モーターサイクル
五月の夜風は、少し冷たい。
駅の国道側は、夜が更けてもそれなりに賑やかだ。対して、こちら側は閑静な住宅街になっている。家路を急ぐ黒い塊に、コンビニの明かりが顔を与えていた。
その光の重さを背に受けて、足もとに影が溜まっている。
「はあ」
腕時計を見る。終電には、まだ間に合う。
手のなかにある、たばこの箱を撫でてみる。それはずいぶんくたびれていて、なんだか自分みたいに思う。
最後の一本をつまみだす。くわえる。
ライターが小さな火を灯す。夜風に吹き消されないように、左手で守ってやる。
「あの、すみません」
いきなり声をかけられた。肩が跳ねて、火は消えた。
声の主は、若い女性だった。照明に、明るい茶髪が輝いている。ごみ袋を抱えた制服姿は、もしかしなくても店員だろう。
なにかを見透かされたようで、鼓動が少し喉につかえた。返事を、絞り出す。
「はい?」
「ここ、たばこだめなんですよ。見えません?」
店員の指さす先には、ガラス窓に禁煙を示すラベルが貼られていた。
以前は灰皿があった気がしたのだが、言われてみれば今はない。
「ああ、そうか。……いや、申し訳ない」
「気をつけてくださいね」
店員はそれだけ言うと、袋を抱えて去っていった。
夜風が街路樹を揺らす。その音が、妙に大きく聞こえた。
どうにも、うまくいかないものだ。
◇ ◇ ◇
コンビニは駅のほうを向いているから、その裏手にある公園は深い夜を湛えていた。遊具といえば滑り台しかない。街灯は旺盛な木々に遮られ、ただその枝葉を明らめている。
古いベンチに腰をおろして、しばらく夜風の音を聞いていた。あまりにぼんやりしていたらしい。それに気づいたのは、声をかけられてからだった。
「……こんばんは」
「あ……」
その明るい髪色で、さっきの店員だとわかった。パーカーとショートパンツが通勤スタイルなのだろう。肩から鞄をかけていて、手にはホットコーヒーのカップがある。
退勤してまで注意にきたのか、なんてしつこい、と身構える。しかし、ここは公園なのだ。だれもが利用していいし、思いのままに過ごしていい。
さりとて、彼女との接点は多くない。だから口から出たのは、詫びの言葉だった。
「さっきは、すみませんでした」
「んーん。ちょっときつい言い方しちゃったなって、反省してて。ごめんなさい」
「いや、わたしが悪いので」
お互いに、少し緊張が緩んだらしい。
彼女の視線に気がついて、ベンチの端にずれてやる。彼女は軽く会釈して、釣り合いを取るように、逆側の端へ腰かけた。
彼女がコーヒーを啜ってから、口を開く。かすかに、それが香る。
「……たばこ、好きなんですか」
「いや、まあ、うん」
好きかと言われると、わからない。
「でも、最後にしようと思ってて」
「へー。禁煙前のラスト一本みたいな?」
「まあ、そんなとこかな」
ふうん、と曖昧な相槌が聞こえる。
「さっきは吸えなかったし?」
「そうそう」
「そうそうじゃないし。うちの前で吸ったら、あたしが怒られるし」
「それは、そうだね。申し訳ない」
いいよ、と彼女が笑う。
「いつから吸ってるの?」
「それが、もう覚えてないんだよね」
「そうなんだ」
「好きかどうかも、正直どうなんだろう。ただ、なんとなく――続けてるっていうよりも、やめてなかっただけなのかも」
そこまで言って、気がついた。
それって、まるで――
「それって、まるで――」
彼女がなにかを言いかけて、それをやめる。
両手で静かにカップを包む。一口つけて、別の言葉を紡ぎだした。
「いや、でもさ。どうせ死ぬまで生きてかなきゃなんないんだよね」
なんと言っていいかわからなくて、とりあえず、そうだね、と応えた。
その場の空気を埋めるように、たばこの箱を撫でてみる。
「それ、見せてよ」
「たばこ? いいよ」
くたびれた箱を受け取って、彼女の手が最後の一本をつまみだす。
たばことカップを左右に持って、ついでに少し顎を上げて、ポーズを取っているつもりらしい。幼さの残る顔立ちに、似合っているとは言いがたい。
「……なにしてんの」
「大人って感じ、しない?」
「いや、あんまり」
「即答かよ!」
声と同時に、変な力が入ったらしい。
「「あ」」
ごくごく小さい音がして、たばこは二つに折れていた。紙が破れて、中の葉がこぼれ落ちる。
うろたえる彼女から、たばこを取り戻す。そこに、わずかな体温が残っていた。
「えっと、その、ごめん……なさい……」
彼女の手のひらに、少しだけ葉が残っている。
細い指がゆっくりと折れて、それを抱きこんだ。
「こういう場合は……どしよっか……」
今や彼女は顎を引いて、困ったように肩を縮めている。
そのようすが妙におかしくて、喉の奥から笑いが漏れた。
「ふ。ふふ」
「どした? おじさん、壊れちゃったか?」
眉を八の字にして、彼女は心配そうに覗きこんでくる。
「こういう終わりかたかあ、って」
「いやいや、これ吸えてないからノーカンじゃん?」
「ふふ、なるほどね。それもそうか」
どうにも、うまくいかないものだ。
終わらせることすらできないらしい。
「どする? 店で買ってきたげよか?」
「未成年に買わせるのは、なあ?」
「失礼な! 大人だし!」
笑ったり、へこんだり、怒ったり、とにかく彼女は忙しい。
それに触れて、出てきた言葉は、自分でもよくわからないものだった。
「……ありがとう」
「いいってことよ。まあ、よくわからんけど」
ずず、とコーヒーを啜る音がした。
枝葉が少し大きく揺れる。光の粒が地面に落ちて、消える。
「ここは、いい公園だね」
「んでしょ。あたしのお気に入り。疲れたときは、ここでぼーっとすんの」
「そうだったんだ。じゃあ、お邪魔しちゃったね」
「べつに。あたしのもんじゃないし」
「まあ、そうだけどさ」
そう返すと、彼女は「よし」と立ち上がった。
「そろそろ帰ります」
「大人の女性は、一人で帰れるかな?」
「とーぜん。知らんおじさんに送ってもらうほど、無警戒じゃないよ」
「それもそうか」
どちらともなく、二人で笑う。
そして、それも夜風に攫われていく。
「じゃあ、またね」
「また、があるのかな」
思わず、そう訊いていた。
当たり前という顔で、彼女は微笑んだ。
「生きてりゃあるでしょ」
「そうだね。おやすみなさい」
「おやすみ。いい夜を、ね」
ひらひらと手を振る、後ろ姿が遠ざかる。
茶色い髪が、しっとりと夜を吸いこんで、すぐに見えなくなった。
◇ ◇ ◇
公園を出ると、明かりに誘われる羽虫のように、コンビニへと足を向けていた。
自動ドアが開いて、ぬるい空気が肌に当たる。若い男性の店員が、レジで気だるげに佇んでいた。声をかける。
「すみません」
「はい、番号お願いします」
いつものように、たばこの棚を指さした。
「あ……」
だが人差し指は、あてどなく虚空を泳ぐだけだった。
「いや、コーヒーください。ホットのSで」
「かしこまりました。以上ですか」
「……はい」
コーヒーのカップを受け取って、ドリップマシンにセットする。
ボタンを押すと、意外に大きな音がして、派手な湯気を立てながら、褐色の液体が抽出される。
そのさまを、ただ、なんとなく眺めていた。
遠くで終電のベルが鳴っていて、すぐにやんだ。
モーターサイクル
―了―




