器 ~翻弄される者達~ Ⅰ
場所は変わり、モルガナとニザフョッルの中間地点。
ティルナノーグから少し北に上った森の中にある大きな立方体の建物の屋上で、黒い短髪を乾いた風に靡かせ、彼女はそこに居た。
近くにティルナノーグの美しい湖畔がありながらも、既に枯れた森であるこの地域の見晴らしは悪くない。
ニザフョッルにある施設同様、周囲の色はほぼ檜の皮のような赤褐色で包まれており、違う色が混ざればすぐに分かるからだ。
アゾート剣による監視と、目視。
両方に気を配りながら、曇って弱い月明かりの下で全方向に神経を研ぎ澄ますクラッサ。
そして、水晶に映る影を見つけると、そのまま水晶を床に叩きつけて割る。
鈍色の屋上で砕けた水晶の欠片一つ一つがきらめく中、上司同様に闇に融ける漆黒の容姿。
髪や瞳の色が同じなのは偶然だったのだが、傍から見れば血の繋がりがあるように見えなくも無いだろう。
嬉しい偶然だった。
敬語を使う関係ではあるものの、フィクサーは自分を拾ってくれたあの時から常々優しく接してくれているし、血の繋がっていた亡き兄よりも余程目をかけてくれている、とクラッサは思う。
クラッサにとって、あの上司は何よりも大切な存在になっていた。
「感謝します……っ」
過度の虐待を受けていたあの家から連れ出してくれたことを。
彼からすればクラッサが幼い頃に書き上げた考古学の論文に目を付けて勧誘……いや、多分攫いに来ただけの話なのであろうが、彼女はあの月夜で差し伸べられた手を忘れたことは無い。
そして、今は更にもう一つ感謝することが増えた。
自分の人生を狂わせた男に、復讐の機会を与えてくれたのだから。
「何だ、今回はお出迎えなんだな」
軽い調子で上から聞こえる男の声。
「この場所だろうと予測はしていたからな」
朧月を背に、金の天使と共に下りてくる盲目の王子。
敬語など使うまでも無い、とクラッサは出迎えていた理由を冷たく言い放つ。
悲しげな表情で男の後ろに立つ女のビフレストへ少しだけ視線を流してから、再度仇を見据えるクラッサ。
そんな彼女に、彼は言った。
「……全く心当たりが無いんだが、俺はお嬢さんに何をしたんだい」
「知らぬまま、死ね」
切り捨てるような言葉が戦闘の合図。
クラッサは腰に携えていた精霊武器であるショートソードを抜いて、儀式用礼服を着たエマヌエルに斬りかかる。
しかしそれを寸でのところで止めるのはビフレスト。
右手から出した光の布のようなもので彼女は精霊武器を受け流し、クラッサとエマヌエルの間に立ち塞がっていた。
エマヌエルが動じること無く悠々と立っていたのは、自分が必ず護られると分かっていたからだろう……このビフレストによって。
「退いては……頂けないのですか?」
「貴様が自ら手を下すことの無い偽善者だとは聞いている! だがこの建物の中に居る命を滅そうとする男を護る貴様は、果たして善なのか!?」
クラッサの非難にも似た追求に、物憂げだった彼女の表情が更に沈鬱なものに変わる。
「神の使いが聞いて呆れる!!」
そしてまた繰り返される攻防。
といっても一方的にクラッサが剣を振るい、それをビフレストが受け流すだけのこと。
これでは一向に決着がつかない。
その間にもエマヌエルは魔術発動の位置確認を行っていた。
それを横目で見ながら焦るクラッサは、胸の内ポケットから一丁の四角い形状の銃を左手で取り出し、一貫して防御し続けるビフレストへの攻めを止めて、エマヌエルの方へ撃った。
その動作にビフレストの顔色が変わるが、追いつけない。
消音効果がある特殊弾に加え、装飾と兼用して彫られた魔術紋様によるピストンの力で発射するその銃は、ほぼ音も無く弾丸をエマヌエルへ向かわせる。
だが、目が見えないにも関わらず一歩足を動かすだけで避ける王子に、クラッサの表情が険しくなった。
「随分小さい音の銃を持っているんだな。着弾音からして七ミリちょいの口径ってところか」
常人よりも耳が良すぎる男はさらりと銃の口径までも言い当て、撃ち手への精神攻撃を食らわせる。
彼の場合は『撃とうとしている心の音』から既に聞き分けている為、間違いなく自分に向けられている照準からほんの少しずれれば済む話なのだ。
消音銃でも駄目か、とクラッサは歯軋りをしながら再度ビフレストに剣を振るった。
弾丸が当たらずとも、それによって魔術の邪魔は出来るはず。
そう考えたクラッサは、エマヌエルの元へ行かせようとしないビフレストの相手をしながら、その合間に銃を撃っては彼の魔術発動を牽制し続ける。
……そこへようやく、クラッサの待ち望んでいた援軍が来た。
白緑の髪の男は、鎧ではなく黒いスーツ姿で、青い光と共にその場に突然現れる。
「お待たせしました」
呼ばれることを待ち望んでいたかのように、楽しそうにその男は言った。
彼がその場に現れた直後、周囲に風が吹き荒れる。
セオリーが魔法で風を起こしたのだ。
耳が痛くなるほどの暴風の中でエマヌエルの顔が顰められるのに気付いたのは赤い瞳の男。
「やはりこの方法が効くようですね」
薄く笑って放たれる言葉の意味。
クラッサは今度こそ、と盲目の王子に銃口を向ける。
レクチェもようやく、それに気がついた。
風によって音を意図的に妨害され、今のエマヌエルは銃弾を避けられない。
撃った瞬間か、撃つ前か、分からないくらいの刹那の時。
「だめっ!!」
クラッサとエマヌエルとの間に居たビフレストは、初めて自らクラッサに向かってきた。
しかしそれは攻撃ではなく、銃弾を自身の体で受け止める為。
彼女の胸で、銃弾が銀の滴へと変わり弾ける。
例えではなく、本当に銃弾を溶かしたのだ。
彼女が居る限り何をどうやってもエマヌエルに攻撃するのは不可能だと思わされるその力。
「私が二人を牽制しますから、ビフレストを精霊武器で斬りなさい」
そう命じるとセオリーは両手で氷の矢をいくつも作り出し、ビフレストとエマヌエル両方に勢い良く放つ。
その上で未だに吹き荒れる暴風。
音を掻き消されて攻撃を避けられそうに無いエマヌエルの分まで対処する金髪の聖女に、青い宝石の填まったショートソードで斬りかかる黒装の麗人。
「はぁぁ!!」
振り下ろされた剣に左肩を斬られたビフレストのその傷は、彼女の服を赤く染めていった。
だが彼女の顔は痛みに歪んでいるというよりは悲しみに歪んでいる。
傷つけられた悲しみではなく、傷つけようとするその心に悲しんでいるのだこのビフレストは。
「貴方がたの闇を無理に消せとは思っていません。ですが……そこまで足掻くことが出来るのならどうしてその足を前に向けられないのですか」
手負いの女が奇麗事を抜かす。
クラッサがさらりと答えた。
「後ろを向いたほうが楽だからに決まっているだろう」
とどめだと言わんばかりにクラッサが最後の一撃を繰り出そうとする。
が、その時ビフレストは大きく光の翼を伸ばしてエマヌエルごと自分の体を包み、撤退の構えを見せた。
彼女の行動に驚くのはエマヌエル。
「逃げるのか!?」
「こんなことで命を捨てる必要はありません」
ふわりと浮き上がる二人の体にセオリーの魔法の矢が降り注ぐが、彼女の光のヴェールには全てが花と露に変えられてしまう。
暴風で舞う花びらが淡い月の光に照らされ、ビフレストを普段以上に神聖なものに見せる。
その光景にセオリーが小さく舌打ちをした。
しかし、ビフレストが飛ぶその時を待っていた者が一人居る。
これは二人まとめて始末出来るチャンス。
即座にクラッサはポケットから小さな槌を取り出し、
「大きくなりなさい!!」
彼女がそう命じた途端、その槌は彼女の身長ほどのサイズにまで巨大化した。
柄が短く、その形状のほとんどが打撃部分。
慣性による攻撃力増加は期待出来なさそうな形だが、それをクラッサは後ろに大きく振り被って、
「死ねえええええええ!!!!」
女神の遺産の一つであるベルトによって増幅された腕力を込めて、空に浮いたビフレストと王子に投げ付ける。
投げ放たれた槌を、ビフレストは光のヴェールで受け流そうとするが、剣などとは比べ物にならないほど巨大な塊となった精霊武器を、簡単に受け流せるわけが無い。
受け流しきれないことを悟った瞬間、ビフレストはエマヌエルを自分から離し、下の森に落とした。
受け流そうと粘ることで致命傷は避けたものの、半身を砕くように打たれた彼女の体は反れるように曲がり、エマヌエルの後を追うように落ちていく。
――勝った。
その瞬間のクラッサには、何にも例え難い高揚感が満ちていた。
女のビフレストとエマヌエルが森に落ちたことを見届けたクラッサは、攻撃を当てられなかった盲目の王子を確認すべく、屋上の端から下を見下ろす。
が、そこに居るはずのあの男が居ない。
直後に同じように落ちて行ったビフレストは居るにも関わらず、自分でとどめを刺したかったあの男が……
「くっっ!!」
屋上から飛び降りて無事に着地したクラッサは、もう一本の精霊武器で、ぐったりと横たわっている金髪の女の心臓を怒りに任せて一突きにしてやった。
それを見て、屋上から目を丸くしているのはセオリー。
上から俯瞰するがあまりにもう少しでずり落ちてしまいそうだった丸眼鏡を慌てて押さえると、彼もクラッサを追って地上へと降りる。
「神の使いに手をかけることを躊躇わないとは……見事なものですね」
「コレさえ居なければあの男を殺せたのですから、当然です」
動かなくなったビフレストの体を見下ろしながら二人の会話は続いた。
「ところでセオリー様、コレはどう処分致しますか?」
クラッサが、レクチェの体の今後の扱いを問う。
「私が貰います」
何と言ったこの男は。
クラッサは一瞬背筋に冷たいものが走る感覚に襲われ、彼の顔を見ることが出来ずに息を飲む。
いや、でも自分の勘違いかも知れない。
そう思って一応尋ねてみた。
「まだこのビフレストを調べることがあるのですか?」
そしてそっと彼の表情を確認するべく上目遣いに見上げてみると、
「いいえ、何も」
不気味なほど赤い瞳がビフレストの血塗れの体を映している。
それはもう嬉しそうに。
やはり自分の憎悪などこの男の歪みに比べればマシなほうだ、とクラッサは心のどこかで安堵していた。
セオリーはスーツが血で濡れることなどお構いなしにビフレストの体を肩で担ぐと、クラッサに向き直って問いかける。
「貴方も一旦帰りますか?」
「いえ、またいつ来るか分かりませんのでここに待機しておきます」
「そうですか。では頑張ってください」
心の篭もっていなさそうな声で労い、セオリーは来た時同様に青い光に包まれて掻き消えた。
鈍色の建物のすぐ傍、枯れた木々の合間にある血溜まりが先程までの戦闘の爪痕を大きく残す。
「恨まずに生きることが出来るのは、本当に強い者だけだ……」
その場にはもう居ない神の使いに向けて独白するクラッサ。
ビフレストの女は、そういった意味では誰よりも強かったのだろう。
その頃、あの消えてしまったエマヌエルはどうしていたか。
彼はもう一人のビフレストによって辛うじて身を隠すことに成功していた。
あまりビフレストとして適合出来ていない体の為、ほとんど力を使うことの出来ない金髪の少年は、駒を失ったことに唇を噛む。
「あの時城からブリーシンガの首飾りさえ奪われなければ……ッ」
ミスラの眉間の皺が深く寄った。
ビフレストにとって一番の敵は、神自身が力を与えたフィクサー達などではなく、女神の末裔と精霊武器。
女神の末裔が今やあの子供一人しか居ない以上、ブリーシンガの首飾りさえ手元にあったならば今回これほどの痛手を負うことは無かったであろう。
「何故アレがあいつらの手元に渡っている……」
セオリーが去り、クラッサも一旦建物の中に戻ったのを確認して、少年はエマヌエルをぴちぴち叩いて起こす。
ビフレストとしての力もほぼ使えなければ魔術も使えない、そんなミスラにとって普通の人間以上の魔術が使えるだけでも、エマヌエルは必要な駒の一つ。
「せめてあの指輪だけでも回収出来れば……」
「っ、取って来ればいいのか?」
「頼みたいところだけど、あの眼鏡が体ごと持って行ってしまって分からなくなった」
意識を取り戻したエマヌエルがミスラの膝の上で問いかけるが、ミスラは困った顔を横に振ってその案を却下する。
金の指輪。
それは少年が自分の小さな力を増幅する為の装置のようなもの。
東の地の満ち満ちた魔力は強すぎて大地を荒れさせているが、その地から掘り起こされた金属はビフレストにとって力の源となる。
そう……強すぎてあてられ、時には具合が悪くなるくらいに。
特に、土地の魔力をティルナノーグの湖に奪われていない、湖から離れつつも東方に位置するリャーマの物はとても上質で使い勝手が良かった。
だが指輪に出来るほどの金属をまたあの地下で見つけられるか……
無理だろう、と少年はその考えを振り払う。
どう考えても時間が足りない。
「本当に不便だ、この体は」
「だったら女のほうの体をお前が使えばよかったんじゃないのか?」
さり気なくそう聞いてみたエマヌエルだが、その本音としては勿論、目が見えていなくても膝枕されるなら男の子より女のほうが良かったからである。
しかし彼のそんな考えに気付かないミスラは普通に返事をした。
「アレはアレで壊されかけていて、入ったら多分すぐにダメになる。連中め、やることをやろうとしてくれているのはいいが、度々やり過ぎなんだ」
「そうかい」
軽く流すエマヌエルに、目元は相変わらず冷めたものにも関わらず、口元だけむぅっと不貞腐れた表情を見せる金髪の少年。
見えていないエマヌエルにとっては何となく不機嫌だと言う程度にしか伝わっていないが。
落下のショックで痺れて動かない体を寝かせたまま、エマヌエルは膝を貸してくれている少年の手を握って言った。
「どうする? あのお嬢さん、どいてくれそうには無いぜ」
勿論彼の言うお嬢さんとはクラッサのこと。
『建物の形』という魔術紋様が完全に固定されている以上、屋上の特定の位置からしか発動出来そうに無い。
国の邪魔になるこの施設をどうにか潰したいミスラとしては、確かに困る状況ではあるが……
「先に潰しておきたかったが、急ぐ必要も無い。ただ軍に先に動かれて痛手を食らわれても困るから……」
「それをアイツに止めさせておけばいいんだな?」
「そうだね、王妃は最近私の話を聞いてくれなくなったから、そっちのほうが助かる」
少年の言葉を受けて、緑髪の男の口元が自嘲的な笑みを浮かべる。
「直接話すだなんて何年ぶりだろうな……」
憎悪の対象はあくまで末の弟。
……彼はクラッサとは逆だった。
クラッサが、直接自分に危害を与えた対象を憎まずその根本の原因を憎むのとは対照的に、エマヌエルは自分の不幸の根本の原因である神では無く、直接自分に苛立ちを与え続けてきた弟を憎む。
自分が欲しかったものを全て手に入れて過ごす弟を、彼は一度たりとも可愛いと思ったことは無かった。
その弟がもうすぐこの少年によってどん底まで落とされるのならば、いくらだって手を貸してやる。
そして堕ちた弟を見ることで、自分は不幸では無かったと心から思いたい。
下を確認して自分を保とうとする、とても浅ましい感情。
しかし誰がそれを責めることなど出来ようか。
傍から見れば充分、この盲目の王子も神によって人生を狂わされた一人なのだから。
金髪の少年は、ただ無表情でそんな彼を見下ろしていた。




