序章 ラビットホール
能力を手に入れながら異世界を回る少年のお話です。
誰にも悩みの一つや二つはある。それと同時に知らないことだってたくさんある。
ソクラテスは言った。
『私は“知らない”って知ってんだから君らよりマシだ』
“無知の知”、つまり素晴らしい開き直りだ。
だから僕もそれに倣って恥を承知の上で尋ねたい。
自分は生きているのだろうか? それとも死んでいるのだろうか?
名前は? 年齢は? 職業は?
人間とは何なのか、なんて高尚な哲学の問題を引き合いに出したいわけではない。
僕が言いたいのは言葉そのままの意味だ。
いや、唐突にこんなことを言うのは別に頭がおかしいとかそんなことではないんだ。信じてほしい。もちろん、それを証明する手段と確証はスズメの涙ほどもないが、重要なのは自分がどう思うかだろう。
だから、忌憚のないご意見を聞きたい。
なぜ僕はここにいるんだろうね?
「手はある、足もある、頭もある」
口に出して確認しながら自分の体を見回す。
うん、落ち着いて、まずは分かったことをまとめていこう。
性別は男。とりあえずは肌にはりはあるし、出してみた声もなんとなく若い気がする。
恐らく、少年から青年の間といったところだろう。
まぁ、どちらも歳不相応な人間がいるのも確かだから、あまりあてにはならないかもしれない。顔を見られればいいのだがあいにく鏡のような洒落た物は用意しておいてもらえなかったらしい。誰が用意するんだという問題はこの際置いておこう。
服装も別段おかしなものではない。シャツの上にパーカーを重ね、下はジーパンにスニーカー。遊び心がない、とファッションリーダーがいたら本気で怒られそうな無難さだ。
次に記憶はどうだろうか。言葉に関しては問題なく分かる。そして母国語が日本語であること、たしなみ程度の英語が思い浮かべられる。
教育は受けていたみたいだな
さきほどもソクラテスなんて名前も覚えていたのだからある程度の常識と知識は残っているはずだ。ただ、もとが分からないのでどれだけ忘れているかも判断しようがない。つまり実は僕は天才だったという可能性だってある。
うん、そう思うだけなら自由だ、否定できる人間はいないしね
まぁ、常識や知識が残る記憶喪失というのも珍しくはないだろう。記憶喪失患者だって言葉を話すのだから。
「でも、そろそろ現実逃避も厳しくなってきたなぁ」
いろいろと他のことを考えて誤魔化しててきたが、さすがに現実を直視するほかない。
これまでのことも出来ることなら記憶の底に埋め込んで、鍵をかけて二度と思いださないようにしたかったがこれはそれ以上だ。
あっ、記憶なかったっけ
いや、今はそんなことはどうでもいい。先程から視界には入っていたが無視し続けていたものに目を向けざるを得なくなってきたという話だ。というよりも視界に入るなんてレベルではない。視界を占領する風景そのものが目を向けたくない異常に満ち満ちている。
「どこだろうね、ここは?」
周りに誰もいないがそんなことを口に出してみる。もしかしたら誰かが答えてくれるかもと期待しなかったわけでもない。もっとも、答えが返ってきたら返ってきたで、余計頭の痛い問題に発展しそうなので、周りが静寂に包まれたままだったのはむしろよかったのかもしれない。だったら初めからそんなこと聞くな! という気もするのだが、知らずに口が動くのだから仕方ない。複雑だね、人間というのも。
また、話が逸れたのでいい加減戻そう。つまり、自分のいるこの空間は何なのだろうか、ということだ。
天井は遥か高く、白い天蓋が頭上をどこまでも覆っている。そして、その白い天蓋に相反するように青々と足元に茂る芝生の絨毯。みずみずしい丈の短い草がどこから吹くのか、通り過ぎる風にそよそよと揺られている。空調もありそうにないこの場所で、だ。
ここは部屋の中なのだろうか?
仮に屋内であったとしたらこの建造物はかなりの巨大さだろう。よく使われる尺度に東京ドーム幾つ分なんてものがあるが、そんなもので測ること自体馬鹿らしく思えてくるような広大さだ。そもそも、天井もあくまで白いから天井に見えるというだけであって、本来は白い空なのだとおかしな風景を肯定的に受け止めるほうが幾分か現実味がある。
おまけに照明らしい照明が見当たらないにもかかわらず、空間は明るい光に満ちており、大地(と呼べるのか分からない)がどこまでも続く。
何かの施設と考えるべきだろうが、正直言ってそれが何なのかは、自分の持つ知識と照らし合わせたところで一向に出てこない。自分に記憶がないことを鑑みるとヤバい実験でもしていて、これはその影響で現れた幻覚ではないのかなんて気もしてくる。
「でも、五体満足なのは、幸運……なのかな? 後は記憶があればもう少しマシなんだけれど」
「何を言ってるノ? 形がない、目に見えない、持てない。ホラ、記憶なんて初めからないじゃないカ」
唐突に後ろから、そう声をかけられた。
確かにそう言う意味では記憶は無いが、そんな言葉遊びがしたいわけではないんだよ。
いやいやいや、問題はそこではないだろう
「えっと、……誰?」
先程まで気配なんて微塵も感じなかった。ましてや自分の後ろには誰もいなかったはずだ。
これだけひらけた何もない場所で見逃すことのほうが難しい。
「誰と言われても困るヨ、君だって自分が誰かって聞かれても答えられないデショ?」
後ろを向くと今度はまた後ろから声が聞こえてくる。
一体どんな動きをしているんだ、この人は
「記憶があれば反論もできたんだけどね。それと後ろから離しかけるのやめてくれないかな」
「ワタシが後ろから話しかけたんじゃないヨ、君が後ろを向いたんダ」
言われてみればその通りだけど、なんとなく納得いかない。
ただ、このままでは話が進まないので何も言わずに向きを変える。今度は彼女はちゃんと自分の正面に立っていた。
そして、すぐに見たことを後悔し、あからさまに目を逸らした。
「ン? どうしたノ、話があるんデショ?」
うわぁ、危ない人だ
それが彼女に対する第一印象だった。
どこぞのファンタジーよろしく白いフードを目深にかぶり、少しのぞいた瞳はワインレッドというかえんじ色のような鮮やかな色を湛えている。どう考えてもコスプレにカラーコンタクトである。いや、それだけならまだいい。それぐらいの趣味は許容できなくもない。
だがフードの上、ちょうど頭頂部の両脇を挟むように開いた二つの穴から伸びる長い耳、それは少し止めてほしい。兎の耳をつけるのはいくらなんでも無理だ。自分と同じぐらいの背丈(百六十センチちょっとといったところだろうか)と白い肌、丸く大きな瞳、それに小さめの口と上がった口角は兎っぽくないこともないが、それはあくまで例えだ。十代後半にもなりそうな人間がしていい格好ではない。
彼女は首から大きめの懐中時計を金色の鎖でかけており、度々その時計を開いては落ちつきなくチラチラと文字盤に目を向けていた。
「ネェ、どうしたノ? 早くしないと時は金なりダヨ」
「え? ああ、ごめん。実は……」
出来れば関わり合いにならない方が今後ためのような気もするが、この際、贅沢も言っていられない。なのでとりあえず聞きたいことだけをかいつまんで質問する。
「ここはどこなのかな?」
「ここ? ここはイリグチだよ」
「いりぐち?」
『入口』でいいんだろうか
先程からどうも質問の意図とはずれた答えばかりが返ってきている気がしてならない。国語は苦手なのだろう。詩的と言えばそうなのかもしれない。詩的というか私的というか。
「入口ってどこの?」
「イリグチはイリグチさ、世界のイリグチ」
“世界の入口”?
「それって、どういう――」
「アッ!!」
彼女が急に大声を上げる。止めてくれ心臓に悪い。
それよりも質問に――
「急がないと!」
「えっ、ちょっと、急ぐってどこに」
「大変ダ、大変ダ、時間が追ってくる!」
いや、確かに時間に追われるとは言うけれど……
こちらがそう言う前に彼女は一度懐中時計を確認すると、すごい速さで走りだした。
後には爽やかな風だけが残り、自分の髪をなびかせた。
「一体なんだったんだろう」
残された自分はしばらくそこでボーっとしていたが、あまりの実りの少なさに渋々彼女のあとを追うことにした。
後を追うといっても彼女が走っていった方向に向かって歩いて行くだけである。何か見つけられれば御の字だ。
そうして歩くこと数分、いや数十分? まぁそのぐらい。何しろ時計は持っていないので正確な時間は分からない。とりあえずそれなりの距離を歩いたことだけは確かだ。
そこでやっと景色に変化が生じた。これまで平坦だった地面が盛り上がり小さな丘のようになっているところがある。その丘には一本の立派な木が生えていた。カシかブナか、とりあえず広葉樹であることは分かる。それ以上は分からない。どうやら自分は植物学者ではなかったようだ。
さて、これまで起伏のない道を歩いていたせいで、この程度の傾斜さえも若干しんどい。追加、スポーツマンでもなかった。
「はぁ、ふぅ、やっと……ついたよ」
まず、丘に登る必要があったのかという疑問もあるが、周りにこれぐらいしかないのだから仕方がない。
「で、何もないと」
パッと見た限りは木の近くには何もない。上に何かあるかとも思ったが、そちらにも特に何もなかった。当たり前と言えば当たり前だ。
「えっ? ホントに無駄足!?」
それでもあきらめずによく周りを調べると
「ん? これは――」
木の根元、草に隠れた部分に人一人が入れるぐらいの穴を見つけた。
覗きこむと穴からは生温かい風が吹き出し、底さえも見えない暗闇がある。その闇に引き込まれるように身を乗り出して中を覗き込む。もちろん落ちないように細心の注意を払いながら。
重心さえ外側にあれば落ちない、物理学的にも経験的にも正しい知見だ。
――そう、外力さえ働かなければ
「――はっ?」
頭を下にして体は自然と穴の中へと吸い込まれる。
なんで、落ちてるの
何が起こったのか分からなかった。誰かが背中を押した気もするし、穴自体が自分を吸い込んだような気もする。どちらにしても僕は意思の尊重など欠片も考慮されないまま、体は勢いを増しながら闇の中へと吸い込まれていった。
――――
――
「んっ!? ここは……」
気がつけばよく分からないうちに椅子に座らされ、円卓に突っ伏すように顔を伏せていた。
円形のテーブル、並べられた茶菓子、高そうなティーセット、そして円形の部屋と壁にいくつも並んだ大小様々な扉。それらは一体どれだけの巨人が通るのかという大きさの扉から、親指姫専用と言っても過言ではないような小ささの扉までバリアフリー顔負けの取り揃えである。
丘の上の長い縦穴を抜けるとお茶会であった。
うん、文学的に言っても意味が分からない。
そもそも文学的って何だ? 川端康成って誰だ?
「そんなことより紅茶はいかが?」
馬鹿らしい独り言を聞かれた。死にたい。
「今さらどうやってとかはもう気にしないけどさ、もう少し登場の仕方に気を使ってくれてもいいと思うんだ」
もう少し早く出てきてくれたら川端何某なんて言わなくてすんでいたのに、嫌がらせなのだろうか。
「あら、それは失礼」
「まぁ、いいよ、もう。それよりもさ、どちら様?」
半ば投げやりにも似た気持ちで適当にそう尋ねる。先程の女性は聞かないうちに走り出したし、聞けるうちに聞いておかなければ、過ちから学ぶというやつだ。
「私? 私はチェシャ、貴方の案内人よ」
紅茶のカップが規則正しく並んだテーブルを取り囲むようにおかれた椅子に、どこかで経験したような唐突さでその女性は座っていた。唐突さでいうなら先程の兎コスプレさんよりも上だろう。何しろ見ている前で現れたことさえ気付けなかった。
そんなこちらに目を向けようともせず優雅に紅茶をすする様はどこかの貴族のようにも見えるが、張り付けたよなニヤニヤ笑いがどこか胡散臭さを漂わせている。
でも、そこまで彼女と同じ必要はあるのだろうか? 流行ってるの?
頭についたネコ耳に縦に走った瞳孔と碧の瞳。椅子に座ったままなので詳しくは分からないが、背は百七十程ありそうな長身で、スッキリと長い足が猫らしさを強調しているような感じがする。
だから、そのコスプレは止めません? しなくても問題ないと思うんだ。あとチェシャって明らかに本名じゃないよね。
「それで、お茶は? 飲むの?」
「いや、遠慮しとくよ」
「あら、残念」
チェシャはどこかつまらなさそうにカップを机に置く。
「それよりも早く本題を聞きたいんだけど」
「“本題”っていうのは意識の差の問題よ。何に重きを置くか、それだけ」
「はぁ……」
何と答えたものか思案していると“冗談はここまでにして”とチェシャが話し始めた。
初めからそうしてほしい。意識の差とは何だったんだろう。
「貴方のせいで今この世界は問題だらけ」
「僕のせいって、何の心当たりもないんだけど」
まぁ、記憶もないけど。
「この世界はもともと絶妙なバランスで成り立っていた。でもあなたの体が散らばったせいでこの世界はひっちゃかめっちゃか、明日の保障もなくなった」
「いや、この世界ってなに? 体が……散らばった?」
私は誰? ここはどこ? うん、言ってみたかっただけだ。
そもそも、彼女に聞いたところで僕の記憶なんて知るはずもないだろう。だから、聞けることは先程から聞かされ続けている『この世界』なるものと、今しがた話に出た『体が散らばった』とかいうスプラッターな妄言についてだ。
もとの体など知らないがさすがにどう見ても五体満足でどこか欠けてはいるようには見えない。
「貴方が考えているのとは少し違う。部分には役割があり、性質がある。その中で性質が貴方を離れこの世界に流れ着いた」
「体だけで勝手に?」
「よく言うじゃない、『体が言うことを聞かない』って」
それは意味が違う。ていうか普通に腕も足も動くんだけどなぁ。
「この世界に散らばったのは性質だけ、だから貴方の体は貴方の世界にいたときのような役割で動く」
「“貴方の世界”ってまるで別の世界みたいなんだけど」
「“まるで”、“みたい”ではなく、そういう意味」
やはりろくでもなかかった。いつから僕はこんな残念なことになったのだろう。
まぁ、今日からだろうけど。
「続けていい?」
紅茶を飲みながらチェシャが言う。
いろいろ言ってたけど君、余裕あるよね。逼迫してないよね。
「その前に一ついい? その理論ならこの世界の人間みんなそうなんでしょ? 今さら僕一人どうこうなったところで――」
「『認識は実存に先立つ』それがこの世界の真理。この世界の人間は皆生まれたときからそう。生まれた瞬間から一つの集合として意味を持ってる。でも貴方は違う。外の人間である貴方には存在自体に意味がない。だから、この世界に入った瞬間、貴方には意味付けが行われた。おまけに分かれた一つ一つに対して趣味の悪い性質までつけて」
「趣味の悪い?」
「外の世界は悉く悪趣味だから始末が悪い。それがこの世界の住人を狂わせる」
ニヤニヤ笑いで言われても説得力がないんだけど、とりあえず自分のせいで問題が起こっているということはよく分かった。百歩譲ってこの世界が異世界だということも黙認するが、それでどうしろと?
顔に言いたいことが出ていたのかチェシャは付け加える。
「だから、貴方には責任をとって集めてもらうわ」
「集めるって……どうやって」
呼んだら寄って来るものでもないだろうに。
「近付けば分かるでしょう? もとは貴方の体なんだから」
そういうものじゃないと思う。
「まず、見たこともないんだけど」
「それなら、問題ない。ここに二つあるから。紅茶の代わりに受け取っておくといいわ」
彼女の手に光る二つの欠片が現れる。
見た目は光る金平糖のようだ。
あり得ないと思っていたが目の前にすると確かに親近感というか自分に近しい感じを受ける。
「これが……」
「欠片(ピース)、貴方の集めるべきもの。これは右目と喉の欠片」
ピースと呼ばれたそれらはふわりと彼女の手を離れると吸い込まれるように対応した場所、目と喉に埋まっていく。目に飛んできた時は思わず目をつぶってしまった。
その欠片が完全に体に飲み込まれるのと同時に頭によく分からない知識が流れ込んだ。
性質名『現実投棄(ワンダーランド)』
【右目の欠片が持つ性質、以降、ピースの取得、知識の習得などに際して自動でゲーム補正のかかった翻訳、説明が行われる】
性質名『有限実行(アンリアル)』
【喉の欠片が持つ性質、言葉が実体を得る。精神力を消費】
何だこれは? 現実投棄? 投棄って何? 有限実行? 有言じゃなくて?
「どういうことなのさ?」
「貴方の体よ。私が知るはずないじゃない」
いや、教えてよ、さすがに意味が分からない。
まず『現実投棄』の方の効果はさっきから頭に浮かんでる性質名だとか、その説明のことだよね。
便利だな。でもなぜにゲーム風なの? ゲーム脳だから? これからはもう少しそういうのは控えよう、今までどうだったか知らないけど。
問題は『有限実行』のほうだね。言葉にすれば現実になるってことなのかな。そうだとしたら欠片全部集まったとかいえば終わりじゃないか。
「欠片、ここに集まれ」
「何言ってるの?」
欠片は一つも集まらない。いい加減にしてほしい。
ああ、だから有限なのか。納得した。
それなら――
「燃えろ」
「私を笑わせたいの? もう笑ってるわ」
泣きたい。
近くの椅子を指さしてそう言ってみたが、煙さえ出ない。あまりにも痛々しくて両手で顔を覆いたくなった。
な、なら――
「火」
「あら」
「――なるほど」
ボウッと手のひらからターボライター程の炎が上がる。
どうやら自分の近くというのが条件らしい。有限すぎるでしょう、いくらなんでも。
だったら――
「火矢」
そう言うと手元に細長い火の針のようなものが現れる。
ただ見た目に反して手は全く熱く感じない。大丈夫なのだろうか。
「強く」
そう言うと火矢は長さと太さを一回り大きくする。
「強く」
もう一度い言うとさらに火矢は膨張した。
それを繰り返すうち火矢は杭のような太さへと変わっていく。
こう使うのか。ゲームみたいで面白いじゃないか。これなら、魔術師ごっことか捗りそうだね。
えっ? ゲーム脳? いや、違うよ、有るものを使いたくなるのは仕方ない。そう仕方ないんだよ。
誰にというわけでもなく言い訳をしながら、そんな風に面白がって強くし続けていると、ある大きさを境に膨張が緩やかになり、そして止まる。さらに急激に頭が重く感じるようになった。
あれ? 急に集中力が――
精神の乱れに呼応するように炎は形を崩し、先程まで綺麗にまとまっていたソレは所々から火を噴き出し始めた。
「って、痛ッ!」
手が急に痛み、熱さを感じる。
そこで『精神力を消費』という説明の一文を思い出した。
持ち続けたらどうなるのか。それを一瞬で理解し冷や汗が流れる。
一も二もなく膨れ上がったソレを投げ捨てた。
こちらの意思などお構いなしにソレは自ら火を噴きだし勢いを加速させ、文字通り矢のような速さとなる。先程から優雅にカップを傾けるチェシャに向かって。
あ、マズイかも
そう思った時には頭はフル回転を始め最悪の場合のいい訳を探し始めた。
こちらがその答えを見つける前に火矢はテーブルへと着弾し、近くの椅子も巻き込んで黒い煙を吹き上げながら燃える。
どうしよう、紅茶かけたら消えるかな?
「あッ、えと、大丈――」
「酷いじゃない。恨みでもあるの?」
「……え?」
声は自分の横からかけられる。
おかしい、先程まであの場所にいたはずだ。
それと恨みはある。
「さっきまであそこにいたよね」
「そうね」
「本当はいなかったとか?」
「ええ、その通り」
答える気は無いらしい。
「さて、説明はもう十分でしょう?」
「いや、説明された覚えがない」
はっきりいって重要な部分はうやむやだし、この世界っていうのも意味が分からない。地球ではないのかとか、どうやって集めるのかとか、聞きたいことは幾つもあるが、当の本人に答える気が全く見られない。自分が誰なのかさえ知らないまま、記憶ではなく体を集めろとは皮肉もいいところだ。
「最後に私からのお祝いです」
「お祝い?」
「貴方の欲しがっていた、真実の断片」
そう言って彼女は手を僕の頭に置いた。
何をするつもりなのかと聞く暇もなく、酷い耳鳴りと頭痛が襲いかかってくる。
「ッぁァ」
体に走る痛み、何かが体から流れ出るような感覚、寒さ、震え
こちらを見下ろす女、長い髪で、
「……――」
なにかを……話して――
「欠片を集めたら、また会いましょう」
相変わらず表情のないニヤニヤ笑いを浮かべたままチェシャが言う。
笑っていても無表情に見えるのは何故だろうか。考えても思考はまとまらない。
目を開けているのが辛くなって、体から力が抜ける。膝を床に強く打ちつけた感覚がした。痛い。
そして走馬灯のようにリピートし続ける映像、女。
ああ――、そうか……と同じだから
それを最後に意識は再び闇の中へと沈んでいった。