行っちゃったんですよねきっと?」
「あー大体そんなトコッス。部屋はまた凄く血まみれだったッスよ」
それだけ分かったら十分だ、ダインと取引する必要など全く無い。
クリスはぎゃあぎゃあ喚いているダインの声だけ器用にシャットアウトし、ライト達に振り返った。
心配そうな表情のレフトに対し、ライトは……そうでも無い。
だからといって怒っているわけでも無くて、クリスは少し拍子抜けしてしまう。
そこで、
「頑張って来い」
元々彼は年の割に若く見える顔立ちだが、その言葉をクリスに掛けた際の表情は、いつも以上に幼く見えた。
聞き慣れない台詞が彼の口から発せられたので、クリスもレフトも思わず目を丸くする。
基本的に傍観する立ち位置である彼がこんな風に似合わない前向きな応援の仕方をするなど、彼を知っている者ならば驚くだろう。
言った本人も少しだけ違和感がしたのか、皆の視線から逃げるように顔を背けてその真意を述べた。
「心配する側の気持ちが分かっている奴を止める必要など無いからな」
「あらまぁ~」
照れている素振りを見せる兄を見てウフフと笑う、その妹。
理解のある第二の保護者二人に微笑んでから、クリスは次にレクチェへと視線を向ける。
それを受け、金髪金瞳のビフレストは言う。
「……その槍を持つってことは、そういうことなんだよね」
「すみません、でも私にはこれしか無いんです」
クリスの言葉に、レクチェは両手を胸にあて、願うようにそっと瞼を閉じた。
「いいの、私が先に止めたらいい話だから」
願いではなかったらしい。
これは覚悟を決めたのだろう。
次に彼女が瞼を開いた時、その瞳は奥まで綺麗に澄み、決意と強さに満ちていた。
「先に行くね」
彼女は踵を返してクリスに背中を見せたかと思うと、外へと歩いていく。
その歩いている間に彼女のシャツはどんどん形を変え、まるで女神が着るような羽衣に変化していった。
口をぽかんと開けたまま見送るのはガイア。
「便利ッスねー」
「多分、今ならエリオットさんも同じこと出来ると思いますよ」
「マジッスか!」
ただし、エリオットがあの羽衣を着る姿は想像したくない、とクリスは思った。




