第一王子は早く負けたい
「お願いします! 婚約破棄させて下さい!」
薔薇が咲き誇る王宮の庭園。
泣いて頼む令嬢を前に、フェリクスはため息を付いた。
(またか……)
ウィレール王国第一王子のフェリクスは、目の前で涙を流す令嬢よりも前に、十六歳にしてすでに三回も婚約破棄を申し出られ、話し合いの末、解消に至っている。
そして今回は記念すべき四回目だ。
これまでの婚約解消に至った理由はどれも同じ。
彼があまりにも優秀すぎるせいだった。
ウィレール王国は、最初こそそうではなかったが、貴族が、そして女性が活躍することで徐々に栄えてきた国だ。
王国の在り方がそう変わったのは、三代目の国王がうら若き第一王女に王位を譲り、四代目の君主として新女王が誕生した時代。
近隣の国々で頻発した、婚約破棄騒動が原因だった。
ある国では、甘やかされて育った上級貴族の令息が「真実の愛を見つけた!」と言って優秀な婚約者を捨て、愛嬌一本勝負の男爵令嬢と結婚したり。
また別の国では、我儘放題の第一王子が「王家の命令は絶対だ!」を連呼し無能さを見せつけ婚約者に逃げられて廃嫡されたり。
極め付けは、隣国の私欲に走った皇帝が「この偽物め!」と言って本物の聖女を追放したりで、女王が即位した時というのは、それはもう大変な時代だった。
ウィレール王国の賢き新女王は、それらの騒動を側で見聞きし、こう思った。
「なるほど。恋人や結婚相手の知性や権力や富に差がありすぎると、男女の力関係が大きく偏り、最後には崩壊してしまうのか……」
甘やかされて育った上級貴族の令息と優秀な婚約者は、どちらも見目麗しく地位も財力もあったが、二人の間には、知性に大きな差があった。
我儘放題の第一王子は、同じ知性と財力を持つ伯爵家の娘と婚約していたが、王子は他に男児がいなかったことで権力が集中しすぎていた。
隣国の私欲に走った皇帝は、知性も権力も申し分ない聖女と婚約していたが、莫大な財力にものを言わせ、清貧を尊ぶ彼女を邪険に扱った。
どちらか一方だけが偏った何かを持っていると、愛し合い助け合うべき二人の間で、いつの間にか優劣がついてしまい、優位性を感じた方が暴走してしまう。
偏りが問題なのは、持っていない場合も同じだ。
相手よりも何か──知性であれ財力であれ権力であれ、著しく劣っている物があれば、それが劣等感になり、それも暴走を起こす引き金になる。
大事なのは結ばれる二人のバランスだ。
共に生きる長い時間、お互いを尊重し合うには、片方だけに何かが集中したり、大きく欠損していてはいけないのだろう。
混沌とした世の中を見てそう思った女王は、決めた。
「よし、我が国では全ての貴族に成績をつけよう!」
それから、ウィレール王国は毎年すべての貴族を細かく審査し、成績をつけるようになった。
領地の運営状況はもちろん、筆記試験や口頭試験で知能を測り、馬術や剣術などの武術試験で身体能力を測り、他の貴族からの評価などから、性格や生活態度なども細かく数値化した。
伝統ある家紋か、性格に難はないか、財力はあるか、権力はあるか、美貌はどうか、人望はあるか──。
そして成績の結果を元に、女王は貴族間の結婚を承認するかどうかを判断することにした。
「ミンス家の長女とハーネル家の次男か。長女は知能の評価が突出しているが、次男も同じくらい人望の評価が高いな。これなら、お互いに同等の評価の物を持っているから、尊敬し助け合えるだろう」
「カーネル家の長男とフェルノー家の三女の婚約は許可できない。三女の成績が悪すぎて長男と差がありすぎる。補い合える評価項目がない。絶対に破綻するから駄目だ」
こうして、貴族の縁談は成績を元に組み合わせを決めていった。
女王はどうやって情報を集めているのか、皆の性格や嗜好なども細かく把握していたため、許可された縁談は本当にどれも相性が良く、他国に起こっている婚約破棄騒動のようなものは一切起きなくなった。
ありとあらゆる角度から判断した上で厳しく評価を下した結果、もちろん最初の数年は王国内の爵位はめちゃくちゃになった。
何事にも真面目に取り組んでいた男爵家をいきなり伯爵へ陞爵させたり、家格にものを言わせ領民に横暴を働いていた侯爵家は、領地を半分以上没収し子爵家へ降格させた。
数年間はあまりにも激しく爵位の乱高下が起こったため、反発もあったが、女王は本当に賢い王だったため、自力で優秀な側近を集め、混乱した王国内を一瞬でまとめあげてしまった。
不安や困惑、反感を滲ませる貴族達に向かって、女王はにっこりと笑って言った。
「安心して欲しい。独立した外部機関を作り、王族にもしっかり成績をつけるから。評価があまりにも悪い時は、すぐに王位を別の者に譲る法律も作った。審査されるのは、お前達だけではない。王家も一緒だ」
女王はその言葉の通り、時期国王に内定していた自分の息子や娘達を継承候補から除外し、隣国や国内の貴族との縁談をまとめると、女王の二番目の弟の子ども──しかも三男を時期国王に定め帝王学を叩き込み始めた。
彼は王位継承権は第十三位と低かったが、あらゆる角度から付けられた成績が、ずば抜けて優秀だったのだ。
「今回は王家の血筋から優秀な者が見つかったが、別に私は国をしっかり率いてくれるなら、王になる者の血なんか何でもいい。王の血が何色かよりも、安心して暮らせる国かどうかが民には重要だからね」
国中の貴族は、それを見て思った。
「女王は本気だ。成績で全てが決まる。これは必死にならないとすぐに家門が終わってしまう」
それから、ウィレール王国は皆がそれはもう必死に働き、真面目に民のために奔走した。
女王はそれまで家の中で力を発揮するに留まっていた女性達にも評価を下し始めたため、それまで隠れていた優秀な人材がわんさか見つかった。
働きたいと願っていた女性達は、好機を逃さず、ここぞとばかりに活躍してみせ、次々と国の要職に就いていった。
女王が貴族に細かく厳しい成績を付け始めたのは、彼らの結婚相手との相性を判断するためだったが、結果的には国にとって大きな役割を果たし、王国は栄え続けた。
それから何度も王位は引き継がれてきたが、王家には優秀な者が必ず生まれ、何とか血を絶やすことなくこれまでやってきた。
だがここに来て、問題が生まれた。
次代の王になることが決まっている第一王子──フェリクスが、歴代の誰よりも優秀すぎて、成績が釣り合う令嬢がいなかったのだ。
四度目の婚約も白紙になったフェリクスは、広々とした豪奢な自室で、美貌を歪ませて寝台に身を投げ出した。
「もう、これ結婚するの無理じゃない? 誰なの、王族特例法なんか作ったのは」
「五代目と六代目の国王ですね」
扉の前に控えていた専属侍従のロイに言われ、フェリクスはため息を吐きながらジトリと彼を見た。
「それは知ってるよ。ただ嘆いただけ。特例法があるせいで、婚約者が決まらないままだ。このままだと学園を卒業して期限切れになってしまう」
ウィレール王国の貴族の婚姻には、王族の許可が必要で、成績を元に、組み合わせの評価に大きな差がないか審査される。
それは王子の婚姻も同じなのだが、王族にだけは、特別な法律があった。
「馬鹿げてるよ。学園を卒業するまでに、何かの項目で王族よりも優秀な結果を残した令嬢としか結婚できない、なんて」
「できないではなく、許可する、ですよ。王族を助けるための特例法なんですけどね。フェリクス様の場合はそれも意味を成していないので、同じ意味に感じるのかもしれませんが」
フェリクスはうんざりする程わかりきっている事を言われ、再びロイをジトリと睨んだ。
成績をつけるようになってから、王国の貴族はもちろん、王族もそれはもう色々と頑張った。
そのせいで国庫は潤い、割り当てられた私財での運用も怖い程に軒並み上手くいった。
だが努力の結果、民に慕われ王族の格は鰻登りに上がってしまい、釣り合いが取れる結婚相手を探すのが物凄く難しくなってしまったのだ。
財力、血筋、権力の三本柱の評価が突出してしまい、さらには本人達が頑張るせいで、品性や知性、武術や見た目なんかも評価が良い。
皆が納得する婚約者探しに難航した六代目の王は、まだ王子だった時に父である五代目の王に懇願し、十八歳で国立学園を卒業するまで──つまりは成人を迎えるまでに、何かしらの成績が一度でも王族を上回った令嬢との婚姻を許す、としたのだ。
ただ優秀なだけの王族達には、婚約者候補の間口が広がり、それで問題はなかった。
優秀と言っても得手不得手がある。
自分にはない才能を持った令嬢を見つけることができ、結果としてバランスの良い組み合わせで婚姻が結ばれ、王家は平和に続いてきた。
だがフェリクスは違った。
財力、血筋、権力の突出した王家の評価三本柱を持ち、さらには幼い頃から頭脳明晰で武術にも馬術にも長け、人望も厚く性格も良く、さらには輝かんばかりの金髪に彫像のように整った顔と四肢を持つ、いわば完全無欠の人間だったのだ。
「無理だよこれ。婚約した全員が、『フェリクス様に勝つのはどうやっても無理です』って泣くんだよ? 私だって泣きたいよ。好きで成績が良いわけじゃない。やったら何でもすっとできちゃうんだよ。もう釣り合いとかどうでも良くない? 私はどんな子であっても尊重するし大切にするよ? それじゃ駄目なわけ?」
「駄目ですねー。フェリクス様より何も優れていない状態では、相手の劣等感が拗れて、そのうち爆発する未来しか見えません」
「そうかなー。もうどろっどろに愛して、拗れる隙すら与えなきゃ良いんじゃない?」
「他の貴族からの目や噂なんかもありますからね。拗れる時は一瞬です。監禁でもして誰にも合わせないくらいの状態じゃないと無理でしょうね。あ、本当には実行しないで下さいね。犯罪ですからね、監禁」
「わかってるよ。でも成人まであと二年しかない。それまでに相手を見つけないと、期限切れになって、私は義務的な役職としての妻を三人も迎えなくてはいけなくなる。無理だよ。私は誰か一人と心から愛し合う人生が良い」
王族は十八歳から正式な公務が始まる。
それまでに婚約者が定まらなかった者は、独身でいることも可能だが、王太子と国王に限っては、役職としての妻を、能力の偏りがないように三人娶るという決まりがあった。
その場合、夫婦としての身体的な接触──つまりは子どもを作るような行為は一切行えず、他の王族から後継者を見つけなくてはならない。
全ては王国の平和のために。
優秀すぎる第一王子フェリクスは、愛のために早く負けたかった。
だが負け知らずの王子の願いは未だ叶わず、そのため息が虚に広がるだけだった。
それから約一ヶ月後。
フェリクスの元に、新たな縁談が持ち上がった。
「ノバリエール侯爵家の次女……ですか?」
父である国王の執務室に呼び出されたフェリクスは、渡された令嬢の成績表を眺めながら目を丸くした。
「ああ、そうだ。幼い頃から隣国の学校に留学していたが、侯爵夫人の持病が悪化したため近くにいたいと帰国することにしたそうだ。年はお前と同じだ。来月から国立学園に転入する。期限切れになる前に、彼女に勝ちを譲るんだ。誰しも、少し調子が悪い時くらいあるものだろう」
ちらと視線を投げられ、フェリクスは理解した。
(ああ……父上は、私に不正をして負けろと仰っているんだ)
フェリクスはこれまで死ぬ程の努力という努力はしたことがない。
何をやっても、すぐに好成績を叩き出してしまうからだ。
だがそれでも、何事も手を抜いたことはなかった。
王族として、貴族や国民の手本として立つ者として、それは許されないだろうと、真面目で清廉なフェリクスは思っていた。
しかしそれが仇となり、何においても天才のフェリクスに勝てる未来が見えず、どの令嬢も血の滲む努力の日々に心が折れて泣いてしまうのだ。
手に持つ令嬢の成績表は、悪くはない。
家柄は侯爵家で財力もあり、見目も良く、性格は快活で人望もあるらしい。
頭も良く運動神経も申し分ない。
だがそれでもやはり、フェリクスの成績にはどれも評価が到底及ばないのは明らかだった。
(……私が手を抜かない限り、今回も同じ結果ということか)
顔には出さなかったが、自身のこれまでの日々を否定されたような虚しさが胸に広がる。
(こんな数値だけを見て、結局手を抜くならば、一体これに何の意味があるんだ)
温度のない文字の羅列を、ただ空虚に目が滑っていく。
だが途中、ある項目でフェリクスの視線がピタと止まった。
「これは……」
侯爵家の次女──メリンダ・ノバリエールの成績表には、一つだけ、他の令嬢よりも明らかに評価が高い項目があった。
それは『根性』だった。
婚約は速やかに結ばれ、王城で顔合わせをすることになった。
メリンダは、燃えるような赤髪に、少し釣り上がった大きな金の瞳が魅力的な、可愛らしい令嬢だった。
「メリンダ・ノバリエールです。お目に掛かれて光栄です」
そう言った強い瞳が印象的で、フェリクスは「彼女に負けよう」と心に決めた。
メリンダを逃せば、フェリクスはもう後がないのだ。
絶対にこの婚約を白紙にする訳にはいかないフェリクスは、自分の心に広がる虚しさにそっと蓋をした。
メリンダが学園に転入してきて、最初に行われた試験は語学試験だった。
語学試験は筆記と口頭試験の合算で成績が出される。
口頭試験では不正がしにくいので、フェリクスは筆記試験でスペルの読み間違いで起こり得る翻訳ミスをしてみせ、普段よりも僅かに低い点数になるよう計算して試験を終えた。
結果が張り出され、やはり一位はフェリクスだったが、僅差でメリンダが二位だった。
二人の名前が並ぶ張り紙を眺めながら、フェリクスはホッと息を吐いた。
(なるほど。彼女の実力はこれくらいか。なら、あと少し調整すれば、次は負けられるはずだ。結果を見て、そこまで差が開いていないことに、メリンダもきっと喜んでいるだろうな)
そんな事を考えていたフェリクスは、不意にそのメリンダに声を掛けられ、彼女の顔を見てギョッとした。
「フェリクス様、少しお時間宜しいですか?」
そう言ったメリンダは、喜ぶどころか、眉を顰めて涙を滲ませ、声を震わせていたのだ。
(え……もう終わり? 一回負けただけで、もう婚約破棄したくなったの?)
彼女の後ろをついて行きながら、フェリクスは絶望していた。
メリンダの表情は、今まで婚約破棄を言い出してきた令嬢達と全く同じだった。
人気のない中庭に連れてこられ、表情を暗くするフェリクスにくるりと向き合ったメリンダは、震えを抑えるようにギュッと両手を胸の前で握り締めた。
「フェリクス様……お願いがあります」
潤む瞳でじっと見つめられ、フェリクスはゴクリと喉を鳴らした。
(ああ、これ婚約破棄だ。終わった)
そう思って絶望のままにコクリと頷いたフェリクスだったが、メリンダの口から飛び出したのは、全く予想していない言葉だった。
「フェリクス様、お願いです。わざと手を抜くような事はなさらないで下さい!」
「──え?」
射抜くような燃える瞳でそう言われ、フェリクスは目を丸くした。
メリンダの目に溜まる涙は、心が折れた絶望の涙ではなく、王子に手加減された悔しさの涙であり、声の震えは王族へ破棄を申し出る恐怖の表れではなく、ふつふつと沸く彼女の闘志そのものだった。
「私の事を侮らないで下さい。手を抜いて下さらなくても、絶対に実力でフェリクス様に勝ってみせます。立派な婚約者として、あなたを完全に負かしてやります!」
「──!」
メリンダにそう宣言された瞬間、フェリクスの心臓はドッと大きく高鳴った。
余程悔しかったのか、メリンダはワナワナと震えながらそれだけ言い放つと、フェリクスを庭に残しパタパタと建物の方へ速足で行ってしまう。
その後ろ姿を呆然と見つめるフェリクスの顔は、真っ赤だった。
「な……んだ、これ」
メリンダの姿が見えなくなっても、心臓はドキドキと煩く鼓動し、顔の熱は引かない。
息が苦しくて、無意識にシャツの胸元を片手でギュッと握り締めていた。
完全無欠な天才のフェリクスは、今までどの令嬢にも「もう努力できない」と泣かれ、尊敬する父にまで「手を抜け」と言われてしまった。
だがメリンダは、そんなフェリクスに「手を抜くな」と言う。
自力でフェリクスに勝つ、と。
つまり、彼と結婚するために努力を続けてくれると言うのだ。
「メリンダがいい……」
フェリクスは涙を滲ませて、顔を朱に染めたままその場にしゃがみ込んだ。
「負けるなら絶対、メリンダがいい」
フェリクスはこの日初めて、恋を知った。
それからフェリクスは、メリンダに言われた通り手を抜く事をやめ、全てに真摯に打ち込んだ。
メリンダはどの試験でもフェリクスに僅かに及ばなかったが、それでも金の瞳は輝きを失わず、ただひたすらに努力を続けた。
「フェリクス様、この問題の解き方を教えて下さい」
「乗馬の時、手綱の力加減はどうされています?」
「今日は一日母国語は話しませんから、協力して下さい」
「教会への支援方法を検討してみたんです。どうでしょうか?」
メリンダは今までの令嬢と違い、フェリクスに直接助言を求めてきた。
質問に答えるとメリンダはメキメキと実力を伸ばし、フェリクスはそれが凄く嬉しかった。
試験の前には、メリンダは必ずフェリクスに言った。
「今回こそは、勝ってみせますからね!」
きらりと輝く彼女の瞳が、フェリクスにとっては世界で一番美しいものになった。
フェリクスは何においても一位を走り続け、メリンダがそれを追いかける。
それまで無味に感じていたフェリクスの世界は、メリンダがいることによって色鮮やかに姿を変えた。
どんなに走っても、すぐ後ろには常にメリンダがいる。
それが、優秀すぎる故に孤独だったフェリクスに、この上ない安心と喜びを与えていた。
そんな日々が続いて一年。
教師と遅くまで話し込んでしまったフェリクスは、すっかり暗くなった窓の外を眺めながら、その日のメリンダとの魔法薬の調合試験を思い出しながら、思わず頬を緩めていた。
この日も僅かにフェリクスの方が薬効の高い魔法薬を完成させたが、メリンダは可愛く口を尖らせ、「次は勝ちます」と言っていたのだ。
彼女の事を考えただけで、フェリクスの瞳は甘くなり、自然と微笑んでしまう。
(早く……早くメリンダに負けたいな)
フェリクスは、もうメリンダ以外との未来など想像もできなかった。
自分の事を諦めずに追いかけてくれるのが嬉しくて、幸せで、フェリクスは浮かれていた。
教室に鞄を取りに行こうと廊下を歩いていたフェリクスは、しんと静まる学園の中、図書室の灯りだけが明るく灯っているのが目につき、ふとそちらへ足を向けた。
施錠時間はとうに過ぎている。
灯りの消し忘れだろうかと疑問に思ったフェリクスは、そっと図書室に入り、念のため誰か残っていないか確認するため、自習用の席や書架の間を静かに見て回った。
そうして入り口から遠く離れた、歴史書が並ぶ棚に差し掛かった時、フェリクスは心臓を貫かれるような衝撃に打たれ、ピタと足を止めた。
暗い本棚の影に隠れるように、分厚い本を両手で抱えて立ったまま、メリンダが俯いて泣いていたのだ。
「ぅ……ふ……ぅうっ……」
彼女の他には誰もいないというのに、それでも嗚咽を漏らさないよう、声を押し殺して泣いているメリンダに、フェリクスは先程までの浮かれた己を殴りたい気持ちでいっぱいになった。
(どうして、彼女だけは大丈夫だと思ったんだろう。努力し続けるのが大変なのは、誰もが同じなのに──!)
メリンダが抱えている本は、数日前の試験で彼女が間違えた問題の詳しい内容が載った、フェリクスが勧めた本だった。
フェリクスは思わず彼女に駆け寄り、ギュッと泣いているメリンダを抱きしめた。
「え……フェリクス様!?」
狼狽えながらも、涙を拭き顔を隠そうとするメリンダに、フェリクスは美しい顔を歪ませる。
メリンダを腕に閉じ込めたまま、彼女の柔らかな赤い髪に頬を寄せ、絞り出すように囁いた。
「メリンダ……本当にごめん」
「な……にが」
「辛いなら……もう、やめてもいいんだよ」
その言葉で、顔を強張らせたメリンダが、バッと顔を上げてフェリクスを見た。
フェリクスは困ったように眉を下げて、甘い瞳に涙を滲ませた。
「君が私のせいで辛い思いをするのは、私も苦しい。──もうやめよう? もう、私の負けでいい。だって恋は好きになった方が負けって言うでしょ? 君と出会うまでどうやって生きてきたのかわからないくらい……私は君のことが好きなんだ、メリンダ」
じっと見つめられ、メリンダは最初大きく目を見開くと、困惑したように深く眉根を寄せた。
そしてじわじわと顔を赤くしながら破顔し、大粒の涙をぼろと溢すと、フェリクスの胸に顔を埋めながら言った。
「……無理です」
くぐもった声がフェリクスの胸に直接響く。
優しく髪を撫でると、メリンダはギュッとフェリクスにしがみついた。
「やめるだなんて、無理。だって恋だったら……隣国に留学に行く前から、私の方が先に落ちてる。フェリクス様は、私の初恋なの。絶対に私の方が、あなたの事を好きだもの。まだ……私の負けだもの」
「え……?」
フェリクスの胸に、驚きと同時にジワリと歓喜が広がった。
「今……なんて? 私の事を……好きって言った? 王命ではなく? 私が……君の初恋?」
叫び出したい気持ちをグッと堪えながら、確かめるように、メリンダの言葉を繰り返す。
腕の中で肩を震わせている愛しい人の温もりを僅かにも逃さないように、フェリクスはメリンダを掻き抱いた。
メリンダは嗚咽で声を詰まらせながらも、しっかりとフェリクスの問いに答えてくれた。
「そうよ。私は平凡な子どもだったから、あなたに相応しくなれるように、猛勉強するために留学することにしたの。あなたが別の人と婚約が決まっても、それでもよかった。いつかあなたを支えて、あなたの力になれれば、それで……。でも、婚約の話を頂けて……もう、そんなの頑張るしかないじゃない。だって、ずっと好きだったんだから。あなたと一緒にいられるなら、何も辛い事なんてない。まだ頑張れるわ。だから……やめてもいいなんて言わないで。……頑張れって、言って」
メリンダはぐいっと涙を拭くと、フェリクスの腕の中で彼をまっすぐに見つめ、金の瞳を強く輝かせて言った。
「絶対にあなたを負かしてやるから。だから、もう少し待ってて」
その彼女の凛とした姿に、フェリクスは改めてもう一度、さらに深く、彼女に恋をした。
それから、以前よりももっと、フェリクスはメリンダに協力した。
時間があれば彼女を探し、悩みを聞いたり、助言をしたり、実際に目の前で実演してみせたり、ただ隣で彼女を見守ったりした。
メリンダはもう一人で泣く事は泣く、時に可愛らしい弱音をフェリクスだけに吐きながらも、それでも必死で努力を続けた。
そうして、学園を卒業する直前の最終試験。
「「やった!!」」
メリンダとフェリクスは、張り出された成績の順位表を見て、同時に叫んだ。
周囲の目も気にせず、ガバリと抱き合った二人は、喜びを溢れさせた。
「勝てた!!」
「負けた!!」
重なったお互いの声に目を見合わせ、そのまま二人は声を上げて笑った。
フェリクスは、メリンダの願いの通り、ただの一度も手を抜く事はなかった。
最終的に、メリンダが実力で手にした勝利は三つもあった。
一つ目は、隣国の言葉であるスメリア語。元々使い慣れていた言語にさらに磨きを掛け、高い評価を得ることができた。
二つ目は、馬術。これは毎日毎日、厩舎に通い、フェリクスよりも馬達に懐かれたメリンダに軍配が上がった。
そして三つ目は、最初にフェリクスが目にした成績表でも輝いていた『根性』だった。
無事に結婚式を終え、夫婦になった二人は、お互いを尊重し、褒め合い、高め合い、国民に慕われる素晴らしい王と王妃になった。
フェリクスは言った。
「あの成績表、やっぱり見直すべきだと思うな。愛の大きさとか、一途さとか、足りない項目が多すぎると思う」
「そうね。それをどう改善していくかは、《《一緒に》》考えましょう」
メリンダは、これからもフェリクスを一人きりで走らせるつもりはないらしい。
甘く目を細めたフェリクスは、メリンダを抱きしめ瞼にキスを落とした。
「やっぱり、私の負けだよ。信じられない程、毎日君を好きになる」
「あら、それは私もよ。好きになった方が負けなら、私の方が負けてるわ」
「じゃあ、また勝負だね」
そう言って二人は見つめ合い、微笑みを交わした。
果たしてこの勝負に終わりはあるのか。
結果は、ご想像の通り。
───完───
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両片思いやすれ違いからのハッピーエンドの物語が大好きで、そんなものばかり執筆しています。
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