第三話 切り切り舞い
『パン付きバタ蝶』
頭は角砂糖、翅はスライスされたパンで、体はパンの耳で出来たトンデモ生物だ。そんな生き物が昔読んだ絵本に書かれていたような気がする。アレは何という本だったろうか。
確かクリーム入りのお茶を飲んで生きているんだったっけ?
飲まないと死ぬ、そんな虚弱体質。
さて、実際そんな生き物がこの世界にいるのかは知らないが、それを例に挙げたのは僕が想像したこの世界の蝶なんてどれだけぶっ飛んでもその程度ということだと理解してほしい。
ところで、一説によると地球では毎日、百種類程の生物が絶滅しているとか。それが事実だとするならば人間が生物の頂点だという主張もあながち絵空事というわけでもなさそうだ。人間の方が百獣の王と名乗るべきかもしれない。すでに万物の霊長なんて大それた呼び名があるのだから必要ないかもしれないけど。百と万、文字通り桁が違うしね。
おっと、話を本筋に戻そう。僕としては永遠に現実逃避していたいんだけど、どうも時間は待ってくれないらしい。今なら時間が追いかけてくるといったあの兎の気持ちが分からんでもない。つまり、地球でそんな熾烈な生存競争が行われるように、こちらの世界でも奪い奪われのデッドヒートが当然のように繰り返されていて然るべきなんだ。そりゃあ、パン付きバタ蝶なんて貧弱な生き物が生き残れるはずもない。
うん、何だっけ? 『肉切り包蝶(ナイフバタフライ)』?
ああ、名前だけで分かる。こいつはきっと生き残れる奴なんだって。
すっかり忘れていたよ。この世界で僕の常識は役に立たないんだった。
深く考えずに依頼を受けたことを後悔した瞬間である。
だが、このまま無視し続けることもできない。相手から手痛い一撃をくらう前に状況を把握することが先決だ。
そうやって何とか気を持ち直し、暗く影を落としたソレの方へと向き合った。
「――これは本格的にマズイかもしれないな」
カチカチとまるで時計のような音を立てる体に、頭と思しき場所に触角の代わりついた二本の小振りなナイフ。蝶と呼ばれたソレは月明かりと周りの青色光を反射し銀色の身を妖しく光らせている。薄く延ばされた剃刀のような長方形の刀身を互い違いに四本重ね合わせた形をした二対の翅、所々尖った鎧のような体からは鋭い針のような三対の脚が生え、赤く光る眼はとても生物のものとは思えない。翅を広げた大きさは三十センチを超えそうなほどあり、その身から時折響くガチリガチリという歯車がかみ合うような音がよりその異常さを際立たせていた。
「えっと、これが蝶?」
おそらくその蝶の匂いなのだろうけど、先程から質の悪い油みたいな臭いが酷い。どういう進化をしたらこうなるのかメンデルも驚きだ。スチームパンクな見た目もこの世界にはあまり似つかわしくない。
何より口の代わりについた注射針から垂れる赤い液体は何なんだろうね。よく見ると翅や触角からも垂れてるし。
「あれか? あれは――」
答えなくていいよ。だいたい想像はついてる。
そもそも、青虫は何でこんな時だけ無駄に親切に教えてくれるのかな。需要と供給がこれっぽちも合ってないじゃないか。
「というか“花”の蜜を吸うだけでどうしてあんなバイオレンスな感じになるわけ?」
「初めから言っておるではないか、奴らは“鼻”を求めていると」
えっ、それって“花”じゃなくて?
“鼻”?
「鼻にあの針を刺して血を吸うのだ。満足したら鼻を切り取り巣にいる女王へと持ち帰る。朝になる頃には獲物の死骸は他の獣がきれいさっぱり処理してくれるからいいのだが、いかんせん儂を襲うのが困りものでな。まぁ、詳しいことは奴らに聞くといい。無口で堅物だが手取り足取り教えてくれるだろうて」
そりゃあ困るでしょ。だって命がけじゃないか、それ。そもそも、蝶なのに女王とかいるんだ。ああ、ハナを分けられないといった時点で疑うべきだった。
「悪いけど僕の知ってる蝶と全然違うんだけど。仕事放棄して逃げてもいいかな?」
一刻も早く手遅れになる前に逃げなければ。
僕にはその権利があるはずだ。
「ふむ、逃げるのは止めんが戦うより難しいと思うぞ」
「そんなこと――ッ」
言おうとした自分の耳に風を切る音が聞こえる。
そのおかげで何とか反応することができた。
「一匹じゃなかったのか」
首を液体が伝う感覚がして、確認しようと首に触れた手にぬるりとした嫌な感触と生温かい温度が感じられる。見ると鉄臭い赤い液体が手のひらを濡らしていた。
どうやら少し切りつけられたらしい。血管を傷つけられなかったのが幸いだ。
数はええと、三匹?
やばい、囲まれてる
切られた首から流れ出た血が頭を冷やしていく。
その事実が目の前の化け物をより化け物に見せ始めた。
マズイ、このままでは死ぬ、殺される
えっ? 死ぬの? こんなに簡単に?
だって僕はまだ何もしてないよ
そんなのおかしいじゃないか、納得できないよ
「どうして……」
僕は勘違いをしていた。
僕は特別だと思っていたんだ。
僕は死なないって思っていたんだ。
だってそうだろう?
僕は物語で言えば主人公、ゲームで言えば勇者。
うん、馬鹿馬鹿しいね。今の僕はただの死に損ないなのに。
「ッ、うぅ、待て、落ちつこう、冷静になれ」
口出してみたが頭は一向に混乱したままだった。
考えよう。考えなければ死ぬ。
何でもいい虚勢を張れ
情けなく死ぬよりマシだ
問題ない問題ない問題ない問題ない問題ない問題ない
「死んだら何が困る? このおかしな世界から解放されるだけじゃないか。そう、言ってしまえばこんなのただの『ゲーム』だ」
それはただの自己暗示。今を切り抜けるためだけのその場凌ぎもいいところだ。だが図らずしもこの世界でソレは愚策ではない。ただ生き延びたかっただけ、しかしそれだけが重要だった。僕はその言葉を意思を持って発言したのだ。
言葉にした瞬間、目に見える世界が姿を変える。
『現実投棄』が世界を規定し、『有限実行』が急速に感覚を書き変え始めた。まるでプログラムを組み立て直すように意識が再構築されていく。恐怖は緊張感、困難は難易度、化け物は敵キャラ、そして殺し合いは経験値稼ぎだ。
まるでゲームでもするかのような感覚が自分を支配し、急に目の前の光景から現実味がなくなった。
『現実感喪失症候群』、『離人症性障害』、それらとは少し違うかもしれない。
普通なら有るべき、思考と体のギャップはまるで感じられず、プログラムされた数値計算のように末端まで思い通りに、定められた通りに動き始めるのを感じる。
そしてその意識レベルの改革が終了した僕にとって、目の前の状況は何の変哲もないチュートリアルだった。
今さら何を焦ってるんだろうね
全くこの年にもなって恥ずかしい限りだ、自分が何歳かなんて知らないけど
こちらの心の揺れを感じ取ったのか蝶たちは代わる代わる攻撃を仕掛けてくる。だが、冷静になってみれば一匹一匹は避けられないほどでもない。
かわし続けるこちらに痺れを切らしたように同時に攻撃を仕掛けてくるが――
「おっと、『火(ファイア)』」
前方に火を生じさせると、それを避けようとした蝶自身によって包囲網は簡単に崩れた。出来たその隙間をくぐりぬけるように飛び出す。それでも同時多方向からの攻撃はさすがにいつまでも避け続ける自身は無く、出来れば早々に終わらせてしまいたい。
ふむ、囲むまでは驚いたけど、あまり集団の利点を生かしてないな
急に動きが変わったこちらを警戒しているのか。それとも単にそこまで賢くないのか。
「それにしても、どうしたものかな」
出来る限り、隙を見せないようにしながら素早くあたりを見回すと僕を中心とした円を描くように三匹の蝶がユラユラと飛びまわっている。
どうやらあちらも攻めあぐねているみたいだね。とはいえ、さっきみたいに火を出したところで当ってくれるとは思えないし、何よりダメージがあるかも微妙だな。
「青虫、何か戦い方とかそういう……」
そう青虫の寝ていたキノコの方に声をかけるが――
「えっ? ちょっと!?」
青虫は既にそこにはいなかった。急に喋らなくなったと思えばこれか。参るね、いやホントに。
何でこんな時ばっかり速いのかと。
頼みごとをするならどうすればいいかぐらい教えるべきじゃないの?
「って、そんなこと言ってる場合じゃないよね」
その間にも、再び風切り音と共に蝶の一匹が横から飛び出してくる。
今回は視界の端にその蝶をとらえていたこともあり何とか上半身を傾けるようにしてそれをかわす。ただ、避けるときにはさすがに冷や汗が流れた。
突撃を交わされた蝶は再び円に加わると今度は三匹が同時に円を縮めるように包囲網を狭めていく。いよいよ本格的に殺しに来そうだ。ともかく次の攻撃が来る前に傷を何とかしておかないと
「傷をふさぐんだから、ええと……『縫合』」
言葉を口にしながら首にできた切り傷や、逃げるうちに切りつけられた場所にに手をかざしていく。
温かい光が傷を包み込むと、切り口はピタリとふさがり流れていた血も止まった。
これでよしっと
行き当たりばったりではあったがどうにか上手くいったようだ。
とはいえ、あくまで応急処置。失った血まで戻るわけでもないからあまり過信すべきでもないだろう。
「その前に――『火球(ファイアボール)』」
無駄に精神を消費しないように注意しながら口すると手元にはソフトボール大の火球をつくりだされた。それは道中で作りだした火球よりも一回り以上大きい。
これはこの能力を使う上で辿りついた一つの答えだ。ただの火球ではなくファイアーボールとして作りだすこと。
僕にとってファイアーボールっていう言葉は攻撃魔法そのものだからね。下手にイメージを引き摺られる日本語よりもこちらの言葉の方が幾分か攻撃に転化しやすい。その分、精神力の消費が大きいのが問題だけど。
さて、次は狙いをつけて……
蝶の動きを予測しながら狙いを定める。蝶の通るであろう道筋に照準を置き――
「『射出(シュート)』」
そう宣言する。
その言葉と共に、手のひらの炎を液化して固めたような光沢を持った球体が、向けられた先へと打ち出された。速度は以前の火矢ほどではないにしろ、火球は大きさには見合わない初速度を得ると、そのままの勢いで自分の前を横切るように飛んでいた蝶へと飛来する。
相手もそんな攻撃が来るとは予想していなかったのか猛然と迫るソレを完全に避けることはできなかった。球体を保ったままの火炎が蝶の刃のごとき翅に接触するとともに破裂音と燈色の焔を巻きちらしながら炸裂する。
直撃こそしなかったものの爆発により生じた炎は鎧のようなその外殻を包み込み、圧力波は蝶をピンボールのように弾き飛ばした。直接的な被害を受けなかった二匹も破裂地点を中心に発生した暴風にさらされ体勢を保つのが精一杯といった様子だ。攻撃を受けた個体にいたってはまともな飛行ができないまま近くの木に衝突するような形で停止した。その翅は深々と樹に突き刺さり、触角代わりのナイフの内一本は根元から折れ、残りの一本も無残に曲がってしまっている。体部分もすすけたように黒く染まり、所々入ったヒビから緑色の体液が流れ出す。さらに歯車のような部品と爆発で折れた脚が腹部を突き破っていた。
「うわっ、こんなに威力でるんだ。でも――」
これは失敗だったな
結果的には倒すことができたとは言っても、あの体の刃物が爆発でこちらに飛んできたりしたら一瞬で穴だらけだ。
「指向性が必要で、炎は直接的な破壊には向いてないっと」
あの外殻では炎自体の効果がどこまで有効か疑問だからね。蒸し焼きにはできるかもしれないけどさ。確実性がないし、あまり趣味じゃない。おまけに森で使うようなものでもない。
「硬さがあって、森でも使えて、殺傷力もある、となると……」
残りの二匹は先程の爆発で警戒しているうえに、いまだに体勢を立て直し切れてはいない。攻めるならこのタイミングだ。
硬さは微妙だけど――
「『製氷(アイス)』」
今度はファイアボールとは違い、自分の目の前に握りこぶしほどの氷を作りだす。
どうやら手のひら以外からでも出せるみたいだね
狙いの付けやすさや、照準の動かしやすさを考慮すれば手を攻撃の起点にした方が良さそうだが、いざというときにはこういった使い方もできるというのは非常に心強い。
「でも、もう少し大きくしないと――『強化(エンハンス)』」
発言にともなって氷は大きさを増し今度はサッカーボールほどになる。
「『砕氷(ブレイク)』」
その一言で自分の前に作り上げた氷塊は砕け散り、周りには鋭利な礫が数十と浮かび上がっていた。
「さて、そろそろあっちも準備ができたみたいだね」
こちらの行動を警戒するような素振りをしていた蝶たちもここにきて時間をかけることの愚かさに気付き始めたようだ。
目の前でこんな準備を始めたんだから当たり前か
二匹は戦略など欠片も感じさせない、文字通り“なりふり構わない”動きで飛び込んでくる。もっとも、“なりふり構わない”とは言ったが二匹の間に高さの差と、微妙に距離があることを鑑みるに片方が避けられても、というのと片方がやられてもという保険を兼ねている可能性も無きにしも非ずだ。
まぁでも、そのぐらいの距離じゃあ意味ないんじゃないかな
もうすることなどほとんどない。浮いた礫を前面に並べ、飛びかかってきた二匹に向かって言う。
「『氷弾幕(アイススプレッド)』」
月明かりを受け輝く数十もの白銀の弾幕が一斉に打ち出される。それらは自分を中心に広がり礫の弾幕をつくりだした。
自分の目の前、数メートルまで近付いた蝶にソレを避ける術は無い。瞬く間に氷弾は蝶たちに叩きつけられる。
その一つ一つは命を奪うほどの威力ではなかったが、サイズのせいもあり火球よりもずっと高速で発射される。そのおかげもあって、たとえ礫に正確さがなくとも当り所によってはタダでは済まない。いくつかは硬い鎧に阻まれ砕け散ったが、相応の衝撃を内部へと伝達し、節にあたったものは関節を潰しながら体の節々を千切り取った。
吹き飛ばした四肢から緑色の体液が飛び散り服と頬を汚す。立ち込める油臭さと氷塊の直撃に鳴り響く金属音、それがあまりにも大きくてわずかにしか聞こえなかったが、その中には耳に残るような断末魔が確かにあった。
「……これで終わりかな?」
体をバラバラにされ動かなくなった蝶に近づき確認する。その後ろの木や地面には氷が突き刺さり針の筵のように痛々しい。
うん、問題なく死んでるね。
死ぬっていうか壊れてる? まぁ、どちらでもいいか。
見た目は生物と機械の中間のようであったのでどう判断すべきか迷ったが、よく観察してみると機械というよりは機械や歯車のような外骨格を持った生物のようにも思える。
「この翅とかすごいよね。もしかして武器に使えないかな」
発想がアレだけど、ここまできたら今さら気にしてもしょうがないよね
やっと終わった戦闘の興奮も冷めやらぬまま興味はそちらへと移った。翅の形は先にも言ったように剃刀のようであるが、その厚さは薄く本当に虫の翅のようである。翅の表面を這うように伸びた線が唯一蝶らしさを残している。そう言えば揚羽蝶なんかもこんな模様だった気がする。ただ翅の先には波紋が浮き、その切れ味を誇示するようであった。
「よし! せっかくだし――『切断(カット)』」
思い立って剃刀を剥ぎ取ろうと試みるが、翅は一度、金属同士を叩きつけ合ったような音を立てただけで傷一つつかない。
「ふむ、さすがにこれじゃあ無理か」
まぁ、これで切れるならそれほどの素材でもないのだけれど
「なんとかとれないかな」
そこで、先程の戦闘で外殻に当った氷は砕け散ったのに対して、節に当たる部分は吹き飛んでいたことを思い出す。
「もしかして付け根だったら」
翅の付け根に指先を当て――
「『炎切断(バーナー)』」
小さめで高温の炎の刃を指先から出しながら付け根を抉るように切る。すると金属特有の高い音を立てて刃が体を離れた。先程からは考えられないほど簡単に翅がとれる。
「おお、これは――」
持ち手に当たる付け根部分がある程度冷めたことを確認して手に取ると、急に身に覚えのないものが脳裏に浮かんだ。チェシャからピースを受け取った時と同じように頭に知識が流れ込んでくるようだった。
生物名:『肉切り包蝶(ナイフバタフライ)』
所持性質名:『切り分け上手』
【生物に対して切断系の攻撃を加える際に抵抗を低減する。また血を吸うことで一時的に能力が上昇する】
道具名:『包蝶剃刀』
【肉切り包蝶の性質が色濃く表れた剃刀のような翅。生物に対しての切断効果にプラス補正がかかる】
これは、蝶と翅の知識、か
おそらく『現実投棄』が発動したのだろうが、いまいち発動条件が分からない。この感じからすると殺した際に発動か、あるいは手で触れることが条件といったところだろう。
それにしても――
「青虫はいつまで隠れてるのさ。いい加減出てきてほしいんだけど」
仕事をこなしたんだから今度は青虫が約束を果たすべきだよね。
はっきりいって割に合わない条件だったけれど、まぁそれは詳しく聞かなかった僕にも原因はあると思う。なにより青虫からはこの世界のことをいろいろ学べたからね、主に悪い意味で。
そういうわけでお礼とお礼参りがしたいから是非すぐに出てきてくれないかな。今ならちょっとで済むかもしれないよ。
「おーい!」
青虫から返事は返ってこない。
何故、今だ隠れ続けるんだろう。約束を守る気がなかったとか?
いや、青虫は結果的に騙すような形になったけど、嘘はつかなかった。
それじゃあ出てこないのはつまり……
えっと、まだ、隠れ続ける必要があるってこと?
見上げた空には美しく輝く翅があった。あの蝶たちの翅も美しい銀色をしていたがはっきり言って、月明かりに煌めくソレとは比べものにならない。触角でさえかなりの切れ味を持っていそうな波紋を浮かせている。
「ああ、あの断末魔ってそういう……」
“女王”という呼び名は伊達ではないらしい。
「ははは、冗談きついね」
迫りくる女王は先程の蝶たちの三倍はあろうかという大きさを誇り、月と自分との間に挟んだ体から地面に向けて大きな影を落としていた。
やっと、戦闘が始まりました。
次回は女王蝶。