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不思議の国? いいえ、不条理の国です  作者: 黒助
第一章 兎の穴に落ちて
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第五話 道と未知

 辺りを満たす油臭さと自分から漂う血の匂い。

 初めは不快だったそれが、僕に何も感じさせなくなったのはどのタイミングだったのかな。

 蝶を模した異形から緑の体液を啜った時かもしれないし、もしかしたらそれよりも前からだったかもしれない。

 まぁ、物理的には間違いなく前者だろうね、心情的には……よく分からない。少なくとも鼻が現在進行形で役割を放棄し、生き延びたということだけで満たされてしまった心ではまともな判断なんて出来るはずもないんだけれど。


「あら、ちょっと見ない間に随分とお洒落になったじゃない。赤と緑のマーブル模様なんてなかなか着こなせるものじゃないわ」


 “だけど、もう少し匂いに気をつけた方がいいと思う”と、いつの間にか横から僕の顔を覗き込んでいたチェシャがそう付け加えた。余計な御世話だ。

 うん、君が唐突だと言うことは知っていた。だけど、いないはずの空間から突然現れるのはどういうことなのかな。


「それって君の性質(スキル)なの?」

「それってどれのこと?」

「君がどこからともなく出てくる理由」


 この世界のことで学習したことが一つある。それはこの世界でおかしな現象を起こす要因は大抵、性質(スキル)にあるということだね。


「そうだけど、それがどうしたの?」

「えっ? ああ、そうなんだ」


 思いのほかあっさりと認めるんだね。もっと駆け引きとかそういうのはないのかな。いや、無いほうがいいんだけどさ。

 そこで自分の考えがこの世界の面倒くささに毒され始めていることに気付いた。その衝撃の事実に密かに少し傷ついたりしたのは内緒だ。


「それで、今度は何の用?」

「約束したのでしょう? 欠片を集めたらまた会う、って」

「へぇ、それじゃあこれから一つ集める度に君に合わないといけないんだ」


 あれ? 何だか集める気力がみるみる減ってきたんだけど、どうしよう。


「私もそれほど暇ではないの、今回は初めの一つということで初回サービスよ」

「初め? 三つ目でしょ」

「貴方が(、、、)集めたという意味」


 どうやら毎回出てくるつもりは無いらしい。安心したよ、でも次はいつになるのかな? 五個目か十個目か、たぶんそのぐらいだろうけど。


「ああ、私としたことが大切なことを忘れていたわ」


 思い出したようにチェシャが声を上げる。


「何はともあれ、記念すべき一つ目の欠片おめでとう」

「それはどうも」

「千里の道も一歩から、いえ、千個の未知も一個からと言うべきかしら。貴方がこの世界に足を踏み入れた証拠よ」


 嬉しくない報告だ、それが喩えだったとしても、ね。

 それよりも――


「っていうか千個もあるの!?」

「えっ、無いけど、どうして? 言葉を額面通り受け取るのは貴方の悪い癖だと思うわ」


 言葉を額面通り使わないのは君の悪い癖だと思うよ。

 そう皮肉を返したいところだけれど、このままでは話が進まないし、ここは抑えておくことにする。


「はぁ……じゃあ、幾つあるの?」

「さぁ? 十個とかそのぐらいじゃないかしら?」


 ぐらいって、いい加減すぎるでしょ。


「だけど、こんなに早く一つ目を手に入れるなんて才能があるんじゃない?」

「“才能”、か。随分白々しいことを言うものだね」

「白々しい? 毛並みには自信があったのだけれど」


 チェシャは言いながら長く艶やかな黒髪を手櫛ですいている。

 わざとやってるよね、ソレ。


「誤魔化してるつもり? 女王蝶ことを知ってて、ここに放り出したんだろ?」

「ああ、そのこと」


 彼女は一向に悪びれずに言う。


「不服そうね。でも、結果は上々だったじゃない。貴方に素晴らしく……そう、素晴らしく有害な性質を押しつけられたわ。あんなものに飛びまわられたらこの森がどうなっていたことか」


 “まぁ、どうなっても良かったのだけど”と、チェシャは悪戯っぽく笑った。

 この世界がどうこうと責任問題を押しつけてきた人(猫?)の発言とは思えないよ。


「おかげで、僕は死にかけたけどね」

「でも、早いうちで良かったでしょう? いずれ取り返すものだし、そうなった時に今みたいに上手くいったかしら」


 もっともと言えばもっともかもしれないけど、一応僕にも選択権があってしかるべきだと思うんだ。全く、人の命をなんだと思ってるんだろうか。

 本当に、何と言うか……


「だからその後ろに隠した物騒なものから手を下ろして。どうせ当らないけど不快よ」

「君も青虫も随分と目聡いなぁ」

「これでも夜目は効くほうなの」


 後ろ手に弄っていた剃刀を見せる。

 チェシャはさもどうでもいいといった風に大きく伸びをした。

 やってみてもいいけど無駄なんだろうな。やってみたら意外と殺れるかもしれないけど。


「ふふ、でも何の感慨もなく私を切ろうとするなんて、この短時間でどれだけ使ったのかしら?」

「“使った”?」

「どんなものも使い続ければ摩耗して擦り切れて、最後にはどんなモノだったのかも分からなくなる」

「出来れば要点だけまとめてくれるかな」

「自覚がないわけではないんでしょう?」


 ああ、分かっているよ、分かっているとも、なにしろ自分のことだからね。

 だって明らかにおかしいんだ。こんな短時間で心の整理をして、化け物に切り刻まれて、逆にそいつらを殺して血を吸う。そんなことが普通受け入れられるはずがない。だというのに今僕はいたって平常で、いや、それ自体が狂っている証拠なのかもしれないけれど、とにかくこうしてあわよくばチェシャの寝首を掻こうとしたり、軽口に付き合ったりしている。それはたぶん心が強いだとかそういう健全で建設的で健康的な自分の気質によるものではないんだ。

 確証はないけれど『有限実行』の“精神力を消費”っていうのは、つまり――


「この性質(スキル)は正気も奪うんだろう?」


 この世界で会う人間がことごとくおかしい理由が分かったよ。皆、似たような方法で性質を使ってるんだろう。もっとも、犠牲にしているのが僕と同じで正気とは限らないけどね。


「ハズレというほどでもないけれど、正気の定義によるわね。『書き物机とカラスがなぜ似てるのか』と考えるのは正気かしら?」

「ありがとう君の言葉で確信できたよ。僕はまだ正気みたいだ」

「どういたしまして。でも性質に傾倒するというのはそういうことよ。使うだけ性質に近づき、その代わりに“別のもの”から離れるの」


 つまり、僕の場合は言葉という“幻想”を実体化するにあたって正気という“現実感”を切り捨てているんだね。笑えない冗談だ。

 おまけに『現実投棄』もおそらく似たような方向性の性質であるはずだ。『女王の晩餐』はよく分からないけれど殺人衝動とかに目覚めたら悲惨すぎる、ていうより血を飲んだ時点で既にやばいような気がする。なんにしても僕の未来は凄まじく暗いと言わざるを得ないんじゃなかろうか。


「別に悪いことではないわ。性質に近づくということは本質を得ることに他ならないもの」

「じゃあ、その性質を幾つも持つことになる僕はどうなるのさ?」

「どうもならない。ただ、より“貴方らしく”なるだけよ」


 “僕らしく”、ね。狂った姿が僕には似合いだということなのかな。今までろくでなしだと切り捨てた君たちが僕の行く末だと思うと泣きそうになるんだけど。この気持ちはこれからも大切に持っていたいものだ。


「はぁぁ、まぁ、いいや」


 これ以上食い下がったところで彼女から有益な情報を引き出せるとも思えない。何より余計正気を失いそうな気さえしてくる。それならばさっさと切り上げるほうが得策だ。


「それで、どうしてわざわざ来てくれたのかな? まさか“おめでとう”とだけ言いに来たわけじゃないよね?」

「あら、言いに来ただけよ? もちろん、“お祝い”もあるけれど」

「“お祝い”って」


 脳裏をよぎる以前の光景。

 以前と言っても記憶が戻ったわけではなく、この世界に来たばかりの時、不注意にも口車に乗せられた愚かな過去の自分の記憶だ。


「いや、それは遠慮し――」


 言いきる前にいつの間にか頭にチェシャの手が置かれている。

 振り払おうと伸ばした手が気体でも混ぜ合わせるみたいにむなしく空を切った。

 そんな自分をあざ笑うかの如く、神経の回路を浸食し、瞬く間に流れ込む情報。


 血にまみれた包丁、滴る赤色

 その中心にいる僕と顔を手で覆う女

 その人が何か言って――


「――ッ」


 急激に流れ込んだソレに頭が酷く痛み、思わず手をこめかみに置いた。

 額から流れた汗が顔を伝う。

 気がつけばチェシャはそこにいない、見えないと言うべきかもしれない、なぜなら、


 それでは、気が向いたらまた会いましょう


 チェシャはいなくとも気まぐれな言葉だけが静かな森に響いていた。

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