第16話 学園祭準備と、小さなざわめき
学園祭ステージ出演が正式に決まった翌週。
狸狸亭の二階は、いつも以上に賑やかな空気で満ちていた。
「ふたば、ちょっとここ……笑顔が固くなるポイントあるよね」
僕はノートパソコンを閉じて、ふたばの前に立った。
ふたばは練習用のスウェットのまま、尻尾だけはなぜか元気に揺れている。
「えっ、そうかな?いつもどおり笑ってるつもりだよ?」
「うん、笑ってるんだけど……なんか、
“無理してる時の笑顔”と“自然なふたばの笑顔”って、ちょっと違うんだよね」
「違う……?」
ふたばが首をかしげる。その仕草まで小動物みたいだった。
「ふたばはさ、初ライブんときみたいに、
“嬉しい!”って感情が顔にドンって出た時の方が、明らかに可愛い」
「えっ……そんな……言われたの初めて……」
ふたばの尻尾が、しゅるっと縮まる。
僕は続けた。
「だから、学園祭でも“作る笑顔”じゃなくて、
誰かの応援とか、小さな幸せとか……そういうのをちゃんと出していこうよ」
ふたばは、頬を赤らめながら見上げてくる。
「……清水くんってわたしのこと、結構見てくれてるんだね」
胸が少しムズッとしたけど、
同時に、ふたばの言葉に嘘がないのも分かった。
「いや、僕はただのマネージャーだから」
「あはは、そんなの関係ないよ」
ふたばは笑い、僕の袖をちょんと引っ張った。
「清水くんに褒められるとさ……なんか、嬉しいんだよね」
その瞬間、後ろの鏡越しに――
片桐さんと目が合った。
片桐さんは少しだけ眉を動かし、
何かを飲み込むように視線を逸らした。
***
休憩時間。
片桐さんは窓際で水を飲みながら、外を見ていた。
「片桐さん? どうしたんですか?」
「……ううん、別に。ちょっとね」
いつもの明るいトーンじゃなかった。
僕が横に立つと、片桐さんは少し肩をすくめた。
「ふたばって可愛いよね。自分に素直で」
「え?」
「清水くんにアドバイスもらった時の顔。
……すごく嬉しそうだった」
その言葉には、何か小さな棘のようなものがあった。
でも棘というより、むしろ――不慣れな感情を隠しきれない感じ。
「ふたばって、人懐っこいですから」
「うん、知ってる」
片桐さんは静かに笑った。
けれど目の奥が、どこか揺れている。
「ふたば、清水くんのこと……好きなんじゃないかなって」
喉が詰まった。
「え、いや、そんなこと……」
「分かるよ。あの子の表情見てれば。ファンの人への笑顔とは違う」
片桐さんは肘をつき、頬を指で軽く押さえた。
「……なんだろうね、この気持ち」
彼女は窓の外へ目を向ける。
その横顔は、少しだけ寂しげだった。
僕は思わず言ってしまいそうだった。
――僕はあなただけです。と
でもその言葉は喉の奥で留まり、
吐き出されたのは別の言葉だった。
「片桐さんは、どう思ってるんですか? ふたばの……その……僕のこと」
片桐さんは、ほんの一瞬だけ、僕の目を見た。
そして、小さく首を振った。
「わかんない。でも……清水くんのこと、誰かが特別に思ってるのを見ると……なんか、心がざわつくんだよね」
片桐さんは静かにそう言い、指先で髪を耳にかけた。
その一瞬の仕草が柔らかすぎて、僕の心臓は普通に死んだ。
――いやいやいやいやいや。
え?
ざわつく?
ざわつくって、あの片桐さんが?
僕のことで?
ざわ……ざわ……?
いや待て。落ち着け僕。
これはもしかして、嫉妬とかそういう――いやいや、そんなわけない。
僕はただの人間サポーターで、狸アイドルのマネージャーで、
恋愛禁止で、童貞で、特技は腹鼓で――
隣では片桐さんが、まだ窓の外を見つめて言葉を続けていた。
「……なんでだろ。自分でもよく分かんないけど。
胸の奥がじわってして、むずむずするというか……」
む、むずむず!?
僕の胸も今むずむずしてるんですけど!?
「たぶんね、ふたばが清水くんに懐いてるの見ると……
なんか、気持ちが落ち着かないんだよ」
やばい。
その“落ち着かない”って、どの程度の落ち着かなさなの?
胃がキリキリするタイプ?
夜眠れないタイプ?
それとも、もしかして――
いや、期待するな。
これは、童貞の悪い癖だ。
でも……
でもでもでも……
片桐さんが僕のことを気にしてくれてるのは、
……事実なんだよな。
脳内会議が勝手に始まる。
恋愛課「これは……ワンチャンあるのでは?」
現実課「ない。やめとけ」
妄想課「学園祭で告白してくる可能性もある(ない)」
危機管理課「落ち着け。深呼吸しろ」
腹鼓課「ぽんぽこぽんぽこぽん!」
気持ちが完全に混線して、僕は何も言えなかった。
そんな僕を横目に、片桐さんはふっと小さく笑った。
「……変なの。私、こんな気持ちになるんだ」
その笑顔は、ふたばの小動物的な笑顔とも違う。
理沙のクールな微笑とも違う。
彼女にこんな寂しそうな笑顔をさせているにも関わらず、
僕はただ、ぽんぽこぽんと騒ぎ続ける自分の心臓をどうにかごまかすことしかできなかった。




