第4話 狸狸亭にて
大学通りから少し外れた路地の奥に、その居酒屋はあった。
赤ちょうちんに「狸狸亭」と染め抜かれていて、入口には信楽焼の狸。
提灯の火に照らされるその姿は、ただの飾り物以上の存在感を放っていた。
「ここも、サポーターがやってるお店なの」
片桐さんが暖簾をくぐる。
木の香りが漂う店内は落ち着いた雰囲気で、カウンターの奥に立つ店主がちらりとこちらを見た。
僕らは隅の小上がりに通される。
運ばれてきたのは烏龍茶と、枝豆に唐揚げ。
大学一年生の僕にとって、これが居酒屋の「背伸びした日常」だった。
「聡くんにお願いがあるの」
枝豆をひとつつまみながら、片桐さんが唐突に切り出した。
「……私のサポーターとして」
「こないだも言ってましたよね」
思わず敬語になり、背筋を伸ばす。
彼女は少し息を整えて、真剣な目で僕を見た。
「もっと具体的に言うとね。私、狸初のアイドルになりたいの」
……はい?
烏龍茶を飲み込むタイミングでなくてよかった。
「狸……アイドル?」
「そう。狸の中でも特に可愛い三人で、“狸コンセプトのアイドルグループ”を結成するの。本物の尻尾と耳を出してね」
その言葉を言うときの片桐さんの瞳は、冗談のかけらもなかった。
「聡くんには、そのマネージャーになってほしい」
――脳内、非常事態発令。
「待て! アイドルってことは、僕と付き合うとか無理じゃない!?」
「恋愛禁止ルールは必須だろ!」
「でもマネージャーなら、一番近くで支えられる!」
「ライブ後に“お疲れさま”ってハイタッチできるな!」
「履歴書に“狸アイドルマネージャー”って書けるか?」
「娘さんは狸アイドルですってどう説明すんだ!?」
――会議は収拾つかず。
そんな僕を見て、片桐さんはふっと笑うと、
周りを見回してから、ひょっこりとふわふわの耳を出した。
「ね」
全会一致で可決。
「……はい!喜んでぇ!!」
また、あの居酒屋チェーン店の返事をしてしまった。
片桐さんは安堵の色を浮かべて微笑む。
その笑顔を見れただけで、僕は何でも承諾してしまいそうだ。
店の奥から、どこかで声がした。
「よいか諸君、我々はふざけているように見えて、実は真剣だ。
愛とは戦いであり、告白とは決戦である!」
告白は決戦。
片桐さんがアイドルになってしまったら、僕はもう告白なんてできない立場になってしまうかもしれない。
だけど、僕は片桐さんのサポーターだ。
と誇らしそうに頷いたが、
あの笑顔に負けただけということは、腹の底に仕舞っておいた。
テーブルには、店主が僕の前にそっと塩むすびを一つ置いていく。
狸は人間なしでは、現代社会で生きていくことができない。
だからサポーターの店で食べ、時に裏方を手伝い、暮らす。
その輪の端に、僕の席がようやく用意された気がした。




