第二話 バタフライエフェクト
『バタフライエフェクト』
中途半端な自分の知識を頼るならば、確かカオス理論を表した言葉であったはずだ。ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を起こすとか何とか。要は初めはどうでもいいような差だったのが、気付いたらどうにもならないことになっていました、ということらしい。
さて、そこでこの例に自分をあてはめた場合、その微妙な思い違いはどこで始まったのであろうか。記憶を辿る限り、あの兎コスさんについていった時点でおかしなことに首を突っ込み始めていたのだろう。そうだとすれば、今自分がこの場にいるのだって、そもそもは僕が生み出した微小な誤差のせいであったと考えられるんじゃないかな。だからと言って僕の責任だと認めるのは、甚だ癪なのだけれど。まぁ、それでも自分一人ではどうにもできないので帰納的に誰かに頼らざるを得ないって結論になる。
この時点で僕にできることなんて誰に頼もうか決めることぐらいしかない。そしてそれも失敗した今、僕は目の前のおかしな存在に頭を痛めるほかないんだ。
ああ、誤差が拡大していく――
ゆったりとした光沢のあるビロードの布地に目玉のようなものが付いた悪趣味な青いローブ、手足は長い裾にすっぽりと覆われ、被ったフードの下には暗い闇が見えるばかり。アレでは視界だって良くないだろう、というより目が悪くなりそうだ。
おまけに辺りを照らす、ぼんやりとした蛍光キノコの光のせいで気味悪さに拍車がかかっている。そんな姿をマジマジと観察していたら、フードの隙間から覗く闇が掠れた声でこちらに話しかけてきた。
その声は老若男女どの声にも聞こえる不思議な響きがある。だがその様子は見た目が見た目だけに神秘的を通り越してもはやホラーだ。
「ふむ、主には迷いがあるな」
寝そべったまま体勢も変えずに青虫が言った。話すときぐらい体をこちらに向ければいいと思う。
「そりゃあ、僕は“迷い込んで”来たんだから」
こんな世界にいるんだ、迷いもするさ。物理的にも精神的にもとっくに袋小路だよ。
「“迷い込んで”、か」
青虫はその言葉に何故か興味を持ったようで、肘を支えにしながらゆるりと上半身を起こし顔をこちらに向けてきた。何がものぐさな青虫の心を引いたのかは分からないけど、話し合いさえ放棄されるよりはずっといい。そう考えて、話し合いと呼ぶに足る会話ができたことなどあっただろうかとこの世界での出来事を頭に浮かべ、そんなこと一度もなかったことに気付いた。三度目の正直を祈る。
「その迷い人が何故このような場所に来た?」
「何故って言われても、ここに来たのは偶々だよ。歩いていたらこの場所が見えて、何かないかと立ち寄っただけ」
ここまで文句はいろいろ言ってきたが、正直誰かに会えるなんて思っていなかったので、たとえ相手がこんなでも嬉しい誤算だった。これで出会った相手が普通の人だったら文句は無かったのだけれど、それはどうしようもない。それに今までの人達に比べると幾分かクセも少なそうな気がするし、不幸中の幸いだね。
「でも、ちょうど人には会いたかったところだよ。聞きたいこともたくさんあるし、いくつか聞いてもいいかな?」
「内容によるな。気が向けば聞いてやらんこともない」
ぐっ……あ、足元を見られてるよね、コレ。
いや、ここは我慢だ。話を聞いたらすぐにここを離れよう。そうしないとチェシャよろしく、何か厄介事を押しつけられそうな気がする。
「あ、ありがとう。で聞きたいことっていうのは、この近くに町か村ってないかってことなんだけど、どこでもいいから知らない?」
「知っている」
「ホントに!?」
これは僥倖、思わぬ収穫だ。
さっきはぐうたらだとか、おかしなだとか思ってごめん。青虫さんは今まで会った誰よりもまともだよ。三人しか会ってないけど間違いない。
それよりも、近くの町はどんな所なんだろうか。出来ればよそ者にも優しい町であることを期待するよ。そんな思いを込めて青虫を見る。もったいぶるように口を閉ざしたので、いつ教えてくれるのだろうかとしばらく待っていたが青虫は一向に口を開かない。
「あの?」
「ん? 何だ、まだいたのか?」
当たり前だ。まだ何も聞いていない。知っているか聞くだけで、お礼を言って帰る人間がいたらぜひ顔を拝みたいね。
「いや、いや、だから、近くの村か町は?」
「だから知っていると言ってる」
「知ってるかじゃなくて、どこにあるのかが聞きたいんだけど」
前言撤回、今までで一番ややこしい人だったようだ。
「主の質問は近くに町か村があるか知らないか、だったはずだが?」
そうだね、確かにそうとることもできると思うよ。でもさ、普通そうじゃないよね。迷ってるのに近くに町があるかどうかだけ聞いたりしないよ。不遜な態度だと感じたなら謝るから、そこまでの行き方を教えてください、お願いします。
「何だ、道が知りたかったのなら初めからそう言えばよかろう」
「たった今反省したよ」
この世界の住人に自分の常識を求めたことをね。
この世界にはこの世界の常識があるようだ、青虫がこの世界においては普通であれば(できればそうでないと願いたい)だけど。
そして、その言葉を最後に青虫は例によって例のごとく口を閉ざす。
「で、今度はどうして黙ってるのさ」
「気が向かないからだ」
よし、脅そう! たぶん少しぐらい脅すだけなら許されるはずだ。
「あまりジッとそんな目で儂を見んでくれるか」
「行き方を教えてくれたら、冷たい視線なんてすぐにでも止めるさ」
「冷たい? 変温動物出もあるまいて何を勘違いしておる。儂はその目で見るなと言っておるのだ」
目? 目と言ったか? いや、青虫の言動はさっきからなんと言うか、そう、抽象的だ。
これもただの思わせぶりかもしれないし、慎重にいっておこう。
「どういう意味かな? もう少し分かりやすく言ってほしいんだけど」
「主も分かっておろう。現実を直視できない目、幻想を拠り所にする弱き者の目だ。悪辣で低俗な――」
やはり、青虫は僕の目のことを、いやもしかすると欠片のことさえも知っているかもしれない。でも、どうしてだ?
これはチェシャからもらったものだ。まぁ、正確には自分のものだけど。いや、そんなことはどうでもいい。何故初めて会った青虫がそれを知っている?
「どこでそれを聞いたのかな?」
「おや、聞きたかったことはどうやって村へ行くかだろう」
「言っただろ。聞きたいことはたくさんあるんだ。それで、どこで目のことを?」
「ふん、……儂は知っているだけだよ」
知っているだけ、か。おかしな表現をするものだ。
「知っているって何を」
「全てだよ。知っていること全て、だ」
話にならないなぁ。そんな言葉遊びがしたいわけじゃないんだよ。
といってもこれ以上食い下がっても有益な情報がもらえるとも思えない。
どうせ適当に煙にまかれるだけだ。聞き方を変えよう。
「それじゃあ幻想を拠り所にする弱き者っていうのは? 僕は幻覚を見ているつもりは無いんだけどなぁ。それとも本当は精神異常者で、この世界は僕の心の中の世界だとか?」
『胡蝶の夢』、か。
自分で言っておいて何だが冗談きついね、全く。
「儂は主の妄想になった覚えは無い。この世界は間違いなくここにある。それに、主の心はこの世界が納まるほど広くも大きくもない。あまり自惚れぬことだ」
「じゃあ、どういう意味かぜひご教授願いたいもんだね」
別に僕自身この世界が妄想の産物などと思っているわけではない。売り言葉に買い言葉、そも妄想と割り切るには草の匂いも、空気の冷たさも、大地の感触もあまりにリアルすぎる。
「儂の言葉をどう捉えるかは主が決めることだ。儂が言えることは、ただ一つ、全てには理由があり意味がある。だから主はここにいる」
「理由、ねぇ」
人の気も知らず言いたいことを言ってくれる。そこまで言うのならもう少しヒントをくれてもいいと思うのだけどね。
まぁいいさ、それならそれで僕も好きなようにやらせてもらうとしよう。
何せ青虫によれば、どう捉えようが自由らしいからね。だったら現実なんて投げ捨てて、自分勝手なこの世界に染まろうじゃないか。
「じゃあいいや、その言葉の意味はおいおい考えていくよ。それで、また初めに戻るけど村の場所を教えてくれるかな。これは教えてもらえないわけにはいかないんでね」
「気が向かん、他を当たれ」
そう来ると思っていたよ。
悪いけど今回は引く気は無い。
「分かった。それじゃあ交換条件ってのはどうかな?」
「交換? 主に交渉材料などあるようには見えんがな」
いや、あるね。これからすることは最低といわれるかもしれないけれど、そもそも僕だって被害者みたいなもんだ。だから仕方ない、うん、仕方ない。
「僕のせいでこの世界に随分と迷惑がかかってるそうじゃないか」
「どうだろうな。そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん」
青虫はストローを持ったままそう嘯く。
決まるようで決まってないね、そういうところ。
「もし僕に村までの道を教えてくれないなら――」
「ふん、どうするつもりだ?」
青虫に倣ってもったいぶった言い方をしてみたが、どうやらほとんど効果は得られなかったようだ。慣れないことはするもんじゃない。仕切り直して今度ははっきりと告げる。
「――この森で野垂れ死ぬよ」
「何?」
さすがに面食らってるな。つかみは上手くいったようだ。
あとは――
「言っておくけど、僕は生活力もサバイバルのセンスも皆無なんだ。それはここまで来る間にいやというほど思い知らされた。だからさ、食べ物もなくこんなところに放り出されたら、なんなく死ねる自信があるんだ」
「それが儂に何の関係がある」
「この森にも影響、出てるよね?」
青虫は答えなかったが、その無言が雄弁に答えを物語っていた。
鎌をかけただけだったが、どうやら正鵠を射ていたようだ。
「盗人猛々しいって言葉がある。問題を作ったのは僕かもしれないけど、取り除けるのも僕なんじゃないかな」
「村の場所を教えたら、主は問題を解決すると?」
「どうだろうね。するかもしれないし、しないかもしれない」
意趣返しだ。
それに言質を取られたと思われたくもない。
どうせ選択肢などないのだいくらでも居直ろうじゃないか。
「ふむ、……気は向かんが仕方あるまい。だがせっかくだ、少し働いてもらおう」
意外とゴネないんだな。いや、これから押しつけられる仕事の方が問題か。
「働く? どうしてまた」
「そんなこともできないなら、教える意味もなかろう? ホラ、ちょうど時間だ。上を見てみるといい」
そう言われてしまうと返す言葉もない。交渉の仕方を間違えたか。
仕方なく言われた通りに上を見る。
「月が一番上に登るぐらいに、あいつらはここに来る」
「あいつらって?」
「蝶たちだよ」
「蝶ねぇ。で、何をすればいいのさ?」
花でも集めてやればいいのだろうか。
「あいつらを処理しろ」
「処理?」
「そうだ。何でもいい、殺しても壊しても、とにかく二度とここに来なければそれでいい」
「殺すって……、同族でしょ?」
「同族? 異な事を言うな。儂は青虫だ。蝶を処理しろと言ったのだぞ?」
「いや、だって、青虫はそのうち――」
言いかけて止める。
おそらく何を言っても無駄だろう。それに若干の後ろ暗さはあるが蝶を何とかするだけでいいなら僕でもすぐになんとかできそうだ。適当に火でも起こして、それで終わりだろう。
こちらが言葉を止めると青虫が続けた。
「奴らはハナを求めておる」
「少しぐらいあげればいいと思うけど」
「それはできない」
言いきったな。これだけあるんだから一つや二つ問題ないだろうに。それとも青虫のあの飲みっぷりだとこれだけあっても足りないのだろうか。
ふむ、謎だ。
「まぁ、いいや。で、その蝶ってどんなの? まさかバタつきパン蝶とか言わないよね」
それはそれで美味しそうだし、食べてみたい気もする。
少しどんな味か想像しようとしたが、虫みたいに飛び回る姿を想像して慌てて中止した。
やっぱり食べるのはやめておこう。
「惜しいな、実に惜しいが、勿論違う。蝶というのは合っているんだがな」
そんなどうでもいいことを空想する自分を気にもとめずに青虫は声高らかに話し始める。
いったいどこにテンションが上がるような場所があったのか教えてほしいものだ。
それと“蝶”は君が言ったことだ、と面倒覚悟で指摘するべきなのだろうか?
「奴らは――」
その時、耳障りな音が辺りに響いた。
まるで金属同士をこすり合わせるような甲高い軋み。
急に足元に広がった影。
そして、焼け焦げた油のような、あるいは機械の潤滑油のような鼻につく不快なにおい。
「――肉切り包蝶(ナイフバタフライ)だよ」