第2話 実地
ある日の練習終わり、木村先輩が神妙な顔つきで言った。
「新人の腹も鳴るようになった。そろそろ“実地”へ行こう」
「実地?」
「実地だ。腹鼓はただ叩くためにあるんじゃない。」
意味のあるような、ないような言葉を残して、夜十時。僕らは商店街の裏手にある小さな神社へ向かった。
人通りはなく、猫が電柱の影で伸びをしている。境内の灯籠に小さな光。月は半分。春の夜風は涼しい。
円陣を組む。腹を出す。息を合わせる。木村先輩が静かに手を上げ、下ろす。
「ポンポコポーン!」
それに続けて全員で鳴らす。空気が微かに震える。二回、三回、十回。二十回。何も起きない。
ただ、夜に響く自分の腹の音が、だんだん周囲の静けさに馴染んでいく。
その時だった。
ザザッ、と枯葉を踏む音。……一つではない。ざわざわと、複数。境内の奥の木陰から、小さな光が点々と浮かぶ。
光はふわりふわりと上下し、やがて黒い影がそこから滑り出した。
「せ…先輩!?何かが!」
「うむ!」
そこに現れたのは狸だった。
大中小、様々な体格の狸が、まるで集合時間に遅刻した学生みたいに小走りで境内へ入ってくる。
数は数えきれない。十、二十、三十いやもっと。境内の縁に並んだ狸たちが、こちらを一斉に見た。目があった。
「おおきに」
どこからともなく低い声がした。次の瞬間、狸たちは腹を叩いた。
「ポン」「ポン」「ポンポコポン」
ちょっとリズムが違う。かわいい。いや、かわいいとか言ってる場合じゃない。僕は足がすくみ、口を開けたまま固まった。
なんでこの狸は日本語を喋れるんだ。何がなんだか頭が追いつかない。
「紹介しよう」
木村先輩が一歩前に出る。胸ではなく腹を反らす姿は、もはや狸代表の面持ちだ。
「この街に暮らす狸たちだ。今は“人間社会に溶け込んで”生活している」
狸たちはこくこく頷いた。片桐さんは、特別驚いた様子もなく、軽く会釈した。なんなんだ、その慣れた様子は。
僕が混乱している間に、狸の列から年配の雰囲気を漂わせる大狸が前に出た。丸い腹。くりくりした可愛い目。
「若者ら、よくぞ呼んでくれた。腹の音は、腹の底まで届く。世の中は不景気でも、景気の良い音じゃな」
「ええ。この音こそ我々の証。今日も鳴り響かせましょう!」
「で、今日はどんな用かね」
「今年も新入生が入ったのでご挨拶に!」
木村先輩が小さく笑って、腹を三連打した。「ポン・ポン・ポン」。瞬間、彼の輪郭がぐにゃりと揺れて、毛皮と尻尾が現れた。
つぶらな目、つやつやの毛並み、立派な腹。巨大な狸がそこにいた。僕は尻から地面に落ちた。
「……」
「……」
「……先輩、狸だったんですか」
「先輩“も”や」
「私も。木村の妹。正式名称は片桐でも木村でもないのだけど、人間社会では“片桐真帆”を名乗ってる」
横から片桐さんの声。彼女は眼鏡のつるを直し、こちらにゆっくりと顔を向ける。
頭の上に可愛い耳がプリっと出てきた。腰の辺りからは柔らかそうな尻尾がぴょこり。
やめてくれ。僕の頭はもう爆発寸前だ。好きな人が狸だった。「恋愛企画課!緊急会議を招集しろ!」
「狸を好きになるなんて清水家の恥だ!」「人間と狸の恋愛は、就職活動に不利では?」「親への挨拶で尻尾はどのタイミングで見せるべきか」
課員が慌ただしく走り回る脳内。
そんな様子を知ってか知らずか、片桐さんが「ね」と軽く笑いかけてくる。
その瞬間、慌ただしかった恋愛企画課のたちは全員動きを止め、完全に「ね」にやられた顔をしている。
「好きです!!!!」恋愛企画課一同の意見は綺麗にまとまった。
「驚かせてごめん。でも、ここにいる人たちは皆、わたしたちのことを知ってる。受け入れてくれてる。だから、あなたも…いつか」
「いつか?」
「慣れてくれたらいいな」
びっくりした。慣れてくれたらか。なってくれたらいいな
腹を鳴らしているうちにいつの間にか狸になる。そんなことがあるのかもしれないと思ったが、そうではなく安心した。
「でも、どうやって大学に入学したんだ…?」
僕は素朴な疑問をそのまま口にした。
「入学なんてしてないよ」
片桐さんは肩をすくめる。
「大学ってけっこうオープン。近所のおじさんも学食で定食食べてるでしょ。私たちも似たようなもの」
「なるほど……」
木村先輩がドヤ顔で言い足す。
「これがほんとのオープンキャンパスってな」
誰も拾わない沈黙を腹鼓でごまかす。
「ポン」
境内に乾いた音が一つ弾んだところで、その夜の会はお開きになった。




